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初代斎院 有智子内親王
名前の読み(訓) | 品位 | |||||||||||||||||||||||||||||||
うちこ | 二品 | |||||||||||||||||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | ||||||||||||||||||||||||||||||
父:嵯峨天皇(786-842)
母:交野女王<従五位上> |
大同2年(807) | 承和14年(847)10月26日 | ||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | ||||||||||||||||||||||||||||||
嵯峨(809~829,父) 淳和(823~833,叔父) |
卜定:弘仁元年(810)
または同九年(818)? 退下:天長8年(831)12月8日 |
老病 | ||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | ||||||||||||||||||||||||||||||
仁子(889没,異母姉妹) 父:嵯峨天皇 母:女御大原浄子 |
卜定:大同4年(809)8月11日 野宮:不明 群行:弘仁2年(811)9月4日 退下:弘仁14年(823)4月16日 |
天皇(父)譲位 | ||||||||||||||||||||||||||||||
氏子(885没,従姉妹) 父:淳和天皇 母:高志内親王 |
卜定:弘仁14年(823)6月3日 野宮:天長元年(824)8月14日 群行:天長2年(825)9月 退下:天長4年(827)2月26日 |
疾病 | ||||||||||||||||||||||||||||||
宣子女王(従姉妹) 父:仲野親王 母:菅野氏 |
卜定:天長5年(828)2月12日 野宮:不明 群行:天長7年(830)9月6日 退下:天長10年(833)2月28日 |
天皇譲位 | ||||||||||||||||||||||||||||||
斎院長官:紀御依(『雑言奉和』) 嵯峨天皇第二(?)皇女。 『帝王編年記』『中右記』(大治2年4月6日条「斎院次第」)は第九皇女とするが、所京子氏は第二皇女であろうとする(「有智子内親王の生涯と作品」)。また皇女研究会は、当時の皇子女の序列は年齢順とは限らないことから、第一皇女の可能性も考えられると指摘する(「皇女総覧(六):有智子内親王」)。ただし、大原浄子所生と伝えられる仁子内親王が大同4年(809)斎宮に卜定されていることから、有智子よりも年長であった可能性もあるため、有智子は業子、仁子に続く第三皇女であったかもしれない(もしくは仁子が第一皇女、有智子が第二皇女か?)。いずれにせよ、嵯峨皇女の中でも年長の方であったことは確かであろう。 母方の祖父山口王は舎人親王の孫、淳仁天皇の甥にあたる。 ┌────────────────┐ | | 天智天皇 | | | ├───────┐ | | | | 志貴皇子 新田部皇女=====天武天皇========持統天皇 | | | (天智皇女) | | | 光仁天皇 舎人親王 草壁皇子 | | | | ├─────┐ | | | | | | 淳仁天皇 三原王 文武天皇 | | | | | | 桓武天皇=====藤原乙牟漏 山口王 聖武天皇 | | | | ┌────┤ ├────┐ | | | | | | | | 淳和天皇 仲野親王 平城天皇 嵯峨天皇=====交野女王 井上 | | | | (光仁皇后) | | | | | 氏子 宣子女王 仁子 ◆有智子 酒人 (斎宮) (斎宮) (斎宮) (桓武妃) | | 朝原 (平城妃) 初代賀茂斎院。漢詩に優れた才媛として知られ、『経国集』『雑言奉和』等に10首が伝わる。弘仁14年(823)、父嵯峨天皇が有智子の山荘(斎院御所か?)へ行幸した際に「春日山庄」の漢詩で嵯峨天皇を感嘆させ、当時の皇女としては異例の三品を賜った。 斎院退下の後は嵯峨の西に住み、そこで没したと伝えられる(『続日本後紀』)。 有智子の斎院卜定当時の『日本後記』は現存せず、『一代要記』『皇代暦』『賀茂皇太神宮記』では弘仁元年(810)卜定とするが、『類聚国史』では弘仁9年(818)に斎院司設置とあり、正確な時期は不明である。これについては諸説あるが、笹田遥子氏は「元年」と「九年」は誤記しやすいこと等から、有智子の斎院卜定も弘仁9年かと指摘しており(「賀茂斎院創始年についての考察」)、その可能性は高いと思われる。また『平家物語』『賀茂皇太神宮記』等ではいわゆる薬子の変(平城太上天皇の変)をきっかけに嵯峨天皇が有智子を斎院に立てたとしており、『賀茂皇太神宮記』では弘仁元年四月としているが、詳細は定かでない。 有智子内親王の墓所は、落柿舎の側(京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町)とされる。 ※京都市営バス【嵯峨小学校前】下車徒歩5分、または嵯峨野観光鉄道【トロッコ嵐山】徒歩8分。 有智子内親王墓所(2010年11月27日撮影) 参考論文: ・所京子「有智子内親王の生涯と作品」 (『聖徳学園女子短期大学紀要』(12), p186-172, 1986) [機関リポジトリ全文あり] ※『斎王和歌文学の史的研究』(国書刊行会, 1989)補訂収録 ・皇女研究会「皇女総覧(六):有智子内親王」 (『国文目白』(36), p156-166, 1997) ・榎村寛之「賀茂斎院の成立と特色:賀茂斎王と伊勢斎王」 (『京都産業大学日本文化研究所紀要』(16), p94-140, 2010) ・久禮旦雄「賀茂斎院・伊勢斎宮の淳和天皇朝における存廃について:狩野本『類聚三代格』天長元年十二月二十九日太政官符の評価をめぐって」 (『續日本紀研究』(409), p1-14, 2014) ・笹田遥子「賀茂斎院創始年についての考察」 (『古代史の研究』(19), p36-54, 2015) ※その他関連論文はこちらを参照のこと。 |
嵯峨天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
一代要記 皇代暦 賀茂皇太神宮記 |
弘仁元年 | 【有智子内親王、斎院卜定】 『一代要記』 (嵯峨天皇/賀茂) 有智内親王 <帝第九女、弘仁元ー卜定、母正五下交野女王、從五上山口王女也、> 斎院始也、是興平城有隙御祈也、 『皇代暦』 (淳和天皇/賀茂) 有智内親王 弘仁元年卜定 『賀茂皇太神宮記』 (前略)其頃先帝(平城上皇)内侍のかみ(藤原薬子)を後てうあいましまして、なにごとも此人の申さるゝにぞうちまかせ給ける。これハ宰相たねつぐ(藤原種継)のむすめなり。心さかしくたけだけしき男子にもまさりたり。おりにふれて先帝へ奏し給ひけるハ、いくほどなう御くらゐをさらせ給ふ事口おしさよ、玉躰御つゝがもましまさずして、いかでかくおぼし立けるぞとなげきかなしみ申給けれバ、先帝くやしき事におぼしめして、御くらゐにかへりつかせ給はむとの御用意ども侍りけり。内侍のかみよろこびて、先帝くらゐにつかせ給ハバ、われハ后にぞなるべしと、いさみをなし、せうとの兵衛のかみ藤原仲成といふ人を大將として、畿内の兵をめしあつめ、いくさをとゝのへられけるほどに、世「の」中さハぎのゝしりて、萬民たやすき心なかりけり。みかど(嵯峨天皇)此よしきこしめし、そのかみ神武天皇御宇に、天神饒速日尊御子宇麻志間見命と申神あり。外舅長髓彦といふ神、天神の御子に兩種いかでかあらむやとて、軍をおこしてふせぎたゝかふ。其いくさこハくして皇軍しばしば利を失うひぬ。邪神毒氣をはきしかバ、士卒みな病臥せりし時、八咫烏命くだり給ひて、皇軍の御前にかけり、また金色の靈鴟となりて、御弓のはづにとまり、其ひかり照かゞやけり。これよりして皇軍おほひに勝ぬ。宇麻志間見命、其舅長髓彦ひがめるこころをしりて、たばかり殺しつ。(嵯峨天皇は)かゝるためしおぼし召いださせ給て、賀茂皇太神へ勅使をたてられし御事也。御祈、ねがハくは、官軍に神力をそへられ、天下ぶゐに歸せしめ給へ。しからバ皇女を奉りて御宮づかへ申さすべしとぞ、勅願ふかく仰られける。去ほどに先帝ハ羣勢を具して、ならの都を御立ありて、東國のかたへ臨幸なる。これハ東國に都をつくりてすませ給ハんとの御用意なり。御門このよし聞しめし、坂上の田村丸を大將軍として、あまたの官軍をそへられけれバ、今度の御大事勅命辭がたきにより、同じて御社へ參り詣で、身のうきしづみこゝに究れりとて、祈念ふかく申、幣帛捧奉てのち、鈴鹿山に關をすへて、先帝の御幸ををし止らる。爰にして兩陣いどみ戰ひけるに、御めぐみのふかく神力をくハへ、數萬の軍兵に現じ、山もどうようする計にて、終に先帝平城天皇のいくさやぶれて、大將軍藤原仲成ハやにはにうたれにける。これを見ていもうとの内侍のかみ、みづから劔にあたりてうせ給ひぬ。たぐひすくなき事ども也。先帝ハまたもとの如く、ならのみやこにかへらせ給ひて、かすかなる御ありさまにてすみ給ふ。かくて世の中靜りしかバ、御門御宿願はたし給はんために、有智内親王と申姫宮を齋王になし給ひて、弘仁元年四月に賀茂皇太神へ參らせ給ふ。此れいをもて代々のみかど「の」御代はじめにハ、皇女を賀茂の齋にそなへらる。(後略) |
年中行事秘抄 | 弘仁4年 | 【斎院司設置】 四月 中午日 斎王禊事 延暦十二癸酉。北野山中天皇行幸。而諸臣却奉后也。于時遭大火給。祈申。始奉鴨上下兩社大祭●。率供奉諸司。并奉斎内親王。又云。嵯峨平城有隙不穆。于時嵯峨祈祷有感。祠奉斎王云々。 弘仁四年。始置斎院司官職員。 ●=㕝(古+又。事の異体字。こちらを参照(字源)) |
文華秀麗集 | 弘仁4年? | 【嵯峨天皇、河陽宮へ行幸】 「奉和春日江亭閑望一首」仲雄王 凝流派上思 降蹕對紅花 野甸宸哀遠 川皐睿望● 猿深雲樹峽 鶴立浪痕沙 古椽松蘿院 春窓楊柳家 水郷漁浦近 山館鳳庭遐 老圃鋤遲日 高帆艤早霞 岸陰生液乳 洲暖長蘆芽 絢服侍臣馬 垂鬟公主車 驛門臨▲陌 亭子隱高葩 幸賴陪夫覽 還同星渚査 ※小島憲之氏、所京子氏は「垂鬟公主(=垂れ髪の幼い皇女)」を有智子であろうとする(小島『国風暗黒時代の文学』、所「初代斎院有智子の漢詩」)。当時有智子(7歳)以外に存在が確実な嵯峨皇女は業子内親王(7~8歳?)、仁子内親王(7~8歳?)、正子内親王(4歳)がいるが、業子は母高津内親王が既に妃を廃されていたと思われること、仁子は既に斎宮として伊勢へ下向していたこと、正子は幼すぎること等から見て、有智子の可能性が高いと思われる。 ●=賖(貝+余。こちらを参照(字源)) ●=逈(しんにゅう+向。こちらを参照(字源)) |
類聚国史 | 弘仁9年1月21日 | 【斎院司設置】 (職官十二 齋院司) 始置斎院司。宮主一員。長官一員。次官一員。判官一員。主典二員。 |
日本紀略 | 弘仁9年5月22日 | 始置斎院司宮主一員。長官一員。次官一員。判官一員。主典二員。 |
日本後記 (類聚国史) 日本紀略 |
弘仁14年2月28日 | 【斎院有智子内親王、三品に叙品】 『日本後記』(類聚国史31,99) 幸無品有智子内親王山荘、上欣然賦詩、群臣献詩者衆、賜禄有差、是日、内親王授三品、(後略) 『日本紀略』 幸無品有智子内親王山庄。上欣然賦詩。群臣献詩者衆。賜禄。有差。是日。親王授三品。 |
淳和天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
類聚国史 | 天長3年7月26日 | 【斎院司に賜田】 (職官十二 齋院司) 攝津國垂水庄公田一町八段。賜斎院司。 |
類聚国史 | 天長8年12月8日 | 【斎院有智子内親王退下】 (神祇五 賀茂斎院) 替賀茂齋内親王。其辞曰。天皇<我>御命<尓>坐。掛畏皇大神<尓>申給<波久>。皇大神<乃>阿礼乎止売<尓>進<礼留>内親王(有智子)。齢<毛>老。身<乃>安<美毛>有<尓>依<弖>。令退出<留>代<尓>。時子女王<乎>。卜食定<弖>進状<乎>。參議左大辨正四位下藤原朝臣愛發<乎>差使<弖>申給<波久止>申。并奉幣。 |
類聚国史 | 天長8年12月9日 | 【前斎院有智子、賀茂川で祓】 (神祇五 賀茂斎院) 爲前賀茂齋内親王(有智子)相替。祓于鴨川。 |
仁明天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
続日本後紀 | 天長10年3月6日 | 【有智子内親王、二品に昇叙】 授三品有智子内親王二品。 |
続日本後紀 | 承和元年2月3日 | 【有智子内親王、伯耆国の荒廃田を賜る】 伯耆國會見郡荒廢田百廿町賜有智子内親王。 |
続日本後紀 | 承和14年10月26日 | 【有智子内親王薨去】 二品有智子内親王薨。遺言薄葬。兼不受葬使。内親王者。先太上天皇(嵯峨)幸姫王氏所誕育也。頻渉史漢。兼善属文。元爲賀茂齋院。 弘仁十四年春二月 天皇(嵯峨)幸齋院花宴。俾文人賦春日山庄詩。各探勒韻。公主(有智子)探得塘光行蒼。即瀝筆曰。 寂々幽庄水樹裏。仙輿一降一池塘。 栖林孤鳥識春澤。隠澗寒花見日光。 泉聲近報初雷響。山色高晴暮雨行。 従此更知恩顧渥。生涯何以荅穹蒼。 天皇歎之。授三品。于時年十七。是日。 天皇書懐。賜公主曰。忝以文章著邦家。莫將榮樂負煙霞。即今永抱幽貞意。無事終湏遺歳華。尋賜召文人料封百戸。天長十年叙二品。 性貞潔。居于嵯峨西庄屋。薨時春秋四十一。 (※原文は改行なし) |
続日本後紀 | 嘉祥元年8月16日 | 【仁明皇女親子内親王、伯母有智子内親王家の賜田を賜る】 伯耆國會見郡路下十一條荒廢田百廿町。去天長十一年賜有智子内親王家。冝割八十町賜親子内親王。 |
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