2003年11月04日
一九九〇年から九一年にかけての東西冷戦の終わりからの数年間、国連は平和維持活動のラッシュを迎えた。 世界各地でどっと増えた大小の紛争に国連が「平和維持」の名の元での介入を次から次へと求められるようになったのだ。
ソ連共産主義体制の崩壊による冷戦の終わりは国連にとっても、二つのイデオロギーとそれに基づく二大陣営の正面衝突をただレフェリーのように審判する傍観者に近い役割を意味した。
共産主義のテーゼの敗北で、西側の自由民主主義と市場経済という価値観が普遍の香りで全世界を圧するようになった。 国連もそれにともない西側に身を寄せて活動を拡大するはずだった。
確かに国連の構造で変わった部分もあった。 シオニズム(ユダヤ民族主義)を人種差別と断じた一九七五年の総会決議は九一年十二月に同じ総会の決議として撤回された。 アラブ諸国に東側諸国が連帯する構図が崩れ、百十一対二十五で撤回が可決されたのだった。
ところが冷戦の終わりは現実の紛争の終わりをも意味するという期待は完全に裏切られた。 実際の世界では民族紛争や領土、宗教の紛争がドッとセキを切ったように、あまりにも数多く起きはじめた。 冷戦時代には米ソ両超大国のパワー、特にソ連側の一党独裁の威力でしっかりと抑えられていた地域内の従来の潜在的な対立や摩擦がタガの緩みで、煙や炎をあげ出したのだ。 バルカン、中央アジア、中央アフリカなどがその実例だった。 その結果、まるで緊急の際の警察への出動要請のように国連の介入や調停への注文がどっと増えた。
国連の平和維持活動は国連創設から一九八七年までの四十年以上の間に計十三回を数えたが、八七年からの五年間にも計十三回となった。 平和維持に加わった国連の軍事要員は八七年には計九千五百人、九〇年には一万四千人だったのが、九三年には七万八千人となった。 費用も八七年に二億ドルほどだったのが、九二年には二十五億ドルほどとなった。
しかし国連自体はこれほどに急増する平和維持活動への備えはなかった。 本部や関連機関の社会、経済などのための組織はやたらと膨張していたものの、平和維持となると、ニューヨークの国連本部でも常勤の専門職員は合計十数人に過ぎず、二十四時間態勢の平和維持軍司令部もなかった。 国連自体の調達や輸送の能力もなく、新たな平和維持作戦ごとに全てを外部から急募せねばならなかった。
このため国連がまた米国に依存するというケースも多くなった。 もともとは国連に懐疑的な共和党の先代ブッシュ大統領も、国連主体の平和維持活動を重視せざるを得なくなり、九二年九月ごろには「大統領決定指令(PDD)25」という指針の作成に着手した。 PDD25はその後、クリントン政権に移管され、九四年五月に正式発表される。 内容は国連の平和維持活動の重要性を認めながらも米軍としての自主的な活動の聖域を規定していた。
先代ブッシュ大統領は国連重視の結果、国連の長年の非効率や不公平を痛感し、米国としての対策を必要とみなすようになった。 そこで自らの側近を米国独自の監察の代表として国連の上層部へ送り込むという思い切った措置をとった。 ペンシルバニア州知事や司法長官を歴任したディック・ソーンバーグ氏を行政管理担当の国連事務次長としたのである。
ソーンバーグ氏は九二年六月から国連に丸一年間、勤め、その間に国連全体の活動や組織の効率性やまじめさという観点からとらえ、キメ細かな調査をしたのだった。 その結果、ほぼ一年後に発表されたソーンバーグ報告書はまず国連の活動には内部での規則に照らした取り締まりがないことを指摘して、国連独自の合同監察団、特に監察総監の新設を提案していた。
ソーンバーグ報告はこれまでの国連の巨大な組織網では自主的な監督をする方法も制度も意図もなかったことを強調し、その結果、不正や浪費や乱用が多かったことを具体的に明るみに出していた。 今後の国連にまず必要なのは完全なオーバーホールだとも力説していた。
結局、ソーンバーグ報告で実践されたのは、合同監察団、監察総監のポストの新設ぐらいだった。 残りの不正の防止や浪費の削減の新メカニズムづくりという提言はそのまま無視されて、国連は二十一世紀へと進んでいくのだった。
古森義久氏 産経新聞2003年11月4日付朝刊記事
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