「元号」は日本の伝統なのだろうか? もちろん伝統だからといって、何もずっと守り続ける必要はない。でも「伝統」と言われると一応大切にするというか、「保護」するべき対象のようなニュアンスが出てくる。「伝統芸能」とか「伝統工芸」とか。でも、その反面「滅びゆく伝統」「伝統が消えてゆく」というイメージもある。伝統って何だろうか?
その前に「元号」について簡単にまとめておこう。日本にはいくつの元号があったのだろうか? 僕は全然知らないし、日本史の教員でも知ってる人はまずいないだろう。知ってる意味がないから、当然である。調べてみると、231あったということになっている。しかし、これは南朝を正統とした場合で、北朝を入れると247だという話である。天皇が何人いたかという問題と同じで、南北朝時代をどう考えるかで数が変わる。(現在の天皇は125代目とされている。)
天皇の場合は神話的な「天皇」をどう考えるか、また即位したかどうか不明の天皇の扱いなどで人数が変わってくる。元号の場合は、歴史史料が存在する時代なんだから数は正しいと思うかもしれない。でも「最初の元号」とされる「大化」は存在が疑わしい。その後断絶をはさんで「白雉」(はくち)、「朱鳥」(あかみとり、しゅちょう)という元号があったとされるが、これも疑わしい。多くの木簡が出ている時代だが、同時代の文字史料が一つも出て来ない。あったとしても朝廷内部のごく小さな場でしか使われていなかったのは間違いない。
それにしても、701年の「大宝」以後の約1300年間は続いているので、「時間の長さ」を伝統と言うなら、これは紛れもなく伝統である。しかし、当時すでに仏教が日本に伝来していたわけだが、幕末期の国学者は仏教を否定して「神仏分離」を主張した。その考えを当てはめるならば、中国文明を受け入れる前こそが真の日本になるはずで、元号も否定しないとおかしくなる。
多くの日本人からすれば仏教を否定するのは行き過ぎで、明治初年に「廃仏毀釈」があったが、その後もお寺は残り続けてきた。同じようにずっと続いてきた「元号」は伝統と言えるだろうか? そう言えるには、元号が多くの人に使われ人々になじんでいたかどうかを考える必要がある。それがどうも疑わしいのである。江戸時代以前の人々はあまり元号を使わなかったようだ。現代人も江戸以後の元号、「元禄」「享保」「天明」「天保」などの方がなじみ深いんじゃないか。
日本で長く続いてきた「元号」は、明治以後の「一世一元」ではない。改元には朝廷の関与が必要で、江戸時代であっても幕府の一存で改元できたわけではない。でも「同じ天皇の間は同じ元号」というのは、近代以後に創設された制度だ。幕末だけ見ても、ペリーが来た時代の「嘉永」の次が「安政」、続いて「万延」「文久」「元治」「慶応」と続いた。激動期だからこそ、度重なる改元が行われた。中でも「万延」なんて、1860年4月8日から1861年3月29日までと一年もなかった。大江健三郎の「万延元年のフットボール」がなかったら、誰も覚えていないだろう。
「伝統」と思われている中には、近代になって「そのようにあるべきもの」として再構成されたものが多い。そもそも「近代国家」「国民国家」が近代の「発明」なんだから、それ以前にはなかった「伝統」を作って権威化を図るのも当然だ。そういうものを「創られた伝統」と呼ぶ。この概念はイギリスの歴史家エリック・ホブズボームとテレンス・レンジャーによる「創られた伝統」(The Invention of Tradition、1983)で知られるようになった。世界中どこの国家にも、多かれ少なかれ「伝統の発明」(原著の直訳)があるんだろうと思う。
日本の近代で言えば、国家にも誕生日が必要だとして、無理やり創設された「紀元節」(現在の「建国記念の日」)なんかが代表的な「創られた伝統」だろう。もちろん「国歌(君が代)」「国旗(日の丸)」も日本の真の伝統ではなく、近代になって「創られた伝統」である。同じように「一世一元」も天皇の存在を可視化するために本来の伝統的元号制度を換骨奪胎したものと言える。それどころか、「夫婦同姓」や「家制度」なども実は近代になってからの制度だったと思われている。そう考えると、元号制度を日本の伝統とみなすためには、一世一元をやめるべきだろう。
その前に「元号」について簡単にまとめておこう。日本にはいくつの元号があったのだろうか? 僕は全然知らないし、日本史の教員でも知ってる人はまずいないだろう。知ってる意味がないから、当然である。調べてみると、231あったということになっている。しかし、これは南朝を正統とした場合で、北朝を入れると247だという話である。天皇が何人いたかという問題と同じで、南北朝時代をどう考えるかで数が変わる。(現在の天皇は125代目とされている。)
天皇の場合は神話的な「天皇」をどう考えるか、また即位したかどうか不明の天皇の扱いなどで人数が変わってくる。元号の場合は、歴史史料が存在する時代なんだから数は正しいと思うかもしれない。でも「最初の元号」とされる「大化」は存在が疑わしい。その後断絶をはさんで「白雉」(はくち)、「朱鳥」(あかみとり、しゅちょう)という元号があったとされるが、これも疑わしい。多くの木簡が出ている時代だが、同時代の文字史料が一つも出て来ない。あったとしても朝廷内部のごく小さな場でしか使われていなかったのは間違いない。
それにしても、701年の「大宝」以後の約1300年間は続いているので、「時間の長さ」を伝統と言うなら、これは紛れもなく伝統である。しかし、当時すでに仏教が日本に伝来していたわけだが、幕末期の国学者は仏教を否定して「神仏分離」を主張した。その考えを当てはめるならば、中国文明を受け入れる前こそが真の日本になるはずで、元号も否定しないとおかしくなる。
多くの日本人からすれば仏教を否定するのは行き過ぎで、明治初年に「廃仏毀釈」があったが、その後もお寺は残り続けてきた。同じようにずっと続いてきた「元号」は伝統と言えるだろうか? そう言えるには、元号が多くの人に使われ人々になじんでいたかどうかを考える必要がある。それがどうも疑わしいのである。江戸時代以前の人々はあまり元号を使わなかったようだ。現代人も江戸以後の元号、「元禄」「享保」「天明」「天保」などの方がなじみ深いんじゃないか。
日本で長く続いてきた「元号」は、明治以後の「一世一元」ではない。改元には朝廷の関与が必要で、江戸時代であっても幕府の一存で改元できたわけではない。でも「同じ天皇の間は同じ元号」というのは、近代以後に創設された制度だ。幕末だけ見ても、ペリーが来た時代の「嘉永」の次が「安政」、続いて「万延」「文久」「元治」「慶応」と続いた。激動期だからこそ、度重なる改元が行われた。中でも「万延」なんて、1860年4月8日から1861年3月29日までと一年もなかった。大江健三郎の「万延元年のフットボール」がなかったら、誰も覚えていないだろう。
「伝統」と思われている中には、近代になって「そのようにあるべきもの」として再構成されたものが多い。そもそも「近代国家」「国民国家」が近代の「発明」なんだから、それ以前にはなかった「伝統」を作って権威化を図るのも当然だ。そういうものを「創られた伝統」と呼ぶ。この概念はイギリスの歴史家エリック・ホブズボームとテレンス・レンジャーによる「創られた伝統」(The Invention of Tradition、1983)で知られるようになった。世界中どこの国家にも、多かれ少なかれ「伝統の発明」(原著の直訳)があるんだろうと思う。
日本の近代で言えば、国家にも誕生日が必要だとして、無理やり創設された「紀元節」(現在の「建国記念の日」)なんかが代表的な「創られた伝統」だろう。もちろん「国歌(君が代)」「国旗(日の丸)」も日本の真の伝統ではなく、近代になって「創られた伝統」である。同じように「一世一元」も天皇の存在を可視化するために本来の伝統的元号制度を換骨奪胎したものと言える。それどころか、「夫婦同姓」や「家制度」なども実は近代になってからの制度だったと思われている。そう考えると、元号制度を日本の伝統とみなすためには、一世一元をやめるべきだろう。
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