2016年10月05日

軍事の天才・大村益次郎と西郷隆盛の上野戦争(「知恵泉」から)

幕末に活躍した軍事の天才・大村益次郎(長州藩)は、高杉晋作、坂本龍馬、土方歳三など人気のある著名なヒーローに比べると、その知名度、人気度、話題性において大きく水をあけられています。しかし、旧幕府との最後の戦い(戊辰戦争)において、大村が重要なキーマンだったことは間違いありません。

先日、「知恵泉」(Eテレ)で大村益次郎を2週にわたって取り上げていましたので、主に大村と西郷の関係に焦点をあてた後半の「上野戦争」について語ろうと思います。

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大村益次郎と西郷隆盛

大村(旧名:村田蔵六 1824 - 1869)は長州人でありながら、最初は宇和島藩に招かれて軍艦を造ったり、蕃書調所教授方手伝として幕府に出仕したりしていました。彼の才能に注目して長州藩に招へいしたのが桂小五郎でした。肖像画でもわかるとおり、大村は額が異様に広くて独特な顔つきをしています。それで、高杉晋作があだ名をつけていますね。「火吹きダルマ」って(笑)

ちょっと番組とは話がそれたので戻りますが、「鳥羽・伏見の戦い」後、徳川慶喜が水戸へ蟄居してからも、旧幕臣が中心となって組織した「彰義隊」(約3千人)が江戸に残って新政府軍を困らせていました。

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西郷隆盛と勝海舟の会談

西郷と勝の会談で江戸無血開城は実現しましたが、これに不満を持つ彰義隊が恭順を示すことはなかったのです。同隊士による官軍兵士の殺傷事件が起きても、西郷が直接解決に乗りだすことはありませんでした。勝海舟に江戸の秩序維持をゆだねていたこと、また全面戦争を回避したい、という気持ちもあったようです。

江戸の様子を見に来た江藤新平(佐賀藩)がこうした状況を目のあたりにして「西郷のやり方は手ぬるい」として、京都の新政府に報告しました。危機感を抱いた新政府が、西郷に代わる司令官として江戸に派遣したのが大村益次郎でした。

江戸についた大村は参謀たちと作戦会議を開き、そこで夜襲を提案する者がいましたが、大村は反対します。理由は、

敵の拠点を絞りきれないこと。
上野を叩いても、江戸市中に散らばっている敵が残ってしまうこと。
敵が江戸の町に火を放つ危険性があること。
新政府軍が各藩の寄せ集めでばらばら(特に薩長の仲が悪い)であること。


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不愛想な大村に薩摩の幹部が反発してもいたので、まことにやっかいでした。そこで、大村は考えます。

「集中する時間をくぎれ」ということで、

・5月15日に上野の山の賊徒を討伐する、というお触れを出す。
 (市中に散らばる彰義隊を一か所に集めることができる)

・討伐の日まで考える時間を与えれば、戦いを諦める者たちが出る。
 (実際に、3千が千人ほどに減った)

・ばらばらの新政府軍も一日だけなら、がまんして協力する。
 (時間をくぎることで、兵士たちの士気を高める)

そして、江戸城にあった美術品・骨とう品を売却して、多額の資金をゲット。
 (アームストロング砲などの新兵器を配備する)


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大村はたった一日の戦いに、新政府軍の命運をかけたのです。

★ 大村のたてた作戦

・表門の黒門口から突撃
・敵の背後にも軍を配備して突入
・行き場を失った敵に、不忍池の対岸からアームストロング砲を放つ
・三方向からの攻撃を受けて、敵は部隊を配置していない北東から敗走する


黒門口での戦いがもっとも困難なので、最強の部隊を投入する必要がありました。つまり薩摩軍を配置したいが、大村は長州人なので反発される可能性があったのです。しかし、一日で勝負を決するにはこの作戦しかありえない、と思い、

「キーマンを見極めろ」ということで、

大村はすべての準備を整えてから、ただ一人にだけ事前に作戦を打ち明けます。

薩摩の大将、西郷隆盛で、西郷と二人きりで会い、部隊の配置図を示しました。西郷は激戦が予想される黒門口に薩摩軍が配置されているのを見て、

「薩摩の兵を皆殺しにするおつもりか」
 
大村は黙って天をあおぎながら、扇子を弄びます。そしてひと言、

「そのとおり」

やがて西郷は無言で席をたち、部屋から出て行ってしまいました。

交渉決裂か?

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しかし、西郷は大村不在の会議の場で「大村に私を一番難しいところへ出してくれ、と申しておきました」と語りました。大村の作戦を了承したのですね。

慶応4(1868)年5月15日、「上野戦争」が始まりますが薩摩軍は苦戦。

江戸城では参謀の一人が焦って大村に言います。
「これならば、夜襲のほうがよかったのでは」
大村は落ち着き払って、
「そうあわてるな。そろそろ時間だ」

やがて、昼過ぎに黒門口が薩摩隊によって破られます。まさかの正面突破に敵は慌て、その背後から長州軍が突撃、佐賀軍はアームストロング砲を撃ち込みます。

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上野戦争の配置図

ついに敵はなすすべもなく敗走。戦いはわずか一日で新政府軍の勝利におわりました。これで江戸から旧幕勢力が一掃され、二か月後、江戸は東京に改称されて、時代は明治へと移っていったのです。

最後に番組では、現在の上野を訪ねて、移築された黒門や彰義隊のお墓・慰霊碑などを紹介していました。


大村益次郎については、司馬遼太郎が「花神」という小説で書いており、NHKの大河ドラマにもなりましたね。私もレンタルビデオで観たことがあり、なかなかいい作品だと思いました。弊サイトの「幕末・維新史-木戸孝允への旅」でも何回か登場しています。

残念ながら、大村は明治2年9月に出張先の京都で賊に襲われ、そのとき受けた傷がもとで、2か月後に落命してしまいました。享年46。靖国神社には彼の銅像が建っているそうです。

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posted by orion at 23:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史人物
この記事へのコメント
彰義隊は西軍の連中にとっては目障りな存在だったようですが、江戸っ子達には人気がありました。

西軍が江戸にずかずかと乗り込んできてでかい面する様に、江戸っ子たちは内心「薩摩や長州の田舎モンに征服されちまうのかよ、悲しいねぇ」と思っていましたから、江戸を守ろうと集まる彰義隊はカッコ良く見えたようで、拍手喝采を送ったといいます。まさに江戸お子にとっては希望の星だったのです。

そーゆー意味では彰義隊を叩くことは江戸っ子の反骨心を打ち砕く為には有効な一手だったのではないでしょうか。

吉原でも薩長藩士は全く人気がなく、「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」がおネェちゃんたちの合言葉だったそうな。
Posted by アトラ命 at 2016年10月10日 18:02
ほほう…
歴史は視点を変えると見えないものが見えてくるのですね。
だから歴史は面白い!
Posted by 曹子孝 at 2016年10月26日 11:49
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