【55】
ファウステリアが正妃になって数年は、リーシェル王権下の黄金期であった。
セイオ家から没収した財産で国家は潤い、その収入はファウステリアの助言によりグレーヒエルの民に還元された。
肥沃なグレーヒエルに目をつけた他国が、攻め入ってきたこともあったが、ファウステリアの魔力によってすぐに撃退された。魔物の強襲に脅えることも無くなった。
人々は美しく、誰よりも強い力を持つ正妃を心から敬愛し、偉大なる英雄であるファウステリアと、彼女を御しているリーシェルを讃えた。もうその頃には、紫水晶の瞳の不吉さを表だって口にする者は、すっかりいなくなっていた。
しかし、それは当然ながら嵐の前の静かさに過ぎない。邪悪な悪女は聖人の仮面をかぶりながら、その本性を晒す日を、今か今かと待ちわびていた。グレーヒエルの人間全てに、復讐を果たすきっかけを、仮面の下でその毒牙を磨きながら見計らっていた。
そんなファウステリアの思惑など知らず、リーシェルは、グレーヒエルの人々は、ファウステリアに依存していく。英雄という彼女の存在に、頼り切り、寄りかかる。
あぁ、なんと愚かな、人間たち。
リュークがグレーヒエルの民の間に浸透させた、「英雄崇拝」による結束は、グレーヒエルの民に、自らの頭で考え、自らの足で立つことを、やめさせた。彼らは「英雄」という存在に縋らずにはいられない。縋らずには、生きられない。
短期的な目で見れば、リュークの成した策は、悪いことではない。実際、リュークは自らが英雄であることで、王として、民を纏め上げていたのだから。だが、リュークは自分が死んだ後のことにまで、気を回していなかった。次代の「英雄」たる人物が、民を悪しき方向に導くことなど、想定もしていなかったに違いない。良くも悪くも、リュークは根っからに「善人」であるのだ。自らの精神が気高い故に、悪しき心の持ち主の精神構造を分かっていない。世の中の全てが、リュークのようであるはずがないのに。
つくづく浅慮な男だと思う。そしてその愚かさ故に、リュークは、ファウステリアによって、殺されたのだ。そして彼が愛した民も、同様の愚かさ故に、ファウステリアに掌握されることになるのだ。人間を、人間であるというだけで憎む、悪女に。
きっかけは、病弱なリーシェルが、流行病を患ったことであった。
流行病と言っても、死に直結するような重いものではなく、数日寝込めば回復するような、そんな軽いものであった。
大した病ではないが、数日間激しい咳が続くため、リーシェルは酷く苦しんでいた。
そんなリーシェルに、ファウステリアは優しく微笑みかけた。
「今のリーシェル様の症状を、取り除いてくれる、特別な薬を手配致しました」
施された薬の効き目は素晴らしかった。
まるで嘘のように咳が止み、リーシェルは殆ど普段の健常な状態と同じように過ごせた。
リーシェルはそのことを深く歓び、そのような薬を用意してくれたファウステリアの愛情に感謝した。
しかし。
しかし、薬の効き目は切れた際、その反動は大きかった。咳は勿論、通常の流行病では起きえない、高熱と湿疹、激しい嘔吐に悩まされた。医者は、リーシェルの体が虚弱であるが故に、他の病も合併させたのだと、そう診断した。
苦しむリーシェルに、ファウステリアは再び件の薬を、処方させた。
薬はより、重くなった症状ですらかき消し、リーシェルに安寧をもたらした。
しかし、薬が切れれば、さらに病は深刻なものへと切り替わっていく。
あとはイタチごっこだ。薬で症状を無くしては、薬が切れた際に病が前以上に重くなっていく。そんな状態をリーシェルは何度も繰り返していく。
普通ならば、そこでファウステリアが用意した薬の存在を怪しむだろう。ひょっとすれば、その薬が病を重くしている原因なのでは無いかと疑うだろう。
だが、リーシェルはすっかりファウステリアに依存し、溺れていた。彼の眼には、ファウステリアは、病を嘘のようになくす薬を手配してくれる聖女であり、献身的に自分の看病をかってでる、愛おしい妻としてしか映らなかった。ファウステリアが自分を殺そうとする等、考えてもいなかったのである。
体を蝕む病に、元々肉付きの薄かった体は痩せ細り、骨と皮ばかりのような状態になりながらも、リーシェルはファウステリアを、心から信じたままだった。
「――ファウステリア!!ファウステリア!!薬を、薬を持ってきてくれ…っ!!」