新劇場版ヱヴァンゲリヲン破 感想考察 エヴァンゲリオン 日本仏教 憲法9条 内田樹苫米地英人

Evangelion 2.22 You Can (Not) Advance を観ました。

感想を書きたいと思います。

ちなみにエヴァンゲリオンの考察はこちらのサイトがすこぶる秀逸です。
EVANGELION(新世紀エヴァンゲリオンについての考察、謎解き、解釈)
#新劇場版についてはこちら

(正直なところ、私のエヴァンゲリオン論はほぼ、こちらのサイトの考察をそのまま採用させていただいています。。)
ここでは、こちらのサイトでの考察を踏まえて感想を書きたいと思います。

まず、多くの人が指摘している通りなのですが、今回の新エヴァは、どこか破滅的で、病的ですらあった旧エヴァと比べて、王道ロボットアニメ的にリビルド(再構築)されていました。

というよりも、私の新エヴァを観た感想は今述べた、「新エヴァは破滅的で、病的ですらあった旧エヴァと比べて、王道ロボットアニメ的にリビルド(再構築)されていました」という、感想に尽くされると思います。

そのように考えていることの主な根拠には、以下のようなものが挙げられます。

・結婚を経ることによって、監督庵野秀明氏が旧エヴァ当時に比べて、人格的に調和したであろうこと
・新エヴァのターゲットは中高生であること 
※上述のサイトのこちらのページをご参照ください
・あえて完全新作ではなく、旧作のリビルドであること

また、その証拠として新エヴァにおける象徴的な台詞や設定などをあげましょう。

<台詞>
・レイ「貴方にはエヴァに乗らない幸せがある」 >アスカ
・レイ「ぽかぽかする」
・シンジ「綾波は綾波しかいない。だから今、助ける!」
・カヲル「今度こそ、君だけは幸せにしてみせる。」 >シンジ
<設定>
・「真希波・マリ・イラストリアス」という新キャラ
・第3新東京市で生活する人々の姿の描写
<その他>
・ローソンやUCC上島珈琲との提携

順番に、みていきたいのですが、分析の前提として、
「『エヴァ』の登場人物は、基本的に原作者である庵野の分身として描かれている」
ウィキペディアの「新世紀エヴァンゲリオンの登場人物」より
つまり、庵野氏がキャラクター達に語らせているセリフは、意識的、あるいは無意識的な、庵野氏自身のセリフであると仮定します。

それでは、まず、レイの台詞 「貴方にはエヴァに乗らない幸せがある」 についてですが、
レイというキャラクターを借りて庵野氏がこの台詞を語った時に、庵野氏が「エヴァ以外の幸せ」として想像していたのはずばり、「家庭」だと思います。
つまり、「あなた/私にあるのはエヴァンゲリオンだけではない」、周りをよく見てご覧。ほら、家族がいるし、そうじゃなかったとしても、きっと誰かいるはずだ。例えば、そう、私には今は家庭があるし、今思えば、一人だとおもっていた当時(旧エヴァ当時)だって、僕の周りには誰かがいた。…的な。

そして、レイの「ぽかぽか」発言も、これに該当します。
…ところで、そもそも「レイとは何か」/「レイの正体」についてですが、
レイはシンジの母親であるユイとリリス(orアダム)の遺伝子をかけ合わせることで生まれた子どもです(つまり、シンジの異父姉妹です)。

肉体はユイのクローンと考えられているが、『スキゾ・パラノ』によると、厳密には「肉体はユイとアダムの遺伝子を半分ずつ受け継いでいる肉体」だと言われている
wikipedia > 新世紀エヴァンゲリオン > 新世紀エヴァンゲリオンの登場人物 > 綾波レイ


ヒト-ヒトにより、シンジ。ヒト-アダムによりカヲル。ヒトーリリスによりレイです。ユイを基準にして、様々な結合が実験されたことがわかります。
(上述のサイトのこちらのページより)

つまり、レイがシンジのことを考えると「ぽかぽかする」といったのは、ずばり、庵野監督が家族に感じる心情として、同じく、「ぽかぽかする」と感じていたということでしょう

次に、シンジの最強の使徒ゼルエルとの戦いでのセリフ 「綾波は綾波しかいない。だから今、助ける!」 ですが、これは、旧エヴァでの同じゼルエルとの戦いでのレイのセリフ「私が死んでも代わりはいるもの」と比較してみると庵野監督の心情の変化がよくわかると思います。
 つまり、旧エヴァでは、「私が死んでも代わりはいるもの」と「自分が死んでも、代わりはいるし、余人をもって代えがたい自分だけの価値なんて存在しないんだ。」と語っていた監督が、新エヴァでは、なんと「綾波は綾波しかいない。だから今、助ける!」=「私/あなたは私/あなたしかいないんだ。私/あなたの代わりは誰にもできない!」と自らの余人を持って代えがたいオリジナルな価値について、肯定的な発言をしているのです。

そして、カヲルのセリフ 「今度こそ、君だけは幸せにしてみせる。」 は、旧エヴァで成就することができなかった、王道アニメ的なハッピーエンドのことを意味していると思われます。
「今度こそ、君(=エヴァンゲリオンという作品)だけは幸せにしてみせる」、「前作で果たせなかった王道ロボットアニメ路線を今度こそは果たしますよ」という意味だと思います。(ループやパラレルワールドを示唆しているというよりは)
※ループ説、スパイラル説、リンク説、及びパラレルワールド説などの議論についてこちら

そして次に、「真希波・マリ・イラストリアス」についてですが、ウィキペディアの「新世紀エヴァンゲリオンの登場人物」には次のようにあります。
『エヴァ』の登場人物は、基本的に原作者である庵野の分身として描かれているが、マリの設定や声優選出に庵野は直接的に関わらず、貞本義行と鶴巻和哉が構築したキャラクターになっている。これは前述した庵野の分身である登場人物達の中で、マリが作品に影響を与える異質な感覚の存在として際立たせる意味合いも含まれたため。

つまり、「真希波・マリ・イラストリアス」とは、ずばり旧エヴァに欠けていた「庵野監督の周りの他者」なのです。
※真希波・マリ・イラストリアスについての詳しい考察はこちらに書きました
そして、「第3新東京市で生活する人々の姿の描写」や「ローソンやUCC上島珈琲との提携」もこれに該当すると思います。


簡単にいうと、新エヴァの製作動機は、「今考えてみれば、あの時はこうしておけばよかったんだよな」という、かつてはかなわなかった、監督自身の感情を整理することにあるのだと思います。

実は、これは心理療法のサイストリーなどの手法と同じものです。
#サイストリーについてはこちら

サイストリーは心理的を意味する接頭辞のpsyco-と物語のstoryを合わせて作られた造語で、日記のようにして、自らの内面を記述することで、自身の内部表現を整理し、心理の安定をはかる心理療法のことです。(たぶんそのような解釈で合っていると思います)

庵野秀明監督は、このサイストリーと同じことを、文章ではなく、映画という表現方法によって行ったのです。

だから、新エヴァは「庵野氏の結婚を経て、あえて完全新作ではなく、旧作のリビルドとして、さらに、興行的には主要なターゲットを中高生に定めて、破滅的で、病的ですらあった旧エヴァと比べて、(新エヴァは)王道ロボットアニメ的にリビルドされて」製作されたのだろうと思います。

そして、私はこのような「新エヴァ」の意味を次のように、解釈したいと思います。

それは、「余人をもって代えがたいオリジナルの自己の存在を肯定しながら、同時に、日常の中で周りにいる人達を大切にして、他者と共生すること」ということである。
それは、イコール、
「自己利益を追求しながら、同時に、公共の福利へ配慮すること」
それは、つまり、「成熟すること」ということである。

つまり、エヴァンゲリオンもまた、古今東西の神話・伝説・伝承の定型にもれず、「成熟とは何か?」について語って聞かせる物語=ビルドゥングスロマン(成長譚)なのだと思います。


また、哲学者の内田樹さんが日本の巨大ロボットアニメについてこんな考察をされていました。
繰り返し申し上げているとおり、アメコミの「スーパーヒーロー」はすべてアメリカの「セルフイメージ」である。
それは「生来ひよわな青年」がなぜか「恐るべき破壊力」を賦与され、とりあえず「悪を倒し、世界に平和をもたらす」ために日々献身的に活動するのであるが、あまり期待通りには感謝されず、「おまえこそ世界を破壊しているじゃないか」という人々の心ない罵詈雑言を浴びて傷つく・・・というものである。
『スパイダーマン2』がアメリカのイラク侵攻の心理劇化であるということに気づいている人はあまりいない。
一方、日本の戦後マンガのヒーローものの説話的定型は「生来ひよわな少年」が、もののはずみで「恐るべき破壊力をもったモビルスーツ状のメカ」の「操縦」を委ねられ、「無垢な魂を持った少年」だけが操作できるこの破壊装置の「善用」によって、とりあえず極東の一部に地域限定的な平和をもたらしている、というものである。
これは『魔神ガロン』から『鉄人28号』、『ガンダム』、『デビルマン』、『マジンガーZ』を経て『エヴァンゲリオン』に至る「ヒーローマンガの王道」である。
この「恐るべき破壊力をもったモビルスーツ状のメカ」は日米安保条約によって駐留する在日米軍であり、それを「文民統制」している「無垢な少年」こそ日本のセルフイメージに他ならない。
1950年代の日本のメンタリティをもっともみごとに映し出している『鉄人28号』において、「鉄人」は米軍(および創設されたばかりの自衛隊)を表している。だとすれば、その操縦を委ねられる「戦後生まれで、侵略戦争に荷担した経験をもたない無垢な正太郎少年」は、論理の経済からして、「憲法第九条」の表象以外にはありえないのである。
http://blog.tatsuru.com/archives/000569.php

なるほどw。内田樹さんは見事に巨大ロボットアニメの内に対米性・対欧性を読み取っています(第二次大戦以来の、あるいは、江戸末期の動乱以来の、あるいは、大航海時代のキリスト教伝来以来の)。

…ここからは、主に、新エヴァもまた引き継いでいると思われる「対米性・対欧性」という側面を中心に、新エヴァを評価していきたいと思います。

はじめに紹介したYasuakiの新批評空間というサイトに次のような考察が掲載されています。
大日本帝国とエヴァンゲリオンとの関わりについて、様々な角度からざっと見てきました。簡単にまとめますと、エヴァには、世界を支配する欧米人と戦う日本人主人公達、という、「ヤマト」に代表されるアニメの伝統(?)を引き継いでいる面があります。最後は玉砕です(これは、アニメの伝統というよりは、日本の物語の伝統でしょうか?義経やら赤穂浪士、白虎隊など)。しかし、共同体への忠誠のために命を落とす、という面は全く見られません。これは、「ヤマト」「ガンダム」制作者に比較し、監督の世代的な若さが大きな影響を与えていると思います。

最後に、キリスト教神秘主義的な観点からも神様になった(知恵の実と生命の実を手に入れた)エヴァ初号機=ユイでしたが、他の星への移動の可能性、今の人類以上の人間、50億年後、などの言葉から、仏教的にもユイは神様になったのでしょう。もしかすると、ゼーレとゲンドウの戦いは、神を敬い最後の審判の後に楽園への回帰を望むキリスト教と、人間の中から神を創出しようとする仏教の戦いであったのかもしれません(石原莞爾のいう、人類の思想をかけた、世界最終戦争です)。

太陽が崩壊して地球の生命が絶えても、ユイは、宇宙のどこか他の星で生命を永遠に見守り続けていくのだと思われます。
http://homepage3.nifty.com/mana/nippon.htm#top

注目すべきは、「もしかすると、ゼーレとゲンドウの戦いは、神を敬い最後の審判の後に楽園への回帰を望むキリスト教と、人間の中から神を創出しようとする仏教の戦いであったのかもしれません」というくだりです。

旧エヴァにはキリスト教と仏教(正確には日本仏教。以下同じ)の戦いという側面もあったという解釈は「対米性・対欧性」という概念とぴったり一致します。

そして、新エヴァが王道ロボットアニメ化することによって、その「対米性・対欧性」を強めるとすれば、新エヴァ4部作(3部作?)のラストは、より仏教的な結末になる可能性が高いと考えられます。

例えば、旧エヴァでは、リリスと融合したレイと融合して、神となったシンジがATフィールドのない世界を望んだが、最後には、アスカなどの他者のいるATフィールドの存在する世界を選んだようですが、新エヴァではシンジが神を否定するような流れがさらにわかりやすく、強く描かれるのではないでしょうか?

例えば、漫画版の「風の谷のナウシカ」のように。(ラストでナウシカは、神(コンピュータ)が管理する、未来の人類の卵が保管してある墓所を巨神兵の力を借りて焼き払った)
 そういえば、新エヴァのエヴァは途中なんどか風の谷のナウシカの巨神兵に見えました。というか、庵野秀明監督自身が、若かりし頃、宮崎駿監督のもとで、映画版の風の谷のナウシカの巨神兵を手がけたとききますから、エヴァが巨神兵に似てるというか、巨神兵がエヴァに似てるというか、…両者は同じ物なのかもしれませんね。
(参考:「エヴァンゲリオンは巨神兵」ジブリの鈴木プロデューサー明かす)
ここで、もし、エヴァと巨神兵が同じものだとしたら、ナウシカの指示によって、神(と未来の人類の卵)を屠った巨神兵に照らすと、新エヴァでは、シンジの指示によって、エヴァや、アダム(白き月)やリリス(黒き月)を屠る神(シンジ+エヴァ初号機+レイ/リリス(組み合わせはうろ覚え))ということになるのかもしれません。
(※汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンのモデルはウルトラマンだという意見もあるようですね(活動限界があるところなど)。また、そもそも巨神兵(と汎用人型決戦兵器)のモデルはウルトラマンだという意見もあるようです。)

また、新エヴァのより仏教的なラストということについて、例えば、ガンダムのラストに強く見られるような、全ての戦闘兵器の破壊=「兵どもが夢の跡」(@松尾芭蕉)的なシーンがあげられます。
ガンダム00の「機動戦士ガンダム00スペシャルエディションⅢ リターン・ザ・ワールド」のDVD・BDのジャケットの写真(2枚目(真ん中)の写真)(水面に佇む全壊に近いガンダムが色鮮やかな花で覆われている写真)なんかが代表的だと思います。

この「兵どもが夢の跡」的なイメージは初代ガンダムのときから、変わらずに続いているイメージですよね。
(ファーストガンダムのラストは、ガンダムの全壊とジオン軍と地球連邦の戦争終結)
 まあ、旧エヴァでも同じようなシーンはたくさんありましたけど、ただ、旧エヴァでは、不気味or世紀末的な印象が強かったので、新エヴァでは、もうちょっと、ガンダムシリーズのような「兵どもが夢の跡」的な、「無常」的なシーンになるのではないでしょうか?

また、「王道ロボットアニメ的なリビルド」という側面について、この投稿の初めに記したことにつけ加えておきたいことは、今回の新エヴァのラストはハッピーエンドになります、ということです。
なぜなら、王道ロボットアニメ志向だからです。(王道ロボットアニメは大体ハッピーエンドになるというものなのではないでしょうかw)

つまり、新エヴァのラストは仏教的で、且つ、ハッピーエンドなものになります(ような気がします)。


そして、ここからが、本投稿の肝ともいえる部分なのですが、
成熟とは何かについて語り、ラストが仏教的で、且つ、ハッピーエンドになると予想される新エヴァとはなんなのであろうか?
それは、どのような意味を持つのであろうか。それからどのような意味を読み取ることができるであろうか?

私はここに、したたかな日本の世界戦略をみます(見たいと思います)。
日本のアニメが世界に誇る文化的資産であることは論を俟たないでしょう。

であるならば、(おそらくは世界中の子供達が目にする事になるであろう)そのアニメという物語の中に、きっちりと日本的価値観や普遍的な成熟、幸福、そして希望のメッセージを込めるということは、この東洋の島国が「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占め」ていくのにとても有効な戦略として機能するのではないかと思うのです。(cf"世界から戦争と差別をなくすこと")


出撃せよ。エヴァンゲリヲン(福音=キリスト教=西洋)という名のマントラ(真言=仏教=東洋)よ。

※その後、以下のエントリー「私家版エヴァ論論 加筆修正版」にて加筆修正を行いました。
http://74196561.at.webry.info/201312/article_68.html

※エヴァンゲリオン/ヱヴァンゲリヲンの考察 参考サイト
物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

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