5代斎院 述子内親王
名前の読み(音) | 名前の読み(訓) | 品位 | ||||||||
じゅつし | のぶこ | 無品 | ||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | ||||||||
父:文徳天皇(827-858)
母:更衣紀静子<従四位上> [三条町](866没) |
未詳(845~856頃?) | 寛平9年(897)11月21日 | ||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | ||||||||
文徳(850~858,父) | 卜定:天安元年(857)2月28日
退下:天安2年(858)8月27日? |
天皇(父)崩御? | ||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | ||||||||
晏子(900没,異母姉) 父:文徳天皇 母:藤原列子 |
卜定:嘉祥3年(850)7月9日 野宮:仁寿元年(851)8月26日 群行:仁寿2年(852)9月7日 (長奉送使:安倍安仁) 退下:天安2年(858)8月27日 | 天皇(父)崩御 | ||||||||
同母兄弟:惟喬親王(844-897,弾正尹) 惟条親王(846-868,上総太守) 恬子内親王(913没,斎宮) 珍子内親王(877没) 斎院長官:紀冬雄(天安元年(857)3月2日~同2年(858)8月?) 文徳天皇第五または第八?皇女。 母方の伯父紀有常は、在原業平室の父。 ┌────┐ | | 藤原列子=====文徳天皇=====紀静子 紀有常 | | | ┌────┤ ┌──┴──┐ | | | | | | 晏子 慧子 恬子 ◆述子 業平室 (斎宮) (斎宮)
紀静子所生の内親王は全員生年不明だが、『伊勢物語』(第69段)には「斎宮は水の尾の御時、文徳天皇の御女、惟喬の親王の妹」とあり、この斎宮が恬子内親王のこととされる。また角田文衞氏は同母兄弟である惟喬親王・惟条親王の生年から推測して、長女恬子内親王は848年頃の生まれかと考察している。これが正しければ、次女述子内親王は849年以降の生まれとなる。 ※ただし文徳天皇の元服は承和9年(842)2月16日であり、その後年内に紀静子が入内したとすれば、843年に恬子内親王を出産した後、翌844年に年子で惟喬親王が生まれた可能性も否定はできない。 述子の斎院退下時の記録はなく、『一代要記』には「天安元年立之、同六年退」とあるが、天安3年4月15日に貞観に改元されており、「天安6年」はない。また述子の次に斎院となった6代儀子の卜定は貞観元年(859)10月5日であり(『日本三代実録』)、これ以前に退下したことは確かである。 述子の父文徳天皇は天安2年(858)8月27日に崩御しており、父天皇の崩御で退下しなかった斎院は歴史上存在しない(母紀静子は当時存命)。さらに述子と同時期の伊勢斎宮であった異母姉晏子内親王は、父文徳天皇の崩御により退下したことが『日本三代実録』(天安2年9月20日条)により判っている。このことから、時期的に見て斎院述子もまた斎宮晏子と同様に、父帝崩御のため退下したものと思われる。 ところで述子の斎院長官となった紀冬雄については系図不詳だが、述子の母紀静子と同じ紀一族であり、血縁的にも近い人物であった可能性が考えられる(笹田瑤子「成立期の斎院司長官」)。また静子とは別の系統だが、同時期の官人であった紀善峯の息子たちの名が春枝・夏井・秋峰等であり(「紀氏系図」)、あるいは冬雄も善峯の子の一人であったかもしれない(なお藤原内麻呂の子にも、真夏・冬嗣・秋継がいた)。 参考論文: ・皇女研究会「皇女総覧(二十):恬子内親王・述子内親王・珍子内親王(文徳天皇皇女)」 (『瞿麦』(18), p22-45, 2004) ・角田文衞「恬子内親王」(『平安人物志』法蔵館,1984) ・笹田瑤子「成立期の斎院司長官」 (『日本古代の儀礼と神祇・仏教』西本昌弘編, p197-214, 塙書房, 2020) 参考図書: ・山中智恵子『斎宮志』(大和書房, 1980) |
文徳天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
日本文徳天皇実録 | 天安元年2月28日 | 【述子内親王、賀茂斎院に卜定】 廢鴨齋内親王惠[慧]子。更立无品述子内親王爲齋内親王。 |
日本文徳天皇実録 | 天安元年3月2日 | 【紀冬雄、斎院長官に任命】 従五位下紀朝臣冬雄為斎院長官。備前権掾如故。 |
類聚国史 | 天安元年4月18日 | 【賀茂祭】 (神祇五 賀茂大神) 鴨祭如常。 |
醍醐天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
日本紀略 | 寛平9年11月21日 | 【述子内親王薨去】 是日。文徳天皇皇女無品述子内親王薨。 |