前回、荒川の「瀬替え」について記事にしましたが、元荒川の旧流路において「岩槻」の部分に触れたいと思います。
岩槻は関東屈指の城下街。
かつての岩槻城は元荒川の流れを要塞化して築城したそうです。
岩槻城跡を起点にすると現在の元荒川は、北西側から南東方向へと流れていますが、当時の流路は異なっていました。
岩槻城址公園に在る「岩槻城史跡板」を観ても元荒川の流路は現在とは異なり、赤枠で記した「久伊豆神社」北部及び、「龍門時」北東部が流路になっていたとされています。
岩槻城本丸の位置は、現在の城址公園内ではない。
この旧流路箇所の周辺は、かつて広大な湿地帯となっていましたが、区画整理によって埋め立てられ、現在ではその形跡を確認し難くなっています。
但し、現在の空撮を観ると草の生えた緑色部分が、一目で旧流路であったことを窺えます。
旧流路部分だけ建築物がない為に旧流路であったと確認できるのですが、液状化の為に建築制限でもあるのでしょうか?
今から30数年ほど前に聞いた話です。
地図上にプロットした赤枠部分について、現在は人間総合科学大学となっていますが、その当時は地元の建設会社の資材置き場となっており、その場所を「掘削した際に大量の川砂が出てきて、それを売って儲かった。」と聞きました。
この事からもこの箇所は、元荒川の旧流路であったことが窺えます。
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