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心は実在しないという見方は、たいがいの人にはありえない話だと思えるのだろうが、心が鎮まってゆくと、おおくの悩みや苦痛も薄れてゆく。なぜそんな喧騒を好んでいたのか笑えるくらい、遠くに退く。
わたしたちは泣いたり、笑ったり、感動したり、心を波乱万丈にはためかせることを、すばらしい人生やよい人生だと思っている。
ぎゃくに心が静かになり、なにも感情的に思わないことは、ロボットのような人生だ、非人間的な人生だと思っている。
そのために、悲しんだり、苦しんだりする人生をも、追加的に味わうようになってしまっている。
思考を捨てたり、心や自我を捨てることを仏教や禅は説くのだが、まずはこの人生観の違いから、思考を捨てることの忌避感がつきまとう。
思考を捨てることは、ロボットのように権力に服従することであり、ケモノのように野蛮になることであり、おおよそ創造的に開花的に生きる人生からかけ離れることだと、われわれの文明からは教えられる。
そのことによって、われわれの頭からしじゅう考えつづける思考の連鎖は止まることはないし、悲しみや恐れのジェットコースターのような波乱万丈の感情噴出を味わうし、ときには悲観やうつ感情から離れられないうつ病に落ち込むことだってありうる。
わたしたちの社会は、思考や感情の賛美をしすぎて、その悪弊や欠陥に目を向けない。そうして、ひとりひとりうつ病のエアポケットに落ちてゆく。
わたしたちの社会は思考や心の実在を信じる一派であり、仏教や禅が説いてきたことは、思考や心が実在しないことを信じてきた一派である。
心というのは、身体もそうであるように、意識したら存在しているように思われて、意識していないときは身体の感覚はまったくなくなっている。意識がその存在を創出する。心もそのような性質をもっていて、言葉や思考の力を信じる現代社会は、ずっと思考や心の実在を感じる立場にあることになる。
心や思考というのは、考えたり、思い出したりすると、現実にあるかのように現出するのだが、それを考えていないときは、どこにも存在しない。心というのは、考えないときには存在していないのである。
だから、わたしたちが悩んだり、過去を思い出して苦しんだりしているとき、心の創出機能を使って、自ら苦しむ機会をつくりだしていることになる。
わざわざ自分から苦しむ機会をつくりだしているのだが、心や思考の実在を信じる立場の人は、心の不在の時期を知らない。そのことによって、いつまでも、四六時中、考えることによって苦しみをつくる。心が実在しないと思えない人には、考えた対象はずっと存在することになっているからだ。
思考や回想というのは、自分の意志とかかわりなく、自分の頭の中に噴出しつづけるものである。わたしたちは、思考を捨てるという選択肢を知らないために、その思考や回想にとび乗りつづける。そして苦しみや不安、悲しみを味わいつづけることになってしまう。
禅や仏教の瞑想が教えることは、この思考にとび乗る習慣の鎖を断ち切ることである。自動的に習慣的になっている思考の噴出や飛び乗りから距離をおいて、それを流れるままにする訓練である。それが習慣になると、思考は収まってゆく。
しかしそんなメソッドを知らない人は、頭が湧き出しつづける思考や回想の波に乗りつづけて、その悲観や苦痛のヴィジョンにずっと翻弄されつづけるのである。思考を賛美するわれわれの社会は、この心のカラクリを知らない。そして、多くの人が心の暴走によって、心の自虐装置に痛められてゆく。
言葉や思考というのは、実在しないものを実在すると見なすひとつの考え方である。思ったり、考えたことが実在すると見なしたほうが、社会機能上には便利に適応できる。
しかし、言葉というのは、自分の頭の外のどこに存在するのだろうか。あなたが考えたり、思ったりすることは、頭の外のどこに存在するのだろうか。一度だって、実体を見たことがあるだろうか。
言葉というのは、目の前にないものを、あたかも目の前にあるかのように錯覚させる想像力の道具である。言葉は目の前にないものをあらわす単なる想像力である。そして、想像力は現実には存在しない。
いちばん大事な根本の原理を忘れて、言葉で話したことが、現実に目の前に存在するかのように思い込む能力に長けたのが、わたしたちである。
そして、同じように過去も、この地球上から永久に消え去ってしまった。だけど、わたしたちは過去を思い出して、現実に目の前にあるかのように泣いたり、悔いたり、悲しんだりできる。それは、いまどこにいったのか。いま、存在するのか。もはやどこにも存在しなくなった、ただの心象、心のイメージにすぎないのではないか。どこに実体として存在するというのだろう?
わたしたちは、過去や言葉、思考が実在するという思いにどっぷりと浸かっている。それがどこにも実在しないではないか、という疑惑をひとつもはさまずに、存在しないものの白日夢、夢に浸りきっている。
しかも時間はこの瞬間ごとに過ぎ去ってゆく、このいまの瞬間も永遠の奈落の底に消え去ってゆく。わたしたちの実在は、この一瞬だけであり、その一瞬でさえ、この瞬間に消え去ってゆく。わたしたちは、ほんとうに実在しているといえるのだろうか。
わたしたちは、ずいぶんと実在しない世界に片足をつっこんでいる。そして、それを補うための言葉や記憶といったものが、実在する現実にあるものと錯覚して暮らしている。
心や思考が実在すると思い込むと、思ったり考えりしたことの苦痛や恐れ、不安などをたっぷりと味わうことになる。しかし、それが実在しないと見なすようになると、思考や回想のヴィジョンは、強い力をもちえない。なぜなら、それはどこにも実在しない架空や絵空事だと知っているからだ。
わたしたちは、夢を見ている。実在しないものを現実に実在すると見なす言葉や記憶力によって、実在しない幻に泣いたり、笑ったりする感情の荒波のあいだを泳いでいる。
心が実在しないと見なすことは、これら心が出してきた思考や回想に乗らないことである。現実に存在しないと見なすことである。現実に存在しないものになぜ泣いたり、悲しんだり、恐れたりするのだろう?
実在しないものに感情を煩わされる必要はないし、心が実在しないと見なすと思考の噴出もおとなしくなってゆく。相手にすれば思考は増長し、相手にしなければ収まって、静かになってゆく。心のそんなカラクリさえ、わたしたちは知らない。
どうでしょうか? 心を実在しないと見なしたほうが、人生の苦痛や不安から解放されると思いませんか? 心を実在すると見なすと、われわれは人生の両手いっぱいの不幸や苦痛をもたされることになります。
わたしたちは、なにを苦しんできたのでしょうかね。
わたしたちは泣いたり、笑ったり、感動したり、心を波乱万丈にはためかせることを、すばらしい人生やよい人生だと思っている。
ぎゃくに心が静かになり、なにも感情的に思わないことは、ロボットのような人生だ、非人間的な人生だと思っている。
そのために、悲しんだり、苦しんだりする人生をも、追加的に味わうようになってしまっている。
思考を捨てたり、心や自我を捨てることを仏教や禅は説くのだが、まずはこの人生観の違いから、思考を捨てることの忌避感がつきまとう。
思考を捨てることは、ロボットのように権力に服従することであり、ケモノのように野蛮になることであり、おおよそ創造的に開花的に生きる人生からかけ離れることだと、われわれの文明からは教えられる。
そのことによって、われわれの頭からしじゅう考えつづける思考の連鎖は止まることはないし、悲しみや恐れのジェットコースターのような波乱万丈の感情噴出を味わうし、ときには悲観やうつ感情から離れられないうつ病に落ち込むことだってありうる。
わたしたちの社会は、思考や感情の賛美をしすぎて、その悪弊や欠陥に目を向けない。そうして、ひとりひとりうつ病のエアポケットに落ちてゆく。
わたしたちの社会は思考や心の実在を信じる一派であり、仏教や禅が説いてきたことは、思考や心が実在しないことを信じてきた一派である。
心というのは、身体もそうであるように、意識したら存在しているように思われて、意識していないときは身体の感覚はまったくなくなっている。意識がその存在を創出する。心もそのような性質をもっていて、言葉や思考の力を信じる現代社会は、ずっと思考や心の実在を感じる立場にあることになる。
心や思考というのは、考えたり、思い出したりすると、現実にあるかのように現出するのだが、それを考えていないときは、どこにも存在しない。心というのは、考えないときには存在していないのである。
だから、わたしたちが悩んだり、過去を思い出して苦しんだりしているとき、心の創出機能を使って、自ら苦しむ機会をつくりだしていることになる。
わざわざ自分から苦しむ機会をつくりだしているのだが、心や思考の実在を信じる立場の人は、心の不在の時期を知らない。そのことによって、いつまでも、四六時中、考えることによって苦しみをつくる。心が実在しないと思えない人には、考えた対象はずっと存在することになっているからだ。
思考や回想というのは、自分の意志とかかわりなく、自分の頭の中に噴出しつづけるものである。わたしたちは、思考を捨てるという選択肢を知らないために、その思考や回想にとび乗りつづける。そして苦しみや不安、悲しみを味わいつづけることになってしまう。
禅や仏教の瞑想が教えることは、この思考にとび乗る習慣の鎖を断ち切ることである。自動的に習慣的になっている思考の噴出や飛び乗りから距離をおいて、それを流れるままにする訓練である。それが習慣になると、思考は収まってゆく。
しかしそんなメソッドを知らない人は、頭が湧き出しつづける思考や回想の波に乗りつづけて、その悲観や苦痛のヴィジョンにずっと翻弄されつづけるのである。思考を賛美するわれわれの社会は、この心のカラクリを知らない。そして、多くの人が心の暴走によって、心の自虐装置に痛められてゆく。
言葉や思考というのは、実在しないものを実在すると見なすひとつの考え方である。思ったり、考えたことが実在すると見なしたほうが、社会機能上には便利に適応できる。
しかし、言葉というのは、自分の頭の外のどこに存在するのだろうか。あなたが考えたり、思ったりすることは、頭の外のどこに存在するのだろうか。一度だって、実体を見たことがあるだろうか。
言葉というのは、目の前にないものを、あたかも目の前にあるかのように錯覚させる想像力の道具である。言葉は目の前にないものをあらわす単なる想像力である。そして、想像力は現実には存在しない。
いちばん大事な根本の原理を忘れて、言葉で話したことが、現実に目の前に存在するかのように思い込む能力に長けたのが、わたしたちである。
そして、同じように過去も、この地球上から永久に消え去ってしまった。だけど、わたしたちは過去を思い出して、現実に目の前にあるかのように泣いたり、悔いたり、悲しんだりできる。それは、いまどこにいったのか。いま、存在するのか。もはやどこにも存在しなくなった、ただの心象、心のイメージにすぎないのではないか。どこに実体として存在するというのだろう?
わたしたちは、過去や言葉、思考が実在するという思いにどっぷりと浸かっている。それがどこにも実在しないではないか、という疑惑をひとつもはさまずに、存在しないものの白日夢、夢に浸りきっている。
しかも時間はこの瞬間ごとに過ぎ去ってゆく、このいまの瞬間も永遠の奈落の底に消え去ってゆく。わたしたちの実在は、この一瞬だけであり、その一瞬でさえ、この瞬間に消え去ってゆく。わたしたちは、ほんとうに実在しているといえるのだろうか。
わたしたちは、ずいぶんと実在しない世界に片足をつっこんでいる。そして、それを補うための言葉や記憶といったものが、実在する現実にあるものと錯覚して暮らしている。
心や思考が実在すると思い込むと、思ったり考えりしたことの苦痛や恐れ、不安などをたっぷりと味わうことになる。しかし、それが実在しないと見なすようになると、思考や回想のヴィジョンは、強い力をもちえない。なぜなら、それはどこにも実在しない架空や絵空事だと知っているからだ。
わたしたちは、夢を見ている。実在しないものを現実に実在すると見なす言葉や記憶力によって、実在しない幻に泣いたり、笑ったりする感情の荒波のあいだを泳いでいる。
心が実在しないと見なすことは、これら心が出してきた思考や回想に乗らないことである。現実に存在しないと見なすことである。現実に存在しないものになぜ泣いたり、悲しんだり、恐れたりするのだろう?
実在しないものに感情を煩わされる必要はないし、心が実在しないと見なすと思考の噴出もおとなしくなってゆく。相手にすれば思考は増長し、相手にしなければ収まって、静かになってゆく。心のそんなカラクリさえ、わたしたちは知らない。
どうでしょうか? 心を実在しないと見なしたほうが、人生の苦痛や不安から解放されると思いませんか? 心を実在すると見なすと、われわれは人生の両手いっぱいの不幸や苦痛をもたされることになります。
わたしたちは、なにを苦しんできたのでしょうかね。