169 エゴ・インフレーション
人によってはストレス展開と感じるかもしれません。
気になる方は一週間待ってから次話まで続けて読んでいただければ。
ダッスルヴァインの通路の奥から、重く、低い何者かの声が聞こえてきた。
「な、何だ!?」
俺は思わず声を上げる。
「今のは――」
女神様が眉根を寄せて考え込む。
「どうしたんだ?」
「……今の声は、悪神モヌゴェヌェスのものね。声と言っても実体はなく、精神波のようなものなのだけれど」
『何か聞こえたのですか? 私には何も聞こえませんでした。』
「なるほど、サンシローには聞こえないわけか。って、悪神の『声』だって? 悪神モヌゴェヌェスもここにいるっていうのか?」
「……いた、というべきでしょうね。今の『声』を最後に、悪神の気配が途絶えたわ」
女神様が深刻な顔でそう言った。
「気配が途絶えた? じゃあ、それまで女神様は悪神の気配を感じていたのか?」
「いえ、わたしの今の力ではそこまでのことはわかっていなかった。途絶えて初めて、悪神の気配があったことに気づいたのよ」
女神様の答えに、俺も考える。
「……悪神がここにいたのは、考えてみれば当然だな。奴もダッスルヴァインを封印した当事者だったんだから。封印を解かれたダッスルヴァインが善神側の手に渡ったら、悪神は滅ぼされるのを待つしかなくなってしまう」
「でも、消えたんですよね?」
美凪さんが女神様に問いかけるような視線を向ける。
「ええ。消えたわ。それに、さっきの『声』……悲鳴のように聞こえなかった?」
「悲鳴だって? 悪神が?」
でも、たしかにさっきの重苦しい『声』は、悲鳴のようにも聞こえた。悶え苦しみ、嘆くような『声』だった。
よく見ると、女神様の顔から血の気が引いている。
ダッスルヴァインの薄暗い照明の中でもそれとわかるくらいに。
「まずいわね。ひょっとしたら最悪の事態を迎えているのかもしれないわ」
『ふむ。杵崎亨のセカンダリはアトラゼネクさんの神としての力を奪ったのでしたね。だとしたら、考えられることは……』
「……まさか、セカンダリは悪神の力まで……」
サンシローの冷静な言葉に、美凪さんが絶句している。
俺は全員を振り返って言った。
「――急ごう。手遅れになる前に」
全員が頷き、俺たちはダッスルヴァインの奥を目指す。
ダッスルヴァインの内部には、魔物の姿はなかった。
そもそも、事前に女神様から聞いたのとは違って、内部はダンジョン化していない。
いや、女神様によれば、ダンジョン化が解除されているのだという。
拍子抜けではあったが、進む上では都合がいい。
俺たちはダッスルヴァインの複雑な区画をマッピングしながら進む――などというまどろっこしいことは一切せず、エレミアの持つ聖剣〈
やがて、俺たちはダッスルヴァインの中核へとたどり着く。
艦橋というのだろうか。戦艦を動かすためのコントロールルームのような場所だ。コンソールの並ぶ広い空間は、四方がガラス張りになっている。
艦橋の奥、透明な壁面に据え付けられたコンソールに、一人の男が腰かけていた。
「遅かったですね、エドガー・キュレベル」
白衣をまとった、30代くらいの優男。眼鏡の奥の切れ長の瞳は、冷たい光をたたえている。
俺にとっては、忘れようにも忘れられない相手だ。
(いや、俺だけじゃないな)
艦橋に踏み込んだ俺の後ろで、美凪さんが動揺する気配がした。
「杵崎亨――いや、セカンダリ」
俺は、その男の名を口にする。
男が、にやりと笑い、コンソールから腰を上げた。
「その侮蔑的な呼び名はやめていただきたいですね。私はあらゆる意味で、プライマルを超えた存在なのですから」
瞬間、男の身体から強烈な気配が噴き出した。
「ぐっ……!」
男――セカンダリの放つ波動に、心臓が脈打ち、息が詰まる。
善と悪と。
それぞれ神と呼ばれる者たちが持っていた、対極にある二つの力。
相容れないはずのその力が、目の前にいる男――いや、「存在」の中で溶け合い、ひとつになっている。
畏怖と恐怖が、同時に俺の魂を揺さぶった。
俺はいつのまにか床に膝をついていた。
もちろん、俺の背後にいたみんなも。
そんな俺たちを見て、セカンダリが嗜虐的な笑みを浮かべている。
「く……っ。おまえの目的はなんだ? それだけの力を手にして何がしたい?」
俺はからからに乾いた喉から、なんとか声を絞り出す。
セカンダリは、俺の問いには答えない。
視線を宙に向け、両手を軽く広げながら言った。
「――純粋な悪とは、いかなるものなのでしょうか?」
「……何?」
俺は思わず問い返す。
「善とは、なんとも独りよがりなものだと思いませんか? 生命は他の生命を喰らい、自分の情報をコピーし、増殖する。そのありさまは、まるでウイルスのようです。生命とはかくも醜く、おぞましい存在だ」
「そんなふうに考えるのは、おまえくらいだろうよ」
俺の言葉を無視し、セカンダリが続ける。
「生きとし生けるものを根絶やしにすること。それこそが究極のエゴイズムであり、無私の奉公でもある。悪の極北でありながら、同時に至高の善でもある。私は、悪魔でありながら神でもある。世界を滅ぼし、世界そのものとなることで、世界を救済する存在です」
「……狂ってる」
「私は正気ですよ。私こそが、私だけが正気なのです。狂っているのはあなたがたの方だ。虚無こそ、知性の行き着く結論です。知性を徹底すれば、生というものに何の意味もないことは明らかだ。私ハ狂ッテナドイナイ……」
――クククくくくクククくクク……!
セカンダリの全身から、嘲笑の気配が噴き出し、精神波となって広がっていく。
神を超える存在の放った嘲笑。
俺の中に、死にたくなるほどの恥ずかしさが沸き起こる。
この至高の存在に盾突き、浅薄極まりない反論を試みた稀代の愚か者。
それが俺なのだと、魂の底から納得させられそうになる。
「くそっ」
俺は手のひらに滲んだ冷や汗をぬぐい、セカンダリに目を向ける。
「世界の破局を、特等席で見せてあげますよ、エドガー・キュレベル。プライマルを倒した者よ」
「……なるほど、さっきから俺にこだわってるのはそのせいか。おまえはオリジナルの杵崎亨を意識せずにはいられない。当然、杵崎を倒した俺のことも気になってしかたがない。俺たちが乗り込んでくるまで、悪神を取り込むのを待っていたくらいにな」
「思ったよりも遅いお着きだったので、もしかするとここまで来られないのではないかと思いかけていましたよ」
セカンダリが肩をすくめる。
「エドガー・キュレベル。あなたにはたっぷり絶望してもらいましょう。そのために、世界はごくゆっくりと滅びへと向かいます。あなたは世界を救うために奮闘する。あと少し、自分が努力すれば、世界を救えるのではないか。愚かにもあなたはそう思う。だが、あと一歩のところで、どうしても世界を救うことができない。転生者となって以来救ってきた、数多の守るべき人々を、あなたは少しずつ失っていく。それは、身体が指先から壊死していくような痛みを、あなたの魂にもたらすことでしょう」
「……悪趣味だな。まぎれもなく、おまえはあの連続殺人鬼のコピーだよ」
「くくっ……なんとでも言うがいい。まずは、あなたの背後にいる人たちから始めましょうか? あなたが彼女たちを殺さないでくれと哀願するなら、すくなくとも今しばらくの安全は保証してもいいですがね」
セカンダリの姿が虚空に消える。
直後、俺の背後にセカンダリの気配。
強烈な気配につんのめりそうになりながら、俺はあわてて振り返る。
仲間たちは、みな、セカンダリの気配に当てられて、床に突っ伏して倒れていた。
かろうじて女神様だけが、横向きに倒れながら、目をセカンダリへと向けている。
「さて、あなたの大切な人は、このうちのどなたでしょう?」
「やめ……ろ」
俺の制止をあざ笑い、セカンダリが倒れているアスラに近づく。
「この少女――できそこないのキメラの少女でしょうか?」
セカンダリはアスラをしばらく見下ろしていたが、やがて興味を失ったように目を転じる。
その先は、気を失っている美凪さんだ。
その傍らに、唯一サンシローだけが何事もなく立っている。が、サンシローにはセカンダリの姿が見えていないらしく、事態を把握できていない。
セカンダリはサンシローには興味を示さず、美凪さんの前にしゃがみこむ。
「それとも、こちらの黒髪の少女? おや、どうも私にも見覚えがあるようだ。私が――いえ、プライマルが殺しそびれた獲物ですか。くくっ……エドガー・キュレベル。あなたはプライマルの拾いこぼしを集めるのが趣味なのですか?」
「彼女たちを……侮辱するな」
俺はかろうじてそう言ったが、身体はまるで言うことを聞かない。
セカンダリが決意して彼女たちを殺そうとしても、止める手立てが俺にはない。
「あるいは、こちらのダークエルフがお気に入りですか? 始祖エルフに妖精。ひょっとしたら女神アトラゼネク? やれやれ。よりどりみどりで困りますね」
セカンダリは床に倒れた仲間たちを見下ろし、嘲笑を浮かべながら言った。
俺はただじっとセカンダリを睨む。
いや、睨むことしかできなかった。
「そうですね……ひとまず、今回はお試しです。一人だけ、殺してあげましょう。どなたがいいですか? 特別に、あなたに選ばせてあげますよ」
「ふざ……けるな」
「選ばないのですか? 合理的ではないな。あなたが選ばないのなら、私が選んでしまいますよ? あなた自身で選んだ方が、あなたにとって
「殺人狂の……論理だ」
「殺人狂であろうと、論理は論理です。それとも、彼女たちに、あなたが誰を見捨てたかを知られたくない? あなたの体面を守るためなら、彼女たちの一人をランダムに殺された方がマシというわけですか」
「おまえには……絶対にわからない」
セカンダリを睨みつつ、俺は女神様が動きを見せていることに気づいていた。
俺にアイコンタクトを送り、隙を見て何かをしようとしている。
俺は、絶望の表情を取り繕ってセカンダリに言う。
「だが……くっ。わかった。自分で選ぶ。自分で選んで、その選択を自分で背負う。いや、背負わせてくれ」
「ほう。面白い。いいでしょう。どなたがよろしいので?」
俺はためらう様子を見せてから口を開く。
「……アスラだ」
「くくっ。この哀れな失敗作ですか。あなたも内心では彼女のことを怪物だと思っていたわけだ!」
セカンダリが哄笑する。
(そう思うだろうと思って選んだのさ)
本意ではなくとも、アスラに申し訳なく思う。
無事に生きて帰ったら許してくれるまで抱きしめてやろう。
うつむく俺に、セカンダリが頬を歪める。
そして、アスラの頭のすぐ横に立つ。
「では、殺します」
セカンダリが足を振り上げる。
その瞬間、女神様がコンソールのひとつへと飛びついた。
「――余剰次元相転移システム起動!」
「なっ――」
セカンダリが振り返る。
セカンダリの身体が、ノイズ画像に覆われた。
「これは――」
ノイズの嵐に襲われながら、セカンダリが目を見開く。
「油断したわね、セカンダリ! このダッスルヴァインは神を余剰次元から引きずり出すためのもの! いくらあなたといえど、実体化してしまえば生身の存在にすぎなくなるわ! いったん地上の存在になってしまえば、わたしの最強の使徒であるエドガーなら対抗できる!」
女神様のセリフに、何が起こったのかを理解する。
ダッスルヴァインは、神を滅するための魔導戦艦。
相転移で余剰次元から神を引きずり出して具現化し、具現化した神を強力な主砲で跡形もなく消し飛ばす――そのために造られたものだ。
ここで主砲を使うわけにはいかないが、相転移システムは問題なく使うことができる。
ならば――
(これで決める!)
俺は次元収納から電磁徹甲弾を発射する。
ノイズに覆われたセカンダリの頭部が消滅し、同時に背後の天井に徹甲弾が大穴を開けた。
「やったか!? ――じゃねえよ!」
油断しかけた自分につっこみつつ、セカンダリの足元に滑り込んでアスラを回収する。
そのままセカンダリから距離を取り、
「これも食らっとけ!」
次元収納から数本の聖剣のレプリカを取り出した。
〈
そのレプリカを念動力で飛ばし、セカンダリの全身を刺し貫く。
頭をなくし、身体に剣を生やしたセカンダリが、よろめくように足を踏み出す。
俺と女神様は、セカンダリの様子を固唾を呑んで見守った。
セカンダリはぐらりと倒れ――
踏み出した足で、身体をしっかりと支えた。
次の瞬間、セカンダリの身体に刺さったレプリカが、すべて同時に砕け散った。
「――ハハハハ……」
セカンダリから笑い声が聞こえる。
もちろん頭などなく――口があろうはずもない。
相転移で肉ある存在に変えられたセカンダリの身体は、既に致命傷を負っているはずだった。
だが、セカンダリは現に生きている。
セカンダリは、頭のない身体のどこからか声を出す。
「こうもうまくいくとは……女神よ、あなたにはいくら感謝してもしたりない」
「なんですって……」
セカンダリの肩がぼこりと膨らむ。
膨らんだ肉腫は真ん中から裂け、血液を撒き散らしながら、セカンダリの頭が生えてくる。
血まみれの顔で、セカンダリが笑う。
「神を取り込んだとはいえ、私は情報だけの存在です。神を滅ぼす機能を持つとはいえ、あくまでも物質であるダッスルヴァインを起動することは不可能でした。善神と悪神の手になる封印を解くことまではできても、相転移システムには手が出せなかったのです。エルフエレメンタリストだけでは、起動のための魔力が足りませんでしたしね」
「まさか……」
女神様がよろめいた。
「そう。すべてはこのため。エドガー・キュレベルを挑発したことも含めて、です。神を超えた存在である私が、神に近しい力を保持したまま受肉する方法はこれしかなかった」
「相転移システムをわざと使わせたっていうのか!」
アスラを抱きかかえたままで、俺は叫ぶ。
もちろん、叫ぶだけじゃない。
電磁徹甲弾を放つ。
超音速で目標を貫くはずの電磁徹甲弾は、セカンダリがいつのまにか掲げた左手によって止められていた。
「全知全能にして無知無能。それが神という存在の宿命です。しかし、全知全能から少しだけ力を失えばどうなるか? 全知全能が無限の力であるならば、それは無限から小さな力を取り除いた剰余となる。ですが、それは限りなく無限に近い剰余でもあるのです。尽きせぬことが無限なら、尽きぬものからわずかな力を奪ったところで、残される剰余は実質的には無限に等しいというわけです」
セカンダリが肩をすくめる。
「さて、私の目的は果たせました。ここからは、身も蓋もないショーになります。私は無限の手前ギリギリまで膨張し、ありとあらゆるものを呑み込んで滅ぼす。世界は私を除いて消滅する。かくして、私の
「くっ……そんなことに何の意味がある!」
「意味などありませんよ。しかし、生きていることにも意味はない。意味がないならば、徹底して無意味であるべきだ。世界などというものが存在していること自体が、許しがたい混乱だ。ちょうど、私が存在しているのと同じように」
電磁徹甲弾を放つ。
今度は受け止められもしない。
セカンダリの一瞥で徹甲弾は虚空へと消え去った。
「さあ、インフレーションを始めましょう。この瞬間が世界の終わりであり、新しい秩序の始まりだ――」
セカンダリの身体が白く輝く。
輝きは、一瞬にして俺たちを包み込む。
俺の鍛え上げたスキルですら反応できない極小の時間で、身も蓋もなく、すべてがセカンダリに呑み込まれる。
いや――呑み込まれようとした。
その直前、俺の意識と身体が何者かにさらわれた。
俺は一瞬後、見慣れぬ場所にいた。
雰囲気だけは、さっきまでいたダッスルヴァインの艦橋に似ている。
四方がガラスに覆われた、ただっぴろい空間だ。
ただし、あっちが灰色に塗り込められていたのに対し、この場所にはごちゃごちゃと雑多にものが置かれていた。
ツタンカーメンのような黄金のマスク。吸血鬼でも入っていそうな寝棺。金色の装飾過多な燭台。フラスコとビーカー。球体関節人形。バオバブの植木。朱色の鳥居。ドリームキャッチャー。UFOの模型と、連行されるグレイの白黒写真。とにかく、いかがわしげなものが、所狭しと散らばっている。
その真ん中で、十歳くらいの女の子が腕を組んでいた。
ボサボサの長い赤髪と、真っ黒な眼帯が特徴的な少女だ。襟や袖に古代魔法文字が書かれた白衣をまとい、その下には軍服風の黒い上着と、チェックのプリーツスカートを着けている。足はなぜか裸足である。
「ふふん。危ないところだったな、アトラゼネク」
少女が胸をそらし、傲慢な口調で言い放つ。
少女の言葉は、俺の背後に投げかけられていた。
振り返ると、そこにはみんな――女神様、エレミア、アスラ、メルヴィ、アルフェシアさん、美凪さん、サンシローが立っていた。女神様とサンシロー以外も、意識を取り戻し、驚きに口を開けている。
状況がわからないで俺が絶句している間に、女神様、アルフェシアさん、美凪さんが口を揃えて言った。
「アッティエラ!」
「魔法神アッティエラ!」
「アッティエラさん!」