2003年10月20日
国連の欠陥の指摘に対してはよく「でも国連にかわる国際機構はない」という反論がぶつけられる。 欠陥の指摘が説得力に富むほど、「だが国連をなくすわけには行かない」という代替不可能論が激しく放ち返される。
イラク問題でもフセイン政権へのあれほどの無力をさらけだした国連はいま米国から治安回復のための協力を求められると、自らにはもう何の問題もないかのようにまた歩み出す。 国連がこの世界にどのような貢献をしているのか、という基本の命題も問い詰められることなく、これまでの状態を続けるのだろう。
国連は本当に世界にどう貢献しているのか。 世界は国連がなければ、すぐに混迷の闇に落ちてしまうのか。 国連の存在自体を疑うことから始まるこの点の研究は現代世界では極めて少ない。 国連の必要性を体系的に証する研究は至難だからだ。
だが米国にはその種の研究が存在する。 東西冷戦の最中の一九八四年、ワシントンの有力シンクタンクのヘリテージ財団が「国連なき世界=もし国連が閉鎖されれば、なにが起きるか」と題する大規模な研究調査を実施したのだった。
一年以上をかけた同研究は国連の活動を「経済開発」「保健」「環境」「教育」「食糧供給」「人権」「軍縮」「平和維持」「世界の安全弁」という九分野に分け、それぞれを専門の学者たちが国連の実績を出来るだけ数量化して総括し、もし国連がなかった場合と比較していた。 国連が消えた場合のシミュレーション(模擬演習)だった。
当時の国際環境はいまと違うが、国連の枠組は同じだった。 この研究は国連が米国の納税者から毎年十億ドルの資金を与えられるだけの価値があるかの検証をも主眼としていた。
その結果、同研究はなんと「一般的に世界は国連がないほうがよりよい場所になることが国連の過去の記録で示された」という結論を打ち出したのだった。 同研究にかかわった専門家十五人はレーガン政権に近い保守系のヘリテージ財団以外の大学教授らがほとんどだった。
「国連と経済開発」については、「国連開発計画(UNDP)のプロジェクトが開発途上国経済を変質させた例証ではなく、民間かつ二国間の財政資源の流れこそが先進国と途上国の間の経済交流を支配している」と診断されていた。 経済全般についても同研究は国連が計画経済を優先させ、私有、民営の自由経済を抑えることで成長を阻害してきた、と述べていた。
「国連と保健」について同研究は国連専門機関の世界保健機構(WHO)が代替のない唯一の組織として世界の衛生や保健に貴重な貢献をしてきたとしながらも、「先進国の製薬活動を『医薬品植民地主義』などと糾弾する国連の政治的な枠から出れば、本来の目的はもっと効果的に達せられた」と断じていた。
「国連と軍縮」では「国連が現実の軍縮の分野で達成したことはなにか。 それはゼロである」と、徹底して厳しい。 国連ではジュネーブに本部をおき、総会でも軍縮委員会をおき、総会でも軍縮委員会の意向として「全面・完全軍縮決議案「を採択し、軍縮の討議や調査には膨大な時間と労力を注いできた。
しかし国連独自の実際の成果はなく、一九六三年の部分的核実験禁止条約、六七年の宇宙条約、六八年の核不拡散条約、七二年の戦略兵器制限条約など、実際の軍備管理から軍縮につながる主要な国際合意はみな米ソ両大国の主導で実現してきたのだと指摘された。
しかも国連での軍縮は冷戦の長い期間、ソ連など東側陣営が第三世界諸国と手を結び、「全面軍縮」の名の下に結果として米国など西側陣営の抑止力をそごうとする形で試みられた、ともいう。
「世界の安全弁としての国連」については、紛争の当事者の特定国が国連に苦情を訴えれば、少なくとも沸き上がった怒りや興奮を抑えられ、国連は安全弁の役割を果たす、という期待もあるが、実際の展開はその反対だと判定された。 国連では紛争当時国は紛争の解決ではなく、相手国への攻撃に終始する。 だから結果は安全弁と逆になる、というのだ。
同研究は結論として「国連なき世界」は保健や食糧などの国際協力では多数の多国間機関を個別に機能させ、平和や安全には地域的な多国間機構や集団同盟あるいは多層の二国間協力をあてて、各国外交協議はテーマごとに場所を変えて催せばよい、としていた。
古森義久氏 産経新聞2003年10月20日付朝刊記事
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