「わきまえる」とは何か
森喜朗・元東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の発言から1ヵ月余りが経ったが、あの発言によって日本のジェンダーギャップの実態や構造や背景が次々と明らかになって、議論は沈静化するどころか広がっている。
中でも今回得心がいったのが、日本の企業や組織で働いている女性には大きく分けて2種類いるということ、つまり「わきまえる女」と「わきまえない女」がいるということだ。森氏の「わきまえる」発言で、「そうかー、あの何とも言えない圧力は『わきまえろ』ということだったのね」と胸にストンと落ちた女性たちは多かったのではないだろうか。
そしてこの森発言の余波が収まらないのは、その後に起きたさまざまなこと、例えば森氏の後任をめぐる選考過程、選択的夫婦別姓制度をめぐっての女性議員の反応、全く別事件だけど総務省の接待疑惑…などで「わきまえた」女たちのサンプルを見せつけられたからだ。
「わきまえる」体験は、同調圧力の強い日本の組織で働く人であれば、男女限らずあるだろう。私だって、もちろんある。会議で「発言しないように」と言われて、その後発言をやめたこともある(「森会長だけじゃない…『会議は発言する場じゃない』と言われてきた現実」の記事に詳しい)。
それ以前も「おかしいな」「ちょっと違うな」と思っても意見を飲み込んだことなんて、数えきれないくらいある。そのときも気持ちは、ひと言で言えば「保身」だ。この会社で、この組織で「面倒臭い女」と思われたくない、その想いがわきまえさせてしまう。
「わきまえる女」と「わきまえない女」は綺麗に分かれた2種類の人間というより、時と場合によって2つを行き来したり、どちらかが極端に出たり、「わきまえた」側から「わきまえない」側に移行したりするものだと思う。
そう思うのも私自身、ある時から「わきまえる」ことは決して自分一人の問題でなく、周囲に与える影響が大きい、もっと言えば「罪深い」と感じるようになり、徐々にわきまえることを辞めたからだ。特に後輩世代の女性たちに与える影響が大きいと感じるようになったのだ。
改めて「わきまえること」の罪について考えてみたいと思う。
「女はわきまえるもの」という考えを固定化する
まさに森氏は、「組織委員会に女性は7人くらいおりますが、皆さん、わきまえておられて」と発言したわけだが、女性がわきまえて発言を慎めば、ただでさえ年長者が持っている「女性というものは男性より、一歩引いているもの」というステレオタイプな考えをより強固にしてしまう。
もともと年功序列的な日本の組織では女性だけでなく、男性の若手に対しても「わきまえろ」的空気は蔓延していて、発言するのはなかなか勇気のいることだ。
森氏はラグビー協会の女性理事たちが積極的に発言していることを「女性は会議での発言が長い」と批判したが、そうした場面、女性たちに出会ったことがなかったのだろう。出会わなければ、考え方は変わらない。つまりいつまでも発言を慎んでいたら、女性というものは発言しないものという固定観念を強固にする方に加担してしまうのだ。