2003年10月29日
「戦争への脚注」(ベトナムやカンボジアからの難民の窮状を描いているが、難民の原因であるポル・ポト政権の大虐殺に触れず、難民の苦痛は米国の受け入れ手続きのためだとする。 脱出に成功した難民百五十万の半数以上はベトナム戦争終結後の出国であり、米国が内八十万以上を受け入れたことも述べない)
「若さ」(ペルー、ルワンダ、日本、ソ連、米国などの若者の生活を描くが、ソ連では棒高跳び選手とその妻のスマートな生活を紹介するのに対し、米国ではニューヨークの貧民街の少年たちが社会の不公正に苦しむとする姿を紹介する)
「人間の心」(なぜ戦争が起きるのか、という問いのあとの映像はドレスデン、広島、インドシナと米軍の爆撃跡だけを映し出す。 そして核戦争の恐怖を強調し、米軍の兵器だけを見せて、殺された子供たちの姿を映し、「私たちはまだ学んでいない」と結ぶ)
こうした記述は国連報道局が一九八〇年代はじめに製作した広報映画のタイトルと米国議会の会計検査局がまとめた内容の総括だった。 会計検査局は国連が当時の数年間に製作した合計百五十本ほどの映画のうち約五十本の内容を調べていた。
そしてその結果、国連の広報映画について「国際紛争ではソ連や第三世界は非難せず、米国だけを一方的に糾弾する」あるいは「世界の経済が先進国の搾取の上に築かれていると批判する」と特徴づけ、米国や市場経済をいつも悪者とする偏向を指摘したのだった。
米国は当時、国連の映画制作の年間費用約千三百万ドルの25%を負担していた。 だから米国納税者の見地からの費用対効果の調査を求める声が議会で盛り上がったのだった。 なにしろ国連の報道映画は各国の国連報道センターなどを通じて、一九八三年だけ見ても年間延べ一万本のフィルムが総計二億人以上の観客に上映されるのだ。 米国としては自分で資金を出して自分への不当な非難の宣伝を作られるのではかなわない、というわけだった。
国連のこうした反米基調は既に米国以外の観察者からも指摘されていた。
「国連では八〇年代には会議や資産の乱用、米国だけを非難し、ソ連は決して非難しない二重基準、予算上の無責任などがあまりに明白となった」
国連を専門に研究するイギリス人ジャーナリストのローズマリー・ライター氏が自書「失われたユートピア=国連と世界秩序」のなかで以上のように記した。 同氏はそして、西側あるいは西寄りの陣営でも第三世界の偏向に追従する国が多い事を指摘し、その背景を次のように解説していた。
「国連の協議の場では不自然な政治文化が発達してきた。 多くの国が国連での自国の言動は現実の国際政治とは無関係だとみなすようになった。 だから西側寄り諸国の多くは第三世界の諸国が常に米国を『国際社会の意向』への敵対者として扱っても現実の国際政治や自国と米国との関係への影響を考えずにそういう扱いに追従したり、黙認したりするようになったのだ」
国連が現実ではなく仮想の国際政治の舞台になった、ということだろう。 だがそこで演じられるドラマは一貫して反米だった。 国連自体の非効率や腐敗も多くなっていた。 こういう実態に正面から挑戦したのがロナルド・レーガン大統領の下での米国だった。 国連への反撃である。 その先頭に立ったのが米国の女性国連大使となったジーン・カークパトリック氏だった。
八一年末までには国連ではソ連軍のアフガニスタン占領でも、大韓航空機の撃墜でも、ソ連は名指しはされないのに、米国は全世界の平和と繁栄への脅威となっていると非難する決議案に合計九十三カ国が支持を表明するという倒錯ぶりだった。
レーガン政権は八二年に米国の対国連政策として五つの原則を打ち出した。の五つだった。 そして最大の目標としては国連での米国への非難や糾弾に正面から反撃していくという姿勢を明確にした。
- 国連での米国の影響力の回復
- 民主的価値観の積極的な防衛
- 国連事務局での米国人職員数の増大
- 国連の年間一万一千回とされる会議数の削減
- 国連予算の延び抑制
カークパトリック氏がその先頭に立ち、米国に不利な票を投じた国には直接、なぜそう投票したのかを問い、そういう投票には必ず米国との二国間関係に悪影響を及ぼす、と告げるようになったのだった。
古森義久氏 産経新聞2003年10月29日付朝刊記事
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