174 黒い月
黒い月が現れてから数日。
南ミドガルド連邦首都モノカンヌスには、不穏な空気が流れていた。
「……報告は以上です」
「ご苦労様」
僕は、執務机の前に座ったまま、部下の報告を聞き終えた。
モノカンヌスの守りを任された僕――アルフレッド・キュレベルは、部下に情報を収集させながら、市民の動揺を鎮めようと四苦八苦している。
集まってくる情報は悪いものばかりだった。
黒い月の出現と同時に、モノカンヌス周辺ので物が増えた。これまで周辺では見られたことのない魔物もいるという。在来の魔物も軒並みその力を増しているという報告もあった。
現在は冒険者ギルドとキュレベル大公軍が協力して魔物の討伐に当っており、これはちゃんと成果を収めてもいる。
いくら魔物が強くなり、種類が増えたとは言え、キュレベル家には僕、ジュリア、ステフを中心とした強力な戦力が揃っている。冒険者や末端の兵士では対処できない魔物が出没すれば、僕かジュリアかステフが出張っていって倒せばいい。防衛のトップである僕があまり軽々しく前線に出るわけにも行かないので、ジュリアかステフに任せることが多い。それ以外の配下の中にもレベルの高い者はいるし、エドガーやアルフェシアさんの開発した魔道具もある。エドガーが助けたというドワーフの姫・ジージャラックさん率いる砲兵隊も、魔物退治に協力してくれていた。
モノカンヌスや、モノカンヌスへ至る街道の守りは万全と言っていいだろう。
問題なのはその他の地方である。
これまではほとんど魔物の出なかった地域に強力な魔物が出現した例もあり、少なからぬ被害が出てもいる。
モノカンヌスからは竜騎士団を出動させ、要撃に当たっているが、魔物の発見から出動までにどうしても時間がかかってしまう。
小さな集落では近隣の大きな街に避難する例も出始めていて、街の住人と避難民の間のトラブルも発生している。
「エドガーの残した報告によれば、月にある魔導戦艦が、転生者キザキ・トオルの情報を復元した存在に奪われそうになっている……ということだったけど」
月に向かったエドガーたちの消息は、いぜんとして不明のままだ。
月が黒く染まった理由もわからない。
状況を説明できそうな始祖エルフのアルフェシアさんも、エドガーと一緒に行方不明だ。
「エドガーが失敗した……にしては、事態の進行が緩やかだ。もし単純にあいつが負けたんだとしたら、今頃世界はセカンダリとやらに支配されている」
僕はうなりながら腕を組む。
「おそらく、戦いはまだ続いているんだ。勝敗はまだ決していない。ただ、エドガーは今劣勢にあって、そのせいで月が黒くなり、魔物が活性化している。西からエルフエレメンタリストと名乗る連中がやってきて、この世の終わりを吹聴しているが……」
今のところ、エルフエレメンタリストたちは市民を説得することに成功していない。
どこから来たかもわからない、怪しい風体の一団だ。いくらこの世の終わりを熱心に説いても、まともに相手にする者はほとんどいない。
もっとも、この先黒い月の影響でさらに魔物が増えるようなことがあったら、彼らの言動に影響される者が出てこないとも限らない。
「黒い月は、大きくなってるんだったね。エドガーから教わった天文の知識からすれば、月が大きくなるなんてことはありえない。だとすれば、あの黒い『月』は、僕たちが普通に呼んでいる月とは別物だ」
黒い月には、クレーターのようなものが見つからず、ただひたすらのっぺりと黒く塗りつぶされているだけだという。
本来の月であるルラヌスは、黒い月の出現と同時に姿を消している。
月に魔導戦艦とやらがあったのだとしたら、月で魔導戦艦が何かを起こして、あの黒い月が出現したということになるだろう。
「いつものことといえばいつものことだけど、あいつは本当に親を心配させる天才だな」
僕は大きくため息をつく。
エドガーはあの黒い月の中にいるのだろうか。
キュレベル家の養女となっているエレミアやアスラも一緒だ。
妖精のメルヴィさん、始祖エルフのアルフェシアさん、さらに報告によれば堕天した女神アトラゼネク様まで一緒だと言う。
「それだけのメンツが揃っていて、敗北したとも考えにくい」
あるいは、僕が考えたくないだけなのだろうか?
ふと、そんな疑いが差し込んでくる。
僕は勢いよく首を振った。
「〈
だとすれば、
「僕にできることは、あいつらが帰ってくる場所を守ることだけだ」
僕はうなずくと、執務机にうず高く積まれた書類の山へと取り掛かる。
各地の防衛に必要な予算、資材、人員……いずれも不足しているはずなのだが、デヴィッドから送られてきた計画は完璧だった。
高等数学を用いて魔物の出現確率を推定し、最適な配置を算出したのだと言う。
その計画に従って、ベルハルトは竜騎士団を伴い、魔物の討伐に明け暮れている。
チェスターも、冒険者としてあちこちを飛び回っているようだ。
つくづく、僕の息子たちは優秀だ。
「エドガー。無事に帰ってこなかったら許さないぞ」
どこにいるともしれない息子にそう言って、僕は書類との格闘に没頭する。
「ジュリア奥様、亜竜の巣があるのは廃村だそうです。今では住む者もいないとのことです」
「やっちゃっていいってことだね~。了解っ。詠唱省略、《
ステフの報告を受け、わたしは広域を焼き尽くす火炎旋風の魔法を放った。
小高い丘の上からは魔物たちのたむろする廃村が見える。
生存者がいるのではと懸念したが、もともと住んでいる人はいなかったということだ。
冒険者時代は切り札としていた《
エドガー君との特訓によって、わたし――ジュリア・キュレベルは、飛躍的に魔法の力を伸ばしている。
《
踊る炎の中で、魔物たちの影が転げ回り、やがて動かなくなっていく。
だが、
「あれぇ? 生き残ったね」
廃村の奥に鎮座する亜竜は、わたしの《
全身が煤けてはいるものの、強固な竜鱗が体内まで焼き尽くされるのを防いだのだろう。
「加減しすぎたかぁ。でも、あんまりやりすぎても地形が変わっちゃうし~」
このあたりは川が近い。
あまり派手な魔法を使うと、地形が変わって川が蛇行したり、川の水源が移動したりするおそれがある。
「任せてください。わたしが片付けてきます」
「だねぇ~。よろしくぅ」
わたしの返事を聞いて、ステフが亜竜めがけて駆け出して行った。
頭にはホワイトブリム、身体にはメイド服。もう大人になったが、いつまでもあどけなさの残る女の子だ。
エドガーくんがここにいれば、「女の子って歳じゃないだろ」などと失礼なことを言うだろう。
(我が子ながら、わかってないなぁ。女の子はいつまでも女の子なんだよぉ)
エドガーくんだって、転生して二度目の人生を送っているというわりには、いかにも男の子らしい性格をしている。
エドガーくんはステフを見ていると庇護欲をくすぐられるようだが、逆にステフの方でも、エドガーくんを見ていると庇護欲を感じるという。
おかしな主従もあったものだ。
わたしが緊張感のないことを考えている間に、ステフは亜竜に肉薄していた。
無骨な大剣の切っ先が地面を削る。
「でやああああっ!」
魔力をまとった大剣が斬り上げられ、亜竜の前脚がざっくりと裂ける。
悲鳴を上げてうずくまった亜竜の首を、ステフの大剣が返す刀で斬り落とす。
ステフの剣には、亜竜の血すらついていない。
ステフは大剣を背中に背負い直すと、行きと同じくらいの勢いでわたしのところに戻ってくる。
「終わりましたぁ」
「ご苦労様ぁ」
わたしとステフはハイタッチを交わす。
ここ数日、わたしとステフはペアを組んで行動している。
強力な魔物が現れたと聞いたら、即座に向かって討伐する。
移動には、エドガーくんとアルフェシアさんの造った試作型のマギ・ジープを使っている。
少々荒れた程度の道なら余裕で踏破できるすぐれものだ。燃料は、わたしがMPを供給すればそれでいい。
「じゃ、次に行こっか」
わたしとステフはジープに乗り込む。
わたしがMPを流してジープを起動する間に、ステフが言った。
「坊ちゃまは大丈夫なんでしょうか……」
もともとステフはエドガーくん専属のメイドである。
連れて行ってあげればよかったのに、エドガーくんはこちらの守りを気にしてステフを残した。
もっとも、今大陸で起きている魔物の大発生を考えれば、エドガーくんの判断は正しかった。
「エドガーくんなら大丈夫だよぉ」
わたしはそう断言する。
「どうして、ですか? あの黒い月を見てると不安になるんです……」
「理由なんてないよ。ただ、わたしはエドガーくんが負けるなんてありえないと思ってる」
それは、心の奥底から来る確信だ。
根拠なんてない。
でも、こういう根拠のない確信ほど、冒険者時代からよく当たる。
わたしはジープを走らせながら言う。
「わたしの勘だとぉ、エドガーくんは今、この世界にいないんじゃないかなぁ」
「えっ……どういうことです?」
ステフが身を乗り出して聞いてくる。
「エドガーくんがこっちにいるんだったら、魔物の大発生みたいなことは起こさせないと思うんだぁ。でも、それが起きてるってことは、エドガーくんはこっちに干渉できないような場所にいて、そこで敵と戦ってる。正確には、戦う準備をしてる。そんな風に思うよ」
「ど、どうしてそんなことが言えるんです?」
「既に戦ってるなら、黒い月にも変化が見られるはずだよぉ。今は徐々に大きくなってるけど、そうじゃなくて、大きくなったり小さくなったりしないとおかしい。だから、エドガーくんは、どこかで小休止の状態にあって、次の戦いに備えてるんだと思うんだぁ」
うん、話していてだんだん整理されてきた。
まったくその通りだと思う。
戦っていれば変化があるはずなんだから、エドガーくんの決戦はこれからなんだ。
「だ、大丈夫なんでしょうか……」
「エドガーくんなら、大丈夫だよ」
不安そうなステフにそう言った。
「誰一人欠けることなく、無事で帰ってくるよ。エドガーくんは、敵と戦うことも、仲間を守ることもよくわかってるから。必ず、成し遂げて帰ってくる」
なぜだろう。わたしには不安が浮かんでこない。
「わたしたちは、わたしたちの仕事をしなくちゃねぇ」
「は、はい、奥様」
わたしとステフを乗せたジープが街道を走っていく。
昼夜問わずに見える黒い月が、街道の前方の空に浮かんでいる。
「ああ、わたしの魔法が届いたらいいのになぁ」
「さすがにそれは無理です、奥様」
ステフが苦笑する。
「でも、エドガーくんが行ってくれたからいいんだぁ。わたしがやるより確実に、エドガーくんはあれをどうにかしてくれる」
ジープががたんと揺れ、言葉を切る。
「子どもを持つって、いいことだねぇ」
「そ、そうなんですか?」
「ステフにはかわいそうなことしちゃってる気もするよぉ。エドガーくんも、嫁の一人や二人、気にせず作っちゃえばいいのにぃ」
「わ、わたしはメイドでいいですよぉ」
ジープでかわす会話は軽い。
モノカンヌスに戻ったら、アルくんはきっと難しい顔で書類とにらめっこしてるんだろうな。
そういうところもかわいいんだけど、もうちょっと力を抜いてもいいと思う。
夜のベッドでは女の子のようにかわいくなるアルくんを、力いっぱい抱きしめたい。
「やっぱ、行き着く先は愛だと思うんだぁ。エドガーくんも、ちゃあんと愛を知ってるからぁ。だから、きっと大丈夫。愛のわからない人には負けないよ」
「で、ですかねぇ……」
よくわからない顔でうなずくステフに、わたしはそっと苦笑した。