第27局:ほたるの院生試験(後)
お久し振りです。
久しぶり過ぎて途中まで書いてたデータがなくなってしまったんでめっちゃ頑張りました。
最近動画取ったり試験受けたりと新しい事をやってるんで時間が取れないんですよね……。
その代わりに今回の文量はいつもの二倍あるんで、ゆっくりお楽しみくださいませ!
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チッ……チッ……チッ……
「…………。」
ペラリとページを捲る音と、時計の針が動く音だけが聞こえる静寂。今は、ほたるが院生試験を開始してから一時間弱と言う頃だった。
ヒカルは休憩室のソファーに腰掛け、雑誌をボーッと眺めながら、時折お茶を啜っていた。
「…………ズズッ。」
ペラッ
(倉田さんは名人もリーグ入りか……。なるほど、ここの判断は……。)
「へぇ、良い手だな………。」
「…………。」
………ペラッ
こんなにゆったりと過ごすのは、ヒカルにとって久しぶりの事であった。
と言うのも、海王中学の夏休みの宿題がヒカルの予想以上に忙しく、最近はネット碁と藤原家への指導碁以外だと、専ら机に向かって作文やら課題図書やらに振り回される毎日だったのだ。
ヒカルは以前からなるべく、本屋での立ち読みなどで雑誌の購入を節約していたのだが、その習慣も夏休みに入ってからはあまり出来ていない。まあ、それだけ充実していたと言う事なのかも知れないが。
「…………。」
「んー………。」
(お、やっぱり桜井三段はこの頃から解説上手いんだなあ。昔から女流棋士の中でも良くテレビ解説に呼ばれてたけど……俺、あの大盤解説苦手なんだよなあ。皆良く出来るよ、ほんと。)
「…………。」
「…………。」
「………………。」
「……………………ズズッ。」
……………………。
「あの、何か用事があるなら喋ってくれません?」
「そう言われてもな。ワシも見ず知らずの若者にいきなり声なんて掛けられんからのぉ……ヒャッヒャッ。」
「………取り敢えずお茶、飲みます?」
「頂こう。」
コポコポッ
はあっ、とヒカルは大きな溜め息を吐き出しつつも、新しい湯飲みに水出しのお茶を淹れ、自分の真横に座っている『見ず知らず』の筈の老人の前にそれを置く。
老人はそんなヒカルをニヤニヤと笑いながら眺め、置かれた湯飲みを手にとって、口を開いた。
「雑な手際じゃのぉ。」
「見ず知らずの爺さんに気を利かせるだけマシでしょ? 文句があるなら飲まなくて良いよ。」
「別に飲めりゃ何でもええわい。今日は暑くて堪らんわ。」
「はいはい。まあ、真横の席で本因坊に熱中症で倒れられたら面倒だからね。老人の体調管理には気を付けないと。」
「カッカッカッ、可愛げのない坊主じゃ。」
本因坊と呼ばれた『見ず知らずの老人』、桑原仁は、そう言いながらも水出しのお茶を口に運んで、半分程飲んだ。
別に可愛げなんてなくても結構だが、見ず知らずの老人が他にいくらでも席があるにも関わらず、唐突に真横に座って来ても文句を言わないでお茶を出すだけ、ヒカルは自分を良識人だと思う。まあ、それはそれとして。
「あー……取り敢えず、先日の本因坊防衛おめでとう御座います。今日は雑誌の取材か何かで?」
「うむ。それくらいは知っとった様じゃな。取り敢えず、ありがとうと言っておこう。取材はもう終わったがな……フゥー。」
「…………。」
「………なんじゃ、お前も吸うか?」
「子供にタバコ勧めんなよ……。」
「カッカッカッ! そうか、お前さん子供じゃったな! 生意気さ加減が知り合いによう似とるせいで間違えてしもうたわい。」
「………そうですか……。」
何でこの爺さんはこう、絶妙に意味深なラインをガンガン突いて来るのかとこの機会に問い質したくはあるが、そう言えば逆行する前からそんな爺さんだったと思い出して、ヒカルは深く嘆息した。
無駄に意味深で、無駄に鋭い爺さん、それが桑原仁と言う人間なのだ。ヒカルも流石にもう学習している。桑原の事を深く考えても得にならないのは、盤外戦で経験済みだ。
「相変わらず、性格悪い爺さんだな……。」
「何じゃ、見ず知らずじゃないのかのう?」
「……訂正する。地獄耳で、性格悪い、見ず知らずの爺さんだ。早く帰ってくれねえかな……。」
「ヒャーッヒャッヒャッ!! ツレないのう。折角偶然会ったんじゃ、ちっとくらい話に付き合ってくれても良かろうて。」
「……まあ、話くらい良いけどさ。暇だったし。」
それに、何だかんだで世話になった様な気もするし。
性格の悪い爺さんではあるが、ヒカルは桑原の事が決して嫌いではない。逆行する前も後も、何だかんだで世話になっているのも事実だ。暇だったのも嘘ではない。
「でも、話って言われてもな。俺、桑原の爺さんに出来るような話ないけど。ああ、あれなら出来るよ、『饅頭怖い』って奴。」
「それを儂にしてどうするつもりじゃ。分かっとる。お前さんの話を聞きに来た訳じゃないわい。」
「……ふーん。」
実際桑原に『じゃあ話して貰おうか』と言われても困るし、ヒカルもそんな譚をするつもりは全くなかったのだが。
何にせよ、Saiについて聞かれる訳じゃないならそんなに警戒する必要もないだろう。
少なくとも桑原は、この前の約束を破るような男ではない。だからこそ、こんな機会に話をしようと言っている訳であるし……。
「じゃあ、桑原先生が俺に何か話があるって事?」
「ふむ、そうじゃな……。お前さん、この奥で何が行われとるか、知っとるか。」
「………? プロ試験でしょ。ちなみに向こうでは今、ほたるが院生試験受けてるよ。」
「昨日、正開殿が言っとったからのう。知っとるわい。」
「……だろうね。」
でなければ、取材が終わると同時に外にタクシーの一台も止まる筈だ。
ほたるが今、院生試験を受けていると知っているから……ひいては、ヒカルが此所に居ると知っていたからこそ、桑原は此処に居るのだろう。取材も本当の事なのだろうが。
「………で、それが?」
「御主は、興味はないのか。」
「興味って……どっちの話?」
「む?」
「…………。」
(あー、ヤベ。余計な事を言ったな。)
『どっちの話か』なんて、決まりきった事を聞いてしまい、ヒカルは内心溜め息をついた。この爺さんの前での軽口は、あまりいい結果を生まない事は百も承知だったのに。
「なんてね。少なくとも今は……。」
「どちらでも良かろうて。院生試験でも、プロ試験でも、受けたければ好きな方を受ければええ。必要なら儂が推薦してやる。」
「えっ………?」
そして、案の定。ヒカルは何とも言い難い返事を桑原から貰ってしまった。
それに対しての下手な反応は更にド壺にハマるだけだと分かって居ても、ヒカルは桑原のその言葉に、聞き返さざるを得なかった。
「………それ、本気で言ってる?」
「冗談で言っとる様に見えるか?」
「…………。」
少なくとも、桑原は冗談で言っている様には見えない。見えないからこそ、ヒカルは戸惑っていた。
プロ試験なら、言いたい事は分かる。夏休みが始まったばかりの頃は、雅や正開にも何度も言われた覚えがある。
……だが、院生試験を受けるかなどとは、ヒカルには余りに予想外の言葉だった。
「……興味はない、とは言えないけど。受けるつもりは……。」
「そうか。まあ、それならそれでええわい。今更その腕で院生になったら、とんでもない騒ぎになるのは間違いないからのう。カッカッカッ!」
「……分かってんじゃんか。」
「まあ、それはそれで一興ではあったかも知れんがな。受かるか落ちるかは、試験の結果次第じゃろうし。」
「へぇ、俺が落ちると思うの?」
「どうじゃろうな。半々って所じゃろ、院生試験ならばな。お主が自信満々に行った所で、通すかどうかは最終的には試験官じゃよ。その判断が、奴等の仕事じゃて。」
「………そう、かもね。」
そう呟きながら、ヒカルが向けた視線の先では、桑原が相変わらずの表情でお茶を啜っていた。
ヒカルは、桑原が言ったその言葉の意味を、もう一度考えてみる。そして、昔の院生時代の思い出を反芻し……フッと、表情に笑みを浮かべた。
「やっぱり受けないよ。少なくとも院生試験はね。プロ試験は分からないけど。」
「おお、そうかい。ヒャッヒャッ!」
「もしかして、今日ってそれを言いに来たの?」
「まさか。此処に来たのは偶然と言ったじゃろう。取材が偶々今日で、ただ巡り合わせがあればと思っておっただけじゃて。」
「……ふーん、そっか。」
「うむ。」
それも一体何処までが本当で、何処を誤魔化されて居るのか、ヒカルにはサッパリ分からなかったが……まあそれが桑原だからと、ヒカルは内心で苦笑を漏らした。
続けて何となく小言めいた言葉を言う気にもならなかったのは、相手が自分の祖父程も年の離れた桑原だからなのか、それとも……。
「…………。」
「………ずずっ。」
(………まぁ、いっか。)
何にせよ、この話は終わりだ。
後は適当に世間話の種でも提供するかと、ヒカルは手元の雑誌のページをペラペラと捲って見た。時間が余っているのは事実だ。
しかし、ヒカルが口を開く前に桑原は再び思い出した様な口調で話し出した。
「そう言えば御主、何でも平安時代やら、江戸時代やらに興味があるらしいのう。」
「ん、そうだけど。何で知ってるの? また正開さん?」
「うむ、そんな所じゃよ。若い者にしては渋い趣味をしとるとな。」
「……ほっといてよ。良いじゃん、好きなんだから。」
「悪いとは言っとらんじゃろう。それに、正開殿も似たような趣味をしとるからのぅ。知っとるか? 結構な古書を貯め込んでおるよ。」
「ああ、あの蔵の。ほたるに見せて貰ったけど、確かに凄いね、アレ。歴史的価値とかは分からないけど。」
「金持ちの道楽も、彼処まで突き抜ければ立派なもんじゃろう? ヒャッヒャッ!!」
「金持ちの道楽って……桑原の爺さんが言うのかよ……。」
正開と桑原。まあ、金持ちの度合いでは確かに正開の方が上なのかも知れないが、ヒカルからしたら似たり寄ったりの二人である。
そしてあの蔵の資料について、そんな桑原が道楽と言いつつ認めるのも、ヒカルには理解出来ていた。あれだけの資料、金だけで集められる物でもない。
「御主は、あれを見て何か感じたか?」
「何かって? そりゃあ、まあ、凄いなーとは……。」
本当はそれだけではないが、ヒカルはそれ以上は言えなかった。
あの蔵を初めて見た時、外からだったにも関わらず、ヒカルはあの蔵に異質さを感じた。佐為の碁盤にも似た、何となく浮いていて、目が引き寄せられる様な感覚。何となく、彼処に佐為に似た何かを感じた。不思議な感覚だった。
「……んじゃあ、桑原の爺さんは何か感じたの?」
「儂か。儂は……執念を感じた。」
「……執念?」
「何じゃ、感じぬのか? あの蔵を見た時、儂は感じた。肌で、異質さをな。あれは執念……いや、言い様を変えれば正開殿の夢なのじゃろう。」
「夢……。」
執念、夢、そう言われて……何故かヒカルはあの蔵を初めて見た時の不思議な感覚と共に、共に歩んできた佐為の様々な表情を思い出していた。
慈母の様な微笑み、烈火の様なオーラ……そして、神の一手をと言った真っ直ぐな眼差し。
「……あの蔵が、正開さんの……夢。」
「儂は、そう感じとる。」
そう言った桑原の眼には、それを道楽だと嘲る様な色はなかった。表情に笑みを浮かべながらも、真剣だった。
「日舞の世界には、歴史の中で失われてしまった物も多い。芸と言うものは、歴史の中で広く伝わる過程で、新たに生まれ、変化し、廃れる事が当たり前に起こるものじゃ。」
「……取捨選択されて、進化して行くって、そう言う事でしょ?」
「うむ。然れども、そこには確かに情熱があった。人がそれを行った。それに憧れた者や、夢見た者がおった。分かるか?」
「………うん。」
「正開殿は真面目な男なんじゃよ。伝統とは、形あるものだけではないと人一倍知っとる。されども、形ある物を知らねば、人にはよう伝わらん物じゃて。それもまた、よう知っとる。」
「…………うん。」
「あやつは、それが納得できん男なんじゃよ。進藤、御主にはそれが分かるか?」
「分かるよ。」
「そうか………カッカッカッ!!」
「……………。」
桑原が何を伝えたいのかは分からないけれど。何でこんな話をするのかも分からないけれど。ヒカルには、正開の夢……執念とも呼ばれたその想いが理解出来た。だからこそ、誤魔化す事など考えずに心が即答してしまったのかも知れない。
ヒカルは言ってから、考えるより先に反射的に応えた事実に冷や汗が出た。
(……ヤバイなあ。やっぱりこの爺さん、油断ならない。)
「……桑原の爺さんが何でそんな話をするのか何て、今更気にしやしないけどさ。その話を俺にして、どうしたいのさ。」
「どうもせんわい、ただの世間話じゃ。ただのう、進藤。時や流れに任せるだけでは何にも成らん。碁に限らず、生きると言うのは、そう言うものじゃ。時や流れは、連れて来るだけじゃからのう。」
「……連れてくるって、何を?」
「出会いや、別れというものを。ただ、他人と言うのは影響を与えてはくれても、変えてはくれん。最後に自分の道を決めるのは、自分自身と言う事じゃ。」
「…………。」
「碁にしろ、何にしろ。儂らにはこの身がある。自分自身があると言う事は、素晴らしい事じゃて。自分の道を、好きに歩める。」
「……そうだね。」
自分自身がある。この身がある幸せは、ヒカルも強く感じて来た。
佐為はその身を無くしながら千年の時を渡り、ヒカルはその身のまま十年の時を逆行した。失ったものはそれぞれ違えど、自分は今、不幸ではないと思う。
少なくともこの身が在り、何かを成せる。
「なあ、桑原のじ……。」
「儂は今まで好きに生きてきた。これからも、好きに生きるつもりじゃよ。新しい風を、この身に感じて納得するまでは、若いもんにこの座を譲る気はないでのう……ヒャッヒャッ!!」
「……………。」
「好きにやってみい。あんな顔で碁を打つくらいならのう。小僧の内は、尚更じゃ。」
「……小僧に見える?」
「カッカッ!! 小娘でないなら、小僧にしか見えんわい。」
「ははっ……そっか。」
ヒカルの冗談めかした言葉に、桑原はそう言って快活に笑った。
まあ桑原からすれば、十年や二十年程度はどちらにしろ誤差の様なものなのだろう。事実この桑原と言う爺さんは、ヒカルから見ても十年後でも今でも変わらない性格をしているのだから。
ヒカルはそんな事を思いつつ、苦笑混じりの表情で立ち上がると、ロビーの方を見ながら言った。
「タクシー、呼んでくるよ。」
「何じゃ、別にええわい。」
「借り作りたくないし。本因坊、奪いにくくなるからさ。」
「カッカッカッ! そうか、なら呼んで貰おうか。」
「……素直じゃないな。」
呼ばなかったら呼ばなかったで文句を言う癖に、とは言わない。借りを作りたくないのは本当の事だ。
そんな事を考えながらも、ヒカルはチラリと後ろを振り返って、お茶を飲み干す桑原を視界に入れ、呟いた。
「………ありがとう。」
「…………ずずっ。」
「聞こえてる癖に。」
「ヒャッヒャッ!! 何じゃ、儂に言ったのか。独り言かと思ったわい。」
「ははっ、独り言だよ。独り言。」
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