2003年09月11日
「とてもナイスで、ものわかりが良い人物」
ダンバートンオークス会議のソ連首席代表のアンドレイ・グロムイコ駐米大使はイギリス首席代表のアレクサンダー・カドガン外務次官からこう評された。 その後の長い東西冷戦時代にソ連外相として西側を揺さぶり、悩ませることになる人物の特徴描写にしては意外である。
ソ連の国連創設への当時の取り組みは米英側が予想したよりはずっとスムーズで柔軟だった。 だからこそグロムイコ代表の言動も「ナイス」と評されたのだろう。ただし同じ人物評でも崩壊した旧ソ連側に語らせると「ダンバートンオークス会議でのグロムイコはスターリンの理想的な走り使い少年だった」(ヘンリー・トロフィメンコ・ロシア科学アカデミー米国カナダ研究所首席アナリスト)となる。
国連の主唱者のルーズベルト米国大統領はイギリスのチャーチル首相に国連ふうの国際機関が象徴する戦後の世界の体制について「各国が自ら望む政府を選ぶ自由」や「すべての人間が自由に生きる権利」を前提のように語っていた。
同大統領が意味したのは枢軸と戦ってきた連合国同士であっても共産党独裁のソ連は異質の小数派となる民主主義の体制だった。 ソ連側としては、だから国連作りのプロセスでは米英側に対し山のような要求を突き付け、自国の体制を守ろうとするだろうとも予測された。
ところがダンバートンオークス会議ではグロムイコ代表はおどろくほどの強調性を示し、米英側の国連に関するほとんどの提案に柔順に同意した。 ただし強引な主張が二点だけあった。
第一は国連にはソ連は連邦本体だけでなく連邦を構成する計十五の共和国すべてを個別に加盟させるという案だった。 ソ連が突然に出してきた提案に米英側は不意をつかれた。
第二は拒否権だった。 国連での重要な平和と安全の案件についてはすべて安保理の常任理事国の全会一致の賛成を不可欠にするという案である。 安保理にはかる提案はみな常任理事国五ヶ国のうち一国でも反対すれば、排されるという拒否権システムだった。
第一点については米英の反発にグロムイコ代表は当初から譲歩をちらつかせた。だが第二点の拒否権ではどんなことがあっても譲れないという態度を貫いた。「グロムイコは国連憲章への安保理全会一致の原則の採用のためにはライオンのように戦った」(トロフィメンコ氏)というのだ。
米英側は当初、拒否権を制限することを主張した。 安保理での案件の内容次第で全会一致を必要としないという案や、常任理事国のうち四ヶ国が賛成すれば、残り一国の拒否権は認めないという案、あるいは安保理にかかる紛争案件の当事者となる常任理事国は表決に加われないという案も、米英側から非公式に提案された。
しかしソ連は微動だにしなかった。各共和国の加盟案ではウクライナ、ベラルーシ(白ロシア)両共和国とソ連邦本体の計三国の加盟という線で妥協したが、安保理常任理事国の拒否権についてはいささかも譲らなかった。 米英側が折れて、国連憲章はこのソ連の要求どおりのシステムを認めた。
実際にスタートした国連はこの拒否権こそが最大の壁となって、空転を重ねていくのである。 ソ連にとっては長い東西冷戦の間、この拒否権が自国の国際利害を守る強力な外交武器ともなった。
ソ連はこうした戦後の新世界の秩序づくりを進めるにあたり、日本の敗北を当然の帰結とみていた。だが表面では日本との中立条約を守る構えをみせていた。 ダンバートンオークス会議でも日本との非交戦を誇示するために、中華民国との同席を断固として避けてみせた。
ところがソ連は実際には同会議の前年の四三年秋には米英両国に対し日本攻撃の決定を伝えていたのである。 ドイツを破れば、すぐに対日参戦するという決定だった。 しかし表面は日本との不可侵の誓約を保ちながら、その実は戦勝国としての戦後の国際統治の青写真を描く主役の一員となっていたのだ。
こうしたソ連のしたたかな権謀とたくましい遠謀も国連創設の大ドラマの隠された重要部分だったのである。 戦後に機能を始めた国連がその種の権謀や遠謀とからみあってこそ生まれたという現実は、日本側での国連認識とはあまりにかけ離れていたといえよう。
古森義久氏 産経新聞2003年9月11日付朝刊記事
スポンサーサイト