横浜ドリームランド
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横浜ドリームランド(よこはまドリームランド)は、神奈川県横浜市戸塚区俣野町字沖原700番地で営業していた遊園地。日本ドリーム観光株式会社の手によって1964年8月1日に開園し、2002年2月17日、経営悪化のため閉園した。兄弟的存在である奈良ドリームランドが先に開園していたが、当初は東京近郊に建設する計画であったため、奈良に次いで、横浜ドリームランドが開園した。日本ドリーム観光がダイエーに吸収合併された際には、引き続きダイエーと、その子会社であるドリームパークによって運営されていた。
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主なデータ
- 営業時間:10:00-17:00(3-11月)、10:00-16:30(1・2・12月)
- 入園料:大人800円、小人400円
歴史
開園
1964年8月1日、「昭和の興行師」と呼ばれた松尾國三率いる日本ドリーム観光が毎日新聞社の後援を受けて、横浜ドリームランドを開園した。松尾は「観光立国」を標榜し、かねてから東京近郊での一大娯楽施設を開設する事を目論んでいた。開園当初の横浜ドリームランドは、「日本のディズニーランドを目指す」という松尾の構想に基づき、総工費約200億円をかけて約132万平方メートルの広大な敷地に遊園地やボウリング場、スケート場、ショッピングモール、ホテル、映画館、そしてアクセス用のモノレール(ドリーム開発ドリームランド線)まで用意した、当時の日本国内でも屈指の一大レジャー施設であった。
斜陽
開業翌年の1965年には、隣接地に当時神奈川県内で随一の高層建築物であった「ホテルエンパイア」が完成した。さらに翌年の1966年5月2日には横浜ドリームランドと当時の国鉄大船駅を結ぶモノレール大船線が開通したが、技術上の欠陥により僅か1年5か月後の1967年9月24日に運行休止に追い込まれる(運行休止中にドリームランド線に路線名変更)。
この結果、最寄駅、当時の国鉄(大船駅・戸塚駅)から距離の遠いドリームランドへのアクセスはバスに限られてしまったが、高度成長に伴う周辺の宅地化によってバスが通る道路は混雑するようになり、空いていれば大船駅から20分程度で済む乗車時間が渋滞の度合いによっては1時間前後かかることもあった。また、東京都内や横浜市街から自動車で来場する場合も、神奈川県内屈指の渋滞箇所、国道1号原宿交差点を通らなければならなかった。この交通アクセスの悪さは、以後閉園に至るまで横浜ドリームランドの致命的なウィークポイントとなった。
モノレール休止後間もない1970年代初頭には早くも資金繰りに苦しむようになり、1970年に敷地東側(全敷地の約4分の1)の売却を余儀なくされた。売却された土地には、神奈川県住宅供給公社と横浜市住宅供給公社によって「ドリームハイツ」という名の高層団地が建設され、2010年現在も団地は残っている。
またドリームランドの敷地内には、横浜銀行戸塚支店ドリームランド出張所があったが、2010年現在は支店に昇格し、横浜銀行戸塚南支店となったため、ドリームランドの名はこれを以って消滅した。この出張所は、有人店舗では珍しく正午から午後1時までの1時間の休憩時間が有、窓口業務を休業していた時期が有った。
衰退
それでも1970年代から1980年代初頭にかけては、京浜地区で同規模の遊園地が少なかった事からそれなりの入場者を集め、一時は年間160万人を数えたが、1983年に本家筋とも言える東京ディズニーランドが開園した事で決定的なダメージを受けてしまう。面積・立地・アクセス・マスコミ露出度・アトラクション内容・ネームバリューの全てにおいて大きく水をあけられた横浜ドリームランドはたちまち客を奪われ、以後経営は急転直下の道を辿る。創業者の松尾國三も翌1984年に死去し、日本ドリーム観光は松尾の遺族と経営陣との間で泥沼の経営権争いが展開されたのちに、1988年に松尾の盟友であった中内功率いるダイエーの傘下に入った。
ダイエーは当時プロ野球球団・南海ホークスを買収するなどの隆盛を誇り、横浜ドリームランドにも再興の期待が膨らんだが、それも程なく訪れたバブル崩壊とともに水泡に帰し、経営はいよいよ末期的となった。その後も頼みのモノレール運行再開計画は遅々として進まず、1993年に同じ横浜市内に競合施設となる横浜八景島シーパラダイスが開園したことに加え、少子化やレジャーの多様化が追い討ちをかけて客数は減少を続け、年間入場者は最盛期の約半分程度まで落ち込んだ。
1995年には長年のあいだ開店休業状態であったホテルエンパイアが廃業したが、それでも横浜ドリームランドは松尾の遺志を受け継いだ中内によって延命措置が図られ、細々と営業を続けた。
閉園
しかし、ダイエー本体の経営不振が深刻化して2001年に中内が失脚すると、ダイエーは債権を持つ銀行側から2002年の内に約100億の負債を処理しない限り今後の融資は出来ないと突きつけられたため、不採算事業や本業との関連が薄い事業の売却・撤退を加速させた。これにより、不動産としての資産価値が高い横浜ドリームランドは、営業の継続よりも敷地を現金化することのほうが得策と判断され、同年閉園が決定・発表された。そして翌2002年2月17日、横浜ドリームランドは37年6か月の歴史に幕を閉じた。
その後
横浜ドリームランドの土地は、ダイエーに資産の処分を迫った銀行の仲介により、閉園よりも一足早い2001年10月に約88億円で中古車流通会社・USSに売却され、同社がオークション会場として使用する計画を発表した。しかし、ドリームハイツを中心とする近隣住民は、道路渋滞の増大や環境悪化等の原因になるとしてこれに猛反対。横浜市に対し、USSからの跡地の買収と公園整備を要望した。結局、USSはオークション会場の進出を断念し、横浜市に約104億円で買い取らせ、鶴見区大黒町に代替地を確保した。横浜市は取得した土地のうち、ホテルエンパイアの廃墟やボウリング場を含む敷地の半分を都築第一学園に売却し、残りを公園・野球場・霊園として整備することになった。旧ホテルエンパイアおよびボウリング場の建物は、都築第一学園によって改装され、同学園が2006年に開校させた横浜薬科大学の校舎となった。
2010年現在、横浜薬科大敷地を除いた跡地は横浜市によって「俣野公園」及び「新墓園メモリアルグリーン」の整備事業が行われた。「新墓園メモリアルグリーン」には公園型の墓地が完成し、俣野公園内には約3000人収容の観客席を備えた硬式野球場である「俣野公園野球場」が落成した。これらの整備事業と並行するように、周辺にあったダイエー系の商業店舗はすべて閉鎖・解体している。これにより、横浜ドリームランドは横浜薬科大学の校舎となった一部の建物を残し、完全に消え去った。
ドリームランドの閉園後も、神奈川中央交通のバス停として「ドリームランド」、「ランド坂下」が存在し、ドリームランド行の便が設定されることで名を留めていた。しかし、再開発が進むにつれ大学や地域から改名を望む声があがり、2009年4月3日をもって「ドリームランド」は「俣野公園・横浜薬大前」へ、「ランド坂下」は「横浜薬大南門」へそれぞれ名称変更され、名実ともにドリームランドは消滅した。
「ドリームランド」の隣のバス停は「ドリームハイツ」であり、ここを終点とするバスも存在する。また、2009年4月5日現在、同社の大船駅西口-立場ターミナル間時刻表に「ドリームランド」の表記がある。
エピソード
宮廷庭園
ヨーロッパの宮廷の庭園をイメージした4200平方メートルの大花壇。正門を入ってすぐのグランドアベニューにあった。庭園の両脇にはヨーロッパの町並みを摸したショッピングモールが造られていた。1980年に撤去された。
冒険の国
開園当初の目玉の一つで、アメリカのディズニーランドのジャングルクルーズを摸した「冒険の国巡航船」などがあった。建設費約30億円をかけて造られたが、経営悪化の影響で1970年に土地を売却し、高層団地のドリームハイツの一部となった。
ワンダーホイール
ドリームランドの目玉ともいうべき大観覧車。高さ75メートルで、開園当時は世界一の大きさと言われていた。ゴンドラの二台に一台は滑車が付いていて、観覧車が動くたびに揺れる構造となっていた。このため、スリルを味わう人が多く、動くゴンドラに人気が集中した。
シャトルループ
1979年3月1日に登場したジェットコースター。日本におけるループコースターの嚆矢。
メリーゴーランド
1976年に設置されたフランス製の2層式メリーゴーランド。閉園後は、同じくダイエーが経営に関わっていた小山ゆうえんち(現 おやまゆうえんハーヴェストウォーク)に、園内の備品などとともに引き取られた。
レインボープール
開園当初はこの場所に大噴水があったが取り壊され、1967年にプールが建設された。冬期はスケートリンクとして活用され、近隣の小学校などのスケート教室で利用されていた。閉園後は、スケート教室の廃止及び場所の移動といった措置がとられた。
ヘイヘイおじさん
アトラクション「ミュージックエキスプレス」の運行を担当していた従業員の男性で、地味なアトラクションを盛り上げるために派手な衣装を纏い、フィンガー5の「学園天国」の節で、「ヘーイヘイヘイ...」と声を掛けることで有名になった。定年後も嘱託として勤務しており、閉園に際して他の遊園地から再就職の声もあったが、「ヘイヘイおじさんはドリームランドであってこそ」との思いから辞退している。閉園後はドリームボウル(2004年12月12日閉鎖)にボウリング指導員として再就職していた。
ゲームコーナー
エレメカやピンボールなど、非常に古いアーケードゲームが残っている事で、一部のゲームマニアに知られていた。これはゲームコーナーの運営にドリームランド自体と、ドリームランドに入っている業者の二者が存在した為で、レトロゲームは後者により運営されていた。閉園後殆どのゲームは売却され、台場一丁目商店街では2010年現在も、ドリームランドで稼動していたゲームの一部を遊ぶ事が出来る。
ドライブインシアター
夢のホテル(ホテルドリームランド)跡の駐車場にはドライブインシアターが設けられた。松竹関連会社のMOVIXが設置。
キャンペンガール
1980年代には、毎年、若手アイドル歌手をキャンペーンガールとして起用したが、翌年には名を消すような地味なアイドルばかりであった。このため同じ神奈川県下でも、「大磯ロングビーチはアイドル歌手の登竜門、横浜ドリームランドは引退への花道」とまでいわれるようになった。
相州春日神社
松尾國三は、横浜ドリームランドの建設に際してその発展と繁盛を願い、敷地内に奈良県の春日大社から分霊を受けて「ドリームランド春日神社」を建立した。その後、神社とドリームランドとは敷地・組織とも切り離され、「相州春日神社」と改名した。境内には本場春日大社よろしくシカが飼育され、参拝客が鹿せんべいを与えられるようになっており、せんべいを与えられたシカは甲斐甲斐しくお辞儀をする。横浜ドリームランドの廃園時には相州春日神社は既に別組織であったため、跡地の整地・売却後も現存し、シカたちも健在である。
ロケ地
1970-1990年代にはテレビドラマの撮影が数多く行われ、中でもTBSの『キイハンター』『東京警備指令 ザ・ガードマン』には複数回登場した。『キイハンター』での、千葉真一のホテルエンパイヤ屋根上でのアクションシーンは圧巻であった。
1990年後半からは、映画やテレビCMのロケ地としても使われた。
テレビドラマ
- 平四郎危機一発 第5話『アフロディーテを消せ』(1967年、TBS)
- バンパイヤ(1968年、EX)
- 東京警備指令 ザ・ガードマン(TBS)
- 人造人間キカイダー(NET)
- イナズマンF(1974年、NET)
- 秘密戦隊ゴレンジャー(NET)
- 特捜最前線(1979年、テレビ朝日)
- 宇宙刑事シャイダー(テレビ朝日)
- イグアナの娘(1996年、テレビ朝日)
- 天国に一番近い男
- ひとつ屋根の下2(最終回)(1997年、フジテレビ)
- 聖者の行進(1998年、TBS)
- 探偵物語 第9話『惑星から来た少年』(1979年11月13日 日本テレビ系列)
映画
- 進め!ジャガーズ 敵前上陸(1968年、松竹)
- 踊る大捜査線 THE MOVIE(1998年、東宝)
- クロスファイア(2000年、東宝)
テレビコマーシャル
- au(2001年)
関連項目
- クレイジーケンバンド - 『ドリームランド入口』という曲がある
参考文献
- 日本観光雑学研究倶楽部「セピア色の遊園地 ―君も行った、僕も行った、あの遊園地・レジャーランド―」 創成社 ISBN 4-7944-2222-9