第7回
フォークデュオとして息の長い活動を続ける「紙ふうせん」のお二人。大ヒット曲となった「冬が来る前に」の誕生秘話です。
ヒット曲誕生
悦治郎 紙ふうせんをスタートした時期は、「伝承歌を歌うのだ」と意地になっていたところがありました。当時の音楽界は、ニューミュージックの大きな流れの中にあり、ノリのいい曲に人気が集まっていました。僕たちの弦楽カルテットとの編成で歌っていたステージだと、お客さんが緊張するんです。
泰代 皆さん、真面目に聴いてくださるので、なかにはリラックスできる曲も必要よね。手拍子くらいできる曲もあってもいいかも、と思ったんです。
悦治郎 実は、「冬が来る前に」の下地になる曲は、75年にできていました。ベーシストの浦野直が、ステージ用に作ってきた曲ですが、当時はまだ歌詞も完成されていなかったのです。
泰代 ある日、浦野さんがうちに遊びに来ていて、ベースで音を奏でている横で、悦治郎さんが鼻歌まじりで石油ストーブの掃除をし始めたんです。
悦治郎 浦野の音に乗せて「♪冬が来る前に…♪ストーブの芯をきれいにしとかないとね…♪」と歌っていたら、「あ! できた!!」
半年後くらいから、その歌を舞台で歌うようになりまして、76年、フェスティバルホールののライブで録音した音源をソニーに持ち込んだら、「これは売れる!」というわけで、学生時代からの友人である梅垣達志にアレンジを依頼して、完成させました。
泰代 あの曲はメロディーと詞が一つのところに向かって生まれてきた曲でした。浦野さんが来ていなかったら? 悦治郎さんがストーブの掃除をしていなかったら? と考えると、状況が整わなかったら生まれていなかったかもしれないように思います。
悦治郎 曲づくりには、その場の人だけではなく、お天気やその日の健康状態など、様々な影響があります。だから2匹目のどじょうはないんです。数式を解くように作曲できる人もあるとは思います。数式型の作曲なら、アレンジさえすれば次の曲ができるでしょうが、僕のようなタイプにはできません。
泰代 77年11月に「冬が来る前に」がリリースされると、いっぺんに忙しくなりました。東京~大阪間を1日に2往復したこともあります。
悦治郎 その後、日本はバブルが崩壊し、冬の時代に入っていきました。いろんな意味で「冬が来る前」のときでしたね。決して作為的に作ったものではありませんが、時代を予見し、人が共感し、そこに真実があったのだと思います。
(つづく)