■哀しき鬼・丘崎誠人に捧ぐ もどる
土曜。朝からふらりとバイクに乗って、月ヶ瀬村を訪ねた。あの事件の集落を見たくなったのである。青年が生まれ育ち、ついに捨てきれなかった故郷の村の風景を。うららかに晴れた暖かな朝だったが、柳生の里を抜けるうねうねとした山間の道は日も差さず、ひどく寒かった。
事件は1997年の5月に起きた。梅林で有名な村の中心部から川ひとつを跨いだ山間の集落で下校途中の中学2年の女子生徒(当時13歳)が行方不明となり、付近からタイヤのスリップ痕や女生徒の着用していていた靴やジャージなどが見つかった。二ヶ月後におなじ集落内に住む25歳の青年が逮捕され、自供から伊賀上野市郊外の峠で白骨化した遺体が発見された。翌年、青年に対して奈良地裁は懲役18年の一審判決を申し渡したが、検察側がこれを不服として控訴し、2年後に大阪高裁により無期懲役の判決。青年は弁護団のすすめにもかかわらず上告をしないまま刑が確定し、去年の夏、収監先であった大分刑務所の独房内にて自らのランニング・シャツで首を縊って果てた。29歳だった。
事件は当時、いたずら目的の稚拙な誘拐殺人といったニュアンスで報じられたように思う。だが今年になって雑誌に掲載されたレポート(新潮45・7月号「虐げられた人びと」中尾幸司)や、裁判の係争中に弁護団の一人がある機関誌に寄せた文章(部落解放なら第12号「月ヶ瀬事件と差別」高野嘉雄)などに目を通すと、そこからまた、べつの風景が浮かびあがってくる。
青年は逮捕後、事件の動機として、集落の住民によるじぶんや家族への差別があったと供述した。月ヶ瀬は現在も与力制度といわれる昔ながらのしきたりが残っている村である。村史を繙くと、慶長年間に幕府が農村支配の末端機関として相互観察・全体責任などの目的のために設けた五人組制度がその源ではないか、という。与力というのは同族組織より選ばれた村の複数の代表のことである。たとえば「区入り」という、村の一員として認められるためには二人の与力の推薦を必要とする。与力には「一家の重要な事柄は喜憂一切」を相談せねばならず、「結婚相談はもちろん、仲人の決定まで与力に相談しないと将来の交際に支障をきたすという」「与力は“縁者は一代、与力は末代”と親類以上に頼りになり、一面言うことをきかねばならぬ権威ある存在であった」(月ヶ瀬村史)
以下に続けて、これに関連する記述をふたつ引いておく。
1. 葬式には運営その他、一切の指揮をとり、家族全員手伝って山仕をつとめたり、会計もつかさどる
2. 家の普請などのときに手伝う
3. 結婚の結納、荷の受領、披露宴などでは、与力が親族代表として挨拶をする
4. けんか・土地の境界争い等の仲裁・調停をしたり、身元引受人になる
5. 出産や祝い事には親類としてつき合い、失火など、他に迷惑をかけた場合などは親類代表として詫びをする(月ヶ瀬村史)
B地区には与力制度というものがあり、地元民二人の推薦がない限り、区入りができない。区入りができないと区有林を利用する権利等はない。冠婚葬祭は与力が仕切ることとなっているため、又地区内での交際も与力関係の者同志での交際が中心であることから、与力がないと事実上村八分のようになってしまう。区入りの概念は必ずしも法廷では明確にされなかったが、B地区の区長の証言によれば、区入りとは「皆さんと一緒にこれからお付き合いしていくということ」とされている。
被告人の母の法廷での証言によれば「地区民から、家が焼けたり、人が死んで葬式ができなくても、それだけは村で寄ってやってやる、それ以外はつきあわない、と言われた」というのである。
他方で、地区の負担金、労働奉仕への参加等の義務の履行は、地区入りしていようといまいと、同じように求められている。負担金については家の「格」により金額が異なり、被告人の家の負担金は最低ランクであった。被告人の父らが、地区での集会等への参加を求められたり、地区役員の選任の機会を与えられたことも全くない。
(高野嘉雄「月ヶ瀬事件と差別」部落解放なら第12号)
ほかにも月ヶ瀬では、集落ごとに税金の申告・支払いをまとめている、という。もちろんこれらは僻地の山村における相互扶助の役割を果たしているわけだが。
一方、事件を起こした青年の家族は30年以上も前に隣村から移っててきたが「区入り」は果たしていない。村の民生委員を務める、かれがその命を奪った少女の祖父の計らいによって家族は、村はずれの日当たりの悪いじめじめとした傾斜地にかつては物置として使われていたトタン屋根とベニヤ板の壁のあばら屋に住みついた。冬には隙間風に悩まされ、室内にはいつも鼠が走りまわっていた。風呂は薪で、「下水道敷設の分担金が支払えなかった」ために便所はなく、外に掘った穴で用を足していた。内縁関係にある青年の両親は、ともに日本人と朝鮮人の間に生まれたハーフであった。お茶の栽培農家がほとんどを占める村内にあって、二人は行商や日雇いの仕事で家計を支えた。寡黙な父には愛人があり、気が強い文盲の母は子どもに金だけを与えて放任した。毎日、長女がおかずをつくり、それをみなが好き勝手な時間に食べた。会話もない、ばらばらの家族だった。
小学生の頃、青年はいくつかの「差別」を受けたと語っている。三年生のときに集落の公民館が何者かに放火されたときには多くの住民がかれを疑い、つき合いを避けるようにと子どもに言い含めた。川原で遊んでいたときに“そんなところで遊ぶな”と石を投げられた。殺された少女の家のビニールハウスが燃えたときや、青年団の祭りのときに現金が紛失したときも疑われた。中学二年のとき、「教師がエコヒイキをし、何かというと体罰をするということがキッカケ」で不登校となる。その間、担任の教師が自宅を訪ねたのはほんの2,3度で、卒業証書はクラスメートに届けさせ、かれは翌日それを破り捨て燃やした。
ふたたび前掲の高野嘉雄氏の文章を引く。
被告人は、被告人あるいはその家族が受けた仕打ちについて「よそ者」扱いと表現している。そのような対応の根底にあるのは、彼自身が在日朝鮮人と日本人とのいわゆる「混血」であること、両親が正式に婚姻していないこと、田畑を持たず、土木工事や賃雇いが生計の道で、極貧であること、家が狭くて劣悪であること、両親が不仲であること、母が文字の読み書きができないこと等に対する地区住民や教師、級友たちの嫌悪感に根ざしていることを被告人は知っている。
被告人は、級友が届けた中学校の卒業証書を、届けられた翌日に燃やしている。その際の思いは弁護人らの想像を絶しているというしかない。
被告人の心の中に社会、人間に対する深い絶望と激しい怒りが確実に刻み込まれていたことだけは疑いがない。
被告人は中学卒業後に数多くの職業を転々としているが、勤務状況に粗暴な傾向は全く窺われず、むしろおとなしく静かな人とみられていた。前科、前歴は交通違反以外全くない。
表面的には静かでおとなしい被告人の胸の底で、B地区内で「よそ者扱い」をされ続けてきたことに対する暗い、激しい怒りがくすぶっていたのである。
青年の語った「差別」について、裁判の席において、村の住民も学校の教師もそのことごとくが「そのような差別はなかった」と否定している。だが前掲の新潮45の記事を書いた中尾幸司氏は取材中に聞いた、次のような村人の「嘲笑まじりの」証言を記録している。「村の人間は、あの家族を明らかに見下しとるよ。年寄りが多いから、どうしても古い体質がある。現に私自身も村の人間が“朝鮮がっ ! ”って吐き捨てるように蔑むのを聞いとるしね」 また「部落解放なら」の編集部も「母親はY村の部落民」「父親はYの部落周辺に住めなくなって10数年前にここに移住した」といった村での風評を記している。
中学卒業後、青年は職を転々とするがどれも長続きしていない。測量事務所のアルバイト、土木作業員、警備員、左官見習い。大阪や東京の飲食店で調理師見習いとして働いたこともあったが、住み込みが性に合わなかったのか、ふらりとまた村へ舞い戻った。そんななかで車は、かれの唯一の安らぎの空間であったようだ。カーステでかけるのはドリカムやチャゲ&飛鳥。「特に初期のドリカムの、都市生活を楽しむ若者たちの屈託ないラブソングがお気に入りだった」(新潮45) 事件のひと月ほど前に買ったばかりの大型四駆「三菱ストラーダ」の走行距離は、事件後に売却される三ヶ月の間に5.300キロに達していた。
そして事件当日。ここでも修羅は、一見何気ない、のどかなごく当たり前の光景からその首をもたげる。やはりこれも、高野嘉雄氏の文章を引く。
被告人が反抗に至った経過は以下のとおりである。
被告人は前夜、滋賀県内の、いわゆるソープランドに行き、5月3日の午前中に地元に戻ってきた。うららかな日だまりの中に車を停め、しばし仮眠をした後に目を覚ました。何となくウキウキした気持ちで車を運転していたところ、ふと見るとB地区に帰る途中の被害者が歩いていた。B地区まではまだ距離がある、坂もある、あの子を家まで送っていってやろう、ふとそんな親切心、好意が自然と生じてきた。
気楽な思いで「乗って行くか」と声をかけた。しかし被害者は被告人をチラッと見ただけで、呼びかけを全く無視し、返事もしなかった。その時の心境は、被告人の調書では、以下のとおりのものとされている。
「顔見知りの私が親切に声を掛けているのですから、せめて、お爺さんが迎えに来ますから結構ですとか、家が直ぐそこですので結構です等と断ってくれれば、私としては腹が立つことは無かったのですが、Aさんが私の親切心を無視し、返事もせず、逃げるように足早で歩き始めたことで、私は俺をよそ者と思っているから無視しよる。返事もしやがらん。○○の者は俺を嫌っており、この女も一緒や等と思うと、それまでの○○の人間から受けていたよそ者扱いの悔しさが爆発寸前になったのです。このようにして自分を無視したAさんとB地区全体の人間に対する憎しみが一緒になり、頭の中がパニック状態になったのです。そんな腹立たしい気持ちで車を走らせている時、完全に切れてしまい、許さん、車を当てて連れ去ってやろう、最低でも身動きできないようにしてやろう、B村の者が一人居なくなれば、村の全員が心配して、恨みが晴らせる絶好の機会や、今がええチャンスやと考え」「待ち伏せしている間も私の頭の中は、親切心を無視された腹立ちと、それまでのBの人間からよそ者として口では言い表すことのできない苦しみを受けてきたこと等が交差し、とにかく頭の中は爆発寸前のパニック状態であり、後先のことを考える余裕等な」かったとされている。
供述調書を作成するのは捜査官である。衝撃的な事件においては、被告人の心情というものは極めて微妙であり、又当の被告人においても自己の内心を理路整然と説明できるわけではない。そして捜査官は誘拐罪で逮捕していたため、何とか誘拐、連れ去りという言葉を挿入させようとしているため、供述調書の一部に不自然さが感じられる。しかし大筋において被告人の語る動機、心情あるいは本件に至る内心の状況としてこの供述調書は信じるに足ると弁護人は評価する。
声をかけた中学生は近所の顔見知りの子であった。当然好意に応えてくれると思った。ところが被害者は、何の言葉も発せず、被告人を無視した。その反応は当時の被告人にとっては全くの予想外のものであった。しかし、それは実は、予想外のものではなく、B地区の住民、被告人や被告人の家族に対するよそ者扱いそのものであったのである。
被害者が示した反応は、被告人、被告人の家族のB地区における冷遇を端的に、そして冷静に示したものであった。直前の被告人のウキウキした心情は、被害者による被告人の無視という行為によって、孤立した、みじめな心情へと転化し、被告人を厳しい現実に引き戻したのである。その落差は被告人にとって絶望的なものであった。
青年は少女の背後から時速30キロのスピードで近づき、そのまま車を衝突させた。だが、いざぶつけてしまうと「憎しみは雲散霧消し、現実に引き戻され」(弁論要旨)、慌てて運転席から降りて、道に倒れた少女を抱き起こし後部座席に移した。少女はハアハアと荒い息をしていた。病院へ連れて行くことも一瞬脳裏をよぎったが、「自分が犯人であることが露見し、自分だけでなく、家族までが村に住めなくなる.... 事件を持って逃げるしかないという気持ちになった。(少女を)発見されにくい場所へ連れてゆき、殺して死体を隠してしまおう」(冒頭陳述) そして二時間後、伊賀上野郊外の山中で、はじめは四重の紐状にしたビニールテープで絞殺しようとしたがうまくいかず、手元に転がっていた人頭大の石(4.9キロ)を数回、少女の頭部に投げつけて絶命させた。死因は左頭蓋底骨折による脳挫傷であった。
事件をめぐる検察側と弁護側の争点は、当初、その動機にあった。検察側は殺された少女の下着が刃物で切り裂かれていたことから、事件は性的ないたずらが目的の誘拐殺人であり、青年は性的異常者であると主張した。それに対して弁護側はそのような性的異常の傾向は認められず、事件は青年の自供どおりに「被告人、被告人の家族に対する月ヶ瀬村住民等による差別の中で、被告人の鬱積した怒りが衝動的な形で暴発したものである」と反論した。もうひとつは「差別」の問題である。一連の公判において、青年の家族を取り巻く村の旧弊さが浮き彫りになったものの結局、裁判所は「被告人のいう差別感情なるものは、何の咎もない中学二年生の被害者に対する本件の犯行動機として、ほとんど酌むべき事情にはならない」としてこれを斥けた。情状酌量の余地はないとして、検察側の求刑通り無期懲役が宣告されたのである。
最後にもうひとつだけ、高野嘉雄氏の稿より次の一節を引いておきたい。
月ヶ瀬事件で特徴的なのは、被告人は自白に転じた以降、終始一貫して自己の行為を弁解せず、正当化しようとはしていないことである。被告人は動機として月ヶ瀬村の住民による被告人及びその家族への差別があったことを供述しているが、それは何故に本件の如き犯行をしたのかという質問、追求があったため、「事実」として、その経過、内心の感情の推移を説明したのにすぎない。被告人は当然償わねばならない責任はこれを受け入れるべきと考えており、自己の刑事責任を軽くするための一切の弁解、責任転嫁を拒否し、公判廷においてもただ「事実」としての自己の心情を述べたに止まったのである。このことをまず留意すべきである。
そして事件から4年後、前述したように青年は収監先の刑務所内で自殺を図った。Webにあった京都新聞の記事より一部を引く。「奈良県月ケ瀬村の女子中学生殺害で、殺人などの罪で無期懲役が確定、大分刑務所で服役中の丘崎誠人受刑者(29)が自殺していたことが十九日、分かった。 法務省矯正局によると、今月四日午後八時ごろ、丘崎受刑者が自分のランニングシャツを独居房の窓枠にかけて首をつっているのを巡回中の刑務官が発見した。病院に運ばれたが、意識不明の状態が続き八日未明に死亡が確認された。遺書はなかった。 刑務官の巡回は十五分に一回で、当時は就寝前の自由時間だった。」(Kyoto Shimbun 2001.9.19 News) 自殺を図った4日は、かれが殺害した少女の月命日だった。前掲の「新潮45」の記事の中で、高野嘉雄氏は次のような苦渋の胸中を述べている。
誠人君が罪を深く悔いていたことは、接見して直感した。自殺も、おそらく罪の意識からだと思う。かれは最後まで心を閉ざし続けた。刑事や検事はいうまでもなく、弁護士すらも信用していなかった。かれの心をこじ開けられなかったことを、私は弁護士として慚愧に思う。
冬の月ヶ瀬は、さながら湖底に横たわった村のようにひっそりと静まりかえっていた。梅林近くのみやげ物屋は軒並み店を閉ざし、観光客の姿もまばらだった。昼寝をしているような観光会館にバイクを停め、置いてあった観光パンフを貰い、二階の展示室でかつてこの地を訪れた文人たちの梅林を愛でる書画をしばらく眺めた。それから梅林の裏手にある尾山代遺跡に立ち寄った。茶畑の広がる丘陵地の斜面が小さな公園のように整備されていて、素堀りの住居と、その隣に四畳半ほどの鍛冶工房の建物が復元されている。室町期あたりに奈良の都の大安寺などに木材を供給していた職能民たちの集落跡だという。北風を避けたなだらかな南の斜面を三段に造成し、上段に前述の住居と工房、中段に食料を貯蔵した穴、下段をゴミ捨て場として使用していたらしい。どこまでも続く低い山並みを眺めながら、いにしえの杣人たちの日々の暮らしを想った。陽が雲間に隠れ、相変わらず寒かった。
ふたたび中心部の月ヶ瀬橋までもどり、橋のたもとで山頭火の句碑などを眺めてから、青年の生まれ育った集落へ向かった。事件の当日、かれが車を停めて仮眠した村営の駐車場のトイレで用を足した。かれが少女に声をかけた谷間の道も目星がついた。そこからじきに、道は集落に向かう狭い上り坂へと分かれる。日当たりの良い高台に茶畑が広がり、20数戸のわずかな家々が尾根筋の平坦地に身を寄せ合った、のどかな山村の風景だった。人の姿はほとんど見えず、閑としている。集落全体を見わたすことのできる公民館と薬師堂の前にバイクを停めた。もう一方の高台にひときわ立派な土塀に囲まれた屋敷が、あれがおそらく亡くなった少女の家だろうと思った。隣接する神社の珍しい石造りの神殿などをしばらく見物してから、寺の本堂を横切り、反対側の墓地へとゆっくりと歩をすすめた。
月ヶ瀬はいまも土葬であり、しかも埋め墓と詣り墓(石碑墓)という両墓制の形を残している。村はずれにある埋め墓に遺体を埋葬し、一定の期間祀った後は村に近い詣り墓へ霊魂を移し、以後はそちらへ詣でるのである。薬師堂の境内にあるのはその詣り墓の方で、ここから暗い雑木林の小径を20分も下ったところにあるという埋め墓も覗いてみたい気持ちもあったが、今回はあえて控えることにした。青年が暮らしていて、事件後に取り壊されたあばら屋の跡地も探さない。そう決めていた。ふと足元に、青年によってわずか12歳の命を奪われた少女の墓があった。童(わらべ)のような地蔵が彫られた真新しい白い墓石が生々しく、痛々しかった。手を合わせるには、何を祈ったらいいのか分からなかった。軽く頭を下げ、さり気なく通り過ぎた。居たたまれなかった。
しばらく薬師堂でぼんやりと村の佇まいを眺めてから、来る途中の観光案内板で見た野口雨情の句碑を探した。案内板の表示ではこの付近だった。通りかかった中年の女性に声をかけると「野口雨情さんって茨城出身の人でしょ、よく知っているわ」と気さくな声が返ってきた。彼女は取手の出身で、土浦にはいまも親類がいるという。道下の民家に向かい「ねえ、○○ちゃん。この人、茨城の人で、わざわざ野口雨情さんの句碑を探しに来たんだってぇ」と呼びかけ、上がってきたこれも気さくそうな夫君が句碑の場所を丁寧に教えてくれた。「雪のふる 夜に鶯は 梅の花さく 夢を見る」という雨情らしい童心に満ちた句で、ダムで水没した場所からここへ移されたという。帰りがけに夫婦は「この村にはね、いろいろ面白い人たちがいるのよ。私たちも大阪から移住してきて、いまはこんなことをしてるの。ここに電話番号も書いてあるから」と一枚の雑誌のコピーを私にくれ、車で立ち去っていった。道ばたにひとり座り込み、目を通した。岡山や大阪で環境調査などの研究に従事していた夫君が長年のアルコール中毒で休職し、その後夫婦でこの月ヶ瀬村に移り住み「縄文の風農場」なる有機農業を、古い農家三軒を借りて都会からの研修生4人と共同生活をしながら営んでいる、という内容だった。「都会から問題をいっぱい抱えて来た私たちを村の人々は温かく見守ってくださった」という一節もあった。複雑な気分だった。
集落の裏山の小高い山の上に位置する、乙若城跡という南北朝時代の史跡を訪ねた。史跡というにはお粗末な、草ぼうぼうの猫の額ほどの淋しい場所だった。青年もかつて子ども時分にここでひとり孤独な時を過ごしたに違いない、となぜか思った。逮捕前に青年がマスコミの「(行方不明の)少女を知っているか」との問いに応えて、「おなじ地区だから知っている。小学生の頃は通りがかりに車に乗せてあげたこともあった」と語ったという、そのことばを想起した。幼い頃には無邪気にかれの車に乗り込んできた少女が、ある時から「世間」という得体の知れぬ皮をかぶり、他の大人たちと同様にかれに冷淡に背を向ける。そのときかれは、他人には遂に窺い知れぬ絶望的なほどの「落差」に戦慄を覚えたに違いない。それはいつ果てるとも知れない無表情な自己の否定であり、その暗闇から己を救い出すために、かれは目の前の少女を逆に否定しなければならなかった。私は、そう思ってみる。あるいはまた、鬼だ鬼だと言われ続けてきた者が、ついに本物の鬼となって復讐をした。だが所詮、本物の鬼には成りきれなかった。鬼はすべてを黙したまま、自ら縊れた。誤解を怖れず言うならばこの事件にあって、殺した者も、殺された者も、どちらも底無しにただ悲しい。二人はいったい何のためにこの世に生まれてきたのかと思うと、暗澹とした思いに襲われる。足元をすくわれそうになる。ある人はそれを「あらゆる説明が空しい、ただ無明な場所であるということだけ」だと形容した。きっと、そのとおりなのに違いない。荒れ果てた墓地のような、人気のない乙若城跡で、私はその無明の暗い穴ぼこを凝視していつまでも立ち尽くしていた。
このまとまりのない稚拙な文章を、悲しき鬼であったいまは亡き丘崎誠人に捧げる。これを書くのはひどく辛い作業だった。だが物言わぬ鬼のために、記しておきたいと思った。
2002.11.26(ゴムログ29より抜粋)
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