65:変化はすぐそばに
メイネットを見送ったあと、私は騎士の一人に国王への渡りをつけに行ってもらい、他の騎士を連れてアートの執務室へ向かった。
謁見の間で陛下から本日中に城を出るよう言い渡されていたのに、メイネットの執務室に来た聖女は旅に不釣合いな綺麗なドレス姿で出国するための準備をしていないことは一目瞭然だった。それに彼女は城内を自由に行動しているようだった。メイネット達もロベルトのようにおかしくなっていたのに、聖女の暗殺は実行されていなかった。暗殺を命じられていた暗部にも何かあったと考えるべきだろう。
私につけられている暗部は、聖女が私に接触した際に私を守ろうとする反応が伺えた。そのため、まだ彼らは正常な判断ができることが分かった。彼らには陛下へ今の現状を正確な情報としてお渡しできるよう、私を守るために表へ出てくることを止めた。聖女がどのようにしてメイネット達を変えたのか分からない今、迂闊に彼女の前に出てくることは避けてほしかったからだ。
アートと約束したことは忘れていない。暗部に頼らなくても、あの執務室内から無事逃げ出すことは可能だったと判断しての指示だ。
陛下への渡りをつけている間にアートにもこのことを報告しないといけないと先を急いだ。しかし、アートの執務室内はクラウスしかいなかった。そのクラウスも何か慌てていたようで、私を見て苦しそうな顔をした。
嫌な予感がした。
クラウスの顔を見て、最悪の予想が頭に浮かんできた。
そんなはずないと思いたいのに、クラウスの言葉を聞きたくないと思うのに……クラウスが口を開くのを止められなかった。
「ハァハァ、シェリー嬢……殿下が…狂いました」
「…狂った?」
クラウスは執務室からしか入ることができない休憩室への扉を背中で抑えながら話し始める。いつもピシッとしているクラウスの服装は誰かと争ったかのように乱れ、息も絶え絶えで辛そうだ。しかし、クラウスへの心配をするより、クラウスの言葉が気になり、聞き返してしまう。多分、クラウスの言葉を認めたくないという気持ちもあったのだろう。
「ロベルトと同じ状況と言いたいところですが、まだ完全に染まってはいないようです」
「どういうこ……」
──── ドンッ!! ガチャッガチャッガチャッ
クラウスの完全に染まっていないの意味が分からず、聞き返していた時に『ドンッ‼』と扉を叩く大きな音がした。そのあと、ガチャッガチャッガチャッと扉のノブを無理やり動かして開けようとしている音が響く。
「クッ! もう起きたんですか⁉ 殿下落ち着いてくださいッ。落ち着いて頂けなければここから出すことはできません」
「……落ち着いてるだろ? 何を言っているんだ。早く開けろ」
クラウスの声に反応するように扉を開けようとする音は止まり、ホッと息を着いたのも束の間、扉の向こう側から聞こえてきた声があまりにも平坦で冷たくて、アートの声と分かってもゾッとした。
「つッ‼ …アート?」
「シェル? いや、誰だ? シェルって誰だ? シェリーは私の婚約者。いや、私の婚約者はジェイみぃ、、うぇ、ぐッ。違うッ‼ あんな女じゃないっ! クラウスっ‼ カギ閉めろ! 私をここに閉じ込めておけ、絶対に出すなっ‼ まだ落ち着かんっ!」
「かしこまりました。今、宮廷魔法師を呼んでいます。お気を確かにッ‼」
クラウスは、扉に鍵をかけると苦しそうな顔をして私を見た。あまりに真剣な顔に口を開けず、クラウスに促されるまま執務室のソファに座った。
目の前に優しい香りの紅茶を置かれ、その香りにホッと息をつき体の強張りが溶けた。知らぬ間に体が強張っていたようだ。
「クラウス様。アートは、アーサー殿下に何があったのですか?」
「貴方と会った後の殿下に付き添いロベルト達の状況を確認しに行きました。ロベルト達に変化はなく、いまだにあのバカ女を聖女と宣い崇めていましたよ。その後、執務室へ戻っていた道中にいきなり奴が殿下の行き手に現れて、近づいてきたんです。殿下を守るはずの近衛たちは奴に言われるがまま道を開けてしまって、殿下に近づけてしまったんです。奴が殿下に声をかけてから殿下の様子もおかしくなり、アイザックが殿下を守るために前に出た隙をつき、無理やり腕を引っ張りながら執務室へ避難したのです。しかし、執務室から出ていこうとしたので、無理やりあそこへ閉じ込めました。抵抗しているときの言動からロベルト達のように染まり切っていないことが伺えましたので、シェリー嬢にはそのようにお伝えしたのです」
クラウスは自身のお茶も入れて、私の体面に座ると少し項垂れながら今回の経緯を説明してくれた。内容に恐怖が募りそうだったが、顔に出さないようにして話を聞き終えた。今この場にアイザックがいないということは彼もロベルト達と同じような状態になっているのだろうことは容易に想像ができた。それでも、少しの希望を持って聞いてみた。
「……そうだったの。アイザック様がここに戻られていないってことは…」
「アイザックは殿下を守るため殿下の前に立ち奴と対面し抵抗しましたから……たぶんロベルト達と同じように」
「そうですか。クラウス様、的確に判断し殿下をお守りくださり、ありがとう存じます」
「王太子妃ともなろう方が、簡単に頭を下げてはいけません。それに、殿下の側近として当然の行動をしたまでです。アイザックも同じです」
クラウスは側近として当然と言うが、話を聞くだけで恐怖が募る事柄の当事者であったのだ。殿下を置いて逃げてしまうこともできたのに、その方が聖女に捕まる可能性が低くなるのに、必死に殿下を連れてここまで逃げてきてくれたのだ。アイザックに至っては、本当に自身を身代わりに殿下を助けてくださった。これほどの忠心を知り、頭が自然と下がった。ここで頭を下げることができない者が王太子妃などという、国を支える立場に立てるはずもない。
クラウスの話を聞いても聖女がどのように他人の意識を操っているのか分からなかった。ただ、彼女と会うこと、声を聴くことが起点となっているように感じられた。クラウスも同意見だったようだ。
そう考えるとおかしな点がある。私は聖女と対面し声も聴いている。そして、彼女からお願いという命令も言い渡されている。なのに……何の変化もなかった。
私に変化がなかったのは自身が気づいていないだけではないかと思い、クラウスに確認するも「いつもと同じですよ。今、関わっている間も変なところはありません」と言われて少し安心した。
そうなると、原因は分からないが聖女の力は私には及ばないようだ。これも陛下に憶測であることも伝えつつ報告が必要だと判断した。
アートの執務室で陛下への謁見許可を待っていると、陛下へ遣いに出していた騎士が戻ってきた。
騎士が言うには、現在聖女は城下層部を出入りしているとの情報が入っているため、陛下の執務室まで下層を通らず来るようお達しがあったとのことだった。
クラウスにアートのことを任せ、私は陛下の執務室に来ていた。
執務室内には他の大臣の方々もおり、皆一様に暗く難しそうな顔をしていた。話している内容をさり気なく収集したところ、既に何人かの貴族たちが聖女の下についてしまったようだ。そして、暗殺を命じられていた暗部の者も聖女によってすでに狂わされていた他の暗部の者に邪魔をされ、捕まり聖女の元で狂わされて下ってしまっていた。
そんな中、私がもたらした情報は大臣達に希望をもたらし、そして絶望をもたらした。王太子のアーサーが聖女の手にかかり、その精神が侵されてきているという情報は、それほど彼らに絶望を与えた。
城内は、聖女という名の得体の知れない少女によって狂わされてきている。今は、城内の下層部分だが徐々に上層部分に侵食してくることは明白で、時間の問題だった。
聖女ただ一人の固有能力だとしても、どれだけの人を狂わせられるのか、どのようにしてその能力を使っているのか、能力の実態は何も分からないままだった。クラウス達が必死に掴んだ、聖女に認識されて声をかけられることが能力の発動条件かもしれないということは憶測にすぎず、迂闊に動くことはできなかった。
それでも、陛下たちは聖女の殺害を決めた。
彼女をこのままにしていたら、この城内だけでなく、この国そのものが狂っていくことが目に見えていた。この国が滅亡したら、人以外の国々が帝国によって蹂躙されるだろう。
聖女が民達をそれも他種族のことを考え行動などしないだろう。彼女を少し話しただけだが、彼女は自身の幸せ、自身の欲を満たすことしか考えていない。そんな人が他の人達を考えて行動するようなことはないだろう。
帝国が自身の欲を害さえしなければ、簡単に帝国の暴挙を擁護して世界を壊す手助けをするだろう。そうなればこの世は地獄と化す。
そう予想できてしまうから、陛下たちはこの国を、民を、世界を守るため、聖女を殺すことを決めた。
しかし、現状はあまり良くない状況だった。
城内の下層部にいた者達は、ほぼ聖女の手先となっており、暗部の何人かもそこに加わっている。そして、その者たちを使って行動範囲を広げ、手先を着実に増やしていっているのだ。
陛下は苦しそうな顔をして私を見て口を開いた。
「シェリー嬢。聖女を語るあの者の術にかからなかった其方を見込んで頼みがある。令嬢たちを逃がしてほしい」
「陛下! なぜ一番危険なことをシェリーに頼むのですかッ!」
「陛下、承りました。お父様、私は大丈夫です。今は一刻も早く彼女達を逃がさなければ、彼女たちが危険です」
陛下の執務室内に積まれている書類を軽く目を走らせ、話し合いをしている方々の話を聞き、分かったことがあった。
聖女は、綺麗に着飾った美しい令嬢に自死や顔の一部を壊すことを強請ったそうだ。そのあと、自身の手下の兵達に下げ渡そうとしたそうだ。……褒美として。聖女に強請られた令嬢たちは皆喜んで身を壊し、兵に奉げたそうだ。
彼女たちは、貴族として、そして自身の家のために美と知を極めるのだ。いろいろなことを我慢して、それこそ血が滲むような努力を重ね、自身のパートナーを支えるため、家を守るため、そして国を守るために淑女として恥にならないよう、どんなに辛くても微笑みを讃えて毅然として立つのだ。
そんな彼女達を玩具や性奴隷のように扱うなど許されることではない。
今は聖女に侵されて精神がおかしくなっているが、もし正常に戻った時の彼女達を思うと心が痛い。
私なら城の隠し通路を把握しているし、彼女達をうまく逃がせると判断しての命令だろう。
令嬢のいる場所は大体把握しているが、令嬢たちに接触するためには城内を移動することが必要不可欠だ。移動範囲が広ろがれば、それだけ聖女と遭遇する確率も高くなる。
聖女だけならどうにかできるが、彼女を守っている兵達を振り切ることは至難の業だ。先程は、自身の能力が及ばない私に驚いて咄嗟に逃げてしまったようだが、次はそうはいかないだろう。
だからこそお父様は、非礼を承知で陛下に意見してくれたのだ。しかし、私はお父様の娘の前に王太子の婚約者で次期王太子妃だ。国のため、民のために行動することが優先される。
陛下も本当の娘のように可愛がってくださっていた私に、このような命を出すのが辛いのだろう。常時不敵な笑みを絶やさない陛下の口が少し噛みしめて歪んでしまっている。しかし、王として国を存続するために的確な判断をしなくてはいけない。
今現在も聖女の手に落ちている者が増えており、正常な思考を持つ限られた者達で聖女の殺害を決行する必要だあるのだ。だから他のことに人員を割くことが難しい。そこで私だ。聖女の能力が及ばない可能性がある私は城の隠し通路を把握しており、令嬢たちを比較的安全に逃がすことができ、令嬢たちを同性として安心させることもできる。これほど適した人材はいないだろう。
陛下の苦しみを理解しているからこそ、私は美しく微笑み、カーテシーをして了承した。
陛下たちが聖女殺害について話し合い、策を詰めている間に私は執務室を後にして令嬢たちを逃がすため動き出した。必死に国を守ろうと話し合っている彼らの大切な妻や娘達もいる。彼らの精神的負担を減らすためにも、彼女達を早急に城から逃がす必要がある。お父様の負担は大きくなりそうだが、そこは王族と婚約を結んだせいなのだから我慢していただこう。
陛下やお父様達が護衛を何人かつけようとしてくれたが、聖女に遭遇した時に敵になる可能性が高いので遠慮した。それならと暗部を何人かつけられたようだ。
城を移動して気づいたのだが、魔法師の方々が城の通路を魔法で塞ぎ、聖女の侵入を拒んでくれているようで、比較的安全に移動ができた。しかし、聖女側に落ちた魔法師の方々もいるようで中層部らへんから魔法での攻防による爆発音が聞こえてきていた。
令嬢たちが集めるサロンや誰でも入れる空中庭園、休憩室などを回り、城に入城していた令嬢や奥様方、その付き添いのメイドや侍従を連れて隠し通路を通り城の敷地外へ逃がすことができた。城には結界が張っており、魔法での攻防で起きていた爆発音も一部崩れた壁も聞こえず見えなかった。
そのため王都の住民たちはいつも通りの生活を送っているようだった。
私は逃がした奥さまや令嬢たちに帝国が攻めてこられないよう、国境付近の領の結束を固めるよう働きかけを願った。奥様達は国境付近だけでなく東と西の領の者達に繋がりをつけて、護りを固めると意気込んで動き出してくれた。
私は城に戻り、執務室へ向かった。執務室に入れば、先ほどより人数が減っていたが、いまだに話し合いは続いているようだ。
皆の視線を感じながら、陛下の元へ行き報告を上げた。
「陛下、無事に令嬢たち城外へ逃がしました。奥様方も一緒です。皆さん、我が国を守るため領間のつながりを強めに動き出してくださいました」
「そうか、ご苦労だったな」
「いえ、聖女の能力に染まっていない方々しか逃がすことはできませんでした」
「よい。染まってしまった者を元に戻す方法は分かっていない今は手が出せん。少し休んできなさい」
「大丈夫です。今は人手が足りませんでしょう?」
「なら、アーサー達の様子を見てきてくれ」
「…はい。行って参ります」
陛下たちは私の報告にホッとしたのが見て取れた。彼らの肩の荷が少しだけ下ろせたようだ。陛下から労いを頂き、休むよう言ってくださったが、私より疲れているはずの陛下たちを置いて、休むなどできなかった。そんな私の言葉に苦笑しながら、私の心を覗き込んだようにアートの元へ行くよう促してくれた。
ずっとアートの身を案じていることを見透かされていたようだ。少し恥ずかしかったが、ここにいても邪魔にしかならないのでサッサと退室してアートの執務室へ向かった。
アートの執務室の扉が僅かに開いていて嫌な予感がした。暗部の者に目配せだけで陛下へ情報を送ってもらった。ゆっくり扉を開けて中に入ると、いつもの椅子に座ったアートとその周りに側近のクラウス、アイザック、ロベルトが控えるように立っていた。
皆動くことなく、まるで人形の様で怖かった。アートも背もたれに体を預けて足を組み、ひじ掛けに片肘を置きその手で顔を支えている。私が入室してもなお動くことがなく、視線も向けられなかった。
「アート? 外に出て大丈夫なの? それにロベルト様も…」
「……君は誰だ?」
「……つッ」
誰も声を発せず、動きも見られず、恐怖を感じたが、アートを心配する気持ちが勝ち声をかけた。
私の声に反応するように緩慢に顔を上げたアートの言葉に息をのんだ。アートの目は無機質でいつも私に向けられていた優しく温かな色も熱もは見られなかった。
あまりのことに唖然としてしまった私は、後ろから人が近づいてきていることに気づかなかった。
「こんにちは。お前の場所はもうないよ。ここはもともとジェイミーのものだったんだからさぁ、偽物はサッサと出て行ってね」
私の後ろからヒョコっと顔を出した聖女が嗤いながら私に告げた。
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