一宮の日記

モノローグ

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Q.家で、毎日早く早く早く早く死ね死ね死ね死ね死ねと言われ続けて困っています。助けてください。

A.うーん、おうちの人ともう一回よく相談してみてくださいね。

じゃねえって話で、私はじゃあどんなことを求めてるんですか?ってそれは手を握って話を聞いてほしいとかそんな単純なことなんですよ。本来、互いの違いを認識し、相互批判を行なって言葉と精神を尽くして合意を形成していくことが関係を築くことなんだと思いますけど、私はそんな、「私と関係」の話なんてLINEとかメールではしないし、そもそもそういったコミニュケーションのなかでは脳死状態で、だから、適当に胎内を揺さぶられるとあなたの言葉なんてもう届かない。ずっと人を殺したことを反省していて、人が怖くて仕方がないんです。でも最近は深くあるべき関係でさえ浅く済まそうとする人が多くて正直楽ではあるんですけど、あなたと関わる意味もないので縁切らせてもらいますね。私が死にたくなるんじゃなくてあなたが死ねばいいわけだし、大切なことって「義に飢え渇く」ことなのにあなたにはそんな気持ちが微塵もないし。人を愛せない人はかわいそうとかは全く思わないですけど、人を愛さないことは単に愚かな選択なんです。愛することは何かってよく考えてますけど、私はどうしても心中がしたくて、(心中マッチングアプリとか無いですか?)「心中しよ」に「一緒に生きよう」と返信するのはおかしいと分かってくれそうな友達に言ったら、「逆になんて言ってほしい?」と言われて、「心中しよ」って誘ってくれるのがいいなーと答えました。私は誰にも愛されない、くれた分しか返す気にもならないから、結局誰も心中してくれないです。セックスは恐ろしいけれど、そんなことより、服を脱がせることに抵抗がない人間が怖い。善悪の知識の実、食べ忘れたのかな?そういう人に限って誰のことも大切にしない究極の平等をもってて、それがイデオロギーみたいな顔、涼しい顔してる。最近はすごくイデオロギーが重視されてて、逆に「なんとなく」な人たちが迫害されてる。でも、私はとにかく命がほしくて、命を手放したかった。助けてほしい、私もみごもって屋上から飛び降りたくて、想像妊娠をした。あのときマリアは寝取られたのかな?

私の手が震えてることに気がついてくれた君は首を吊って死んでしまったみたいで私は悲しいよ、あの神社ですごく暗い道の中で、神様が住んでるところで私と一緒に死のうとしてくれて、嬉しかったよ。あのとき、はじめて私の中に性の衝動が芽生えたのを自覚して、その後にはもう感覚全てが閉じてしまって、快感自体がなくなってしまって、快感を取り戻すために、快感を論理化してみたり、構造主義をなぞってみたり、鎖骨を折ってみたりしたけどあまりうまくいかなかったね。ねえこんな、こんなにちゃんと書いてあげたんだからまた、神様の見てるところで、ちゃんと見てもらって、神様に、健やかな時も病める時も永遠に私の呼吸を支配することを誓って、その場で一緒に死んでね、今年の誕プレこれでよろしく。(連絡待ってます。)

「死にたい」と言ってくる人の対処法

こんにちは、高卒無職です。普通の人は、他人と知り合いの間ぐらいの人に、「死にたい…」とこのトーンで言われたら、相手を異常者として認識し、『線引き』したお付き合いをするようになることが多いと思います。このような「死にたい…」に対しての緩やかな回避をする行動を冷たい!と言う人は多いですが、「死にたい」人の面倒をみたり、止まらない「死にたい」に付き合うというリスクを回避する点では、適切な対応であると考えられるでしょう。しかし、私はお人好しなので、「死にたい…」と言われれば心配だし、ついつい面倒をみてしまいます。そこで、今回は、お人好しが、自分に被害を被らない程度に、全く死なない図太い精神力ゴキブリの「死にたい人」と上手く付き合っていく方法について考えていこうと思います。

 


前提

たまに、特に男女の仲でどちらかが「死にたい」人だと、「死にたくない」人の方が、生きたいと思わせることに必死になりがちですが、全く意味がないので早めに諦めましょう。また、「死にたい」人にとってあなたは特別な存在ではなく、単に心の栄養を吸い取りやすい相手、ぐらいにしか思っていません。変に舞い上がって後悔するぐらいなら、「普通の」人と「普通に」仲良くして「普通に」死んでいってください。

 


その1 〜相手にするかしないか〜

単純に、死にたいという意志について、一貫しているかしてないないかで決めましょう。ある日は死にたくて、ある日は生きたいという人は、精神状態をどん底から最高までしょっちゅう移動させていて、そこにエネルギーを沢山使っているため、あなたに一切気を遣わないでしょう。関わっていると、そのうちあなたが死にたくなりますよ。ずっと「死にたい」人は、ある意味安定しているので、付き合いやすいと思います。メンヘラは前者です。

 


その2〜優先順位〜

「死にたい」人って死にたい癖に自分に対しての評価がかなり高くて、自分を優先してくれないと怒り、「あなたまでわたしのことを裏切るのか、もう死んでやる!」と言って暴れることが多いです。友達でも、恋人でも、人間はとても愚かなので、こういうことを言われると、何故か「自分は特別なんだ」、「こんなに想われたことはない」と勘違いしますが、特に想われてもないですし、そんな茶番に付き合っていたら自分が死にたくなるだけなので、自分を最優先にして行動しましょう。

 


その3〜衝動的な「死にたい」への対応〜

相手が衝動的に死にたくなる発作持ちの方の場合、これは気をつけるべきなことがあります。まず、鎮火させるには、大袈裟過ぎるぐらい騒いでください。例としては、

「え?〇〇ちゃんが死んじゃうなんて!わたしの唯一の親友なのに!悲しいよ…」「君が死んでしまったら、僕は一体どうやって生きていけば良いんだ…」

みたいな感じです。ここでポイントなのが、間違っても「君が死ぬなら僕も死ぬよ」などと言ったあなたの死を予感させるようなことを送らないでください。最初は本心でなくとも、そのうち盛り上がってきて、あなたが死にたくなりますよ。

 


まとめ

「死にたい」と言ってくる人は、死にたくなるぐらい色々なことを知ってしまった人だと思います。無知な人よりは知識人が魅力的に映るのは当然でしょうし、「死にたい」人は、真っ当に生きたい人より、刺激的で脆く、美しいとすら思えるかもしれません。また、「死にたい」人は教養人であることが多いので、彼ら、彼女らとは、きっと友人としても、恋人としても、それなりに実りある日々を過ごすことが出来るでしょう。しかし、そのような日々を過ごすことで、あなたは何も成長できないですし、ただ、相手に精神を消費されているだけなのです。あなたが徐々に精神を蝕まれていって、「死にたい」人にならないことを祈っています。

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  • Jun

    貴方の文章にも、「死にたい」人が放つ周りを蝕む黒いオーラを感じました。しかし、「死にたい」人に対する対応の解説が非常に綺麗で参考になりました。
    貴方の精神が良い方向に向かう事を祈っています。

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高校卒業に寄せて!

高校を卒業しました!そんなことより読んでいたRobbersという小説の最終話のタイトルがLoversで感動しています。これヤバない?

 友人のブログを読んで、実感の欠如は私にとっても本当に深刻だと思いました。私の中で、時は中学2年生で止まっている上に、明日の部活どんなことやろうかな〜などとふと考えてしまいます。でも、『自分に向き合いなさい、一生付き合う相手なんだから』と言われて、確かになーと思ったので、特に面白くない高校生活を振り返ろうと思います。

〜高1〜

最悪。で終わらせるのも良くないと思いますが本当に最悪でした。あらすじとしては、無能な人に悪口言われたり、そのせい等々で有能な人に嫌われたりしました。リアルの人にTwitterにでねちねちねちねち悪口書かれました、1番陰湿悪質卑劣不道徳な行為ですよね?こういう足引っ張る無能みたいなものが本当に苦手で、自分はこうならないように気をつけよ〜〜〜〜と思っています。また、私の常識は他人には全く通じないということが多々あって、常識を押し付けることは良くないことで、私は無意識に押し付けがちで、特にそれを前提として物事を進めてしまうから、気をつけようと思いました。(この最悪の時にも私と仲良くしてくれた友達から卒業式でもらい泣きしかけました。いいね!)活動実績としてはHR委員、共同祈願(イグナチオ協会)、募金活動(赤十字)、赤城?でミサ、認知症サポーターに認定される、だったと思います。また、私の場合精神的なダメージは進めたい物事全てに非常〜〜〜〜に悪影響で、1番優先すべきなのは目の前の課題ではなく精神状態の維持ということを学びました。この時期に、口の中から魚の骨が沢山出てきたり、誰かにみられてるような気がしたりして、親に相談したら統合失調症だよと言われて精神科に引きずり込まれそうになって、落ち込みました。また、担任の先生に早めに相談して苦手な人をリストアップして二度と同じクラスにしないでくださいと頭を下げたおかげで、この先はあまり人間関係で悩まなくなりました。不要な人間関係はすぐ切りましょう。

〜高2〜

勉強以外色々やりすぎました。ここで、私はとにかく忙しくないとやっていけない人間なんだと悟りました。活動実績は、HR委員(sc)、合唱コンクール指揮、吹奏楽部指揮、吹奏楽部パンフ(友達が沢山やってくれた)、jpg(銀)、ipo(奨)(一回使ってみたかった英語表記)、他のHRの細かい活動は忘れた

合唱コンクールは高2まで、合唱コンクール〜こんな行事必要〜ぐらいの存在感でしたが、それ系の部活の人がクラスにいたのに誰もやってくれる人がいなくて、仕方なくやりました。この行事は多分悪の祭典だと思います。部活で培った出席管理方法等々でモチベーションをゆるゆる管理して適当にこなすか〜と思っていましたが、目立とうとする無能な人のせいで、儚い夢は散りました。目立ちたいvsやる気みたいな構図の具現化みたいな人をやる気にさせて、その方々のできない音楽的指導をするのはストレスでしかなかったです。正直揉めました。この中で、集団行動で、自分が総括していて、うまくいかない時は、自分が頑張る姿勢を見せることが非常に重要であると学びました。わたしは仕方なく真剣にやりましたし、皆さんにも協力して欲しいと熱弁することでなんとか行事を終わることが出来ました。ここからは誰にも言っていないことですが、母が合唱コンクールに来ていたのですが、そこで母が私の母であると知らない他の方のお母様から「娘から教えてもらったのだけど、あの小さい子が色々仕切って本当に頑張ってたみたいなのよ」と言われて興奮していました。アピールとかではなく身長伸ばしたいです。こういう口コミが本物なのは、自分の評価を気にしたことがある人ならわかると思うんですけど、嬉しかったです。部活では、指揮者をしていました。指揮ってどうなの?と人に聞かれるとついつい前のめりになってしまう自分が今でもいます。指揮者のすることは、スコアに目を通して、音源を何回も聞いて頭に入れて、引き出したいメロディーをメモして、それを奏者に伝わる言葉で届けると言った感じで、人によってやり方には結構幅があります。私は自分が精神的なダメージに弱かったので、何か注意をする時には、前向きな言葉を添えることを自分の中でルールとして決めて指導をしていました。これは非常に効果的であったと思います。藝大の先生に習ったり、指揮の講習会に行ったりはしましたが、所詮素人でした。素人の割には、部員もついてきてくれて良かったのではないかと思っています。この体験から、自分が素人な時は、周りのモチベーションを意識して行動することが大切だと実感しました。また、夏休みは午前午後が部活で潰れ、午後に死にながら塾に行って、爆睡して、休み時間に哲学オリンピックの資料として購入した哲学書をずっと読んでいる、みたいな生活を送っていました。哲学オリンピックは、人間の心の働きに興味があったことと、これは最悪なんですけど、私はエリートが好きで、エリートと出会えそうで、ハードルが低そうだからという理由で作文するか〜と思って書きました。やりたい!と言った時に、やってみなよ!この本貸すね!と言って大量に本を貸してくださった学校の先生にはとても感謝しています。高校2年生の夏に真剣に「エチカ」読んでたの青春だ!あと哲学オリンピックやってみてわかるんですけど哲学エッセイを書くことはそんなに簡単じゃなかったです。特に、河合塾の三浦先生(推し)から最初に頂いた「あなたはあなたを書いていない」というアドバイスには衝撃を受けました。哲学オリンピック春合宿は楽しかったです。異常者の館(褒め言葉)みたいな感じでした。どういう心配りがわからないですが、東大の院生が沢山お茶を買ってくれて、ポケットWi-Fiを貸してくれました。ブログとか読まれたら心底困るので読まないで貰うことを願っていますが、合宿で知り合った中で、神戸女学院の子は『本物』でした。あと、聖書について活発な議論ができた点では新鮮な場所でした。ペアを組んだ子が、Philosophiae naturalis principia mathematica(予測変換)における天地創造についての部分に対して、宇宙は広くて、神様はすごい!という結論を出していました。こういう結論は、言い表すのは難しいけど、私には出せないし尊敬すると、院生に言ったら、俺もそう思ったと言われましたが、恋は特に始まっていません。漠然と楽しかった〜と、合宿が終わった時点では思っていましたが、高校生で哲学をかじろうとするような人間の中には、うまく現実を捉えられないというか、光のある方向が分からなくなってしまうような人がやっぱりいて、そういう人に限って優秀だったりして、そういう人と光のある方向が何処なのかを一緒に考える、というか、まず、光とは何なのか一緒に考えられるような仕事がしたいなと、一連の「事件」を見て思いました。(医師志望動機)

〜高3〜

ずっと家にいて気が狂いました。やっと外に出れるという時にジュンク堂で盗撮されて、犯人を捕まえようと思って、追いかけ回して、捕まえたことの代償に膝がエスカレーターに巻き込まれました。普通、こういう体験をしたらフェミニストになるか、単純な男嫌いになると思いますが、私は男が好きなままで、自分が分からなくなりました。歩けないうえに、松葉杖がうまく使えなかったので、お手伝いさんに学校まで一緒に行ってもらうことになりました。その時に先述の無能な人に笑われて、辛かったです。この辺から高3はうまくいかなくなりました。何回も書いていますが、電車賃を親からもらえなかったので、渋谷から表参道までの距離をそれまでは、走っていましたが、走れなくなったでしょ?と言われて(実際そうですが)塾()に入れられました。電車賃は頭を下げましたが、出してもらえませんでした。これも、聞く方には荷が重いだろうなと思ってあまり言っていませんでした。(電車賃をくださいと言ったら、「本当に電車賃?このお金で遊ぶんでしょ?」と言われて貰えませんでした。)

あと、恋愛のことを書いていないのは、恋愛は他人の心を消費する娯楽で、恋愛から学ぶことは特になくて何も覚えていないからです。

この後は友人が自殺しました。私はこの時、自分の弱点について整理していなかったため、精神的なダメージを受けると自分は全てに手がつかなくなるという重大な欠点を忘れていました。正直、関わるべきではなかったです。彼の自殺から、古い考え方で申し訳ないですが、ファムファタールがいると男って人格歪んで狂うなと学びました。6年来の友人の自殺は流石にショックが大きくて、救いたいなと思っていましたが、私が連絡を取る事ができた時には、彼の精神は蝕まれていました。その状態を目の当たりにして、自分の精神を蝕んで来るような物は、美しくて脆くて自由で何より魅力的なものが多くて、魅了されているうちに、自分の持っている栄養を全部吸われてしまう、と学びました。この友人に対しては若干負い目を感じているので、彼の精神と肉体が一体となって正しさへ向かうことを心から祈っていますが、関わる気はもうないです。

後は受験の後に「重大な意識の違い」が発覚してとうとう私は精神的に死にました。精神的に1度死ぬ事は、怠慢で愚かで、愛を知らない私の更生への第1歩になりますか?

天国に行けない君へ

結局、1人で生きていく事に耐えられなかったあのユダヤ人は死んでしまったみたいですし、その時は病気で死んだというよりは死因・絶望だったのかもしれないです。死に至る病が絶望である、なんてお医者さんに言ったら怒られてしまいそうだけど。

そういえば、いつも人を殺してしまったことを後悔しています。

まず、人を愛することについて、思うことがあります。例えば人を愛す時、「フェチ」が一番愛している姿勢のような気がします。しかし、フェティシズムは実践するのが非常に難しく、フェティシズムを恋愛のルールとして設定すると、対象を知ることは犯すことであるし、対象に話しかけることなんてもうレイプなので、私はフェティシズム的に愛すことは出来ないです。「普通」の皆様においては愛と性を混同されているし、私も他人を信じることはきっともうできないだろうし、本能的な恋愛なんてもっと出来ないだろうし、計算を尽くして、大好きな人の背中に生えている未来へ羽ばたくための翼を傷つけて飛べなくするようにしか愛せないし、そんな愛は続かない。こうやって人を殺してきたわけですけど、私も性格が悪いわけではなくて、これは自分の倫理観に対する緩やかな自殺行為なので、私も精神を消耗しています。というか私は異常者で、そんな私にも、交際5年目の理解のある彼くんはいないし、雑然とした自殺願望がある。自殺願望について、お前は結局死なないだろうと思っている方が沢山いらっしゃるが、とってもわがままなので正直(無理)心中がしたくて、首は吊るけど死ねない。でも私は異常で、存在することが許されないことは確かであるから、早く死なないといけない。死にたい人って沢山いるし、私のことを愛してくれるらしい人も沢山いるけど2つの感情は似ているから平行線上にあって交わることがないから、愛しているなら心中してと土下座しても心中はしてくれないし寧ろ優しく頭を撫でられたり、抱き締められたりする。愛することにも愛されることに対しても中高一貫教育の中学3年生のような感情で接してしまうから、下の名前で呼ばれるとなんだか慣れない感じがするし、どうせわたしの異常性は認めてくれないんだろうなとも思う。ただ、異常なわたしを「教育」したいという人は今まで沢山いて、正義感に溢れる人が多いのだなとつくづく実感する。わたしは生に固執しないしお前にも固執しなくて、それは諦めているからだと言うと「教育」は人格否定に変えられてしまうこともしばしばある。そうすると相手もわたしと同じ諦めの感情を大きく持つようになって、私のことを凄く憎んでみたり、逆に感謝してみたり、する訳ですが、逆にわたしに諦める気持ちを教えてくれたのは誰なのかと考えてみても分からないのです。というかわたしを憎んだその時点であなただって、天国にはいけないわけじゃないですか。わたしも天国には行けなそうなのであんまり恨まないで欲しいし、わたしはあなたのことが嫌いだったわけではなくて心から愛していたと自信を持って言えるから、不器用で上手く伝わらなかったみたいで悲しいけど、次に会う場所は天国がいいねって思ってるよ。

 

自分史

今日は自分史を書こうと思う。唐突だが、最終章から始まる。

最近、身の回りでも、身の回りではなくても、よく人が自殺する。私は毎日、死にたいと思うが、きっとこれを耐えれば良いことがある、きっとこれを耐えれば友達が出来る、きっとこれを耐えれば大学に受かる、きっと、、と思ってきた。しかし、本当は、我慢なんて美徳でもなんでもなくて、早く死んだ者勝ちなのだと思う。しかし、皆が我慢が美徳ではなく、自殺が、これから自分に起こる災難を先回りして回避できる神ツールだと気がつくと、社会がうまく回らないから、人間には本能的に我慢は美徳、だとか、命は尊いと言った倫理観が植え付けられているのだろう。

あなたの死にたいはどこから?私は小学校から。小学生の時にどのぐらい自己肯定感を持つことが出来たか、は将来の生きやすさに関わってくるとわたしは思う。しかし、この国では、小学校の教師をしているのはろくでもない層なので、そもそも教師に教養があまりなく、道徳教育の重要さを理解できていないことも多くある。実際、わたしの通っていた小学校では、道徳の授業が、『先生の自分語りコーナー』になっていた。先生は、道徳の1年間かけて、自分が日本一周した話をされていた。わたしの所属していたクラスにはいじめがあった。

まともに教育を受けてこなかった私は、中学生になった。人と付き合っていく事は難しいと分かっていたので、長いものに巻かれようと思っていた。入学式を終えて、強そうな陽キャに媚を売って、子分にして頂いた。そして、陽キャは、とある事件を起こして学校をやめた。私がすがるはずだった長い物は無くなった。(個人情報の関係で詳しく書けないことが悔しい)

高校生になった。華のjkライフを期待していた。私はこの高校一年生の時に起こった出来事の“おかげ”で完全に心が閉じてしまった。私が高校一年生になった時より後に知り合った人を信用する気には全くならない。いい加減にして欲しい。私の心を閉じた人間の不幸を心よりお祈り申し上げる。また、それより前に知り合った人もほとんど信用できなくなった。信用って何?と思うかもしれないが、わたしは人を信用する時に条件を決めている。➀わたしの悪口をわたしが見えないところで言わない(これを守れる人がまずほとんどいない)➁➀を3年守っている、だ。実は、これを守ってくれている人は2人ぐらいしかいない。リア友がこれを見ていたら申し訳ないが、多分お前ではない(笑)(わたしは、信用している人間に対してだけ深入りした家族の話(親の職業とか)をするので、そんな話をされていたら多分わたしに信用されていると思う。)

でも、信用している人にも言えないことはある上に、わたしはそもそも、人に悩み事をポンポンポンポン言えるような人間を心底軽蔑しているため、(相談している時点で自分の中で答えは出ているくせに、相手に迷惑をかけることを厭わないその態度が心底憎いから)自分の悩みは誰にも相談できず、心労は募るばかりなのだ。高校三年生になって、毎日思う死にたいという気持ちがだんだん積もってきてこころの限界を超えそうだ。遺書の準備はできているから、いつでも全てを放棄して逃げ出せる。

今までは、他人の心から栄養を吸い取って生きてきたが、それすらも面倒になった。死にたいと思ったことのないあなたにはきっとわからないでしょうけどね。本当に助けて欲しいんです。いちばんつらいのはだれにもそうだんできないことだからね。

七夕に寄せて

特に願いごとはないが、日記を書こうと思う。

将来を具体的に考えていない人に出会った。私の友人は基本的に最悪の場合まで想定しているような人たちなので、驚いた。なぜこの人は自分のこの先について全く考えずに17歳の夏を迎えるようなことになったのか、と考えると、やはり、それを許す環境に生きているから、と言うのが妥当な理由であると考えられた。有能になろうとしない人に出会った。そんな人はあまり見たことがなかったので驚いた。しかし、それもまた、有能になろうとしないことを許す環境に生きていたことが原因だろう。進路を自由に決めることができた人に出会った。人は不思議と自分の持っているもののありがたさには気がつかないようで、私に向かって『レールの上の人生は楽しいか?』と聞いてきた。脱線事故を起こしたときに責任を負ってくれるつもりだったのだろうか。環境を原因にしてはいけない、と主張する人に出会った。私に向かって『お前は確かにいじめにあっていたが、それを克服できなかったお前が1番駄目だ。』と言った。そんなことを言えるのは資本主義の勝者だけだろう、と思った。あの子は可哀想だから優しくしてあげるんだ、と言う人に出会った。人間は快感原則に基づいて、人を見下す方が気持ち良いからね、と思った。

春休みに自殺未遂をした。警察が家に来た。私のことを『可哀想だ』と言った。私はなんだかさっぱりわからなかった。私は、将来を具体的に考えないと許されない環境にいる上に、有能になろうとしないことを許さない環境にいる上に、進路や将来は自由に決められず、そしてそんな環境に対して被害者のような態度をとることもしていないのに、その私が可哀想だと?!と思った。それから、自分を可哀想だと思っていなかっのは、環境のせいだと思った。そういえば、自分の身に起こることは、全て自己責任と言われながら育った。それから、医師になるように言われながら育ったような気もする。年上を敬うようにも言われてきたことを思い出した。

そして、私は、洗脳から解かれたのだと悟った。これから先、自由な人生、どうやって生きていこうかな。まだ、きっと、、、

ごめんね

ごめんねという言葉は使い手にとってはとても便利な言葉で使われる方にとってはとても不便な言葉であるように思える。私は、人間なんて謝れば許してくれるとたかを括って、よく「ごめんね」と言う。わたしにごめんねと言われた人は、それを受け入れるか拒絶するかという選択を迫られる。もしここでわたしの「ごめんね」を受け入れないと心の狭い人間であるとみなされてしまうことが多いため、たいていの人は、軽率に「ごめんね」を受け入れて許してくれる。

家に帰れば精神的虐待と呼ばれはてもおかしくないような、人格否定をされ続け、学校にいけば明確な悪意を向けられ、塾に行けば言いがかりをつけてけなされた。元々体育会系ではあるので、そんなにすぐに心が折れたわけではないが、これらの毒にわたしの心は徐々に蝕まれて、遂には死を望むようになってしまった。死は救済なんて、そんなことは絶対にないし、私たちは、自分たちの認知し得ない「死」に幻想を抱いている。冷静な思考を持てばすぐにそのような理解に至るが、わたしはずっと死について考えるうちに、死は救済なのではないかと考えるようになった。これは思考が独りよがりであることが原因だ。わたしが死は救済だ!と言ったところで、いや、そんなことはないだろうと答えてくれる人がいなかったために、わたしの思考は独りよがりになって、考えれば考えるほど、自分が救われる方法は自殺しかないと思うようになった。ここに至るまでに何人にも助けて欲しいと縋ったが、わたしの人間性のせいか、取り合ってくれる人がいなかった。

わたしは生きていかないといけないという気持ちも同時に持っていた、死への渇望との両立がうまくできないために、自我が崩れていった。自我を保つためには自分が本来なら得られていたはずの無償の愛が必要だった。わたしはそれを恋愛で得ようとした。恋愛は愛だけによるような美しいものだと思っていたが、まず、恋愛における愛はエゴイズム的な面が大きいことに気がついた上に、恋愛感情はこころだけではなく身体にまで延長されるようなものだ、という知りたくないようなことまで知ってしまった。わたしは絶望した。もう死んでしまおうと思った。しかしわたしの内部にある何かがわたしを殺さまいとしている。何回自殺をしようとしても上手く死にきれないことからも、わたしは、神様、運命に守られているのかもしれないと思った。いい加減にしてくれ、神様はいつだって自分勝手だ。そろそろ自由にさせてくれ。

“今まで仲良くしてくれてありがとう!葬式では『良い友達でした』と言って泣いてね、わたしのこと忘れないでね、ごめんね。”