玉名・山鹿・菊池の神々 2012年2月5日 百嶋由一郎先生講

私は昭和2年生まれ、熊本県玉名郡小田村出身です。まず最初に、熊本龍田山第五高等学校から、奈良県の龍田山までを阿蘇火山帯と申します。阿蘇火山帯です。こちら(奈良)にももちろん、こっち(熊本)と同じ神様がいらっしゃいます。阿蘇家の神様がいらっしゃいます。この人が風神、雷神の風神のほうです。そして別のお名前は、海幸彦です。とにかく、龍田山から龍田山までを阿蘇火山帯と申しまして、世界でも息の長い火山帯の一つです。
大正の末に、その頃、汽車が山鹿から植木まで走ってました。鹿本鉄道です。これより更に10年さかのぼると八千代座が作られました。これらは、山鹿の資本家達がお金を出しあって作ったものです。更にさかのぼって、明治の10年前後、明治維新という大事業が日本で実現したあと、日本各地のあっちこっちに町とか村とかができました。ここでは山鹿という町ができたのですが、山鹿の町は誠に変わった町で、普通だったら、山鹿町長というのが普通の呼び方ですが、山鹿だけは変わっておりまして、共和国制をしいたんです。従って、町長と呼ばないで、山鹿町初代人民代表と申しておりました。誰が初代の代表かというと大森惣作です。人民代表ですよ、こういう変わった政治をとったのが山鹿町だったんです。
もう一度、順番を逆にして申しますと、明治の初めに山鹿町ができた。初代の人民代表は大森惣作であった。それから明治の末になって八千代座ができた。そして、大正の末になって鹿本鉄道ができた。そして昭和14年に山鹿でもよその町に負けまいとして頑張って、江上百貨店ができました。鉄道は、割と長続きしましたが、江上百貨店は早々に消えました。時代が悪かったですね。戦争に突入したからです。
よへほ、よへほの踊りが何でよへほの踊りが長続きしているか、あの人が大変みんなにもてはやされて、もててらっしゃる。あの人とは誰でしょうか?通称、景行天皇です。景行天皇は本当天皇ではありません。贈景行天皇です。本当の天皇ではありません。その贈景行天皇の本当のお父様が、このかた、贈孝安天皇です。そして、熊本玉名にある疋野神社、肥後延喜式内社の一つです。御祭神は未だに秘密になっています。ここでばらします。そのお方は大足彦オオタラシヒコ(景行天皇)、よへほ、よへほの本当のお父さん、即ち、孝安天皇です。熊本玉名疋野神社、縣社です、元は延喜式内社です。どうどうたるお宮です。そのかたがなんで大変もてるという福をその息子にまでお渡しになったかというと、この方(孝安天皇)は九州王朝特務機関長だったんです。スパイの総大将だったんです。そしてまた、ここでオート思われることが出てきます。九州王朝特務機関長、疋野神社様、別の名前はたくさんありすぎますので省略して、疋野神社様はヒミコ宗女イヨと本当の兄妹だったんです。ところが、母親は一緒ですが、父親は違います。この人(孝安天皇)の父親は海幸彦です。そしてこちら(ヒミコ宗女イヨ)のお父上は山幸彦です。
海幸・山幸。この二人は最初は調子良かったけれど、最後はもう大喧嘩です。これはですね、いかなる偉い人であっても、出世しすぎたら周囲のものが喧嘩おっぱじめてしまうのです。あのエジプトを連想なされたらいいです。エジプト・エジプト、誰と誰とが喧嘩しているのかさっぱりわからないでしょう。ああなるんです。
疋野神社さんは専門的になると難しくなりますので、一つだけ申し上げます。疋野神社さんの最初の紋章は、阿蘇家の紋章(鷹羽紋)だったんです。菊池といっても良いし、阿蘇の紋章といってもよい、この紋章だったんです。だったんですが、途中でですね、同族であっても都合が悪い、同じ紋章ではまずいという時代が出てきた場合、この方の場合に限っては、橘の紋章にお変えになっています。
この橘の紋章の裏にはスターがごろごろいます。コノハナサクヤ姫の最初の旦那さんはニニギです。此花咲くや姫の2番目の旦那さんは、下鴨大社さんです。今は、京都の下鴨にいらっしゃいますが、故郷は福岡です。
そして今度は、この紋章も変えなければならないという時期もくるのですが、これはややこしくなるので、今はお話しません。
そして、この紋章は、いまだに、内緒で二つならべたこのお宮さんがですね、福岡市の隣に糸島市というのがあります。そこに二つ、神社と神社を別けてですね、旦那と后、ともかく、別々のお宮に鎮座しておられます。そしてこの橘をおいてらっしゃるのはこっちの後でできた旦那の方です。そして、鍵をかけてあります。鍵をかけて煤だらけになっているのを一生懸命、見ましたが、片方の后の方にはこれ(鷹の羽紋)が未だに残っています。そして、こっちには誰がここにいちいち世話焼きに来ているかというと、奈良春日大社から、世話焼きにきています。そういうからくりがありまして、とにかくですね、紋章も変化する。何何も変化する。同族であっても、何年か経ったら、身内も他人になるというわかりきった話をいたしました。
古い古い歴史を有するお宮さん、菊池川流域を連想してください。金金賛(かなさ)大神このかたのことを意味しています。菊池川の水源、阿蘇外輪山ですね、そして菊池川の終点は目の前に雲仙嶽の見える場所、玉名市大浜です。その間における一番古いお宮さんというのは、来民地方にある円天角地に十字剣の紋章の神社さんが、最も古い歴史をもったこの地区に鎮座しているお宮さんです。この紋章はどこから持ってきた紋章かというと地中海から持ってきた紋章です。民族的にはヘブライ人です。ヘブライであっても、最も格式の高いイスラエル人です。イスラエル人の家来がユダヤ人です。ごっちゃまぜになさるでしょう、イスラエルとユダヤ、全く違います、元々は。ともかく、一番格式の高いのはモーゼ、それを連想なさったら、それに縁のある人はイスラエル人です、それが一番格式が高い。それに次のがユダヤ人です。ユダヤ12部族といいますね。いくつもの部族が存在した。それが、日本にごっそり着たというわけではありませんが、たくさんやってきております。ついでヘブライのことをもう少しお話しておきます。ヘブライ人が最初に日本に到達したのは5000年昔とお考え下さい。これはヘブライ人と言ってましたが別の表現がございます。それはですね、皆様もご存知と思いますが、ついこないだまで、お祭りの夜店に行かれましたら神農様の御札を置いていました。私は神農様の農場まで行ってきました。場所は天山山脈です。天山山脈のもうそこはパキスタンだよというところです。この方が、ある時期のヘブライの頭領として金金賛(かなさ)大神がおられます。ある時期という意味は、この方の場合新しいほうの渡来人であって、アレキサンダー大王に追われて逃げてこられた、現在から2300何年か前を年表でご覧になってください、アレキサンダー大王のことが書いてあります。アレキサンダー大王に追われて逃げてこられたかたの内に、また、この方々がでてきます。『氵嬴』、日本発音“えい”ですね、音は“いん”です。そして、これはからくりがありまして、これ《氵(さんずい)》を消しますと、秦の始皇帝の苗字『嬴』になります。ところでこの方は、中国に逃げてこられた時に秦の始皇帝と縁組をなさっています。天下の名門、秦の始皇帝以上の天下の名門、モーゼを思い出してください。ともかくモーゼというのは、紀元前においては天下のモーゼだったんです。あの始皇帝がモーゼの系統と縁組をやっているのです。そして自分の苗字である『嬴(いん)』を縁組をした彼等に与えているのです。そしてこの人たちは海を渡りましたから《氵(さんずい)》がついているのです。これ以上、『氵嬴イン』について述べますと時間がかかるので、ここでストップします。
相良観音におまいりされた方はいらっしゃいますか?さっきの『氵嬴イン』の頭領の金山彦、ここでは金金賛(かなさ)大神、この人の本当のご職業は、九州王朝第1期親衛隊長でした。最初の九州王朝はこのヘブライ人によって守られていました。どこに住んでいたかというと福岡市の隣の糸島市にソネ丘陵地があります。ともかく、昔も今も住むのには一等地です。いかなる洪水が押し寄せてもへっちゃらです。それからといって下に近いのですよ。まさに、殿様御殿。ここに住んで居られたアマテラスオオミカミ及び神武天皇のお姉弟を守っておられた九州王朝親衛隊長だったんです。それがある程度の年齢になってから、嫁さんをもらって、どこで誰が生まれたかを申し上げます。この金金賛大神ですよ、この土地では金山彦になっています。紋章はこれ“円天角地に十字剣”ですよ。相良観音、当時は相良観音はありませんよ。相良の土地でアイラツ姫をお生みになりました。そして今度はお后が変わりまして、おんなじ近くの、清浦圭吾が生まれたうちの近くに、これ“円天角地に十字剣”が残っていまして、ここではクシナダ姫をお生みになりました。この金金賛大神の下にアイラツ姫がのっています。右下にクシナダ姫がのっています。現地をわざわざ訪問なされなくとも、地図をご覧になれば現在も稲田村が印刷されています。そして、稲田村のそばには、皆さんも全く気づかなかったよととおっしゃる宮地嶽教団がございます。ご覧になったことがありますか?近くにありながら皆さん全くご存じない。宮地嶽というのは日本最大の秘密のお宮さんです。日本最高の格式のお宮さんでありながら、蓋をされたお宮さんです。九州全土をお回りになったら、あっちにこっちに宮地嶽神社、宮地嶽神社ってのがあります。しかも、高いところにあります。それなのに秘密になっています。そういう独特の天皇をお祭りした神社です。天皇のお名前で申しますと開化天皇です。この開化天皇が宮地嶽神社の本当の神様です。ところが福岡の宮地嶽神社は現在それを隠しております。それはどうしてそうなったかというと、神社庁自体が、神社庁の内部が喧嘩しているのです。神社庁の、そこに勤めている連中同士が喧嘩しあいまして、全く、意見が対立して合わないのですよ。要するに、ヘブライ人系の神主と中国人系の神主、全く話が合いませんよ。それで、今は、開化天皇を消す方向の勢力が強いのです。福岡県の宮地嶽神社、場所は福岡県福津市。そこにあって、今は開化天皇は蓋されております。ところがですよ、面白いことに、同じ宮地嶽さんが、♪西に来たかとかもめが飛べば・・・♪の北海道江刺市の宮地嶽神社では嘘でなくて、昔の開化天皇を堂々と出しているのです。
同じような例ですが、阿蘇家がヘブライ系の子孫であるということも、頭かくして尻隠さずで、人吉の青井阿蘇神社では、ダビデの星をちゃーんと出しておられます。よーく探されると見つけることができます。
阿蘇家は、わざわざ、阿蘇家の初代である人物を祀った、貴船神社、京都貴船神社。そこでは宮司自体が朝鮮系なんです。高井さんというひとがこれはもう悪質なほうで有名です。とにかくこの方が自分が高句麗系なもんだから、高句麗にとって都合の良いように神様を操るのです。それで他の方と喧嘩になるのです。それで、上鴨神社と下鴨神社は年から年中喧嘩していますよ。上鴨の方が押さえないといけないのに高句麗系の宮司を抑えきれないで野放し状態になっているのです。いずれ、高井宮司もこれ(首)になる日が来ると思います。約10年前と申し上げておきます、上鴨の宮司、武内さんは、さっき申し上げたむちゃくちゃの貴船の宮司の派閥と正統派の宮司の派閥の板ばさみになりました。それでついつい、いままで上鴨がやっていた習慣を神社庁がだめといったにも関わらずついついやってしまいました。それで、武内さんは首となりました。こういう風にして、神社世界では、全く民族の違う宮司が、相争って喧嘩している、これが神社の正体です。
歴史的な面において、特大な価値を有する古いお宮さん。それから、お宮が大きくても新しくてもそんなことは関係ない謎に包まれたお宮さん。そして、自分は天皇の先祖だと皇太祖争いをやっているお宮さん、自分は天皇の先祖だと盛んにほらを吹く、悪質な人がいっぱいいます。その悪質な人の筆頭が八幡さんです。そしてついでに、幣立大神宮、阿蘇蘇陽町、益城地方に津森大神宮、それから、宇土の方にいくと西岡神宮、西岡は誠に正体不明ですけれども、津森のほうはある程度推察ができます。これも、右から左から、下克上合戦にあって、ひどい目にあって、津森神宮の本来の姿はなくなっています。しかし、津森さん本人はちゃんと益城町から抜け出して、今はどこにいらっしゃるかというと、大阪住吉大社にいらっしゃいます。大阪住吉大社の宮司津森です。この津森ともう一つ同じ系統の宮司に小野というのがいます。この小野でピンとこられないかたは、最も近い例を申します。南関の近くに、三加和町、今は、なごみ町となっていますが、そこに田中城というのがあって、肥後国衆一揆の時に結論は秀吉に負けてしまいましたが、最後まで頑張ったのが、和邇(先生は思い出せないので、補注)、現在その子孫は小野と名のって柳川に住んでいます。この方達は源平合戦以前から、八女の黒木城に仕えていたのです。その関係で、小野と名乗りながら、この方達は黒木の紋章、亀甲の紋章を使っています。そして、何々天皇のもとに自分の美人の娘を差し出して、胤(たね)をもらうのです。そして小野の苗字も許されるのです。それが柳川の小野の正体です。天胤系小野といいます。それと、天胤系津森もいる訳です。この、二つの系統が5000年昔のヘブライ系の代表的日本人としてとても有名です。そして、さっき申し上げた同じヘブライでも、アレキサンダーに追われてやってきたヘブライを新ヘブライと申します。これはこの付近でやめておきます。

歴史的に特大の価値を有する古いお宮さん、この代表を二つ申し上げます。一つはやさしいほうから申し上げます。さっき申し上げましたヒミコ宗女イヨのお兄さん、疋野神社さんです。玉名の立願寺にございます。延喜式内社です。ヒミコ宗女イヨの本当のお兄さんです。そしてこの御兄妹は、三重県の津市にヤタノカラスゆかりの古い古い神社がございます。そのヤタノカラスが気を利かせて、お前達がここを使いなさいといって、この人(疋野神社の神、贈孝安天皇)とヒミコ宗女イヨを祭神として鎮座させています。これはヤタノカラスの計らいです。ヤタノカラスはどこの出身か、これはわかりきったこと博多の出身です。那の国の王子です。そして当時の那の国の王子はどのような立場におられたかということを一言申し上げます。まずですね、隈、隈、隈、隈が全国にございまして、隈発祥の地は熊本です。で、あるにもかかわらず、発祥の地、熊本には隈はほとんど残っておりません。どこに残っているか、隈のほとんどは福岡に残っています。そして、吉野ヶ里に残っています。その代表的な隈元を申し上げます。福岡大学の近くに、七隈というとても大きな隈が今もあります。この七隈に隈元池があります。そして、隈元池に添える池、隈添池があります。これはまさに熊本にはないけれども、熊本の人が移動した、移動の先にはそっくりまだ隈元が残っているのだという見本です。従って、ここにいきますと、ちょっと変わった伝説が、隈元と関係の深い伝説が残っているのです。それもですね、遠回りしてきた伝説です。まず、熊本から出世して、九州王朝に呼ばれて、九州王朝にお仕えする立場になった、そして、あっちに派遣され、こっちに派遣されして、日本全土に隈元が広がりました。その代表が、阿武隈川、阿武隈山脈にそって、流れている阿武隈川、これは隈ですよ。そして、そこの調査をやりまして、あの地区の隈、隈、隈とやり取りして、“はーやっぱり熊本と関係ある”ことをつかみました。そして、現在、隈はどこにのこっているか、最も多く残しているのは福岡県です、そして佐賀県です。肝心要の熊本県にはほんの僅かしか残っていない。隈元の跡地は千葉城とか言っている、今は、熊本といってますが、これは加藤清正がこっちのほうが勇ましいといって勝手に変えたんです。馬鹿みたいでしょう。
それから、古い古い歴史的大きな価値を持つお宮さん、もう一つは、菊池川を下って下って終点まで下られますと、玉名市大浜、目の前は雲仙岳です。そこに住吉宮があります。ここで住吉について申し上げます。これを知っとかれたら役に立ちますよ。今からここに記すことを頭に描かれますと、“なーんだ、九州王朝と宮崎がほら吹く神話は一緒にあったんじゃないか”ということに気が疲れます。そしてその終点として、生目神社、生目神社のからくりについては今日申し上げる時間があるかどうかは判りませんが、結論はお話しするつもりです。これはですね、壮大なごまかしなんです。ごまかしの源は日本ではございません。ごまかしの源は金海(キメ)です。この場所を地図でご覧になったことがありますか?釜山の左となりです。ここにですね、日本を支配した基地があったんです。ここに支配されて、日本にやってきた連中、どのような連中がいるかというと、大国主命のご先祖達、それから、天孫ニニギのミコトなんて大きなほらを吹いているニニギの先祖達、こういう人たちがですねここから派遣されて日本にやってきているんです。その一つをお見せします。「向倭穂日子」これはニニギのミコトの別称です。ニニギのミコトの故郷は大邱(てぐ)です、大邱のうちのコリョン(高霊)です。ここはニニギの故郷です。なんと厚かましく、ここは日本の髙天が原と堂々と書いてあります。
住吉大神というのは、宮崎の神話=嘘神話ではどうなっているかというと、天照大神、天忍穂耳尊、天孫ニニギの尊、彦ホホデミの尊、そして、ウガヤフキアエズの尊、年齢は無茶苦茶でこれは神話ですから、上がったり下がったりしながら、天照大神の子供という名目上の古事記、古事記はほとんどいんちきとお考えになったほうがいい、古事記に記されています。そして、ウガヤがですね、本当の天皇家である九州王朝の正統、オオヤマトネコ(孝霊天皇)の系統である開化天皇に三種の神器を返納もうしあげるのです。そしてまた、喧嘩はおっぱじまりますが、九州王朝の方に一応、三種の神器は戻ったということになるのです。この時、三種の神器の本当の玉はどこに戻されたかというと、その場所は久留米の高良大社です。そして、こっちは(ウガヤの方)は引退ですね。ここで、今度は阿蘇家のごまかしが始まるのです。もう、阿蘇家のいんちきのやりっぱなし、下克上ですよ。もう勝手に、特に、藤原になってから、もう、嘘・嘘・嘘のやりっぱなし、どこでその嘘が製造されたかというと、奈良県田原本町、ここに多神社があります。多神社で判りにくかったら、阿蘇神社です。当時は阿蘇という言葉はないんですよ。阿蘇山はありますよ、阿蘇山はあるけれども、阿蘇氏はいないんです、多氏です。そして、現在でも天皇家の雅楽に仕えているのは、阿蘇の苗字なんかじゃないんです。多の苗字で仕えています。従って、この方々は、奈良の多神社の氏子さんたちです。奈良に多神社、阿蘇神社があります。そこにいきますと多大明神とかいてあります。そしてづらーと全国の多さん名前がずらーと石碑に立ってます。そして、もうひとつ、この多さんの故郷が支那城なんです。
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支那城がどこにあるかというと雲南省です。ここ雲南省には支那という地名があるのです。長い間、中国人は支那とは日本人が中国人を卑しんで呼んだ名前だといっていたのですが、そうではない、支那という固有名詞ははるか昔の紀元前からあったのだということを雲南省の勇気ある方が中国語で中国の本に発表しました。
菊池川流域の方々は源平合戦のときは原則として平家にお付になっています。ところが、同じ、菊池・阿蘇グループであっても、平家についていない人もいます。どのような人がいたか?全く皆さん初耳だと思います。それは平安末期の左大臣徳大寺実定(さねさだ)、そしてこの人のおじいさんが徳大寺実能(さねよし)、徳大寺は藤原の主流系ですね。そして、実能はどのような立場の人間であったかと申しますと、後白河側近です。後白河天皇、大体お分かりですね。平清盛は後白河のご先祖の白河天皇の胤(タネ)です。この白河天皇の白河を頂戴した後白河、非常に性格の激しいやり手でした。この後白河天皇の傍にはべっていたのが徳大寺実能です。左大臣です。左大臣というのは現在の内閣総理大臣に相当します。そして、どのような連中がこの人にくっついたか、皆さんのお知り合いに緒方(どの当て字でも結構ですよ、原則は、緒方が多いですが、そればかりではありません)さんです。その緒方の頭領が、緒方惟栄(これよし、栄は義とも、能とも書く)です。そして、徳大寺実能です。この“よし”グループを率いておられたのが後白河上皇です。あまりにも威張りすぎる藤原を、徳大寺さんも藤原ですが藤原がやりすぎだということは知っていたので、藤原を鎮めて、平家も鎮めて均衡のとれた政治に持って行こうと努力なさっていた方々です。この緒方の惟栄さんはどういうことをやったかというと宇佐神宮焼き討ち、宇佐八幡をこの方は焼き討ちされています。何でそうなったかといいますと宇佐神宮が威張りすぎたんです。もう、めっちゃくちゃ威張った。あの八幡というのはある時期はそういう時期があったのですよ。なんでそんなに威張る必要があるのかというくらい、皇太祖争いです。天皇の先祖だという格式を争うのです。その争いの筆頭で一番有名で、柄が悪いのが、宇佐八幡です。いずれ八幡はこれから少しずつ落ちぶれると思います。これは時が来ますとですね、どんな栄えた人であっても落ちぶれる時期は必ず来るものです。だから、八幡さまもこれから少しずつ落ちぶれる時期が必ずくるものと思います。
もうひとつ、皇太祖争いの名残がこの地区、七城町岡田の岡田神社にはですね、雷がいるんですよ。この雷は本当の天皇ではない天皇、贈る祟神天皇です。そして、この方は自分で勝手に、自分こそは神武天皇だと言いふらすんですよ。そこで、大混乱が起こっているんです。そして、下鴨さんと上鴨さんはこれを鎮めるのに困ってらっしゃる。下鴨は正統派、上鴨が荒れ狂うんです。そして、この方(祟神)は、自分こそ神武天皇、肇国知(ハツクニシラス)神武天皇といって威張っている。でも、本当の神武天皇は神倭イワレ彦です。そういういろんな事件がありまして、何とか日本をまともに纏めようと努力した人の中に、後白河天皇の側近達に『よし、能』グループがいたということです。徳大寺実能、緒方惟栄(惟能)、そして、この時、筑後黒木城の黒木助能もその一員として後白河に直接、殿上人としてお仕えしておりました。だから黒木には天胤が下ってきた、即ち、後白河の胤が黒木を名乗り、後鳥羽の胤が星野と名乗りました。そして、星野の一部分がそこに住んでいます。そこというのは現在の菊池市赤星です。赤星の隈府よりの隣の町は、昔は菊池村と言っていました。
それからここ山鹿市には私のいとこはとこが相当たくさんいます。それとはまた別に、うちの黒木城の分家が相当います。その中で数の上で一番多いのは、今村、星子、徳丸グループです。もうちょうっと菊池川の上流のあそこの地名は鹿本(?)、この連中は、筑後の黒木城の平安以前の分家です。従って、彼等は今も黒木の紋章を使っています。そして、平安以後の黒木の分家はどういう苗字を使っているかというと、私のもとの苗字は一瀬(いちのせ)です。この一瀬はどこで取れたかというと、約450年前に菊池市一瀬(昔の菊池郡一瀬村です、迫間川の上流)でとれました。うちは源平合戦から10回くらい苗字が変わっています。黒木になったり、一瀬になったり、黒木になったり、一瀬になったり、そして、最後は百嶋になっている。とにかく、源平合戦から10回くらい名前が変わっている。そして、一瀬には現在、葛原たちが住んでいます。彼等はみんな黒木の一族ですから、黒木の紋章、亀甲紋を使っています。

高良神社、または宮地嶽神社は全国どこに行ってもあります。これは大阪の高良神社です。現地では高良神社なんですけれども、高良神社なんて言わないで、撥ね上げ神社、打ち上げ神社といって、簾を撥ね上げる、打ち上げるといって、高良神社とは言っていないです。これはですね、ご神体を外にお出し申し上げる時に、簾を撥ね上げる、打ち上げるといった荒っぽい行動を許されたお宮さんはゼロに近かったのです。当時、日本最高格式のお宮さんは高良大社だったんです。別の名前では宮地嶽神社です。これは大阪の撥ね上げ神社、打上げ神社の飛び入りの話です。これはですね、日本人よりも朝鮮人の方たちが、一生懸命、ここを調べているのです。何でかと申しますと、さっき申し上げたように、ニニギノミコトの故郷は、コリョン(高霊)なんです。これが日本にきたら、宮本武蔵のお母さんの故郷、町の名前で言いますと兵庫県作用町です。ところが、神社の名前で言いますとサヨ神社です。『サヨ』というのは誰の代名詞かといいますと、“イチキシマヒメノミコト”、“弁才天”さんの代名詞です。そしてついでに、弁財天さんの名前を出しましたので、言い忘れないうちに変な話を申し上げます。皆さん恐らく聴いたことがある人はゼロだと思います。

それは、さっき書いた『氵嬴イン』(オキ)、『興』(オキ)、『沖』(オキ)とも同じくオキといいます。この『氵嬴イン』の字を使いますとイチキシマヒメです。この『沖』を使いますと、イチキシマヒメにお仕えしたオキツ姫です。そして、このオキツ姫と同族であり、おばさん、おい・めいごの関係のトヨタマヒメの場合は、『興』この字を使います。後はつけたしです、これは無視していいです。こういう風にして、頭の良い人たちの場合は、千何百年前、使い分けしていたのです。ところが此の頃の宮司は、宗像の場合は、5年間ああじゃこうじゃ間違えて滅茶苦茶にして、とうとう此の頃は何か落ち着いた感じですが、そのうち、あそこのパンフレットを貰ってみてみようと思ってます。

コノハナサクヤ姫の故郷は金海(キメ)です。

日本には、皇紀紀元2600年の歌で有名な年号があります。これは阿蘇年号です。それも下克上阿蘇年号です。やりっぱなしに阿蘇家が荒れているのです。古事記という題材を通して、荒れました。もう、滅茶苦茶。これが紀元2600年です。ところがそれを打ち砕く年号が出てきました。それは『氵嬴』氏年号です。これはこの地区で最も古いお宮さん、清浦圭吾の生誕地の近くにあるお宮さん、『氵嬴』一族の頭領、金山彦の神社です。そして金山彦が最初に山鹿の相良でお生みになったアイラツ姫は神武天皇のお后でしたが、ある理由によって宮崎県で離婚させられました。どういう理由で離婚させられたかは今は申し上げませんが、そのことをはっきり伝えているお宮さんは宮崎の油津にございます。そしてその後、アイラツ姫はどうなったかというと、阿蘇家に払い下げられました。そして、その後がですよ、その子孫・子孫・子孫は、みんな困ったり、問題起したり、困ったり、問題起したりで、神代の最後まで荒れています。その一番荒れた人物が、現在の阿蘇神社のご祭神、健磐龍です。何をやったかといいますと皇后陛下を略奪しているんです。詳しい話はこの付近で止めておきますが、ともかく、皇后陛下を略奪したもっとも有名なのは阿蘇神社の健磐龍です。そして、あの人に関する神話は嘘ばっかり、宮崎県日向市に神武天皇の船出の地がある。あれは嘘です。あの神武天皇は祟神天皇です。そして、祟神天皇を嘘とわかりながら隠して、神武天皇として盛んに売り出しているのが、鹿児島の福山にある神武天皇社です。間違いなく嘘とわかっていながら、声を大きく発表しないで神武天皇を祀っているんですよで誤魔化すんです。本当のことをいえないから。そして、その南九州に本物の神武天皇が跡形を残してらっしゃる。どのような跡形を残しているかというと、第一、都城、隼人、次、八代地区、こういうところに神武天皇の、そして、お姉さんであるアマテラスオオミカミの御足跡がそっくり残っています。そして、今度はですね、その神武天皇が日本を全部回って、神武東征ではありませんよ、神武御巡幸です。日本全土を御巡幸なさっています。その跡が日本の各地に残っています。ところが全部秘密にされていますが、此の頃ちょっとだけ、尻尾を出そう出そうと努力している宮司さんがおられます。その一つ、牡鹿半島、男鹿半島、私が今何を申し上げたかわかりますか? 牡鹿半島は太平洋、同じ字でありながら、男鹿半島は日本海、そしてどっちも神武天皇と関係があります。そして特に、関係が生々しく残っているけれども、表面に出すわけにはいかんと言う立場で残っているのが男鹿半島の『なまはげ』、秋田なまはげですよ。そしてその『なまはげ』のお兄さんであるのが鹿児島の川内市甑島で主流の『としどん(矢五郎どんではない)』です。とにかく、人物は鹿島の大神です。即ち、本当の阿蘇家の偉いほうにおいての初代である海幸彦です。それが鹿島の大神という名前で鹿児島県の川内からずーと、鹿島、鹿島、鹿島、鹿島、鹿島、ずーと、その終点が茨城県の鹿島神宮です。そして、茨城県の鹿島神宮の鹿島の大神が出張してきておられる場所が、熊本玉名の玉名大神宮です。玉名大神宮に行かれますと、あそこは神武天皇及びそのお姉さんであるアマテラスオオミカミをおまつりした神社でありますが、その家来である鹿島の大神が突っ立ってらっしゃいます。もう、虫食ってぶっ壊れそうですけれども訪問なさる価値はあります。場所は新幹線玉名駅の目の前です。

西暦の5年が、『氵嬴(いん)』氏の暦の元年です。従って、日本の金山彦、金山彦の年号は西暦の5年を持って元年とする。蘇我元年です。蘇我、蘇我、蘇我氏ですよ。そしてこれをいまだに守って大事にしている蘇我さんたちは、どこにいるかと申しますと東四国にいます。香川県、徳島県あたりに大事にこれを守って今も住んでいます。かれらはヤマト朝廷と年がら年中喧嘩しています。どちらが正しいとはいえません。喧嘩ですから。

この蒙古のすばらしいスタイルの別品さんの後ろの山(写真)は、熊本城本丸御殿、王昭君の御陵です。王昭君は紀元前33年にいわゆる中華民族と匈奴が仲良くするようにとなって、自分は犠牲になって匈奴のお爺ちゃんに嫁ぎました。そしてそれ以後、この系統の匈奴は中国と喧嘩をしなくなりました。そして、その子孫のうちの代表的人物が大国主のみことです。

江田船山古墳そして埼玉県稲荷山古墳、稲荷山古墳は鉄剣です。江田船山古墳の方は鏡です。鉄剣の方はわりと有名なので何人もの人があの文字を雄略天皇の文字を判読することに挑戦しました。ところが、船山古墳の鏡の文字は私以外に判読した人はいないです。難しいです。それで私は中国語をそのまま判読しまして、“はるかなるトンカラリン“という35年前の西鉄歴史のたびの時に船山古墳の銅鏡の文字の判読を発表しました。そのなかに何が書いてあるかと申しますと、この鏡に関係ある人たちは、自分達の先祖は蒙古、蒙古、蒙古、蒙古が自分達の先祖の地であると書いてあります。それを辿りたどってゆきますと、私がいずれ発表申し上げましょうと申し上げた、生目古墳、生目、生目、生目神社に到達します。この生目の謎を解いた人はゼロです。しかし、私の目から見れば丸見えです。だけど、出版は遠慮しています。何で遠慮しているかと申しますと、九州王朝に対して、そして九州王朝だけではなくて、さっきのアイラツ姫のお母さんに対して、アイラツ姫のお母さんの名前は何となっているか、神様系図の方をご覧になってください。『燕脂(えんじ)姫』、えんじ姫とは白粉(おしろい)姫という意味です。このえんじ姫の御陵が皆さんがご存知の奈良の箸墓です。ところが、秘密になっているが故に、現地では、奈良県御所市に燕脂姫の脂がとれた『燕』神社にご祭神として祀られています。そして、御陵の箸墓の本当の名称は大市(おち)墓です。資料には燕脂姫の左となりに大市(おち)姫(別名)とはっきりかいております。大市は当て字がいくつかあります(越智、等)が、どれでも結構です。あくまで大市はおちです。そしてあくまでも故郷は金海(キメ)です。

当時、蒙古大草原に住んでいた人々の服装です。この蒙古大草原の住民のなかには河童がいるんですよ。台湾の総統の馬さんあたりは、あの連中は河童の子孫ではないかと私は見ております。私は現物を見てきました、その場所はですね、遼寧省の重陽市で見てきました。そこはこの河童一族達の戦争の牙城の一つだったところです。今も牙城です。

祈る人、祈る人、神に仕えて祈る人(シャーマン)、蒙古スタイル、蒙古にも顔立ちがいくつかあるんです。日本人とそっくりの顔立ち、のっぺら朝鮮顔の人もいます。これは民族が違うのです。

ピンホーリーライといって、福岡市及びその隣接地区で、阿蘇のクソヤロウ来るなら着てみろといっているのは、誰が言っているかというと、山幸彦のもっとも信用できる大本山は島原市にございます。五十猛(いそたける、いたける、どちらで呼んでも結構です)この人たちが、海幸のクソヤロウといって、神社の祭礼で争っているのです。どうしてこんなことが怒っているかというとこちら(海幸彦)が欲張りすぎています。別れた嫁さん、海幸と別れて、山幸彦と一緒になった嫁さんを、海幸側が取り戻そうといまだにしているのです。1800何十年前の出来事をですよ。それで頭にきて、ピンホーリーライ(阿蘇家(りー)のクソヤロウ、来るなら着て見ろ!という意味、これは中国語を知ってる人でないと判らない)、といって祭礼で争っているのです。神社の行事としてこれをやっているのです。そして、これにもう一人、男が登場します。海幸の嫁さんであったイチキシマヒメ(弁財天さん)は、高木の大神の命令で、この人(大国主)のお后に変わります。そして今度はこの人(山幸彦)のお后であった青龍大権現ことトヨタマヒメも、この人(大国主)のお后になられるのです。一緒にダブルでお后になられるのです。そして、イチキシマヒメもトヨタマヒメもどちらも旦那よりも位が上なんです、偉いのですが、奥さんは奥さんで一生懸命努力して、旦那を立てよう立てようとしてらっしゃるのです。どこでその努力をなさっているかというと、その場所は、四国香川県でもごさいません。出雲でもございません、京都でもございません、九州でもありません、その場所は、府中市、東京都府中市、ここに武蔵大国玉神社が祀られています。ここに大国主を中心として、関東の人々が、関東の偉い神様を集めようと、大工事を何百年がかりでやっています。現在もその工事を続けて努力なさっています。ここで、注意しないといけないことは、決して大国主は、ほらを吹かれません。武蔵と名乗ってらっしゃいます。阿蘇家だったとしたらやりっぱなしにほらを吹くんですよ。皇太祖争いをするのですから。大国主はそんな馬鹿げたことはされません。自分で謙って、武蔵大国魂といって、武蔵地方を支配させていただいている九州王朝にお世話になっている大国主ですと申し上げて、大国主は九州王朝をお守り申し上げて、そしてその結果として、武蔵大国魂神社の中心人物となっておられます。そして、そこに筆頭としてお迎えされた人物が、これがまた難しい。二人だけ書きます。青龍大権現こと豊玉姫です。そしてこんどは、大国主の側近みたいなスタイルで鎮座していただいた方の素性を申し上げます。これは、東京でこのことを知っている人はひとりもいませんよ。天下春(治)=天下シロシメス人物、神武天皇ということです。治の当て字を春としていますのでわかりにくいが、天下を治めすという意味です。そしてこっち、杉山姫、大分県由布院の豊玉彦(ヤタノカラス)の系統の神社がありまして、結論として、杉山姫という名前に落ち着いています。この方が、旦那さんを嫌って逃げ出したか、意識的に阿蘇のご祭神に略奪してもらったのかどうかはわかりませんが、阿蘇ではこの人の名前は阿蘇津姫になっています。要するに略奪された花嫁です。あの当時はわりと略奪されても平気のへいざという顔が今よりずっと多かったことは事実です。そして、この方の系統には、略奪された、略奪した、そして熊襲の母親になった、可哀想、可哀想、可哀想が熊襲まで続きます。そして、熊襲の後に続いたのが、この人、羽白熊鷲です。どこでこの人が天皇家に立ち向かってきたかというと、この人の拠点は複数個所ありました。第一の場所、福岡県甘木市の寺内ダムのところに羽白熊鷲の墓があります。土地の人は羽白熊鷲は偉いんだと威張ってます。ところが、歴史上は大悪人になってます。そしてもう一つのこの人の牙城は、糸島の雷山です。雷山では羽黒熊鷲(明治時代の三省堂の辞書には雷山に羽黒熊鷲とかいていますが、これは辞書の間違いで羽白熊鷲のことです)になってます。いずれにしてもですね、この羽白熊鷲は誰とタイアップしたかというと熊襲の頭領、川上猛とタイアップしています。川上猛はどこに住んでいたかというと佐賀市です。佐賀市の背振山の一角に住んでいました。そしてその人の部下である熊襲はどこに住んでいたかというと、熊襲の大半は現在の隼人を中心とした地区に住んでいました。だから親分はこっちにすんで、子分達は向こうに住んでいた。海幸も山幸も熊襲を統治していた時代があったんですよ。そして、伝統の熊襲統治はそれに引き継がれたということです。そして熊襲統治の残影が可哀想で出版できませんが、福岡の私の近くに、丸々、熊襲の子孫と羽白熊鷲の子孫が集落をなして住んでいらっしゃいます。そして、彼らたちは秘密の神様を守っておられます。秘密の神様というのは阿蘇の神様です。『雨宮姫』、雨宮姫はですね、羽白熊鷲と熊襲の犠牲になって、にっちもさっちもいかなくなって、自分の本拠地の背振には居れなくなったのです。そしてどこへ逃げていかれたかというと、逃げていかれた場所は信州諏訪大社です。これまではずっと秘密にしておられたのですが、うっかり、うっかり諏訪大社さんがばらしてしまわれたのです。取材陣に雨宮姫の紋章をばらしてしまったのです。そして、私は、それを見ただけですぐわかるんですよ。判らない人は全然判りませんけれども、私はすぐ判りましたので、はっと思いました。雨宮姫がテレビによってばらされたということです。この方々、系統は、阿蘇に住んでも、背振りに住んでも、どこに住んでも、可哀想な可哀想な運命をたどっておられます。この阿蘇の略奪婚の話は、興味がある方には、もっと詳しく、系統立ててお話します。だけど、阿蘇宮司さんは怒るでしょうね。或いはえへらえへら笑っているかもしれません。

本当の安徳天皇、安徳天皇の代理の安徳天皇、お二人とも死んでおられません。本当の安徳天皇は最初は対馬におられましたけれども、後々、薩南諸島の喜界が島の方にお移りになって、向こうの方で通称、長浜(ながはま)と名乗って、最後の安徳天皇は数年前にあの世に行かれました。私はその方とあの世に行かれるまでずっと文通しておりました。ということはですね、私の方の先祖が、後鳥羽天皇からのお便り、御しんかんと申し上げます。このお便りを後鳥羽天皇のお兄さんである安徳天皇に、私ども、筑後黒木城の一族が直接お渡ししたのです。そういう関係で、ずーっと、この安徳天皇、後鳥羽天皇、南朝の天皇ともあの世に行かれるまで、数年前までずーっと年賀でお付き合いしていました。そして、南朝の天皇はお兄さんの方は栃木県に住んでおられます。戸塚様と申し上げます。そして、弟さんの方は名古屋地区に住んでおられまして、熊沢様と申し上げます。どっちも関係がありまして、そして、私達の一族が天胤を腹に宿して帰ってきたのは、天承年間(1131)です。そしてその子孫達は、佐賀の鹿島と熊本の玉名、それから、筑後の黒木なんかに名前を変えて住んでおります。
本当の安徳天皇及び代理の安徳天皇をお送りした時の総支配人である平知盛公の歌、『とけん(杜鵑)啼く、みひとつに下るあめあられ、つもるこころをしるひともなく』、杜鵑とはほととぎすのことです。ともかく総支配人である自分(平知盛公)もたまらんけれども、代理の安徳天皇も、本当に逃げる安徳天皇もたまらんだろうな。という平家の哀れを謳った歌が安徳天皇の直系の子孫のうちに残っているのです。私は、これらの平家の御子孫、嫡孫の方々とやり取りした書簡・資料などを全て、平家の残党を守る平家の会が三重県にございますが、そこに寄贈いたしました。
そのなかの資料をちょっと読んでみましょう。
『寿永2(1183)年、密談の上、評議は一決した。第一回目の西国落ち、その時、本当の安徳天皇は8歳、元暦2(1185)年、3月7日、諸、詮議をして、東国の軍勢との直接対決は不利との答えを出し、かくて再度の都落ちと相成った。平宗盛は諸侯への手配を新大納言知盛に一任した。人々は帝の身代わりとして、清宗の息子、実は、平時房(ときふさ)の女(むすめ)、かせの君、7歳を用意した。そして、身代わりの安徳天皇は吉日を選んで、8904人に護られて、極秘裏に瀬戸内海を出発した。一方、資盛は正三位左大将兼征夷大将軍に任じられ、若いながらもおじの知盛に代わって、安徳天皇防護の大任を帯びることとなった。そして彼の主従304名は日向方面を目指して、屋島の陣を出発して、翌16日伊予の高島に到着した。ここで、小船700余艘に乗り換えて、一千余名の雑兵も新たに平家方に加わった。そこで熊本の菊池次郎ユキヨシという国人が海の航路の案内を仕った。そして、軍備兵糧も雑務も整えた、資盛(すけもり)と業盛(なりもり)は長安てんふの故事に習い、船団を津津浦々に寄せ、元暦2(1185)年ようやく硫黄島の長浜に到着なさった。御座船から浜にお移りになった帝は海水にてお手を洗われ、早速、浜に大きな幕をお張りになった。その翌日から、その場所を黒木御所とおよびして造営が始まった』。

菊池城および黒木城は、最後の最後まで南朝とともに行動してました。最後は菊池氏滅亡のあとは、菊池であっても黒木の苗字を名乗って、最後まで南帝と行動をともにしました。そして、最後の最後が残っている場所が、三重県熊野市です。熊野星野城、その熊野星野城の隣は熊野楠木城です。そして、ここに最後までいた連中は今どこにいるかというと星野が楠木を連れて来まして、現在の黒木城下に楠木がいっぱいいます。その代表的なのが久留米の楠(くす)病院です。ともかく楠木一族は黒木城下にいっぱいいます。

この資料の上の方に、北海道江差の宮地嶽神社(姥神大神宮)の写真がございます。左には『三階松』の御紋章が見えます。これは開化天皇の御紋章です。ところが福岡の宮地嶽神社ではこれが開化天皇の御紋章であるということを消しています。誤魔化しています。そして、この写真の右の方の神功皇后の紋章(『抱き菊の葉に菊』)が見えます。ところが、福岡の宮地嶽ではこの御紋章はありません。そして全く、気が付かないことを一つ申し上げます。福岡の宮地嶽神社を護ってらっしゃるのはこの方(豊玉姫、1847歳)です。江差の宮地嶽神社(姥神大神宮)を護っているのはこの方(豊受姫、1846歳)です。この方々はいとこなんですよ。この人(豊受姫)のお母様は、豊玉彦の嫁になられたのです。お母様の豊玉彦の嫁になられる前の名前は神大市姫、そして旦那さんが豊玉彦に替わったときの名前はミズハノメの神にお代わりになりました。ミズハノメの神は阿蘇白川水源の神様です。そして、ここにいらん奴がもぐりこんでるのです。それが海幸彦です。阿蘇家が下克上をやりっぱなしで本当の歴史を荒らしているのです。これは本人がそうしているのではなく、それを応援している下っ端の連中が荒らすんですよ。そして、豊受姫というのは別のお名前で申し上げれば、どのようなお名前か、どこに鎮座しておられるか、ピンとこられますか?豊受姫は伊勢皇大神宮の下宮様です。そして、伏見稲荷となった場合は稲荷様です。豊玉姫はずっと豊玉姫です。ただし、豊玉姫であっても、旦那様が代わると、旦那様も名前を変えてらっしゃる。姿を隠してらっしゃるというふうな不自然な姿のお宮さんができてまいります。その一番のいい例を申し上げます。宗像大社です。宗像大社の御祭神はどなたであったか?本当の御祭神は大国主の神です。宗像大社の高宮に鎮座してられます。宗像大社の千木は大国主の性器(男千木=外削ぎ)です。女千木は内削ぎです。これからお宮さんにお参りになるとき千木に注意なさたら、あれ?あれ?っと思うことが何回もあるかと思います。非常に大事なことです。この千木はグリーンランドの端っこまで、千木の習慣は広がっています。想像に絶しますね。それから鳥居の原点はどこにあるか、これは中国の3000年以上も昔に栄えた殷王朝の鳥居にさかのぼります。この殷王朝の鳥居は、日本の福岡県吉富町の古表宮に保存されています。そして、古表宮の鳥居を勝手に真似したのが、三輪大社の三輪鳥居と勝手に呼んでいるあれです。三輪はなんでも余所のを分捕ってで自分のものとする悪い習慣を持っています。これは阿蘇以来の悪の習慣の伝統です。阿蘇以来の悪の習慣の伝統はどういう紋章で現れているかというとその紋章を伝えているのは北条家の紋章です。『三つ鱗』です。そして、北条家以前にこれを使用した人々がいます。それは大神(おおが)一族です。阿蘇の一族ですね。しかし、阿蘇の一族といいながら、全くの多民族一族です。そして、多民族一族のなかでも特に威張っているのはウガヤフキアエズのミコトです。もう、威張るだけ威張っています。だからこの威張り具合いは別の機会にお話します。

古表宮のことを申し上げましたので、古要を申し上げます。古表は福岡県側の吉冨町、古要は大分県側の中津市にあります。どちらも秦の始皇帝のところに西の方から逃げてきた逃げてきた逃げてきたの、後々、氵嬴(イン)一族といわれた人々の一時の仮住まいがここにあったのです。どこを意味しているかというと、胡は胡人の胡です。胡は西から来た人という意味です。次は、表、要の地はどこにあるかというと大体、酒泉、これはですね、万里の長城、万里の長城の東の終点から、日本の方を眺めると、時たま、変な画像が浮かび上がるそうです。日本があるんですよ。東の端っこです。そして、万里以上の遠いところに酒泉がある。別の名前は嘉峪関(かよくかん)、万里の長城の西の終点です。熊本城とそっくりです。一万六千里くらい離れている。そして、嘉峪関の近く、同じ場所に酒泉がある。酒泉の意味は、2100年前に漢の武帝がやられてやられてやられっぱなしであった匈奴をやっつけてホッとして、将兵の苦労をねぎらう為に大きな酒樽を酒泉に運びまして、それでもその兵隊の数に足りないので、ここの泉に酒樽の酒をどーと投げ込んでみんなで夜光杯をかたむけたんです。夜光杯は玉(ぎょく)です。これを何万の将兵が酒泉に投げ込まれた酒兼水を夜光杯でかたむけたのです。この玉の産地はここですが、この山の名前が出てこないのです(牛島注:祁連山脈、主峰は祁連山(天山)のことか?)。また、ここは当時、ウマの産地でもあります。また、今も中国共産党はここでウマを飼育していますが、何頭飼育しているかは秘密にしていますが、膨大なウマをここで飼育しています。カラコロン山脈(9000m弱)、ここはパミール高原(8000m弱)、天山山脈(8000m弱)、ヒマラヤも9000m弱です。崑崙山脈は8000m弱です。いずれにしても桁が違います。たまたま先日ですね、パミール高原を西に越えました、私はこの時、すぐにカシュガルで酸素袋を買いました。ところが一人うぬぼれやさんがいました、これは伊万里の人でした、青年。この人だけが酸素袋を買わなかった。そしてパミール越えをやったんですよ、私達が越えた高さは5000m弱でした。そして、パキスタンの近くまで来たのでした。そしてパキスタンに入るつもりだったら、中国共産党の守備隊が来て、今、撃ち合いが始まりましたので、ここで終点にしてくださいといわれて蒙古式のホテルに泊まりました。ともかく私はこのシルクロード越えを合計11回やっています。中国へ400回行ってます。それくらい金使わないと中国のことは判らないです。崑崙山脈が意外と高いのですよ。そして、この崑崙に5000年昔にやってきたヘブライ人達の生活の跡がそっくり今も残っています。日本と100%関係のある名前が堂々と漢字で登場します。日本でもそのまま漢字で登場する。向こうでも同じ字で登場します。そこが面白いですよ。5000年前の話ですよ。だからですね、私がお話申し上げている中で、『えー』と思われる部分にもですね、裏付けを見せますと、『はー』と大半のかたは納得されます。例えば、さっき申し上げましたように、「要」という地名が酒泉の近くに今もあるんですよ。それから、「支那」という地名も今の中国の雲南省の地図にあるんです。「表」の地名についても、酒泉の近くに同じ名前があると思って探しております。


改定0版 2013年10月24日
改定1版 2013年10月31日