八木秀次(麗澤大学教授)
10年以上前、全国の自治体で「男女共同参画」という名のジェンダーフリーを実現するための条例が制定されていた頃、千葉市が男女共同参画の広報パンフレットを作成した。『ハーモニーちば』(2000年)と題されたこのパンフの裏表紙にはカタツムリがインク瓶をよじ登っているイラストが描かれ、「男女共同。」という字の下に次のような文句が書かれていた。
「カタツムリは雌雄同体。“結婚”すると、両方の個体が土の中に白くて小さな卵を産みます。同じ一匹で雄の気持ちも雌の気持ちも良くわかるなんて、ちょっぴりうらやましいような……」
カタツムリは「ジェンダーフリー」のシンボルとされていた。ジェンダーフリーの主唱者たちは、《男女には社会的文化的役割に違いがないのみならず、生物学的にも違いがない》と主張していた。アメリカの性科学者、ジョン・マネーが『性の署名』(1975年)で展開した、今では完全に否定されているトンデモ学説に依拠したものだ。それによれば、「男らしさ」「女らしさ」という社会的文化的性差(ジェンダー)の意識が生物学的性差(セックス)を規定しているのだという。
男女共同参画社会基本法の原案を作成したとされる東京大学教授の大沢真理氏もその信奉者で、「セックスが基礎でその上にジェンダーがあるのではなくて、ジェンダーがまずあって、それがあいまいなセックスまで二分法で規定的な力を与えている、けれど本当はあなたのセックスはわかりません、ということ」としながら「女で妊娠したことがある人だったらメスだと言えるかもしれないけれども、私などは妊娠したことがないから、自分がメスだと言い切る自信はない」(『上野千鶴子対談集 ラディカルに語れば』平凡社、2001年)と言い放っていた。
このように男女に生物学的な違いもほとんどないとするならば、結婚を男女の組み合わせに限る必要はない。男と男、女と女の組み合わせだってあっていい。ジェンダーフリーは同性愛に基づく「結婚」をも認めるべきだという主張に行き着く。
東京都渋谷区が3月区議会に提案した「男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例(案)」は、同性愛に基づくカップルを「結婚に相当する関係」と位置づけ、区民や事業者にも同性愛者を含む「性的少数者」に対するあらゆる「差別」を禁止するものだが、これはジェンダーフリーの進化形と言っていい。ジェンダーフリーという発想に本来的に織り込み済みのものに他ならず、その破壊的な要素が遂に顕になったということなのだ。
この広義のジェンダーフリー条例は当然のことながら我が国の家族観、結婚観を大きく揺るがす内容を有している。本稿の締め切り時点では条例案の行末は不透明だが、渋谷区に追随する動きをみせている自治体もある。ここではこの条例の持つ問題点を明らかにし、条例の制定に慎重もしくは反対の姿勢を示したい。
論理の飛躍だ!条例案の提案理由
この条例案の内容が一般に伝えられたのは今年2月中旬のことだったが、その際、報道では、渋谷区が「同性カップルを『結婚に相当する関係』と認め、証明書を発行する条例案を盛り込んだ2015年度予算案を発表した」とし、条例が必要とされる理由について「同性カップルがアパートの入居や病院での面会を、家族ではないとして断られるケースを問題視し、区民や事業者に、証明書を持つ同性カップルを夫婦と同等に扱うよう求める方針だ」としている(共同通信2月12日配信)。
同区が報道機関に発表したものをベースにした記事であろうが、ここで先ず問題にしたいのは、個別の具体的問題と一般原則が混同されているということだ。世の中には同性愛者が一定程度存在し、同性カップルも存在する。その人たちの人権への配慮は必要だ。アパートへの入居や病院での面会を、家族でないとして断られるケースがあるとするならば、その不利益は救済されるべきである。ただそれは、そのレベルで救済すればよく、入居や面会を家族以外に広げるような個別の施策を実施すれば済む話であり、何も同性カップルを「結婚に相当する関係」と認める、すなわち後述するような憲法や民法にも抵触し、国民の家族観、結婚観を揺るがすような大きな話にする必要はない。
その前に、現在、アパートへの入居や病院での面会を家族でないとして断るケースがそれほどあるのか疑問だ。「アパート」という言い方も一昔前のものであるが、若者の間では他人が部屋を分けて同居する「シェアハウス」が流行している。結婚前の男女が同棲するケースも珍しくない。病院での面会も独居や身寄りのない老人が増える中、家族に限定しているところは多くないはずだ。どこか作り話の臭いがする。
繰り返すが、仮にそのようなケースがあるとしても、何も一般原則を変更しなくても解決できる問題なのである。ここに論理の飛躍がある。夫婦別姓もそうだが、小さなところで解決できる問題を大きな問題に仕立て上げ、社会の原則自体を大きく変えようとするのは、このジェンダーフリー、同性婚推進を含む左翼運動の常套手段だ。
「結婚は男女による」ことを含意した憲法24条に抵触
この条例案が問題である理由を三つ述べたい。第一は、条例案は憲法に抵触する可能性が高いということだ。憲法第24条は、第1項で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とし、第2項で家族法制は「両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と規定している。明らかに婚姻=結婚は「両性」すなわち男女によるものと想定し、同性婚は排除している。民法もその前提に立っている。
学界の一部には「24条は婚姻をかつての『家制度』から解放することが主眼で同性婚を排除していない」との見解もあるが、多数説を形成していない。一般的には「婚姻とは『子どもを産み・育てる』ためのものだという観念がある」ので、「民法は、婚姻の当事者は性別を異にすることを前提にしている。同性では子どもが生まれないので、同性カップルの共同生活は婚姻とはいえないということだろう。民法典の起草者は書くまでもない当然のことを考えていたので、明文の規定は置かれていない。(中略)少なくとも現段階では、同性婚を認めたり、性転換者の婚姻を認めることは困難だと思うが、同性カップルに対して契約的な保護を拒む必要はないだろう」(大村敦士『家族法〔第3版〕』有斐閣、2010年、大村氏は東京大学法学部教授)とする見解が支配的だ。
渋谷区は「いや、法律上の婚姻とは区別している。あくまで『結婚に相当する関係』だ」と反論するかも知れないが、「相当する」とは、それそのものではないけれども、限りなくそれに近いものをいう。少なくとも実態としては法律上の結婚に準ずるものとして取り扱われる。憲法24条に抵触する可能性は高い。
「条例は法律の範囲内」とする憲法94条にも抵触
条例案はまた、憲法94条に抵触する。94条は条例の制定は「法律の範囲内」とする。地方自治権は国の行政権の一部が委譲されたものと考えるからだが、条例案は、国のレベルで認められていない制度を渋谷区という自治体レベルで実現しようとしている。明らかに94条に違反する越権行為だ。
ここで想起されるのは、自治基本条例や民主党政権で唱えられた「地域主権」だ。その発想の背景には、基礎自治体が国に先んじて存在するとする倒錯した理論がある。政治学者・松下圭一氏が提唱し、自治労関係者が広めているが、これも内閣法制局や裁判所も認めない異端の学説でしかない。何より、こんな国民全体の家族観や結婚観を揺るがすような内容の条例を一自治体のレベルで制定しようというのは常軌を逸している。ことは自治体レベルの問題ではない。広く国民で議論を尽くし、国会でも議論して、その上で実施の賛否を決定する大きな問題だ。条例案は二重の意味で憲法に抵触している。
不透明な制定手続き
第二は、条例制定の手法が民主的ではないということだ。後にも述べるように、この条例案は、同性愛者だけが関係するのではない。渋谷区に在住する者や同区に事業所を置く事業者全てを対象にしている。区民や事業者の価値観や利益に関わる大きな政策の変更であるにもかかわらず、条例案の公開も不十分で区役所のホームページにさえ公開されていない。区民の声を聴くパブリック・コメント等も行われず、ほとんどの区民は条例案の内容すら知ることができていない状態だ。2月中旬にいきなり公表され、内容も報道レベルでしか知らされない。議会に内容が示されたのも直近になってのことだ。3月議会で成立、4月1日施行を目指すという拙速な手法は「ゲリラ的」とも言うべきだ。
条例制定の前段階として渋谷区では「『(仮称)渋谷区多様性社会推進条例』制定検討会」(委員長・海老原暁子元立教女学院短期大学教授)を設置し、昨年7月から今年1月まで9回の会議を開いている。議事録は公開されていないが、議事要旨は一部墨塗りで公開された。会議では推進派の区議会議員や性的少数者、推進派の民法学者などの意見を聴いている。異論が唱えられた形跡はない。イケイケどんどんで、ブレーキを踏む者は不在のようだ。
気になるは「事務局アドバイザー」に諸橋泰樹氏の名前があることだ。諸橋氏はフェリス女学院大学教授で専門はジェンダー研究、各地の自治体で男女共同参画関係の役職に就いており、渋谷区でも男女共同参画アドバイザーを務めている。事務局に推進派の確信犯を置いて司令塔とし、密室で議論し、ゲリラ的に条例の制定を目指している。始めに結論ありきで、議論を尽くそうという姿勢は窺えない。
法が保護する家族制度を破壊する毒
第三は、条例案の中身についてだ。内容そのものにも問題は多い。「同性愛カップルが被る不利益の解消」という表面上の趣旨を越えて、日本の家族制度、婚姻制度(法律婚)の形骸化を目指し、思想・信条の自由、信教の自由、表現の自由、経済活動の自由までも侵害するかのような内容になっている。結果として、区民・事業者の不利益を招く可能性すらあるということだ。具体的に条例案を紹介しつつ問題点を指摘していこう。
第2条(定義)の6に「性的指向 人の恋愛や性愛がどういう対象に向かうかを示す指向(異性に向かう異性愛、同性に向かう同性愛及び男女両方に向かう両性愛並びにいかなる他者も恋愛や性愛の対象としない無性愛)をいう」という部分がある。8には「パートナーシップ 男女の婚姻関係と異ならない程度の実質を備える戸籍上の性別が同一である二者間の社会生活関係をいう」という部分がある。
ここでは、異性愛、同性愛、両性愛、無性愛をすべて同列に並べている。前述のように憲法や民法では、次世代を生み出す男女の法律婚を特別に重視、保護していることは明らかだ。上位法である憲法、民法の法律婚尊重の原則に反する条文だ。また、生物学的にも同性同士が「男女の婚姻関係と異ならない程度の実質」を備えることは不可能であり、法令の条文として不適当だ。
「人権の暴走」―偏った教育や外部団体介入を招かないか
第4条(性的少数者の人権の尊重)の3に「学校教育、生涯学習その他の教育の場において、性的少数者に対する理解を深め、当事者に対する具体的な対応を行うなどの取組がされること」とある。ここでいう「性的少数者」とは「同性愛者、両性愛者及び無性愛者である者並びに性同一性障害を含め性別違和がある者」(第2条)とのことだが、特に性同一性障害を持つ子供がいじめの対象になっていることはかねて指摘されており、文部科学省もその対応策を検討し始めたところだ。しかし、渋谷区の動きは国の動きに先行しようとしている。独自の副読本などが作成され、区内の小中学校などで使用される可能性が高い。かつての過激な性教育のように、男女の法律上の結婚の意義などを無視し、多様な性愛を全て同等に扱う偏った内容になることは十分考えられる。自治体が暴走しないよう、文部科学省も性的少数者の人権に配慮した教育はどうあるべきかについてのガイドラインを作成する必要があるのではないか。
第5条(区及び公共的団体等の責務)の2として「区は、男女平等と多様性を尊重する社会を推進するに当たり、区民、事業者、国及び他の地方公共団体その他関係団体と協働するものとする」との規定がある。問題は、「関係団体と協働するものとする」との義務規定の下で「性的少数者の人権を尊重する」との名目で各種人権団体が区の行政に介入する虞れがあるということだ。かつて広島県の一般行政・教育行政が一部の同和団体のコントロール下に置かれた時、その根拠になったのは、差別事件の解決に当たっては「関係団体と連携する」とした合意文書だった。「協働」の名の下に外部団体が介入し、区が主体性を失うことにならないのか検討を要する。
思想・信条・表現・経済活動の自由を侵害しないか
第6条(区民の責務)の2として「区民は、区が実施する男女平等と多様性を尊重する社会を推進する施策に協力するよう努めるものとする」との規定もある。これにより、必ずしも国民的合意が得られていない価値観とそれに伴う施策を区民が強制される可能性があるということだ。例えば、先の学校教育の問題とあいまって、親が伝統的な家族観を持っていた場合に、その価値観から見て偏っていると感じた学校教育に不満を述べると「区の施策に非協力的」と見なされることになる。
次は事業者の問題だ。第7条(事業者の責務)の2は、「事業者は、男女平等と多様性を尊重する社会を推進するため、採用、待遇、昇進、賃金等における就業条件の整備において、この条例の趣旨を遵守しなければならない」とし、3は、「事業者は、男女の別による、または性的少数者であることによる一切の差別を行ってはならない」と規定する。禁止事項だ。これにより、経済活動の自由を侵害する可能性は高い。どういう人材を雇用するかは憲法が保障する経済活動の自由の一環であることは最高裁判決でも示されているところだ(三菱樹脂事件判決、昭和48年12月12日)。ここでも条例案は憲法や法律に先んじた形になっている。「法的拘束力はない」と説明されているが、後述の15条で行政による勧告や、事業者名の公表など社会的制裁があり得ることが示されており、強制性があることは明らかだ。
「一切の差別を行ってはならない」とするが、区別も差別と見なされる可能性は高い。事業者とは、渋谷区内に何らかの事業所を置く企業等のことだ。本社を置く大きな会社もある。宗教団体や私立学校など、法人の性格や活動において男女の差異が重要な要素の一つとなる場合に不自由を強いられることも考えられる。例えば、渋谷区には全国の神社を統括する神社本庁や明治神宮がある。同性愛を禁じるカトリックの教会もある。宗教法人が母体となった私立の学校もある。これらも当然、対象となる。この条例が制定されれば、明治神宮でもカトリック教会でも同性愛カップルの結婚式を挙げなければならなくなる。拒否すれば「差別」ということになり、勧告や名前の公表など社会的制裁を受けることになる。私立の学校では同性愛を許容する教育をしなければ、「差別」とされることになる。
第8条には(禁止事項)として「何人も、区が実施する男女平等と多様性を尊重する社会を推進する施策を不当に妨げる行為をしてはならない」とし、2では「区、区民及び事業者は、性別による固定的な役割分担の意識を助長し、若しくはこれを是認させる行為又は性的少数者を差別する行為をしてはならない」と規定する。これにより、区が推進する政策に反対して「男らしさ」「女らしさ」や伝統的な家庭のあり方を教えるような講演会、啓蒙活動、言論活動なども禁じられる可能性がある。少なくとも渋谷区の公共施設での開催は難しくなるだろう。思想・信条の自由、言論の自由などを侵害する危険性の高い内容だ。
第11条(区が行うパートナーシップ証明)は問題とされる証明書に関する規定で「区民及び事業者は、その社会活動の中で、区が行うパートナーシップ証明を最大限配慮しなければならない」と規定する。この「パートナーシップ証明」を示されれば、不動産業者は部屋を必ず貸さなければならない。神社も教会も結婚式を拒否できない。
第14条は「男女平等と多様性を尊重する社会の推進について調査し、または審議するため、区長の付属機関として、渋谷区男女平等・多様性社会推進会議(以下「推進会議」という。)を置く」と規定する。構成、運営等は区規則で定めるとするが、推進会議は区民の意識形成や区長に意見を述べるなど区政に深く関わる立場だ。構成員の選定基準などが不透明なままでは大いに問題がある。第5条の規定と同様に一部の団体が行政に介入する道筋をつくる可能性が高い。
甦る「人権擁護法」の悪夢
第15条(相談及び苦情への対応)は「区民及び事業者は、区長に対して、この条例及び区が実施する男女平等と多様性を尊重する社会を推進する施策に関して相談を行い、又は苦情の申し立てを行うことができる」とし、2は「区長は…(略)…必要に応じて調査を行うとともに、相談者、苦情の申し立て人又は相談若しくは苦情の相手方、相手方事業者等(以下この条において「関係者」という。)に対して適切な助言又は指導を行い、当該相談事項又は苦情の解決を支援するものとする」とし、3は「区長は、前項の指導を受けた関係者が当該指導に従わず、この条例の目的、趣旨に著しく反する行為を引き続き行っている場合は、推進会議の意見を聴いて、当該関係者に対して、当該行為の是正について勧告を行うことができる」とし、4は「区長は、関係者が前項の勧告に従わないときは、関係者名その他の事項を公表することができる」と規定する。
かつて、「人権擁護法(案)」や「人権侵害救済機関設置法(案)」と呼ばれる法律が制定されかけたことがあった。「人権の名のもとに組織される《人権委員会》によって、強権・恣意的に各種の権利や自由が抑圧されるのではないか」との反対が根強く、制定には至らなかったが、今回の渋谷区の条例は、その「人権擁護法案」の内容をも同時に実施しようということだ。「法的拘束力」はないと言いながら、区の施策に従わなければ、指導、勧告、さらには関係者名等を公表して社会的な制裁を加えるとしている。これは事実上の拘束力を持たせようということだ。更に、その過程に「推進会議」が関与するとなっており、会議の構成によっては、恣意的な勧告が行われる可能性も否定できない。
同種の条例は、世田谷区や横浜市でも制定への動きがある。繰り返すが、性的少数者の不利益を救済するにはこのような包括的な条例を制定する必要はない。個々の施策で救済すべきものだ。日本は伝統的に同性愛に寛容な文化を持つが、そのことと制度をどうするのかは次元が異なる話だ。性的少数者の人権には配慮しつつ、同時に次世代を産み育てる機能を有する男女の結婚を他の人的関係よりも制度として優遇する。二つのことは対立するものではない。関係者には拙速は避け、くれぐれも慎重な対応を望みたい。
やぎ・ひでつぐ 昭和37(1962)年、広島県生まれ。早稲田大学法学部卒業。同大学院政治学研究科博士課程中退。専攻は憲法学、思想史。著書に『日本国憲法とは何か』(PHP新書)、『憲法改正がなぜ必要か』(PHPパブリッシング)など。平成14年に正論新風賞受賞。教育再生実行会議、法務省相続法制検討WTの各委員。