戦後、大船駅前にあった横須賀海軍工廠深沢分工場は国鉄の工場へと改組する。戦争で規模を縮小させられていた松竹の映画製作は再び活発化し、国鉄は撮影でたびたび松竹に協力した。
戦災復興のさなかで大船では鎌倉市と藤沢市、そして横浜市の間で揺れ動く事態が起きていた。1939年、鎌倉町は隣接する腰越町と合併して鎌倉市が誕生。古都・鎌倉は、腰越だけではなくほかの町村も合併して大鎌倉市構想の実現を模索していた。戦火が激しくなったことで合併の動きは沙汰やみとなるが、終戦後には再び大鎌倉市構想が動き始めていた。
一方、東海道本線の開業により発展が著しかった藤沢も、鎌倉市が発足した翌年に市制を施行した。藤沢市は周辺市町村とさらに合併することで湘南市の実現を目指していた。湘南市実現のために、大船町や片瀬町、深沢村にも合併を打診していた。片瀬町は1947年に藤沢市と合併するが、深沢村は鎌倉市との合併を選択する。
大船町は鎌倉・藤沢の板挟みになっていた。また、横浜市と合併するという第3の選択もあった。最終的に、大船は中世から地域的なつながりの強かった鎌倉と1948年に合併した。
ドリームランドが開業
鎌倉との合併も束の間、日本は高度経済成長期に突入する。東京は人口増が激しく飽和状態に陥り、その余波で横浜市の人口も急増した。大船界隈でも人口が急増していた。
昭和30年代前半まで、神奈川県内には日本住宅公団が建設した公団住宅は少なく、そのために横浜市は住宅整備に追われる。神奈川県や横浜市といった行政だけではなく、東急電鉄も住宅地の建設を進めていた。しかし、整備を進めれば進めるほど人口流入は加速。流入のスピードに住宅建設は追いつかなかった。
記録的な人口増加が続く1964年、横浜市戸塚区にテーマパーク「横浜ドリームランド」がオープンした。横浜ドリームランドは、興行師・松尾国三が悲願とした遊園地だった。横浜に先駆けて、1961年に「奈良ドリームランド」が開園している。横浜ドリームランドは松尾の首都圏進出の野望を満たすテーマパークであり、松尾の遊園地進出の第2弾にあたる。
とはいえ、広大なテーマパークは、すぐにつまずいた。遊園地が駅から遠いことが災いし、客足は思うように伸びなかったのだ。
横浜ドリームランドは横浜市戸塚区に所在するが、大船駅の歴史を語るうえではずせない存在でもある。なぜなら、横浜ドリームランドまでのアクセスを改善するべく、大船駅から横浜ドリームランドまでを結ぶモノレールが開業したからだ。つまり、大船駅は横浜ドリームランドの玄関駅でもあった。