2003年12月20日
世界銀行とIMF(国際通貨基金)の起源も国連と同様に第二次世界大戦にさかのぼる。
大戦の勝敗の展望が確実となった一九四四年七月、米国が主導する連合国の代表は米国ニューハンプシャー州の小さな町ブレトンウッズに集まり、戦後の世界経済の復興と安定について話しあった。 四十四カ国が参加していた。 その結果、世銀とIMFの創設が決まった。
だから国連と同様、この両機関も戦勝国の戦後対策の一環だったわけだ。 ただしソ連や東欧諸国は加わらなかった。 両機関の創設はいまもなお保たれるブレトンウッズ体制の始まりでもあった。
世銀の本来の母体は国債復興開発銀行(IBRD)という名称である。 その名のとおり最大の目的は戦争で打撃を受けた諸国の経済の復興だった。 連合国側のヨーロッパ諸国の復興が優先され、四十五年十二月に正式に発足した世銀はフランス、オランダ、デンマークなどへの貸し付けを始めた。 貸し付けといっても実態はODA(政府開発援助)と同じ経済援助である。 借り手にとって金利も返済条件も民間融資では考えられない好条件だからだ。
世銀は四七年には国連と協定を結び、「国連と連携する専門機関」となった。 国連側との情報交換や政策協議を保ち、国連開発計画(UNDP)との連携を密にして、世銀総裁は国連に活動の概要を報告までするが、予算は別であり、業務の具体的内容も伝達はしない。
日本も五二年に世銀に加盟した。 翌年から戦後復興の範疇で世銀から借り入れを始め、六〇年代なかばまでに発電所や東海道新幹線、東名高速道路などの建設プロジェクト合計三十七件に約八億六千万ドルを借り入れた。 世銀は最優先対象だったヨーロッパ諸国に対し五〇年代末までだけで合計五億四千三百万ドルを貸し出した。 ほとんどがインフラ建設用だった。 日本も含めてこの種の復興援助の借り手側諸国はめざましい復興と発展を果たした。 大多数が元来うまく機能する金融や司法などの制度を持つ先進工業国だったからだ。
戦後の復興という大目的を果たした世銀は六〇年代を迎え、解散か存続か、という根本的な岐路に立つ。 最大の使命を終えたから解散するか、あるいは経済発展の対象を開発途上国に移して、開発の作業を進めるか、の選択である。 後者の道が選ばれた。
その結果の一つとして新設されたのが国際開発協会(IDA)という発展途上国向け専門の、さらに緩やかな条件の開発融資を請け負う機関だった。 一九六〇年にスタートしたIDAは第二世銀とも評されたが、その後はIBRDと一体で世界銀行と呼ばれるようになった。 そして以後、開発途上国への援助を主に貸し付けの形で、ときには贈与として供してきたのである。
世銀が創設五十周年を迎えた九五年、時のルイス・プレストン総裁は世銀の半世紀にわたる活動を輝かしい業績だとして、誇らしげに演説した。
「過去五十年間の経験は世銀グループの基本的な目標の正当性を立証した。 持続的な経済成長と国民への投資によって、借り入れ国に貧困を減少させ、生活水準を向上させる事に寄与するという目標である」
ところがこの総括は現実の一部しか語っていなかった。 世銀は創設以来の五十年で総額三千五百六十億ドルを少なくとも計百四十六カ国に供与してきたが、そのなかで二十五年以上、貸し付けを続けてきた国六十六のうち三十七カ国は援助を受け始めた時点から経済は向上していないことが判明しているのだ。
国民一人あたりの国内総生産(GDP)を一九八七年時点での購買力その他で計算すると、その三十七カ国のうちのエチオピア、ハイチなど二十カ国は世銀の援助が始まった年よりも九〇年代はじめの方が数字が下がってしまった。 さらにそのうちの八カ国は世銀の援助を受け始めてから経済全体が20%以上も縮小してしまった。
たとえばニカラグアは六五年から九五年まで合計六億四千万ドルの世銀の資金援助を受けたが、国民一人あたりのGDPは六五年に千七百五十二ドルだったのが、八百七十五ドルに下がった。 ニジェールは同じ時期に世銀から五億八千万ドルの援助を受けたが、一人当たりのGDPは六百五ドルから二百八十ドルにまで減ってしまった。
借り入れ国の多数が「持続的な経済成長」を果たしていないことは明白だった。 この実態は世界銀行の根幹の開発援助のあり方に重大な疑問を提起することとなった。
古森義久氏 産経新聞2003年12月20日付朝刊記事
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