2003年10月27日
米国で長年の伝統ある反国連の思潮はなにも保守派や共和党のみに限られてはいなかった。 国連専門機関の国際労働機関(ILO)に対する一九七〇年代から八〇年代にかけての激しい反発と、その結果としての脱退はそうした思潮の幅広い浸透を物語っていた。
ILOはユネスコに似た地位の国連機関で、創設は国連本体よりずっと早い一九一九年だった。 第一次世界大戦の講和を決めたベルサイユ条約が創設の母体となっていた。
本部をジュネーブに置いたILOはその名どおり、全世界の労働者のための労働時間の短縮、労働災害からの保護、労組結成の自由の保障など労働条件の改善を活動の目的としていた。 米国は創設時の委員会議長に米労働総同盟(AFL)サミュエル・ゴムパース議長を送ったが、国家としては一九三四年まで加入しなかった。 ILOが、米国非加盟の国際連盟の一部のようになって発展していった事がその理由の一端だった。
第二次大戦後はILOは一九四六年十二月、第一回国連総会で初の国連専門機関となった。 ILO加盟国は政府二人、雇用者側、労働者側各一人計四人の代表を毎年一回開かれる総会に送っていた。 労使の代表が同等の資格で参加できるところが特徴だとされていた。
当初は米国と西欧が主体だったILO加盟諸国も六〇年代、国連本体と同じように、植民地支配を脱した開発途上国や民族意識を高めるイスラム系国家、非同盟諸国、それにソ連を中核とする共産主義国家が「反米欧連合」を組む形で多数派となっていった。
同時にILOの活動も反米欧傾斜を顕著にしていった。 一九七〇年代のその傾向について米国労働省は次のように報告していた。
「労働者の人権保護に関して一九七一年のILO報告書で違反の疑いを指摘され、警告を受けたのは共産圏ではチェコスロバキア一国だけだった。 結社の自由や強制労働に関しては一定数の第三世界の小国だけが批判された。 均衡をまったく欠く警告や批判だった」
ILOがもし人権の弾圧を客観的に取り上げるならば、共産党一党独裁のソ連・東欧諸国多数がまずリストアップされるはずだった。 だがこの報告書はチェコスロバキアだけを違反の疑いあり、とするだけなのだ。 第三世界でも西側に近いチリや南アフリカだけが選別された形で名指しを受けていた。 労働者の結社の自由が認められないとか、強制労働が実施されている、という批判だった。
肝心の労働案件でも、東側陣営と第三世界は政府の役割を最重視し、ILOへの各国四人代表も政府側二人が労使各一人に替わって、発言権を急速に増大する事になった。 その結果、米国側の労働者代表の間では目前のILOをみて実際には「国際政府機関」ではないか、という皮肉なコメントが聞かれるようになったという。
米側はILOの極端な政治化にも反発するようになった。 本来なら労働問題だけに取り組みはずの機関が軍縮について発言するようになった。 調査や研究をするようになった。 機関紙の「国際労働レビュー」にも軍縮についての長文の記事が掲載されるようになった。 その軍縮ではソ連側の軍事大増強はほとんど語られず、米国側の兵器類の「危険」や「浪費」だけが非難された。
米国はこれほどの悪役とされながらも、ILOの全予算の25%というような巨額の財政負担をしていたのだった。
こうした不満をためた米国は1977年十一月、ILOから脱退した。 国連機関からの初めての離脱だった。 このとくの米国の大統領は民主党リベラル派ジミー・カーター氏である。 民主党リベラル派の政権の下での国連機関脱退の決定だったのだ。
しかもILO脱退をきわめて強く主張したのは米労働総同盟産別会議(AFL・CIO)だった。 米国内の労組でも最大組織である。 政治的には日ごろから民主党を支持し、リベラルのスタンスを明確にする団体だった。
ILOで米国代表として政府代表や労組代表とともに活動した雇用者側代表の母体の米国商業会議所は労組側よりも更に激しくILOに反発していた。 ILO側が市場経済を敵視し、社会主義型メカニズムを追い求める事に本能的な隔たりを感じたのだ。
米国は八〇年代にはILOが態度をかなり改めたとして、復帰した。 だが米国での国連への反発は決して保守派の独占物ではないのである。
古森義久氏 産経新聞2003年10月27日付朝刊記事
スポンサーサイト