そして私は、一人と一匹の物語を終えるように
月が半分欠けた夜を、二本の足が歩いていく。
仕事で作った刺繍を町外れのナントカさんの家に運んだ帰り道に、久しぶりに私は貴族様の家の前を通り過ぎた。
門は今でも固く閉ざされたまま。
子猫じゃなくなった今の私では、すり抜けることなんてできはしない。
それが、「私」という人間への拒絶に思えて、なんとなく、悲しくなって。
以後この道は通るまいと心に誓い、帰路を急いだ。
○
あれから。
私の予感通り、数時間で私は人間の体に戻った。全裸で。
夜中で良かった。昼間だったら全裸徘徊ブチキメて折角人間に戻れたのに檻で暮らすことになっていたよ。
細心の注意を払いながら家に帰り、服を着たところで、物音に気付いて起きてきたおばあちゃんとばったり遭遇。
「ああ、アンタかい」
「うん。ただいま」
「随分長いこと出掛けてたねえ」
「まあ、色々あってさ」
「そうかい。じゃあ、あたしゃ、もう少し寝るよ。
最近寝付きが悪くてねえ、年は取るもんじゃない」
「はいはい」
連絡なしに三ヶ月程度家を離れていてもこの対応。ひょっとして嫌われているのか、とも思ったが、私の部屋に飾られたトチマビの花柄刺繍が施された無数のハンカチでそんな気持ちは吹き飛んだ。
あの人なりの心配があって、あの人なりの安堵があったはずだ。
部屋を出たおばあちゃんに深々と頭を下げ、久方ぶりの自分のベッドに身体を横たえる。
その固さと懐かしさが、私の夢をしっかりと終わらせてくれた。
次の日からはもう、刺繍屋の仕事をフル回転でこなし続けた。
針と糸を通している間は変なことを考えなくていいから、それだけに集中し続けた。
邪念を消すために没頭したせいか、私の刺繍屋としての腕は、なんだかもうとてつもないことになっていた。
貴族様の家で磨いた芸術センスも相まって、たったの二週間で見違えるほどに成長した。
今では、おばあちゃんではなく私を指名してくれるお客様も居る。ありがたい話だ。
そうそう。『呪殺令嬢』ことミリーさんは心を病んで衰弱し、今は家から一歩も出られず寝たきりの生活をしているらしい。
理由は公にされてないが、私が関係していることだろう。
必殺の呪殺ワンワンコンボを出しておいて仕留めることが出来なかった。となるといつ私がひょっこり現れて罪を告発するかわからない。
言うまでもないが罪なき人間を殺すことは重罪だ。それが複数人ならまず死罪。バレないとタカをくくって色々やっていたんだろうし、自分が死ぬ勇気はなかろう。
ハラハラドキドキ、いつ死ぬか、明日には死ぬかも。そんな状況が三ヶ月。精神は磨り減り、食事が喉を通らないのも仕方ない。
これっぽっちも同情の念は浮かばなかった。むしろざまあみろという気持ちを篭めて、お見舞いの品を一つ送ってやった。
猫と犬が戯れているように見える刺繍を施したクロスに、手紙屋に書かせた「また会える日が来るならば、私は貴女の手を取りたい」の手紙つき。他人が見ればただのクロスだ。
人を呪わば穴二つ。せいぜい、猫に追われる夢を見て、自分の呪いを呪うがいい。
もっと直接痛めつけてやりたかったが、下手に余罪をあけっぴろげにすれば、私が猫化薬の被害者ってことが公になる。
過去に「呪殺」された被害者のためにはそれがいいのだろうが、私の個人的な理由から、それだけはしたくなかった。
個人的な理由の中身? 猫だったことを知られたくない人間が、猫だと思ったまま私を嫌わないでほしい人間が、世界で一人だけ、居るからだ。
余罪をあけっぴろげにするのは、もう少しだけ先、私がこの街を離れる前日に、密書でだ。
○
人間に戻ってしばらくしたある日、珍しいものを見た。
「理想の女性画」だ。猫の時とは色の感じ方が違うのでそこは異なるが、独特なタッチやよくわからん見た目はそのままだ。何度も見つめた私だから分かる。
忌々しい恋敵は、市場の片隅に並べてあった。古いツボやよく分からない彫像と並べて、蚤の市みたいな感じで売られている。
正直、「それ」と知っていなければガラクタ売りとしか思わなかっただろう。
自然と足が止まり、視線が絵に釘付けになる。
そりゃそうだ。「理想の女性画」は画房に飾られていた貴族様お気に入りの絵、かつ他人では価値を見いだせそうにない絵。
これが世に出ることなんて、本来あるはずがない。
「どうした、お嬢ちゃん。気に入ったモンでもあったかい?」
声をかけてきたのは、貴族様とは似ても似つかない線の太い男。浅黒い肌に刈り上げられた白い髪、外仕事専門、という感じだ。
露店に居るのはこの男と、奥に控えている春日和の日に魔女みたいなローブを着込んだ人間(男か女かわからない)だけ。
「理想の女性画」以外は貴族様を思わせるものはなんにもない。まるでこの絵だけが、間違ってこの露店に並べられてしまったかのようだ。
「あの、これ……」
「これかい? こりゃあオイラの母ちゃんの爺ちゃんの兄ちゃんの孫の嫁さんの兄ちゃんのモンさ。
家の中がごちゃついてていらねぇっつーからもらったんだが、オイラぁ絵はさっぱりだ。
気に入ったんなら買ってってくれよ、安くしとくぜ」
へらりと笑う店番の男。まったく筋違いの説明に、一瞬唖然とし、その後に「商品として並んだ経緯」に思い至って一歩を踏み出して。
「こン……ッ!」
の、泥棒!という叫びを、すんでのところで飲み込んだ。
叫んでしまうのは簡単だ。だが、叫んだところで私の言葉の正当性を証明する証拠がない。
まあ、間違いなく正当なんだけど、「なんでこれが盗まれたものと知っているのか」を説明することが、今の私には出来ない。
貴族様の名前を出せば、私も不審者扱いだ。門外不出の画房の絵を知っている人間なんて、不審者以外の何物でもない。
「猫になって見たから知ってたんです」って説明する? まさか。そんなことを言えるなら、あの日別れを選んでいない。
「ン?」
「こン……の絵、よく見るととっても素敵! いただいちゃおっかな! はいお代!」
「お、いいねいいね! 持ってきな!」
「はーい! いい買い物! 自分へのご褒美ー!」
なんて言いながら、怒りを顔に出さないよう気をつけて足早に歩き出す。
これからは、まず、貴族様の家にこれを届けて、それから、ええと。
「リリ!」
振り向いてから、気付いた。
呼ばれるはずのないその名。聞こえるはずのないその声。
なぜ今の私が、その声で、その名を呼ばれるんだろう。
「ゴルドー、店を頼む!」
「あいよ坊ちゃん!」
動き出したのは、先の店で奥に控えていたローブ姿の人物だった。
慣れない脚付きで、それでも全力で人混みを掻き分けてくるその人物は、こんな街中を一番嫌うはずの人。
私の腕を掴む手は、あの頃感じたよりも、細くて長くて、柔らかい。
ローブの向こう、見慣れた顔があった。もう見ることはないと思っていた顔だった。
人に戻って分かることがある。貴族様の瞳は、綺麗な翡翠色だった、ということだ。
○
頭の中を駆け巡る疑問符の連打。
筋金入りの人嫌いが往来のど真ん中で初対面の人間の手を引く。こんなことをする貴族様なんて、猫の時分でも見たことはなかった。
ひょっとして、子猫(私)が居なくなってなんかおかしくなったのだろうか。
いや、でも、あの人は確かに私のことをリリと呼んだ。偶然にしては出来すぎている。
じゃあなんで私がリリと分かったんだろう。ひょっとして、自分では気づかないだけで、まだ何か猫な部分が残っていたのか。
「……」
「……」
「……」
「……あの」
流れる沈黙に耐えきれなくなったのは、やっぱり私が先だった。
いきなり手を掴んでくるという(いつもの貴族様からすれば)奇行があったものの、それ以外は、あの日別れたままの貴族様だ。
「私に、なにか……」
「リリ、だろう」
「リリ……ええと、どちら様でしょう」
「子猫の名だ。僕が付けた」
人々が物珍しそうに視線を向けながら通り過ぎていく往来のど真ん中。
苛立ちすら忘れたように、人嫌いな貴族様は私の手を握り、続ける。
「それが、私となにか……」
「私の家にリリが居た時期と、君が不在だった時期が重なっていて、気になって調べさせてもらった。
君が不在になる直前に、ミリー・ゴルベノーア殿と会っていたとカイゼル・ラングド殿から聞き、ミリー殿の身辺についても洗い出した。
そして、彼女が違法に仕入れていた『猫化の薬』に、辿り着いた」
何をどう調べたかはわからないが、曲がりなりにもこの街の権限を預けられている貴族様だ。本気になればそのくらい、朝飯前で調べられるということか。
「猫化の薬、ですか。この世にはへんてこな薬があるもんですね」
冷や汗ダラダラだ。笑顔は引きつっているだろう。
知られたくない。嫌われたくない。綺麗な思い出のまま消えてしまいたかったはずなのに、この手は既に捕まえられている。
「そんな薬があると知っても、君を目にするまでは、信じられなかった。
でも、君は確かに、あのガラクタの山からその絵を見て、店主の嘘に気づいた様子だった。
それに、なにより、君の絵を見る仕草や、身の翻し方、歩く時に揺れる癖、全てが、あの日のままだった」
動き。動きと来た。
私の動きは、そんなに猫なのか?
いや、こちとら二足歩行の期間のほうが長い。しっかり人間やれてる自信はある。
ただ、挙げ連ねられた特徴は、ほぼ無意識の私のもの。言われても気づけないほどのものばかり。
画家としての観察力で同居人の身のこなしを見続けていたから、事あるごとに絵に起こし続けていたからこそ、それを見落とさなかった。
見極めた貴族様が凄いのだ。
どうする。
ここまで来たらもう、認めるのは時間の問題だ。
だけど、認めたらどうなる。
「人嫌いの僕を騙しやがって!万死!」なんてことにはならないと信じたいが。
わからない。子猫の時にはあんなに分かっていた貴族様のことが、人間になるとてんでわからない。
「リリ!」
「は、はい!!」
がばりと肩を掴まれて、思わず返事をしてしまう。
貴族様の美しい碧色の視線が、私をじっと見つめている。
「ぼ、ぼ、僕と」
見る間に赤くなっていく肌。
見たこともない表情。
しどろもどろになりながらも、貴族様は、こう、口にした。
「僕と、友達になって、くれないだろうか」
……
……
……はい?
○
前代未聞の路上フレンドシップの直後、衝撃で揺れる頭のまま、あれよあれよと貴族様の画房に連れ込まれてしまった。
「……その絵を」
言われるがままに返すと、貴族様はその絵をいつもの場所に掛けた。うーん、しっくりくる。やっぱり「理想の女性画」はここにないと。
「この絵のこと、覚えてるかい」
「……貴族様の『理想の女性』を描いた絵、ですよね」
「……ああ」
リリであることを隠すのはもう辞めた。既に降参済みだ。
最早何が何だか私の頭では整理できない以上、物事を複雑にしたくなかった。私がリリであるということを隠すのをやめると、ちょっとだけ、気持ちが楽になった。
「僕は、他人が嫌いだ。
僕を知らずに、あるいは知ろうともせずに、僕の領域に踏み込んでくる。だから、嫌いだ。
口先で何を語ろうと心の底で僕をどう思っているかなんてわからない。だから、嫌いだ。
人がどう思っているのか、人からどう思われているのかを考えれば考えるだけ、息が詰まり、苦しくなる。だから他人が、嫌いなんだ」
初めて耳にする、貴族様の人嫌いの理由。随分単純で、だからこそ根が深い。
誰だって感じている、他人に対する感情。それが貴族様は、少し強すぎたのだ。
孤高。あるいは臆病。
「この絵は、画房を与えられた六歳の頃に描いた絵だ。
十数年、この絵は僕の独り言を聞き続けた。きっと、僕を誰より知ってくれている、理想の女性なんだ」
合点がいった。実在する誰かではなく、本当に「理想」を表していたのだ。
しかし、六歳の頃に描いたとは、六歳の貴族様はまだまだ才能に恵まれていなかったと見える。
「……おかしな話だよね。周りに心を開けないくせに、誰かに理解を求めるなんて」
「おかしなことじゃない、と思いますよ」
「……そうかな?」
「まあ、大小あれど、そういう思いは多分皆持ってると思うんで」
「……そうか」
貴族様の顔が和らぐ。
「リリは、素敵な猫だった。いつも真っ直ぐに、僕のそばに居てくれた。僕の話に応えるように鳴き、僕の顔を見て笑うように鳴いてくれた。
僕はリリを知り、リリは僕に応えてくれて、いつの間にか、リリは僕の一部になっていた。リリが居なくなったと知った時、魂が引き裂かれたような思いだった。これが、大切な誰かを失うということなんだと、初めて気付いた」
それから、四方八方に手を伸ばし、少しの可能性すら掬い上げるために私の情報にたどり着き。
すべてを解き明かし、私に……リリに逢いに来た。
だが、リリに逢いに来たにしては、やけに熱烈なアプローチだったし、言葉も違っていた。
「リリがもともと人間だと知った時、僕の心は、迷っていた。
家から抜け出した理由についてやそれまでのリリとの暮らしについて、疑って、悩んで、迷っていた。
でも、あの露店で君を見た時……君の振る舞いや表情を見た時、僕の心に渦巻いていた迷いは消えた。そこに居たのは確かにリリで、あの日一緒に暮らしていたのは確かに君だったんだと分かったんだ。
誰かを嫌うばっかりだった身体が、気がつけば勝手にリリの名を叫んで、君を追ってしまった」
人との交流を嫌い、額縁の向こうに「自分を知っていて」「自分が知っている」という理想を飾った貴族様。
そんな人が出会った、かつて自分と共に暮らした猫だった女性。
運命のいたずらで生まれた、「自分を知っていて」「自分が知っている」他人との出会いは、彼の心を発起させるには十分すぎるほどのものだった。
貴族様は、再び顔を真っ赤にして、翡翠色の瞳を伏せて、続ける。
「人嫌いな男の、一方的で身勝手で、口にするのもおかしな願いだっていうのは分かってる。
それでも、僕は、君と、友達になりたい。リリだった頃の君よりも、君と仲良くなりたい。
他愛ないことで笑いあいたい。君の絵を描きたい。君をもっと知りたい……んだ」
精一杯連ねられる、人嫌い……いや、人付き合いが極度に苦手だった貴族様の言葉。
聞き届けた私は。
「……ど、どうしたんだい、その顔」
「……いや、あの……貴族様は、とても言葉が、その、美しいなぁって」
どう聞いても、友達以上の感情をぶつけられたような感じだった。
そもそも私は貴族様への恋心で
恋した男に、そこまで考えられて、そこまで語られたら、顔だって赤くなる。リリについて語られた辺りから顔は真っ赤になりっぱなしだ。
貴族様からの願い。私の答えは、問われる前から決まっている。
ちょっと茶化して、リリの頃みたいに「にゃあ」とでも答えてみるか。
いやいや。折角、猫と人の関係ではなく、友達から始めようと決めたのだ。
だったらここで口にするべきことは一つ。
「一つ、約束してくれますか」
「……なにかな?」
「リリは貴族様が付けてくれた名前なので愛着はあるんですが、私にも名前があるので、そちらで呼んでもらえれば」
「……すまなかった。気づかず無礼を―――」
「いやいやいやいや、無礼とかではなくですね! ただただ私が呼んでほしいだけなんです!」
そして私は、一人と一匹の物語を終えるように。
一人の男性と一人の女性の物語を始めるために。
最後にようやく、自己紹介をした。
「私の名前は―――」
お読みいただきありがとうございました。