香港にあった九龍城砦
Greg Girard
1950年代から1990年代半ばにかけて、香港に流入した大量の移民は、0.03平方キロメートルの土地に12階建てビルを造り上げ、スラム街を形成した。それが、九龍城砦(きゅうりゅうじょうさい)だ。
小さな区画に3万3000人の人々がひしめき合って暮らし、最も人口が多かった時期は、現在のニューヨークの119倍もの人口密度だったという。犯罪がはびこり、ひどい衛生状態ではあったものの、1993年に建物の取り壊しが始まるまで、九龍城砦は驚くほど自律性を保っていた。
1980年代後半、カナダ人写真家のグレッグ・ジラード(Greg Girard)氏は、この窓さえない世界に入り込むことになった。彼は当時の九龍城砦の思い出をBusiness Insiderに語った。詳細な内容は、ジラード氏とイアン・ランボット(Ian Lambot)氏の共著『City of Darkness: Revisited』に掲載されている。
香港は長年英国の統治下にあったが、九龍城砦の領有権は中国側が保持したままだった。このような法的位置づけの曖昧さから、九龍城砦は無法地帯となってしまった。
1986年、九龍城砦に興味を持ったジラード氏は、その後4年にわたって何度も九龍城砦を訪れ、崩れかけた壁の内側で展開されていた人々の日常生活をカメラに収めてきた。
何十年にもわたって、住民たちはおもちゃのブロックを重ねるように部屋を積み重ねていった。その結果、「恐ろしげな雰囲気の建物になってしまった。だが誰がそうなると予想しただろう?」とジラード氏はBusiness Insiderに語った。
夜になると、無法地帯ぶりがより鮮明となった。犯罪が横行し、この地域を知っている者は決してここに近寄ろうとしなかった。
ジラード氏が訪れていたころの九龍城砦は、それほど危険ではなくなってきていたが、それでも地域の子供たちは、親からそこには近づかないよう教えられていた。
九龍城砦には、ありとあらゆる仕事が存在していた。学校や美容院は、夜になるとストリップ劇場や賭博場へと切り替わった。アヘンを中心とした薬物の違法取引も頻繁に行われていた。
Wong Cheung Mi氏は、歯科医として働いていた。
九龍城砦で営業していた他の多くの歯科医と同様、Wong氏は九龍城砦以外の場所では営業できなかった。このような歯科医の元へは、手頃な価格の医療サービスを求める多くの労働者階級の市民が訪れた。
ブロックを積み上げたような建物の中には、ほとんど日が差さなかった。「四六時中、夜のようだった」とジラード氏は回顧する。
じめじめとした空気から逃れられる唯一の場所は屋上だったが、そこは「アンテナなどいろいろな物が突き出し、ビルとビルの間には隙間があり、非常に危険な場所だった」とジラード氏は言う。
家内製造業は、九龍城砦を支える重要な役割を果たしていた。犬肉の処理業者、起業家、製麺業者などは、誰に監視されることもなく、自由に営業活動を行っていた。
Hui Tuy Choy氏は1965年に製麺工場を開設した。衛生基準、防火基準、労働基準といったルールを気にする必要は全くなかった。
九龍城砦で最も多く製造されていたのは魚肉団子だ。これらは近くのレストランに販売された。
「衛生管理についてはほとんど考えられていなかった」とジラード氏は言う。「健康状態や安全性を管理するためのルールがなく、工場をまともに機能させるのは非常に困難だった」
「警察が介入したのは、深刻な犯罪のときだけだった。香港政府は見て見ぬふりをしたいのではないかという噂がいつも飛び交っていた」とジラード氏。
ただひとつのルールは、14階建て以上の高さにしてはならないということだった。これに従わなければ、近くの空港から飛行機が離発着する際に、トラブルになりかねなかったからだ。
「九龍城砦の評判は芳しいものではなかったが、そこに住む何千もの人々の間には、連帯感が培われていた」とジラード氏は言う。
「九龍城砦はそのすさんだ外観のため、中のコミュニティまでそのような状況なのではないかと誤解されてきたようだ」とジラード氏。九龍城砦の取り壊しが迫る1990年ごろから、同氏に対する住民の態度が変わってきたという。
住民はますます平穏に、伝統的な生活を送るようになった。ジラード氏は、初めは得体の知れないよそ者として入ってきたが、最終的には住民と信頼しあえる人間関係を築くに至った。
九龍城砦は1994年に取り壊しが終わり、その跡地には九龍寨城公園が建設された。広々とした公園で、写真家やバードウォッチャー、観光客が訪れ、香港の美しい景色を楽しんでいる。
「香港とは不思議な場所だ。中でも九龍城砦は突如現れた夢か幻のような場所だった」とジラード氏は回顧する。香港は変わっていく。九龍も変わっていく。
(翻訳:仲田文子)