わが国外交の基軸は日米同盟だ。原発事故という国家的危機にあって、同盟国である米国は手厚い支援の手を差しのべてくれた。しかし、国家としての軸足が定まらなかった最初の数日、米国がわれわれに投げかけてきた視線は厳しかった。

 この状況を改善すべく開催された日米合同調整会議に自衛隊を代表して出席していた磯部晃一氏は、当時を振り返り「同盟国は行動を共にしてくれるが、運命は共にしてくれない」というド・ゴールの言葉を引用して当時を振り返った。あのとき、日米同盟は瀬戸際に立たされていたことを決して忘れてはならない。


≪佐藤雄平・前福島県知事≫

佐藤 (除染の1mSvの目標について)あの時は本当に悪いけど、県民の安全と安心をとにかく全力で護るためなら、これは本当に無理だなと思うことまで含めて全部言わせていただいた。今まさに非常事態に苦しんでいる県民の不安や障害、強く要望されたことを、きっちりと政府に伝える責務が県にはある。あとになってからなら何とでも言えるかもしれないが、当時は違う。それが必要とされるような世論であり、状況だった。県がそういう姿勢を尽くすことが、当時の多くの県民の安心にもつながったんです。

細野 やっぱり子供の存在は大きかったですか。

佐藤 大きい。なんていったって子供らが大事だから。



≪竜田一人・ルポ漫画『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記』作者≫

竜田 こう言っちゃうとあれですけど、「線量 1ミリ(追加被曝線量を年間 1 mSv)まで下げる」っていう当初の約束は、あれって正直、言いすぎたと思ってるんじゃないですか。

細野  そこは 2011年の夏から秋にかけて、ものすごく悩んだところなんですよね。



 あのとき、年間1ミリシーベルトという除染目標を明示しない方法はなかったか。これまで何度も自問自答してきた。除染目標は、私の意に反して帰還の基準や安全基準と混同され、独り歩きすることになってしまった。

 目標を明示しなければ福島との合意はできず、除染の開始も遅れることになっただろう。福島県の強い要請や汚染者負担原則など、目標を定めた理由を上げることはできるが、あのときの判断が結果として浜通りの復興を遅らせたのではないかとの思いは捨てきれない。しかし、時計の針を戻すことはできない。果たすことのできなかった責任を全うするために、福島のこれからのために政治家として全力を尽くす覚悟だ。


≪渡辺利綱・前大熊町長≫

相馬藩には野馬追に象徴されるように1100年の歴史があって、6万石ほどの小さな藩だけれどもずっと残ってきた。千年の歴史の中でお互い協力し合った積み重ねがあって初めて文化が栄えるわけですよ。そんなに簡単に人が一緒に住めば町ですよっていうのは妄想だっていうのを私は言ったんですけど。



≪遠藤雄幸・川内村村長≫

被災地の住民は、自分が被災したという意識は強いですよね。先ほど自立独立の気風のお話が出ましたが、原発事故によってそれが失われた部分もやはりある。その被災者の意識をどう自立の意識に変えていくかです。やはり自分の人生設計の中で、いつまでも被災者だという不幸に甘んじるわけにはいかない。どこかでやはり震災前のような生活、自分で判断して行動できるような、そういう生活パターンをきちんと確立していかなければいけないんだろうと思います。


 福島の最大の課題は浜通りの市町村のこれからのまちづくりだ。他の地域で生活基盤が確立した人の多くは、故郷への思いを残していたとしても、これから住民として戻ってくることは考えにくい。やがては震災・原子力災害対応の予算も減少し、地元自治体の自立的な財政運営が求められる時代が来る。

 積み重ねてきた歴史を大切にしながら、以前の街を取り戻すという発想ではなく、新たなまちのかたちを明確にしていくことが求められる。次の10年は、浜通りで始まっているイノベーションコースト構想や中間貯蔵施設の将来構想に地元の企業の参加を募り、具体的なプロジェクトを推進することで自立的な地域づくりを目指すべきだ。
帰還困難区域への立ち入り規制が緩和され、ゲートを開放する警備員=2021年3月8日、福島県大熊町
帰還困難区域への立ち入り規制が緩和され、ゲートを開放する警備員=2021年3月8日、福島県大熊町
 「いちえふ」にたまり続ける処理水、福島県内で学齢期の若者については、悉皆(しっかい)検査に近い形で行われている甲状腺検査など、10年が経過する中で決断が求められている問題は他にもある。新型コロナウイルスで社会が騒然とする中で、今こそ福島を国民に問うべきだと信じ、拙著を世に送り出すことにした。一つでも福島のためにできることを見つけてくだされば望外の喜びである。