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だから私は、人嫌いな貴族様の傍でにゃあと鳴く 作者:浅瀬パチャ男
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だから私は、別れの代わりににゃあと鳴く


貴族様の画房の中で、ひときわ目立つ絵が一つ。

幼い子供が描いたような、彼の腕前と比べれば稚拙という言葉が似合う絵だ。

味がある、と言えば褒め言葉になるか。

よくわからん、ちんぷんかんぷん、と言うのが率直な感想だ。


「……それはね。僕の理想の女性の絵なんだ」


女性なのか。これ。

どちらかというと失敗したお菓子とか、割れた花瓶とか、そういうものだと思っていた。

しかし、そうか。

貴族様の理想の女性は、こんな、なんというか、えーと、芸術的な存在なのか。

よくよく、住む世界の違う御方だ。


でも、その日以来なんとなくその「理想の女性画」をついつい見ている自分が居る。

そこに描かれている「理想の女性」を、ぼんやりと、人間だった頃の自分に重ねようとしている自分が居る。

この絵との出会いが、私と貴族様の別れの始まりだったのだろう。



貴族様と暮らしているうちに厳しい冬の終わりが見えてきた。

窓から見える景色には、見慣れぬ黄土色の草が揺れている。

画房で暮らす内に気付いたが、猫の目は緑が見えない。くすんだ黄色に見える。だが、あれは確かに新緑で、春の訪れの証のはずだ。


(味気ない……緑も見えれば、もっと楽しかっただろうにな)


それは視界で揺れる黄土色たちもそうだし、画房に飾られ、画房で描かれる絵にしてもそうだ。

子猫の身では、貴族様の絵の全部を知ることが出来ない。


いつかの昔に、私は猫でもいいかもなぁ、なんて思っていた。

でも最近は、この場にいる私が人間じゃないのを惜しむような気持ちになることが増えてきた。


「リリ、行こう」


声に導かれ振り向く。そこに立っているのは、外行きの服に着替えた貴族様だ。

大嫌いな外行きだというのに表情にいつものウンザリ感やいやいや感はない。どちらかというと、はらはらしている感じだ。

それもそのはず、今日は病院に行く日。それも、貴族様本人ではなく、私が受診するからだ。

ちなみに、猟犬にやられた傷絡みではない。そこについてはもうバッチリ完治している。

今回病院で見てもらうのは、私のしっぽだ。


おそらく「理想の女性画」を見た日から、日に日に少しずつ短くなっていくしっぽ。

最初は貴族様も気付いていなかったのだが、ある日、以前描いた私たちの肖像画(「良き隣人」という題名だったか)と尻尾の長さがさっぱり違うぞと発覚。

猟犬に噛まれた時の傷を見てくれた通いの医者では原因が分からず。

動物医学の権威と呼ばれるダレソレさんというお医者様のところに人嫌いを振り払ってまで連れて行ってくれるそうな。

診断の結果? まあ、語るまでもないだろう。


「君の尻尾は、どうしてしまったんだい」

「にゃあ」


見上げて一度鳴く。

医者もお手上げ。というか、今までどんな猫でも起こらなかった原因不明の奇病だからぜひ預かって経過観察をと申し込まれた。

貴族様は大いに怒り、ひったくるように私を抱き上げ、馬車の中に飛び乗り、現在に至るというやつ。

それだけ大切に思ってくれているということに、喜んだり、一方では少し寂しかったり。


寂しさの理由?

それは、私にはなんとなく、このしっぽ縮みの原因に察しがついてたからだ。

今までどんな猫でも起こらなかった、ということは裏を返せば「私にだけは起こる原因があった」ということ。

そうなればもう、原因は一つしかない。

私がもともと人間であることに起因した現象。

それも、猫のしっぽが無くなるんなら、人間に戻る前兆なのではと、推測が効く。

まあ、本当に原因不明の奇病で、しっぽがなくなった瞬間に死ぬこともあるかもしれないが、そうだったらもう、どうしようもない。受け入れるだけだ。


このしっぽが消えてなくなれば、猫ではいられなくなる。

貴族様との日々、へんてこな夢みたいな共同生活が、終わる。

こればっかりは諸手を挙げて喜べない。

本音を言ってしまえば、猫の生活……貴族様との生活に、未練は尽きないから。


(でも、この未練が、私を猫で居られなくしたのかもしれない……か)


家に帰り着いて、再び見上げる「理想の女性画」。

この絵についてを初めて聞いた時、私は確かに、色々な感情を抱いた。

その感情はどれもこれも、子猫の好奇心ではなく、嫉妬とか羨望とかみたいな人間特有の感情だった。

そして、そのどれもこれもが、貴族様という一点への特別な感情を指し示していた。


人嫌いなのに私を受け入れてくれた彼。

一緒に絵を描き一緒に達成感を得た彼。

不器用ながら私に愛を注いでくれた彼。

朝は一緒に起きて。朝食を一緒に食べて。

日がな一日一緒に過ごし。絵を描き、絵を見て。

日が暮れるまで共に過ごし、夜も一緒に眠りにつき。

不思議な関係の中、へんてこだけど確かな交流の中で、たまに笑って、たまに困って。それでもいつも穏やかで、楽しくて。

気づけば私は、彼のことをどうしようもなく好きになってしまっていて、額縁の向こうの恋敵を見た瞬間に、猫では得られない「なにか」を望んでしまった。

その「なにか」を得ようとすれば、今を失うと分かっていたにも関わらず、だ。


……自分で言っててなんだけど、滅茶苦茶恥ずかしいな。これは。


(この絵の人は、どんな人だったんだろ)


「理想の女性画」。

顔かどうかもわからない絵。でも、貴族様の「理想」の形。

その「理想」の概形を私が知ることは、もうない。

猫のままでは聞くこともできず、人間に戻れば会うことも出来ない。

無敵の恋敵を眺めながら、無意味な思考を繰り返す。


「……また、その絵を見てるのか。お気に入りなのかい」

「にゃあ」


一言返すと、「もう寝るよ」と貴族様は私を抱き上げて運ぶ。

ベッドの横に置かれたクッションの詰められたバスケット。あの日、怪我した子猫のために貴族様が用意してくれたもの。


燭台の火の明かりが吹き消され、部屋がひっそり暗くなる。

すっかり広がる夜の中、貴族様が私に手を伸ばした。


「……何事も、ないといいのだけれど、な」


優しい手が身体を撫でる。

答えない。答えられない。この問いへの答えは、どんな形でも、貴族様を傷つけるだけだから。


……


……


……


貴族様が寝息を立て始めた頃。

バスケットから飛び出して、ベッドに飛び乗った。

さすがの整った顔立ちだ。寝顔も随分色男だ。

じっと見つめる。その顔を、これからずっと忘れないように。

人嫌いでめったに表に出ない彼の顔を、忘れてしまわないように。


どれくらい時間が経っただろうか。

子猫の心臓では多すぎるほどの時を刻んだあとで、私はベッドを飛び降りて、するりするりと窓へ向かった。

普通の猫なら、この窓からは出られない。鍵がかかっているからだ。

でも、人間の知恵を持った私なら、ほんの数回試すだけで鍵は開けられ、窓も開けられた。


振り返る。

ベッドの膨らみと、そろそろなくなりそうなしっぽ。

もう戻れない日々たち。


私はそれを見つめながら。

数奇な縁で結ばれた、幸せな日々と、叶うはずもない私の恋に、たった一言別れを告げる。


「にゃあ」


別れの言葉は夜の風に乗って、消えていった。

満月だけが、二人の別れを、穏やかに見つめていた。

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