7代斎院 敦子内親王
名前の読み(音) | 名前の読み(訓) | 品位 | ||||||||||||||||||||||
とんし | あつこ | 無品 | ||||||||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | ||||||||||||||||||||||
父:清和天皇(850-880)
母:女御藤原高子<皇太夫人> [二条后](842-910) |
未詳(871~872頃?) | 延長8年(930)1月13日 | ||||||||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | ||||||||||||||||||||||
陽成(876~884,同母兄) | 卜定:貞観19年(877)2月17日
初斎院:不明 本院:元慶4年(880)4月11日 退下:元慶4年(880)12月4日? |
上皇(父)崩御 | ||||||||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | ||||||||||||||||||||||
識子(873-906,異母姉妹) 父:清和天皇 母:更衣藤原良近女 |
卜定:元慶元年(877)2月17日 初斎院:不明(雅楽寮) 野宮:元慶2年(878)8月28日 群行:元慶3年(879)9月9日 (長奉送使:在原行平) 退下:元慶4年(880)12月4日 | 上皇(父)崩御 | ||||||||||||||||||||||
同母兄弟:陽成天皇(868-949) 貞保親王(870-924,三品式部卿) 斎院長官:藤原遠経[伯父](元慶3年(879)2月29日~同4年(880)12月?) 清和天皇第三皇女。 (※『日本紀略』薨伝では第五皇女とするが、『日本三代実録』(貞観15年(873)4月21日条)の親王宣下順から見て、第三皇女と思われる) 母藤原高子(866年12月入内)は、父清和天皇の両親(文徳・明子)の従姉妹。 斎院長官藤原遠経は母高子の異母兄で、高子の中宮亮を兼任した。 『本朝皇胤紹運録』『賀茂斎院記』は、敦子内親王の母を藤原良近女とする。しかし『三代実録』親王宣下記事に「貞保同母」とあるところから見て、高子所生で間違いないと思われる(良近女とされる史料は、同時に斎宮となった識子内親王の生母との混同によるものか)。 敦子と同母の貞明(陽成天皇)は貞観10年(868)12月16日生、貞保は貞観12年(870)9月13日生である。貞明・貞保いずれかと双子でない限り、この間に敦子が生まれた可能性は低い(また第一皇子貞明が誕生した以上、無理に次の出産を急ぐ必要もなかったと思われる)。 あるいは高子が867年頃に第一子として敦子を産んだと考えることもできるが、敦子の生年が不明であるところから見て第三子、すなわち871年以降の生まれと推測される。 なお、敦子の母高子が皇太后となったのは元慶6年で、敦子が斎院を退下した後のことであった。よって厳密に言えば、敦子は「天皇同母の斎院」ではあるが「后腹内親王の斎院」ではない。 ┌────────┬─────┐ ┌──────┐ | | | | | 藤原長良 藤原良房 藤原順子===仁明天皇 正子内親王 | | | (淳和皇后) | | | | 藤原明子======文徳天皇 | | ├──────┐ | | | | 藤原遠経 藤原高子===清和天皇===藤原良近女 [長官] | | ┌─────┤ | | | | 陽成天皇 ◆敦子 識子 (斎宮)
斎院は卜定から3年目に本院入りするとされるが、敦子内親王の卜定は貞観19年(877)2月17日、本院入りは元慶4年(880)4月11日で、卜定から本院入りまでに3年以上かかっている。これについては、『日本三代実録』の本院入り記事に「去年可入野宮。縁穢而停。非緩也」とあり、敦子内親王も本来であれば「去年(879)」本院入りするはずであったものが、縁穢のため延期されたことが判る。この「縁穢」は元慶3年(879)3月23日の太皇太后正子内親王(淳和皇后。敦子の曾祖父仁明天皇の同母妹)崩御によるものと思われ、同年4月の賀茂祭・梅宮祭等が停止となった。
斎院退下後の敦子の消息はまったく知られず、50年後の醍醐朝末期になって『日本紀略』(延長8年1月13日条)に薨伝が記されるのみである。最低でも58歳以上の長寿であったが、しかしその間に兄陽成天皇の廃位とそれによる光孝天皇即位という皇統の大転換、更には母高子までも皇太后廃位と、敦子の周囲は不運続きであった。一家揃って宮中の表舞台から遠ざけられたためか、陽成譲位時には成人の年頃であったろう敦子の初笄の記録もない。 とはいえ陽成・高子母子は上皇・皇太后としての体面からも、決して疎かにはできない存在であった。皇位を追われたとはいえ(むしろだからこそ)外戚である基経らの後見も当然続いていたであろうし、また宇多天皇も同母姉妹の一人綏子内親王を陽成の妃に入れる気遣いを見せている。その後の陽成や高子に関しては宴や歌合、御賀、仏事等の行事の記録が散見され、むしろ窮屈な内裏よりも気ままな暮らしぶりであったかもしれない。そうした中、恐らく敦子も母や兄と共に、宮中の華やかさとは無縁ながら落ち着いた生活を送っていたと思われる。 なお『西宮記』所収の『吏部王記』逸文(延長8年12月21日条)に、清和天皇皇女「南院内親王」の名があるが、『大日本史料』はこの南院内親王を「斎院内親王」の誤りとして、敦子と見なしている。ただし皇女研究会は、敦子のもう一人の同母兄貞保親王に「南院宮」等の呼称があることを指摘、敦子が同母兄妹であることから貞保と同居しており、それ故「南院内親王」と呼ばれたのではないかと推測している。 参考論文: ・皇女研究会「敦子内親王(清和天皇皇女)」 (『瞿麦』(32), p18-26, 2018) ・笹田瑤子「成立期の斎院司長官」 (『日本古代の儀礼と神祇・仏教』西本昌弘編, p197-214, 塙書房, 2020) ※その他関連論文はこちらを参照のこと。 |