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3代斎院 高子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
こうし たかいこ 無品
両親 生年月日 没年月日
父:仁明天皇(810-850)
母:百済王永慶<従七位上>
未詳(824~832頃?) 貞観8年(866)6月16日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
仁明(833~850,父) 卜定:天長10年(833)3月26日
退下:嘉祥3年(850)3月21日?
天皇(父)崩御
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
久子(876没,異母姉妹)
 父:仁明天皇
 母:高宗女王
卜定:天長10年(833)3月26日
野宮:承和元年(834)9月10日
群行:承和2年(835)9月5日
退下:嘉祥3年(850)3月21日
天皇(父)崩御

略歴:
 天長10年(833)3月26日、斎院に卜定。(異母姉久子内親王(斎宮)と同時)
 承和2年(835)4月20日、斎院に入る。
 嘉祥3年(850)3月21日、父仁明天皇崩御。

同年、斎院退下。(7月9日以前)
 貞観8年(866)6月16日、無品で薨去。(享年35~40前後か)

生母百済王永慶は、嵯峨天皇後宮百済王慶命の妹。

斎院長官:菅野永岑(承和6年(839)1月11日以前~承和14年(847)12月以前)
     百済王慶世(承和14年(847)12月14日~嘉承3年(850)3月?)
上記以外に、笹田瑤子「成立期の斎院司長官」は岡於王を斎院長官(839-847)とする。『続日本後紀』(承和6年2月18日条)では「従五位上岡於王為斎宮長官」とあるが、斎宮寮の長官は「頭」であり、『続後紀』の他の記事でもすべて「斎宮頭」「斎宮寮頭」としているので、岡於王の記事は「斎院長官」を「斎宮長官」と誤ったものか?(ただし岡於王は天長10年(833)5月28日に清原姓を賜っているが、承和5年(838)11月20日条でも「岡於王」の名で『続後紀』に記載があり、不審な点が多い)。

                 ┌───┐
                 |   |
 橘嘉智子===嵯峨天皇===百済王慶命 |
      |              |
      |              |
     仁明天皇==========百済王永慶
      |      |
      |      |
      久子    ◆高子
      (斎宮)

 生年は不明だが、父仁明天皇の元服(823/8/1)と高子自身の卜定年から考えて、824~832年の間と見られる(仁明天皇の皇女(10名)は全員生年不明で、親王宣下の記録がなく、斎王の卜定記事や薨伝にも年齢の記載がない。なお第一皇子道康(文徳天皇)は827年生であり、道康より年長の内親王は恐らく少ないだろう)。高子は仁明皇女の中では三人目の斎王であり、父帝の即位により卜定されていることから見て、姉妹の中では年長の方と考えられる。
 なお、母の姉百済王慶命(嵯峨天皇後宮)は814年に第一子?源善姫を産んでおり、799年以前の生まれと考えられる。また父仁明天皇が810年生まれであることから、母永慶はおおよそ800~810年頃の生まれか。
 また斎院長官の百済王慶世について、笹田瑤子氏は高子内親王の母永慶・伯母慶命と同じく「慶」の字を名に持つことから、永慶・慶命姉妹の兄弟であろうと推測している(「成立期の斎院司長官」)

参考論文:
・皇女研究会「皇女総覧(十六):時子内親王,柔子内親王,高子内親王(仁明天皇皇女)」
 (『瞿麦』(14), p44-57, 2001)
・笹田瑤子「成立期の斎院司長官」
 (『日本古代の儀礼と神祇・仏教』西本昌弘編, p197-214, 塙書房, 2020)

※その他関連論文はこちらを参照のこと。





仁明天皇
史料 年月日 記述
続日本後記 天長10年3月26日 【高子内親王、賀茂斎院に卜定】
 以久子内親王爲伊勢齋宮。高子内親王爲賀茂齋院。
続日本後記 天長10年4月10日 【賀茂社へ、高子内親王の斎院卜定を奉告】
 遣參議從四位下右大弁藤原朝臣常嗣。奉幣於賀茂大神。告以高子内親王定齋院之状。
続日本後記 承和2年4月20日 【高子内親王御禊、斎院に入る】
 高子内親王禊于賀茂川。始入齋院。
(※「斎院(御所)」初出記事。場所は不明)
続日本後記 承和3年11月8日 【高子内親王、山城国の空閑地を賜る】
 山城國久世郡空閑地二町賜高子内親王。
続日本後記 承和6年1月11日 【菅野永岑、斎院長官に任命】
 從五位下菅野朝臣永岑爲兼豊前守。主殿頭齋院長官如故。
続日本後記 承和12年1月28日 【亮子(高子?)内親王、山城国の公田を賜る】
 山城國公田一町二段賜亮[高?]子内親王。
続日本後記 承和14年12月14日 【百済王慶世、斎院長官に任命】
 從五位下百濟王慶世爲齋院長官。
清和天皇
史料 年月日 記述
日本三代実録 貞観8年6月16日 【高子内親王薨去】
 无品高子内親王薨。喪家固辞。故不任縁葬之司。輟朝三日。内親王者。仁明天皇之皇女■[也?]。母百濟王氏。從五位上教俊之女也。承和初卜爲賀茂齋。仁明天皇崩後停齋歸第焉。
平安遺文154 貞観9年3月26日 【前斎院高子内親王庄牒観世音寺政所のこと】
(未入力)
平安遺文157 貞観10年2月23日 【故高子内親王家庄田のこと】
(未入力)
平安遺文158 貞観10年2月27日 【故高子内親王家庄田のこと】
(未入力)
平安遺文160 貞観10年10月12日 【故高子内親王家御処分のこと】
(未入力)
平安遺文161 貞観10年閏12月25日 【故高子内親王家御処分のこと】
(未入力)
平安遺文162 貞観11年10月15日 【高子内親王家治田のこと】
(未入力)


史料 記述
一代要記
仁明天皇
(賀茂)
 亮[高]子内親王
 <帝八女、承和二ー四月賀茂齋、母百濟永慶、從五位上教俊女也、嘉祥三ー三月退■[之]、貞観八ー六月十六日薨、>
帝王編年記
仁明天皇
(皇女)
 高子〃〃〃[内親王]<賀茂齋院/母百濟永慶從五位上教俊女也>
(斎院)
 高子内親王<帝(仁明)第九/皇女>
二中歴
(齋院)
 嵯峨天皇御時、以御女有智内親王始爲齋院云々、是興平城有隙御祈也、淳和御時天長八年、依病下給、此宮漢才堪作詩、又仁明天皇承和初、置齋院云々、高子是也、(中略)
 高子内親王<仁明九女 天長七年卜定>
皇代暦
仁明天皇
(賀茂)
 亮子内親王 帝九女
本朝皇胤紹運録
(仁明天皇子)
(227)高子内親王[齋宮。母百済氏]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
高子内親王 天長十年卜定。仁明天皇第十二皇女。母百濟氏。
賀茂斎院記
高子内親王
仁明天皇第十二皇女也。
母百済氏。教俊女也。
天長十年二[三]月卜定。
遣参議従四位下藤原常嗣奉幣於賀茂大神。告以定斎院之状。
承和二年四月。高子禊于賀茂川。入斎院。


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