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4代斎院 慧子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
けいし あきらけいこ 無品
両親 生年月日 没年月日
父:文徳天皇(827-858)
母:藤原列子
未詳(844~849頃?) 元慶5年(881)1月6日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
文徳(850~858,父) 卜定:嘉祥3年(850)7月9日
本院:仁寿2年(852)4月19日
退下:天安元年(857)2月28日
不明
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
晏子(900没,同母姉)
 父:文徳天皇
 母:藤原列子
卜定:嘉祥3年(850)7月9日
野宮:仁寿元年(851)8月26日
群行:仁寿2年(852)9月7日
   (長奉送使:安倍安仁)
退下:天安2年(858)8月27日
天皇(父)崩御

略歴:
 嘉祥3年(850)3月21日、祖父仁明天皇崩御、父文徳天皇践祚。

4月17日、文徳天皇即位。

7月9日、斎院に卜定。(同母姉晏子内親王(斎宮)と同時)
 仁寿2年(852)4月19日、紫野院へ入る。
 天安元年(857)2月28日、斎院退下。
 元慶5年(881)1月6日、無品で薨去。

同母姉:晏子内親王(900没,斎宮)

斎院長官:藤原関雄[大叔父](仁寿2年(852)~同3年(853)2月14日)
     藤原岑主(仁寿3年(853)4月7日~同4年(854)2月以前)
     橘春成 (仁寿4年(854)2月16日~天安元年(857)2月以前)

文徳天皇第二?皇女。名前は恵(惠)子内親王とも表記。
 母藤原列子は、父文徳天皇の再従姉妹。
 (※文徳の外祖父冬嗣が、列子の祖父真夏の弟)
 斎院長官藤原関雄は外祖父是雄の兄弟、また同藤原岑主は是雄の従兄弟にあたる。

           ┌──────┬─────────┐
           |      |         |
          藤原冬嗣   藤原真夏      藤原桜麻呂
           |      |         |
           |      ├────┐    |
           |      |    |    |
 仁明天皇=====藤原順子   藤原是雄 藤原関雄 藤原岑主
       |          |   [長官]  [長官]
       |          |
       |          |
      文徳天皇=======藤原列子
             |
         ┌───┴───┐
         |       |
         晏子     ◆慧子
         (斎宮)

 ※『尊卑文脈』では列子は是雄の孫で、また晏子内親王の母は列子の姉妹とするが、本項では『帝王編年記』の記述を採用した。


 慧子の生年は不明だが、父文徳天皇の元服が承和9年(842)2月16日(16歳)であることと、また慧子自身の卜定年から考えて、844~849年の間と思われる(同母姉に第一皇女晏子内親王がおり、藤原列子腹の第一子でないことは確実。晏子の生年は早く見積もって843年と思われるので、晏子と慧子が双子でない限り、慧子の誕生は844年以降であろう)。
 なお母列子と外祖父是雄の生年も不明だが、曽祖父真夏が宝亀5年(774)生まれなので、是雄はおおよそ794年以降と見られる(真夏より1歳下の弟冬嗣は、長男長良が802年生まれであるので、是雄の生年ももう少し下るかもしれない)。よって是雄の娘である列子は早くとも814年以降の生まれと見られ、第一皇女の母であることからも文徳より年上かと思われるが、是雄の極位は従五位上と低く、列子も文徳即位に際しての女御宣下はなかった。

 慧子内親王の卜定は、祖父仁明天皇崩御からわずか3ヶ月後であった。慧子の父文徳天皇は仁明天皇の息子であり、諒闇中に斎院が卜定されたのはこの時のみである(堀口悟氏は14代婉子の卜定(承平元年(931)12月25日)も諒闇中であったと指摘するが、醍醐上皇崩御(延長8年(930)9月29日)から15ヶ月後のことであり、既に諒闇は明けていた)。

 ところで慧子の退下に関して、『古今和歌集』巻十七詞書に「母あやまちありといひて斎院をかへられむとしけるを、そのことやみにければ(母列子に過ちがあり斎院を下ろされかけたが中止になった)」とあり、詳細が知られていない。これについて、列子の密通事件によるものではないかとする説があるが、同母姉の斎宮晏子には処分はなく、後に天安元年理由を秘して慧子が斎院を廃されていることから、慧子自身に公表できない重大な過失があったものかとも考えられる(山口博氏は、慧子が母列子の不義による子、即ち文徳の皇女ではなかった可能性を指摘している)。また皇女研究会は、晏子と慧子がそもそも同母ではなく、慧子の母は「過失」のためその名が記載されなかった可能性もありとする。

参考論文:
・堀口悟「斎院交替制と平安朝後期文芸作品」
 (『古代文化』31巻10号, 1979)
・山口博「廃斎院の歌」
 (『王朝歌壇の研究 桓武仁明光孝朝篇』, 桜楓社, 1982)
・皇女研究会「皇女総覧(二十三):晏子内親王・慧子内親王(文徳天皇皇女)」
 (『瞿麦』(21), p23-34, 2006)
※その他関連論文はこちらを参照のこと。





文徳天皇
史料 年月日 記述
日本文徳天皇実録 嘉祥3年7月9日 【恵子(慧子)内親王、賀茂斎院に卜定】
 皇女晏子内親王爲伊勢齋。惠[慧]子内親王爲賀茂齋。大秡於建礼門前。以命兩齋内親王也。
日本文徳天皇実録 仁寿元年4月19日 【賀茂祭。斎院(慧子)は不参加】
 遣使者向賀茂大神社奉祭。但齋内親王(慧子)未盈齋限。故不得侍祭。
日本文徳天皇実録 仁寿2年4月19日 【斎院恵子(慧子)御禊、紫野斎院へ入る】
 賀茂齋内親王(慧子)禊於河濱。是日始入紫野齋院。
(※紫野斎院初出記事)
日本文徳天皇実録 仁寿2年4月25日 【賀茂祭】
 修賀茂祭如常儀。
日本文徳天皇実録 仁寿3年2月14日 【斎院長官藤原関雄卒去】
 治部少輔兼齋院長官從五位下藤原朝臣關雄卒。關雄者。刑部卿從三位眞夏第五子也。(中略)
仁壽二年兼齋院長官。以病辞退。遂不被免。卒時年四十九。
日本文徳天皇実録 仁寿3年4月7日 【藤原岑主を斎院長官に任命】
 從五位下藤原朝臣岑主爲齋院長官。
日本文徳天皇実録 仁寿3年4月25日 【疫病により賀茂祭停止】
 以頗皰瘡染行。人民疫死故。停賀茂祭。侍從從五位上嶋江王。神祇大祐從七位上忌部宿祢高善等向社下。申謝事由。但山城國司齋供如常。
日本文徳天皇実録 仁寿3年5月10日 【藤原野主を斎院長官に任命】
 從五位下藤原朝臣野主爲齋院長官。
4月7日・7月1日条では藤原岑主が斎院長官とあるので、錯簡と思われる(笹田瑤子「成立期の斎院司長官」)。
日本文徳天皇実録 仁寿3年7月1日 【斎院長官藤原岑主を大蔵少輔に任命】
 藤原朝臣岑主爲大藏少輔。齋院長官如故。
日本文徳天皇実録 仁寿4年2月16日
(斉衡元年)
【橘春成、斎院長官に任命】
 橘朝臣春成爲齋院長官。
日本文徳天皇実録 仁寿4年4月19日
(斉衡元年)
【賀茂祭】
 以有穢事。停賀茂祭。但山城國司齋供如常。
日本文徳天皇実録 天安元年2月28日 【斎院恵子(慧子)内親王を廃する】
 廢鴨齋内親王惠[慧]子。更立无品述子内親王爲齋内親王。遣右大臣正三位藤原朝臣良相於神社告事由。其事秘者。世無知之者。
陽成天皇
史料 年月日 記述
日本三代実録 元慶5年1月6日 【慧子内親王薨去】
 无品慧子内親王薨。不任縁葬之諸司。以喪家之辞也。輟朝三日。内親王者。文徳天皇之女。母從五位上藤原朝臣是雄之女也。


史料 記述
古今和歌集
(巻17・885)
田むらのみかど(文徳天皇)の御時に、斎院に侍りけるあきらけいこのみこを、母あやまちありといひて斎院をかへられむとしけるを、そのことやみにければよめる

  尼敬信
大空を照りゆく月し清ければ雲隠せども光けなくに

参考リンク:『古今和歌集
(国際日本文化研究センターデータベース)
一代要記
文徳天皇
(賀茂)
 惠子内親王
 <帝四女、嘉祥三ー立之、元慶五ー薨、>

(皇女)
 慧子内親王<同(嘉祥)三ー七月爲賀茂齊、天安元ー二月廢之、其事秘之、世莫知者、元慶五ー六月薨、>
帝王編年記
文徳天皇
(皇女)
 慧子〃〃〃[内親王]<母同晏子(靜子三條町紀名虎女)賀茂齋院天安元年二月廢之其事秘之世莫言之>
(斎院)
 慧子内親王<帝(文徳)第/九女>
二中歴
(齋院)
 慧子<文徳女 嘉祥三年>
皇代暦
文徳天皇
(賀茂)
 惠子内親王 帝第九女元慶五年薨
本朝皇胤紹運録
(文徳天皇子)
(179)慧子内親王[齋院。嘉祥三卜定。但被廢。其事秘之。世莫知之。母同(藤則子。從四上是雄女)]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
惠子内親王 嘉祥三年卜定。文徳天皇第八皇女。母藤原列子。<但被廢之。其事祕之。世莫知。>
賀茂斎院記
惠[慧]子内親王
文徳天皇第八皇女也。
母藤原列子。
嘉祥三年七月卜定。大祓於建禮門。
仁寿二年四月。惠子禊於河濱。始入斎院。
天安元年二月廃之。遣右大臣正三位藤原良相於神社告事由。
其事秘故世無知之。


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