6代斎院 儀子内親王
名前の読み(音) | 名前の読み(訓) | 品位 | ||||||||||||||||||||||||||||||
ぎし | のりこ | 一品 | ||||||||||||||||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | ||||||||||||||||||||||||||||||
父:文徳天皇(827-858)
母:女御藤原明子<皇太夫人> [染殿后](828-900) |
未詳(854~858頃?) | 元慶3年(879)閏10月5日 | ||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | ||||||||||||||||||||||||||||||
清和(858~876,同母兄) | 卜定:貞観元年(859)10月5日
初斎院:貞観元年(859)12月25日 本院:貞観3年(861)4月12日 退下:貞観18年(876)10月5日 |
病 | ||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | ||||||||||||||||||||||||||||||
恬子(913没,異母姉) 父:文徳天皇 母:更衣紀静子 |
卜定:貞観元年(859)10月5日 初斎院:貞観元年(859)12月25日 野宮:貞観2年(860)8月25日 群行:貞観3年(861)9月1日 退下:貞観18年(876)11月29日 | 天皇(異母兄弟)譲位 | ||||||||||||||||||||||||||||||
同母兄:清和天皇(850-880) 斎院長官:藤原水谷(貞観3年(861)2月16日~同8年(866)1月23日) 藤原忠主(貞観8年(866)1月23日~同10年(868)12月9日以降) 文徳天皇第八?皇女。 母藤原明子は、父文徳天皇の従兄妹。 (※明子の父良房と、文徳天皇の母順子が兄妹) 斎院長官藤原水谷は4代慧子の斎院長官関雄の子で、儀子の父文徳天皇・母藤原明子とは再従兄弟にあたる。また同忠主は明子の外祖母藤原美都子(冬嗣室)の親族で、儀子の祖父良房・祖母順子の再従兄弟にあたり、明子の皇太后亮等を兼任した。 『日本三代実録』(元慶3年閏10月5日条)薨伝では「清和太上皇同産之妹」とされる。また同母兄弟清和天皇(嘉祥3年(850)3月25日生)の元服が貞観6年(864)、儀子内親王の始笄が同11年(869)であることから、清和天皇より年下、即ち仁寿元年(851)以降の生まれであることはほぼ確実であろう(始笄当時12~16歳とすれば、出生は854年以降と考えられる)。 なお皇女研究会は、生母明子が仁寿3年(853)1月8日従三位とされたことから、前年(852)暮れ頃に皇女誕生があった可能性を指摘し、儀子の生年を852~856頃と推定する。興味深い指摘だが、従三位上の理由として惟仁親王の誕生や立太子の直後でなく、皇位継承の可能性がない皇女儀子の誕生故とするのはやや疑問が残る。 ┌─────┐ | | 藤原今河 藤原真作 | | ┌─────────────┐ | | | | 藤原伊勢雄 藤原美都子===藤原冬嗣 藤原真夏 | | | | ┌────┤ | | | | | 藤原忠主 藤原良房 藤原順子===仁明天皇 藤原関雄 [長官] | | | | | | | | | 藤原明子=====文徳天皇===紀静子 藤原水谷 | | [長官] ┌─────┤ ├────┐ | | | | 清和天皇 ◆儀子 恬子 述子 (斎宮) 賀茂斎院の初斎院入り記録は、儀子内親王が初見。また伊勢斎宮の初斎院入りも、儀子と同時に卜定された恬子内親王の記録が初見である。このことから、伊勢斎宮・賀茂斎院共に、初斎院の制度が整ったのはこの頃である可能性が考えられる。 その後儀子内親王は貞観11年(869)に始笄、それに合わせて三品に叙されるが、貞観18年(876)5月、病により紫野斎院を退出、母明子の邸・染殿第(左京北辺四坊七町)へ移り、同年10月に退下した。 斎院経験者の中で初の一品内親王。 参考論文: ・皇女研究会「皇女総覧(二十二):儀子内親王(文徳天皇皇女)」 (『瞿麦』(20), p37-47, 2006) ・笹田瑤子「成立期の斎院司長官」 (『日本古代の儀礼と神祇・仏教』西本昌弘編, p197-214, 塙書房, 2020) 【后腹親王・内親王の元服・着裳と三品直叙について】 后腹の親王・内親王については、平安中期頃から元服・着裳(始笄/初笄)と同時(または同時期)に三品に直叙されるのが慣例であったと言われる。ただし仁明天皇から宇多天皇までは、天皇在位時に正妃である「皇后」が冊立されることはなかったが、その後天皇の母となり「皇太后」に冊立されたキサキ所生の皇子・皇女についても、「后腹」と同様に見なされたものと思われる。 皇后・皇太后所生の皇子で元服と同時期に三品直叙となった例は、嵯峨天皇と皇后橘嘉智子の次男である秀良親王である(『類聚国史』天長9年(832)2月11日)が、淳和天皇と皇后正子内親王の三人の息子たちについては、廃太子となった恒貞親王以外の弟二人には元服時の三品直叙の記録はない(※皇太子にはそもそも叙品はなく、恒貞親王の場合は廃太子後に叙品されている)。 また内親王では、文徳天皇と女御藤原明子(のち皇太后)の長女である儀子内親王が初見である。しかし清和天皇と女御藤原高子(のち皇太后)の長女である敦子内親王(7代斎院)は生涯無品であり、また醍醐天皇と同腹の柔子内親王は母藤原胤子が皇太后を追贈されたが、三品に叙品されたのは着裳より後である可能性が高い。このことから、「后腹内親王」の三品直叙が慣例として定着したのは、村上天皇以降のことであったと思われる。 ※詳細は小論「延長二年の着裳記事~「不后腹」昌子内親王の三品直叙について~」参照。 【染殿神社の伝承】 宮城県宮城郡利府町の染殿神社(主祭神:染殿姫命ほか)には、儀子とその母藤原明子(染殿后)にまつわる伝承がある。 摂政良房公の姫明子は故あって都を離れ、身重の身ではるばる東国へ下り、現在の利府町赤沼の小さな堂に一夜の宿を借りて玉のような女子を産んだ。この赤子が後の清和天皇の妹、即ち儀子内親王であった。 明子は世話になった土地の人々へ手芸や手習い、染め物の技術等を伝えた。やがて明子が成長した子供を連れて都へ戻った後、人々がその徳を慕って明子の御霊を祀ったのが染殿神社の由来であるという。 参考URL:染殿神社(宮城県神社庁提供) |
清和天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
日本三代実録 | 貞観元年10月5日 | 【儀子内親王、賀茂斎院に卜定】 卜定恬子内親王爲伊勢齋。儀子内親王爲賀茂齋。 |
日本三代実録 | 貞観元年10月12日 | 【朱雀門前にて、大祓を行う】 大祓於朱雀門前。以定伊勢賀茂齋内親王(恬子、儀子)也。 |
日本三代実録 | 貞観元年12月25日 | 【斎院儀子御禊、初斎院に入る】 伊勢齋恬子内親王於鴨水邊六条坊門末修禊。賀茂齋儀子内親王於同水邊待賢門末修禊。並入初齋院。 (※初斎院初出記事) |
日本三代実録 | 貞観2年4月17日 | 【賀茂祭。斎院儀子は不参加】 賀茂祭如常。齋内親王未入野宮。故不向社。 |
日本三代実録 | 貞観3年2月16日 | 【藤原水谷を斎院長官に任命】 從五位下行主殿權助藤原朝臣水谷爲齋院長官。權助如故。 |
日本三代実録 | 貞観3年2月25日 | 【斎院長官藤原水谷を侍従に任命】 齋院長官從五位下兼行主殿權助藤原朝臣水谷爲侍從。餘官如故。 |
日本三代実録 | 貞観3年4月12日 | 【斎院(儀子)御禊、本院に入る】 賀茂齋内親王臨鴨水修禊。是日。便入紫野齋院。敕大納言正三位兼行右近衛大將源朝臣定監禊事。 |
日本三代実録 | 貞観3年4月17日 | 【賀茂祭】 修賀茂祭。先是。内藏寮有人死穢。仍●使自縫殿寮進發。 ●=来+力。(勅の誤りか) |
日本三代実録 | 貞観4年4月23日 | 【賀茂祭】 賀茂祭如常。 |
日本三代実録 | 貞観5年4月13日 | 【斎院(儀子)御禊】 賀茂齋内親王依例修禊事。辨史皆染辨官犬死穢。勅遣從五位上行■大外記滋野朝臣安成。奉從行事。 |
日本三代実録 | 貞観5年4月17日 | 【賀茂祭】 賀茂祭如常。 |
日本三代実録 | 貞観6年1月7日 | 【斎院長官藤原水谷、従五位上に叙位】 侍從兼齋院長官藤原朝臣水谷。右近衛少將兼伊豫介藤原朝臣山蔭。散位源朝臣好等並從五位上。 |
日本三代実録 | 貞観6年4月17日 | 【賀茂祭】 賀茂祭如常。 |
日本三代実録 | 貞観7年4月23日 | 【賀茂祭】 賀茂祭如常儀。 |
日本三代実録 | 貞観8年1月23日 | 【斎院長官藤原水谷、安芸権守となる。斎院次官藤原忠主、長官に任命】 從五位下行太皇太后宮少進兼齋院次官藤原朝臣忠主爲齋院長官。(中略) 從五位上行侍從兼齋院長官藤原朝臣水谷爲安藝權守。侍従如故。 |
日本三代実録 | 貞観8年4月23日 | 【賀茂祭。斎院は不参加】 賀茂祭朝使并齋内親王不向於社。 |
日本三代実録 | 貞観9年4月16日 | 【賀茂祭】 賀茂祭如常。 |
日本三代実録 | 貞観10年4月21日 | 【賀茂祭。斎院は穢れにより不参加】 賀茂祭。齋内親王依穢不向於社。 |
日本三代実録 | 貞観10年10月27日 | 【斎院儀子、皇太后(母藤原明子)に四十の奉賀】 賀茂齋儀子内親王。獻物皇太后於常寧殿。奉賀皇太后(明子)満四十之算也。賜親王以下禄。 |
日本三代実録 | 貞観10年12月9日 | 【斎院長官藤原忠主を従五位上に昇叙】 齋院長官從五位下兼行皇太后宮大進藤原朝臣忠主従五位上。 |
日本三代実録 | 貞観11年2月9日 | 【斎院儀子、始笄】 是日。賀茂齋儀子内親王始笄。 |
日本三代実録 | 貞観11年2月11日 | 【無品儀子内親王、三品に叙品】 詔授无品儀子内親王三品。 |
日本三代実録 | 貞観12年4月15日 | 【賀茂祭】 賀茂祭如常。 |
日本三代実録 | 貞観13年4月21日 | 【穢れのため、賀茂祭停止】 停賀茂祭。依有死穢也。 |
日本三代実録 | 貞観16年4月21日 | 【穢れのため、賀茂祭停止】 賀茂祭。染淳和院火穢之人入於齋院。仍停祭事。 |
日本三代実録 | 貞観17年4月21日 | 【賀茂祭】 賀茂祭如常。 |
日本三代実録 | 貞観18年4月8日 | 【大内裏火災】 (前略)是夜。子時。大極殿火●。延燒小安殿。蒼龍白虎兩樓。延休堂及北門北東西三面廊百餘間。火數日不滅。 ●=灾(ウ冠+火。災の異体字。こちらを参照(字源)) |
日本三代実録 | 貞観18年4月14日 | 【賀茂祭停止】 停賀茂祭。以大極殿火●也。 ●=灾(ウ冠+火。災の異体字。こちらを参照(字源)) |
日本三代実録 | 貞観18年5月4日 | 【大内裏火災を各社に奉告】 勅遣參議從三位民部卿藤原朝臣冬緒向松尾社。參議正四位下行勘解由長官兼式部大輔近江守菅原朝臣是前向賀茂御祖別雷兩社。同告大極殿災。 |
日本三代実録 | 貞観18年5月23日 | 【斎院儀子、紫野斎院より退出、染殿宮に移徒】 賀茂齋儀子内親王依病出紫野齋院。移居皇太后宮染殿宮。 |
日本三代実録 | 貞観18年10月5日 | 【斎院儀子内親王、病により退下】 賀茂齋儀子内親王稱病加劇。修状請停齋。詞旨懇切。 詔許之。遣參議正四位下行勘解由長官兼式部大甫近江守菅原朝臣是善向社頭申謝事由。齋院司休官各歸家。」 是日。分遣使者於五畿七道諸國。班幣境内諸神。以卜筮告可有兵火也。告文曰。 天皇<我>詔旨<止>。 畿内畿外<乃>諸名神<乃>廣前<尓>申給<久止>申<久>。 去四月十日<尓>。 八省院<乃>大極殿<尓>火●事在<天>。 東西兩樓并廊百餘間一時<尓>焼盡<太利>。 因◆<天>令卜求<尓>。 今亦火●兵事等可在<止>卜申<世利>。 其後<尓>城外<尓>處々<尓>着火<无止世留>事在<介利>。 如是<岐>●<乎波>。 皇神達<乃>厚護<尓>依<天>防拂<部乃止>念行<天>。 祷申給<布>事<乎>天神地祇平<久>聞食<天>。 若悪人<乃>國家<乎>亡<止>謀<留>事<奈良波>。 皇神達早顯出給<部>。 若天火<奈良波>。 如是●<乎>未然之外<尓>拂却給<部>。 此状<乎>爲令申<尓>。 差使<天>奉出<▲>。 皇神達此状<乎>平<久>聞食<天>。 自今以後<波>。 諸種々●皆悉銷拂給<天>。 天皇<乃>御體<乎>。 常盤堅磐<尓>護給幸給<比>。 風水<乃>●不起。 天下平安<尓>五穀豊登<之>給<部利>。 申給<久止>申。 ●=灾(ウ冠+火。災の異体字。こちらを参照(字源)) ◆=玆(玄+玄。滋の異体字。こちらを参照(字源)) ▲=湏(さんずい+頁。須の異体字。こちらを参照(字源)) |
陽成天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
日本三代実録 | 貞観19年1月9日 (元慶元年) |
【三品儀子内親王、二品に昇叙】 授三品儀子内親王二品。 |
日本三代実録 | 元慶元年11月9日 | 【二品儀子内親王、一品に昇叙】 進二品儀子内親王階加一品。 |
日本三代実録 | 元慶3年閏10月5日 | 【儀子内親王薨去】 一品儀子内親王薨<云々>。天皇不視事三日。内親王者。清和太上皇同産之妹也。 |