第13局:その対面には
難産回です。情報量が多い割にはワンシーン。海王囲碁部って実際どのくらいのレベルなんすかね……。岸本がアマ3級くらいとして一般人は4~5級くらいでしょうか? 院生だった岸本は2級あるのかな…。
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「んでさ、今の考察を今度の歴史の時間に……。」
「えー……流石に授業中はちょっとなあ、赤点ヤだし。しかも歴史とか最悪じゃん!!」
前の席に座っているクラスメイトの男の提案に、ヒカルは渋い顔をしながら視線を逸らした。
ゴールデンウィークの長期休暇が終わり、再び中学生としての生活が始まったヒカルだが、もう海王中学にも慣れてしまい、すっかり周囲の中学生達に溶け込むことが出来ていた。
「あははっ、進藤君は前回やらかしたからねー。田村先生ってば、『進藤、次の期末にその点数なら、夏休みの存在を歴史にしてやろう!!』って言ってたし。」
「いやー、あれは笑ったな。」
「田村先生って、結構ノリ良いよねっ。進藤君、次も期待してるよ?」
「止めてくれよ……俺は笑えねえ……。」
あはははははっ、と周りがヒカルの黒歴史となった前回のテストの話で爆笑している中、ヒカルは一人憂鬱な顔をしていた。
別に歴史の宿題を忘れた訳でも、次のテストが心配な訳でも……いや、それもちょっとあったが、それだけではない。
「…………。」
「…………うーん。」
「……っ……!?」
(またか、朝から凄い見られてるんだよなあ。やっぱりなんかやっちゃったのかなあ。)
ヒカルがそう考えながら、チラッと窓際の後ろの席に視線を移すと、その視線の発信者……藤原ほたると一瞬眼が合った。
しかし向こうがそれに気付くと、その瞬間にバッと視線を逸らされてしまう。そんなやり取りが、もう朝から何度も繰り返されていた。
『塔矢行洋詰碁集DX』、ほたるの逸らした視線の先には、ヒカルが以前借りようとした例の詰碁集がある。カモフラージュまでされて、完全に監視されている気分だった。
「……どうしたんだお前? さっきから挙動不審だぞ?」
「はあっ、そう言う気分なんだよ。」
「挙動不審になる気分って何よ……。」
(……うーん、接点と言えば司書室で数回会ったくらいだし、ロクに話したこともないしな……。)
ヒカルもまさか、ほたるが自分の姉とヒカルとの関係について、色々な意味で疑っている事など知るよしもない。
取り敢えず、さっきから話しているクラスメイトの二人にも訝しげな表情を向けられているので、ヒカルはあまり目立つ行動は取りたくなかった。
(なんか……こういうの変なところで懐かしいな。昔は良く不審者扱いされたっけ。)
授業中だろうが街中だろうが、遠慮なく騒ぎ立て、目隠しやら何やらでヒカルの周りからの評価を変人へと押し下げた幽霊の事を思い出し、ヒカルはまた溜息をついた。
流石に変人扱いは、もう御免被りたいところである。
「……二度目もそれはなあ。」
「だから、何がだよ……。」
「進藤君って、ちょっと独り言多いよね。」
「え、マジ?」
「マジマジ。」
独り言には慣れている(?)ヒカルだったが、ちょっとその認識も嫌だなあ、なんて考えながら、また視線を感じて意識をほたるへ向けた、その時だった。
「あれ、藤原さんって囲碁やるの?」
「あ、本当だ。それ詰碁でしょ?」
「…………え?」
(あいつらは確か……囲碁部の部員だっけか。)
ヒカルは記憶の中で、ほたるへと話し掛けた男女二人のクラスメイトの事を思い出していた。最初の挨拶の時に、囲碁部に入ると言っていた気がするし、男の方はヒカルにも多少そんな事を話していた筈だ。二人とも名前が出て来ない程度の認識だったが、その部分は覚えている。
その二人が、ほたるの席の後ろ側から、その詰碁の本を覗き込んでいた。
「詰碁かー、懐かしいな。初心者の頃にはよくやったっけ……ちょっと貸してくれよ。」
「あっ……。」
「ちょっと、そんな人が読んでるものを……あ、これ此処でしょ。」
「ああ、俺もそうだと……ってお前だって人の事言えないじゃん……。」
「あははっ、ついつい。ほら、次は?」
「……………。」
(……雅さんも言ってたけど、凄い人見知りだな。一緒に見れば良いのに。)
ゴールデンウィーク中、雅と打ちながらする話は、基本的に碁の話か家族の話だった。
特に雅の話になると、必ずと言っていい程ほたるの話題になり、自然と性格やら、日舞を幼い頃からやっている事、碁を二、三年程前から始めた事などをヒカルは聞いていた。
そして、ほたるがかなり人見知りであり、雅や家族の居ない場所では借りてきた猫の様に大人しくなってしまうと、雅は大変心配していたのだが……。
(確かにあれは、雅さんも心配するわな……。)
「…………はぁ。」
「えっと、次は……。」
ほたるの席の後ろで、すっかり二人で詰碁を始めてしまったクラスメイトを無視しつつ、ほたるは自分の席で次の授業の準備をし始めていた。
ドライと言うか、孤立主義と言うか、雅とは正反対の性格である。私立で周りに知っている人間が居ないのも原因だろうが。
(………まあ、別に本人が良いなら口を出す程でもないか……。)
「………ふうっ…。」
世の中、色々な人が居るものだ。
周りの反感を無視して、大会でたった一局打つ為だけに、囲碁部に殴り込みをかける空気を読めないオカッパ中学生に、
小学生を無理矢理に中学生に仕立てて、中学囲碁の大会に出てしまう将棋部も居るのだ。
だからちょっと人見知りなくらいで、将来を心配していたらキリがないのである。
(まあ、今回はそれもなさそうだけど……。)
ヒカルが昔の事を思い出しながら、ほたるの視線も感じなくなって、再び意識を前に向けようとした……丁度その時だった。
「ふざけんなよ!! 俺がヘボだって言いたいのか!?」
教室に突然、先程の男子生徒の怒号が響いた。騒がしかった教室が、急にシンと静かになる。
ヒカルは、周りと同じ様に男子生徒の方を軽く振り向いた。どうやら、先の女子生徒に対して言ったらしい。原因は……恐らく、あの詰碁集だろう。
「はあっ、あんたが初心者の頃はーなんて言ったんじゃない。こんな初歩的な見落とし……死んだ石の区別も付かないの?」
「別にこれも簡単だなんて言ってないだろ。お前だって、こんな手しか出せないなんて完全に初心者じゃねえかよ。これじゃあ逆に白は全滅、話にならねえよ。」
「なっ……小さい写真だから一目を見間違えただけよ。それならあんたの一つ前の一手だって、こんな悪手、初心者だって手拍子しないわよ!!」
「うっ……俺だってただの数え間違いだ!! お前と一緒にすんなよ!!」
「い、一緒にするなって……あんた何様のつもりよ!!」
(………ケンカ、か。)
どちらが皮切りか、どちらが悪いのか、そんな言葉に混じって、相手を貶めるような言葉が飛び交い始める。
その光景に、ヒカルは呆れを通り越して、疲れすら感じた。
「悪いけど、俺はお前よりは強いぜ?」
「強いって、囲碁部の中じゃ大差ないじゃない。天狗になっても実力は変わらないわよ!?」
(………ったく。)
周りから幼稚だとも言われた、無遠慮で、頑固で、負けず嫌いで……しかし互いに認め合っていた、ライバルとの喧嘩が頭を過る。
もしかしたら、俺達もこう見えていたのかも知れないと、一瞬、昔の事を思い出したヒカルは……しかし、この二人のそれとは違うと思った。
……少なくとも、あいつなら……。
(……塔矢……。)
「……っ……。」
(無理もない、藤原の席の真後ろだもんな。……雅さんにも、気をかけてくれって言われてるし……それだけだ、それだけ。)
ガラッ
ヒカルは、ゆっくりと席を立った。
静まり返った教室で、周りも気にせずに言い争う二人に向かって歩いていく。手には一冊のノートと鉛筆、それだけで充分だ。
ヒカルはそのまま、真後ろの二人の喧嘩に身を固くしているほたるの席も通過して、言い争う二人の前に立った。
「ちょっと、それ貸して。」
「は? 何よいきなり。」
「………進藤?」
「いいから。んで、何処のページ? どんな手を打ったの?」
ヒカルは二人の前でそう言うと同時に、男の方から詰碁集をひったくり、ページをパラパラと捲り始めた。
……なるほど、流石はDXである。本当に良い問題ばかりだ。
「な、なんでいきなり進藤君にそんな事……囲碁部でもないのに。」
「良いから。打つ時は自信あったんだろ? ほら。」
「………問34の、実践形式問題だよ。白を俺が……ここ、マガリに打った。」
ヒカルが急かすと、男子の方が問題を指定し、一点に指を指した。
……確かに、この状況では悠長な手だが……運びは悪くない。
「ふーん………なるほどね、悪くないんじゃない?」
「え?」
「はあ!? 進藤君も碁が分からないの!? そんな場所に打ったら、白のこの石が孤立して死ぬわよ!!」
「そう? なら、黒は何処に打つんだ?」
「そんなの、この白石ハネるに決まってるでしょ。左からよ。」
「ハネね……、なら俺は此処に。」
「えっ………、そ、それなら……。」
ノートを広げ、詰碁の石を簡単に写しながら、ヒカルは女子生徒の一手に更に応手する。
詰碁の本来の役割とは違うかも知れないが、実践形式である為に置かれた別の石を活かし、白を生かす。
「な、何これ。白が生きた……一手足りない筈なのに……。」
「更に言えば、さっきのマガリが効いて、白は左辺で一手先手を取れる。ほら、ここは詰碁に関係ないけど、こっちでも先手を取れるぜ。」
「た、確かに……俺はここまで見えてなかったけど。何だこれ、なんで生きてんだ?」
「じゃあ取り敢えず次は? 何処に打ったの?」
ヒカルは簡単に解説を終えると、直ぐにまた次の手を急かした。今度は女子生徒の方だ。
「……次の問題よ。私は、この黒が見えてなくて……こっちを2間にハサンで……。」
「俺が黒ならここに打って、こっちの白をキる。それでどちらかは取れるだろ? そうなれば、目標のこの黒石は取れない。」
「……なるほど、確かにそれは手数的に取れないな。なら俺は此処だ。」
「捨て石にする気か……? えっと、な、なら此処だ。」
そして再び、今度は男子の手に応手していく。確かに彼の言う黒石はもう取れないだろう。しかし、この問題は規定の数以内に5子取れば良い。
最初に彼女が言ったハサミの一手を活かし、相手の要石を攻める。結果的に、規定数より早くに5子丁度を取れていた。
「こんな手が……でも、これは……。」
「確かに相手の応手含めてだし、詰碁の正解とは言えない。でもこっちで5子取るより早かったし、無視されたら捨て石一つで中央から左辺まで大勝出来るぜ? 詰碁の答えとしては間違いかも知れないけど、ここの攻防より先に、左辺に手をつける判断は間違いとは言えない。感性は悪くないよ。」
「……凄い、こんな風に打てるんだ……。」
「これが検討だよ。お前らだって、やった事あるだろ?」
「「…………。」」
その二人は、呆然と、黒石制圧までの手順が書かれたノートを見たまま黙り込んだ。
先程の手筋を見るに、本当に初心者ではないらしい。海王囲碁部に入るだけの力は持っている。だからこそ、ヒカルの言っている事が分かるのだ。
ヒカルは二人をそのままに、いつの間にか後ろを振り向いて状況を見ていたほたるに、詰碁集を差し出した。
「ほら、お前のだろ?」
「………う、うん。」
「そんで、何処で詰まってんだ? どんな手になったか言ってみな。」
「えっ?」
ヒカルの言葉に、ほたるは驚いて目を見開いた。しかし、直ぐにヒカルから詰碁集を受け取ると、バツが悪そうに視線を逸らして俯いてしまった。
「べ、別に私……それに、詰碁は一人で解くものだもん。私は一人で……。」
「一人でって、お前それ借りたのゴールデンウィーク前だろ? いつまで悩む気だよ。」
「うっ……きょ、今日中に解く筈だったもん……このくらい、自分で解けないと……負けるみたいで嫌だし……。」
「……このくらい、ね……。」
頑固で、負けず嫌いで……碁打ちなんて、皆同じだよなあなんて、ヒカルは昔の自分を思い出す。佐為に教わるのではなく、自分の力だけで解く事に意固地になっていた時代が、ヒカルにもあったから。
「藤原、知ってるか? 碁は一人じゃ打てないんだぜ?」
「……し、知ってるよ、そのくらい。」
「碁は二人で打つんだよ。二人だから強くなれるし、二人だから楽しい。一人だけじゃ碁にならないんだ。」
「…………。」
昔から頭では知っていた筈だけれど、今のヒカルはその意味をより深く知る事が出来ていた。二人で打つから、碁になると言うこと。全力で応えてくれる相手が居るから、こちらも全力で打つ事が出来る。本気の勝負が出来る。誰でも知っている当たり前の事だ。
「でも二人で打つって事は、いつも勝つ方と、負ける方が要るって事だ。負けた方は悔しいし、本気で泣くやつもいる。でも勝つのは、どちらか一人だ。」
ヒカルだって、今まで打ってきて碁の楽しい面ばかりを見てきた訳じゃない。負けて悔しい思いもしたし、実力のなさを恨む事もあった。勝負の世界では、当たり前にある事だ。そしてそれはヒカルだけではない。対局の数だけ、勝者と敗者が存在するのだ。
「分かるか? 負けるやつがいるから、碁が成り立つんだ。だから勝者も、自分に応えてくれる相手への敬意を忘れちゃいけない。そして負けを認める事は、相手の力を認める事でもある。そうして初めて、互いに認め合って、高め合える。二人で打つって事は、そういう事なんだ。」
例えそれが、行きずりの囲碁サロンで子供相手に打つ碁でも。
例えそれが、完全な囲碁の初心者へ打つ指導碁だったとしても。
ヒカルがいつだって碁を楽しい、打ちたいと思えたのは、きっとそんな心と心の間に居たからだ。
「……で、でも、これは本の詰碁だし……相手が居る訳じゃないのに……。」
「詰碁だって碁だぜ。それにそれを書いたのは天下の塔矢行洋四冠だ。実践問題とか見てみろよ。あの人、自分の指導碁の中から出してんだろうな、らしい手や盤面が沢山ある。詰碁の相手は、間違いなく塔矢名人だ。」
「……塔矢、名人……。」
ペラッ
ヒカルがそう言うと、ほたるはゆっくりと本を開いて、最後の方のページを見ている様だった。
ヒカルも先程パラパラと中身を見てみたが、とても面白い盤面ばかりで、行洋が実は自慢したくて書いてるんじゃないかと疑ったくらいだ。
そして、そんな盤面だからこそ、正解の手以外にも面白い手が沢山ある。
昔、佐為に買ってあげた前作もそうだった。佐為はそれを、何度も何度も読んでいた。
「俺にも、塔矢先生がどんな気持ちでそれを書いたのか分かるぜ。見た人が碁を楽しいって思える様に、真剣になって書いてる。初心者でも、上級者でも楽しめる工夫がしてある。相手を見下す様な手は、盤面の何処にもないんだ。」
「…………。」
「そんな相手に向かって、『これくらいは解けないと』、『こいつ程度には勝てないと』、そんな風に言って良いのか? 囲碁で負けたって、別に恥ずかしくも何ともない。そんだけ負けず嫌いなんだ、藤原が打った一手が沢山あるんだろ? その手を誰かと検討して、もっと強くなってから、またいつか挑戦すればいい。皆そうやって強くなるんだ。一人で考え込んでも、強くなんかなれないし……何より、楽しくないだろ?」
「…………そう、だね。」
ずっと視線を本の中に落としていたほたるは、小さく頷いた。
負けず嫌いは悪いことじゃない。諦めない事も悪いことじゃない。時にそれは、何よりも自分を成長させてくれる。
けど、それと負けを認めずに相手を侮り続ける事は違う。ヒカルは直接それを言うことはしなかったが、ほたるには、ちゃんと伝わってくれた様だ。
「お前らもさ、喧嘩する程熱くなれるんだろ? 相手の実力だって、ちゃんと分かってる筈だ。どっちが強いとか弱いとか、そんな事より相手を認めてやれよ。独り善がりに碁を打っても、寂しいだけだぜ?」
「「…………。」」
……こっちの二人も、さっきの話は聞いていた筈だ。別に偉そうに碁打ちの心構えを説教しているつもりは、ヒカルにはない。
本当に碁が好きな者なら、ヒカルが言わずともいつか気付けるものである。
ただ、気付いた時に後悔はして欲しくない。碁を打つ中で、沢山の仲間を得る事が出来たヒカルだからこそ、強くそう思えるのだ。
そしてヒカルが話終えた丁度その頃、時計の針とチャイムが休み時間の終了を告げた。
キーン コーン カーン コーン
「……っと、そろそろ次の授業始まるな。藤原は雅さんとか、爺さんだっけ? とかとも打つんだろ? 俺じゃなくても、ちゃんと検討出来る相手がいるんだ。気が乗ったらやってみろよ、楽しいからさ。」
「……う……うんっ。」
「お前らも、超空気悪くなったんだからな? 授業始まる前に皆に謝っとけよ?」
「……あ、ああ、悪い。」
「……そうね、ごめん。」
「別に俺はいいよ。周りだ、周り。」
正直目立ちたくなかったのに、これだけ注目を浴びた事には文句も言いたくなるが、全て自分でやった事だ。本当にアキラがこの場に居なかった事だけが救いである。
(……ま、仕方ないよな。やっちまったもんは。)
ヒカルは取り敢えず自分の席に戻りながら、囲碁部の勧誘だけは全部無視しようと心に決めたのだった。