2003年10月24日
国連人権委員会は今年四月、日本人拉致を含む北朝鮮の人権弾圧を非難する決議案を審議した。 黒白があまりにも歴然とした決議案だった。 他国民を勝手に拉致することには非難する以外にどんな対応があろうか。 それでも表決では、委員会加盟の五十三カ国のうち十カ国が反対した。 他の十四カ国は棄権した。
反対は中国、ベトナム、キューバ、ロシアなどだったが、このうち中国とベトナムは日本が巨額のODA(政府開発援助)を長年、最大供与してきた相手だった。 ODA外交などという言葉があるように、経済援助は国民の貴重な血税をせっかく贈るのだから、相手国に何らかの友好の感情や協力の意志という見返りを自然と期待する。
ところが中国もベトナムも日本側のそんな思いにはツユほどの配慮もみせなかった。 日本が国民の悲願として切望する北朝鮮非難の決議を平然として葬ろうとしたのだった。
日本の外務省が外交の大切な一部だとして、長年にわたり、せっせと国民の資金を注ぎ込んできたODAは、国連の場ではまったく無力なのか。
実はこの同じ疑問は米国が十年前に提起し、国連での各国の投票ぶりを定期的に調べて比べる相関点検の制度を築いていたのだった。 この制度は米国連邦議会上院のロバート・キャステン議員(共和党)が推進した。
キャステン議員は一九八二年にニューヨーク国連本部の米国代表部の一員となった。 米国には自国の国連代表部に連邦議会の現職議員を送り込む制度があり、同議員はレーガン大統領に任命されたのだった。 国連の現実を行政府だけでなく立法府のメンバーにも肌で実感させる、という意図からの制度だった。
キャステン議員は上院では予算委員会や歳出委員会で活動してきた。 とくに外国援助の財政面を専門としていた。
米国が八三年、カリブ海の小さな島国グレナダに侵攻した。 そこではソ連寄りの勢力が血生臭い革命を進め、閣僚を惨殺したうえ、米国人大学生多数の命を危険にさらしていた。 レーガン政権は自国民の生命保護を派兵の理由に掲げた。 だが国連総会では米国非難の決議が百八対八の大差で可決された。
賛成票を投じた国のうち六十八カ国が米国から援助を受けていた。 そのなかにはエジプト、インド、ギリシャ、インドネシアなどの大口のODA受領国が入っていた。
一方、一九八〇年頭から世界を揺るがせたソ連軍のアフガニスタン占領に対しては、国連総会に出た非難決議案は米国が必死でソ連を名指しすることを求めても、「外国軍部隊の即時撤退」がうたわれただけだった。 この弱い決議に対してさえ三十九カ国が反対した。 しかもそのうちの十数カ国が米国のODAを受け取っていた。
八三年にソ連軍が大韓航空旅客機を乗客二百六十九人ぐるみ撃墜したことに対し国連総会は米国主導のソ連糾弾の決議案を支持しなかった。 米国からの援助に大幅に依存してきたガイアナやジンバブエはソ連の責任を明確にしようとする米国の努力に完全に背を向けてしまった。
米国からODAを受ける個別の国ではエジプトなど年間二十億ドルを供与されながら、国連の場では四回のうち平均して三回は必ず米国の意向とは反対の投票をしていることがわかった。
エルサルバドルの政府はソ連やキューバに支援されたゲリラとの国内戦闘で米国からのODAに依存しながらも、国連では日頃、アメリカに同調する形の投票はわずか三割ほどだった。
米国とは北大西洋条約機構(NATO)を通じての同盟国同士であり、米国のODAへの依存度が高いトルコは八二年全体を通じて、国連総会では60%の反米の投票の記録を残していた。 似た立場のギリシャは国連総会では米国への反対票が全体の70%にも達した。
キャステン議員は国連での反米基調はある程度は知っていた。 だがこれほどとは思わず、ショックを受けた。 当時の米国はODAとして年間総額約百二十億ドルを払っていた。 だがそのODAは国連での米国支持を高めることにはつながっていなかったのだ。
同議員はこの実態を変えるため、米国政府が毎年、国連での各国の投票状況を詳しく追って、米国からのODA額とともに公表することを提案した。 この結果、八四年二月から国務省が正規の発表を始め、各国への圧力となっていった。
古森義久氏 産経新聞2003年10月24日付朝刊記事
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