自腹は神様ではない

なんだか、ひさしぶりに道徳的な話を書きたくなってしまったので、ウザいと思う人はパスしてください。しかも、これから書く「道徳」は、かなりものを観るうえで初歩的な、小学生レベルの心構えなので、普通の人は読まなくていいです。

まず、映画は「テーマを観に行くものではない」ということです。

宣伝文句で言われていることは、大体の場合映画の作り手の意思とは何の関係もありません。「ミュンヘン」を観て「テーマがよくわからなかった」などという人は、映画を観に映画館に行っているわけではないのです。代理店のコピーライターが考えた数行のキャッチコピーを、わざわざ1800円払って映画館に確認しにいっているだけなのです。

映画とは、そこにただある映像に過ぎません。

そこから何を持って帰るかは、われわれに任されています。逆に言えば、映画を観て得られるものは、その本人の感性や知性のレベルに見合ったものでしかない、ということです。ぼくはしょっちゅう、とっても鋭い人や頭のいい人のレビューを観て、なるほど!と思いますが、そういう人のレビューは大体肯定的だったりすることが多いです(そうじゃない場合もありますが)。

その人が、同じ映画を観たにもかかわらず、自分よりもはるかに多くのものを映画から持ち帰っているからです。だから、ぼくは見栄っ張りなので、よっぽど自信がある時しか映画をけなさないようにしています。だって、それって、ぼくがその映画の要求する感性や知性に、いかに見合っていなかったか、「足りなかった」かを、訳知り顔で露呈しているのに気がついていない、恥ずかしいことをやらかしてしまっているだけかもしれないじゃないですか。

映画というのはわかりきった結論を確認しに行くものではありません。「テーマがわからなかった」という人は、テーマを必要としなければ映画を見れない馬鹿か、馬鹿すぎてテーマを見つけられなかった人に過ぎません。現実の世界に「テーマ」などないように、映画はそこに、ある物語にそった映像を映し出しているだけです。ぼくはそういうとき、恥ずかしいのでただ黙っています。自分が馬鹿だったことを公言する必要はありません。ただ、そういうことを書いてしまう無自覚な人が、ときどきいるというよりも、たくさんいるのも事実です。何も自分が馬鹿である可能性をネットにのっけて宣伝して回ることはないだろうに。

また、この映画がアメリカ映画だから、という理由で怒っている人を見かけます。お前等が戦争やっているんやろが、お前等が諸悪の根源やろが、そういう連中が映画をつくって何が「平和への祈り」や。

こういう人の思考回路は、テロリストのそれと一緒です。
要するに、人が一人一人ちがうものだということをすかっと忘れて「アメリカ人」とか「朝鮮人」とか「アラブ人」とか「中国人」という民族と国家の(が大体の場合雑にいっしょくたになった)ラベルでしか人間を観ていないからです。

アメリカ人にだっていろいろな考えを持った人がいるでしょう。いつもいしょにいる隣の人の政治的信条だってわからないんですから。

しかし、彼らは「どこどこ人がつくった」という理由で、その作り手がどんな人かも忘れ、非難します。これは「民族」や「国」を敵としながら、標的はその「個人」たる一般市民であるテロリストさんのやりかたと、根本的に一緒です。その個人がどんなに平和を祈っていても、自分の国がいま戦争していることに否定的であっても、彼らにとっては「しょせんアメリカ人」なのです。

これはものすごく怖いことです。しかも、こういう考え方をする人はわりとふつうにいます。テロリストや戦争を推進しているアメリカの人たちは、まさに「誰々人は敵」という単位で戦争をして、関係のない人を大勢巻き込んでいます。「しょせんはアメリカ人の」とかいう人は、こういうテロリストや戦争屋さんとまったく同じだと思って問題ありません。国内世論と自分の考えのズレについて思うだけで、そういうことが鈍感に過ぎるとは誰にでも容易にわかりそうなものですが、そういうことにはあまり考えがいかないようです。民族や国家という単位で人を扱いだした時、にんげんはいともたやすく無神経に、残酷に、すべてのにんげんは違うということに鈍感に、なれてしまうのです。

それこそが「ミュンヘン」で描かれていた物語(の一部)です。国家と民族の対立が、個人というレベルに降りてきたとき、ひとがどれだけ残酷になれるか。さっきまで笑って会話していたひとを、国家の憎しみを背景とした時、どれだけたやすく殺せるか。

あなたとわたしが違うように、そこのアメリカ人と別のアメリカ人が違うことを、なぜ人はすかっと忘れられるのでしょうか。とても不思議です、と言いたいところですが、実はよくわかっています。

ちなみに、「ミュンヘン」について、イスラエルパレスチナ双方から批判が上がっていることをあの方は怒ってらっしゃいましたが、これって、ふつうに考えればいいことなのではないか、と私はおもってしまうんですが。ケンカしている双方のあいだに立って、まっとうなことを言った場合、大体の場合双方から怨まれます。当事者が熱くなっているのに、その第三者だけ冷静に正しいことを言う場合が多いからです。痛いところを付かれた二人は大体の場合、激怒します。

まあ、いろいろ書きましたが、井筒さんの映画の見方が、あまりに「ぼくとあなたはちがう」という他人への敬意を無視している上に、その尻馬にのって日記を書いている人が多かったので、ちょっと苦言を呈してみた次第です。

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  • wanriba

    ただ、何かについて価値や意味を見いだせなかった人は、その”分から無さ”について、こっちに分かるように語って欲しいな、とも思うんですよね。
    分からなかった人は、大抵、気に入らなかった理由を物事の表面的な部分にこじつけて「それが気に入らなかった本当の理由なの?」って思うような、パターンの決まり切った表現をしてしまってることが多くて、それを特につまらなく思います。

    まあ私も、分からなさを分かるように語る、なんて、まだとても出来ないんですが・・・

  • URE

    「自腹」は中華屋のTVでかかってるのを何度か見たことしかないんですが、毒舌監督がバッサバッサ映画を斬りまくる痛快なコーナーという世間のイメージとは逆に、普通の視聴者(観客)には非常に伝わりにくいものをやってるなあ、という感想を持っていました。
    あるべき娯楽映画の姿とか、商売で映画を撮るとはどういうことかとか、一観客から作り手にまわった人の微妙なバックグラウンドがあって、そこから立ち上がる感情を増幅させた勢いでなんとかテレビ芸として成り立たせている感じ。
    番組を見ていないまま書くのですが、「ミュンヘン」に関して、伊藤さんが指摘されているような主張を「パッチギ!」を撮ったような人が素でぶち上げるのも普通に考えると変な話で、
    実は「剥き出しの暴力がぶっきらぼうに訪れて、それっきり(に見える)」な映画に対する生理的不快感(これがまた素朴な一観客のものではないのでややこしい)が本当はすべてだったんではないか・・・と想像しました。
    世界に暴力が蔓延しているにもかかわらず、個々におとずれるそれは個人的な経験でしかない(国家からはみ出したチームの話なのに)ところが、ぜんぜん家族の話じゃなかった「宇宙戦争」と共通してて、自分としては良かったんですが。

  • 成田の生理学

    ぜんぜん関係ない話でアレなんですが、金曜日に「東京の謎ラーメン」という特集をやります。テーマ性ゼロのいきあたりばったり思いつきで、単なるノリで作りました。ぼくも昔はむずかしいこととかいろいろ考えてましたが、カンフー映画のような理屈抜きの地平にようやく辿り着いたようです。
    井筒監督ですが、あるライターが「東方見聞録」の話を振って、激怒されたそうです。キャメロンは「殺人魚フライングキラー」の話を振られて、インタビュアーを殴ったそうです。デ・パルマは「虚栄のかがり火」の話が出た途端、インタビューを中止しました。こういう話を聞くと、フィルムというものは監督個人のものなんだなあ、と思います。
    しかし誰がどんなきっかけで映画という情報を所有したっていいわけです。すべての感想は個人的なものなんです。ジョージ・A・ロメロは、ボツになった企画の話についても嬉々としてインタビューで答えていました。キューブリックは、「フルメタル・ジャケット」の字幕で悩む原田眞人から「突撃」への愛を語られて「ホッホッホ」と笑ったそうです。宣伝や批評のとおりに感じに行くために映画館に行くなんて貧しいことです。
    というわけで、明日は会社を休んで「ミュンヘン」見てきます。オランダ人の美人暗殺者がどのくらい美人なのか、それが一番楽しみですよ、ほっほっほ。アヴナー夫人はなかなか良いですしねえ。

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