前回の続編になります。
この旧河川ルートがいつの時代にあったのかを現地確認も含めて記します。
鴻巣市文化財マップを観ると、この旧河川ルートの両岸に遺跡が複数存在していました。
現地の確認は上記画像部分からスタートしました。
北側部分は宅地化が進み、残念ですが古い空撮画像を確認しても旧河川跡を辿る事が出来ません。
南側は耕地化されているものの、画像の水路部分が旧河川路の境界であることを認識できます。
途中の遺跡を確認しました。
■小谷三耕地A遺跡
遺跡と言われても何も標識すらなく、雑種地と畑だけで全く遺跡の気配を感じませんでした。
■小谷弍耕地A遺跡
途中の旧河川路の状況
画像右側の水色の建物が在る部分は、河川境界であった段丘が確認できます。
荒川との接合部分
北側の様子
道路と農地の境が河川路との境界になります。
荒川の土手に石碑がありましたが、風化している為、何が彫られているか解読出来ません。
荒川土手からの旧流路の様子。
河川路には幅員があり、旧荒川の主流路であったことが窺えます。
荒川(当時の和田吉野川)側
当時はどの様に合流していたのでしょうか?
遥か昔にこれだけの大きな流路変更があった事は、現実離れし過ぎていて、自然の力は壮大なものと感じます。
ここが河川路であった事は、空撮画像だけでも充分に認識できますが、更にその裏付けとなるのが遺跡の存在です。
古き時代に河川があったからこそ、河川路に沿って人々が定住し、後に遺跡となって現在に至っていると断定できます。
では、その時代についてですが、上記に貼付した「鴻巣市文化財マップ」に記載された年代を信用するとなれば、「奈良・平安時代」の遺跡より更に以前の時代から、この旧流路は存在していたことになります。
鴻巣市役所では、「この遺跡の文献は一切存在していない」とのことでしたので、後日別の方法で確認が出来れば、改めて記していきたいと思います。
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