【60】
狂気は、ティーツの人格を2つに分けた。
攻撃的で、凶暴な、憎悪に満ちた人格。
弱々しく、繊細な、悲哀に満ちた人格。
どちらが狂う前のティーツの人格に近いのかすら、ファウステリアは分からなかった。
リーシェルが死ぬまでのごく短い期間だけ、母親の真似ごとをしていたこともあるが、それ以降はまともに会話を交わすことすら、ごく稀だったのだから。
ファウステリアは、我が子に対して、どこまでも無関心だった。ティーツはファウステリアの駒、傀儡でしかなかった。
ティーツが反乱を起こした時も、ファウステリアは特に感情を動かすことなく、淡々と粛清し、牢に閉じ込めただけだった。ティーツの言葉も、思いも、けして耳に入れようとすることがないままに。知ろうとも、思わなかった。
罵りと謝罪を交互に繰り返したティーツが、突然激しく咳き込み始めた。
ティーツの口許からは血が溢れだし、口許にあてたティーツの掌を赤く染める。
ティーツは荒い息を整えると、口端についた血を袖で拭いながら、生理的な涙が滲んだ瞳を、ファウステリアに向ける。
「俺は、まもなく死ぬだろう…俺が死んでもてめぇは、眉一つ動かしやしねぇだろうけどな…」
「お母様が、私に関心がないことなど、分かっています…それでも、例え僅かでも死にいく息子を哀れんで下さるなら、どうか、私の頼みを聞いて下さい…」
2つの人格が、異なる口調で、揃って同じ願いを紡ぐ。
死にいく息子から、母親への、最後の願いを。
「――嘘でいい。偽りでも、構わねぇ。だから…最後に一言、『愛してる』と、ただ、そう言ってくれ」
「その一言で、私は貴女を許せるのです。貴女を愛してると、心から思って安らかに逝けるのです。どうか、どうか、最後にただその一言を、私に下さい」
それは、叶えるのに、あまりにたやす過ぎる願いだった。
ファウステリアは、リュークにも、リーシェルにも、そしてその他多くの男たちにも、偽りの愛の言葉を吐いてきた。目的を果たす為ならば、偽りの愛を告げることに、何の躊躇いも覚えることもなかった。
息子の最後の願いだ。せめてもの死出の旅のはなむけに、とびきりの愛の言葉を囁いてやろう。
そう思って、ファウステリアは口を開いた。
しかし
「…………」
告げる筈の愛の言葉は、何故か喉の奥で詰まって、音にならなかった。
唇が動くし喉も震えるのに、いくら口を動かしても、声が音にならない。
ファウステリアは一言も言葉を発することが出来ずに、そのまま黙り込んだ。
沈黙が、その場を支配する。
懇願するように向けられていた、ティーツの瞳が、絶望に染まった。
「ってめぇは、息子のそんな些細な願いすら、聞けねぇのか…っ!!」
「ひどい、方だ…貴女は、お母様は、ほんの僅かにでも、私に情を注いで下さらないのですね…」
身を切り裂かんばかりな悲痛な叫びとともに、ティーツの目からは、ほろほろと涙が溢れおちる。
その瞳の色は、青みがかった紫。僅かとはいえ、確かにファウステリアの魔力を引き継いだ、【生粋の罪人】の末裔だ。
ファウステリアの、血を分けた、ただ一人の、息子だ。
ティーツはひとしきり泣きわめくと、それでもけして愛の言葉を口にしないファウステリアに、やがて諦めたように目を伏せた。
「……それならば、せめて、最後に手を握って……」
ティーツのの2つ目の願いに、今度こそファウステリアは応えた。
握った手は、ファウステリアのそれより遥かに大きい大人の男の手だったが、痩せ細って骨と皮ばかりになっていた。
ファウステリアが手を握った瞬間、ティーツは酷くあどけない子供のような笑みを浮かべた。
「――かあさま」
ティーツの中からまた、別の人格が現れた。
今度の人格は、前の二つと異なり、ファウステリアが知っているティーツの記憶と重なった。
「…かあさまが、ねむるぼくのそばにいてくれるなんて、はじめてだね。うれしい…」
その人格は、ファウステリアがまだ慈善に満ちた母親を演じていたころの、幼いティーツの姿に、良く似ていた。
あのころのティーツは、いつも、ファウテリアを「かあさま」と、呼んでいた。
四六時中ファウステリアの傍にいたがっていたが、夜ベッドを共にすることは夫であったリーシェルが許さず、母を恋しがって泣いては乳母にあやされていた。
ファウステリアがティーツと共に眠ることは、ティーツが物心がついてからは一度も無かった。
あの頃のティーツは、ただひたむきに、母であるファウステリアを慕っていた。
「…かあさま、かあさま。きょうだけは、ぼくがねむるまで、そばに、いて、くれる?こわいゆめをみないように、ぼくのとなりにいてくれる?」
不安そうに尋ねるティーツに、考えるよりも前に返事をしていた。
「…あぁ。いてやるよ」
その返答に、ティーツが涙を溢れさせながら、心底幸せそうに微笑む。
「…ありがとう。かあさま…ぜったいに、そばにいてね…手をはなしても、いやだよ…」
握り返してくる手の力の弱さが、ティーツの残りの時間の短さを示していた。
「…かあさま……お母様……化け物…かあ、さん…」
ティーツの中で、3つの人格が次々現れては、消えていく。3つの人格が、ファウステリアに呼びかける。
「俺は…私は…ぼくは…」
発せられる声は、徐々に弱くなっていった。
恐らくもう、見えていないであろう、ティーツの瞳が真っ直ぐにファウステリアに向けられる。
「…だれよりもかあさまを憎んでいたけど…誰よりてめぇを、求めていました…」
既にもう、発したその言葉が、どの人格の物なのかも、分からない。
全ての人格が混ざりあい、ティーツの最期の言葉を形成していた。
「…愛され、たかった…愛して、ほしかった…他の誰でもなく、母である、あなたに…」
その言葉を最後に、ティーツは瞼を閉じ、その瞳が再び開くことは無かった。
永遠の眠りに、ついたのだ。
ファウステリアは暫しの間呆然と、自分の息子だったその骸を眺めていた。
「…愚かだな、ティーツ」
沈黙の後、ファウステリアは震える手で、冷たくなったティーツの体をかき抱いた。
「お前は愚かだよ…ティーツ」
紫水晶の瞳から、ただ一筋、涙が溢れ落ちる。
それはファウステリアが自分以外の為に流した、最初で最後の涙だった。
「――ティーツ。また生まれて来い」
物言わぬ骸と化したティーツを抱きしめたまま、ファウステリアはその髪を指先でそっと優しく撫でながら、既に聞こえるはずもない耳元に静かに語りかけた。
まるで、眠る子を慈しむ、母親のように。
「また、産まれて来い、ティーツ…今度は間違えずに、産まれて来い。…私ではない、お前を愛してくれる優しい女の腹から、今度こそちゃんと、間違えずに産まれて来い…」