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原発事故はなぜくりかえすのか

高木 仁三郎
岩波書店(2000-12-20)

本書の著者、高木仁三郎氏はもうこの世の人ではない。
生前、原子力資料情報室の設立に尽力し、87年から約10年間代表を務め、反原発の市民学者として一生を貫いた人物である。本書は、氏の最後の書でもある。
1973年の美浜第一号機の一次冷却水の噴出による燃料棒の折損や、1981年の敦賀原子力発電所における放射性廃液漏れ、また、もんじゅの事故や、JOCの事故など、安全でなければならない原子力発電所で数多くの原子力の事故が起こってるのはなぜなのか。原子力産業の事故隠し、データの隠蔽、というような事が頻発するのはなぜか。
事故のたび、公的な責任は、「議論なし」「批判なし」「思想なし」の「三ない主義」の中でうやむやにされていった。
大事故がおこったとき、膨大な放射能がどのような社会的影響を持つのか、廃棄物はどうするのか、膨大な損害賠償問題はどうするのか、そのような肝心の議論はされず、原子力の方向性がなにも決まっていない状態でそのまま原子力行政はつきすすんでいったのである。
氏は言う。「原子力とは大きな潜在的危険性を持ったテクノロジーであり、そういうテクノロジーを開発する会社は大きな責任を負っているのだという公的な責任の性格が、しっかりと自覚されるべきではなかったかと思うのです」※P52 13~15から抜粋
氏はその「三ない主義」の背景に国の側しか向いてない役人や、自己検証性のない原子力産業、アカウンタビティ(説明責任)の欠如などをあげ、事故の多発の原因に、原子力発電の寄せ集めの技術の欠陥を述べている。
また、上から与えられた仕事をそのままにパブリックな意味はなにかということを考えずに、与えられた範囲で性能の追求に奔走し、「原子力の世界は特殊だから」ということで思考停止してしまった技術者たちの存在をも指摘する。
氏は、最期まで巨大の事故や不正が原子力の世界を襲うことを危惧していた。
「原子力時代の末期症状による大事故の危険とは放射能廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念」が福島第一発電所の事故で、残念ながら現実となってしまった今、ひとりひとりが日本の将来を真剣に考え、行動しなければならない時がここにあるのではないかと思われる。
氏はあとがきにこう、述べている。
「後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力を持って一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません」
氏は、混迷を極める今の日本を草葉の陰からどのような思いで見ているのだろうか。

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