2003年08月04日
「国連が自らの決議に沿ってイラクの武装解除を実行しないならば、米国がそれを実行する」
米国のブッシュ大統領はこんな言明を繰り返した。 三月下旬にイラクのフセイン政権への軍事攻撃を開始する前の意図の説明だった。 「国連が行動をとらない」という点を強調し、代替策として米国が国家主権を発動しての行動をとらざるをえない、という宣言でもあった。
平和を維持するための国際機構としての国連の失敗は、数え切れないほどの実例が指摘されてきた。 個々のケースでの失態は多数、実証されてきたといえる。 だが今回のイラク戦争ほど国連の単なる失敗ではなく、もっと広く深い構造的欠陥を露骨にみせつけた例はなかった。 しかもイラクのフセイン政権と米国のブッシュ政権と、そのいずれもが同時に一八〇度も異なる見地からそれぞれ、国連の無力さをさらけ出してみせる結果となったのだ。
米国側はイラクを攻撃する理由について「フセイン政権は国連決議で課された義務を履行しなかった」として、国連の無力を前提に懲罰の決意を宣言して、実行に移した。 コリン・パウエル国務長官が二月の国連安全保障理事会での演説で「イラクはすでにこれまで十二年間、国連決議十七件に重大な違反をしてきたと断じられた」と述べたとおりだった。
クウェートを軍事占領し、米国主体の多国籍軍の攻撃を受けて完敗したイラクは十二年前の一九九一年四月、国連安保理の決議六八九号を受け入れる前提で停戦を認められた。 事実上の降伏だった。 その結果、核、化学、生物という大量破壊兵器や射程百五十キロ以上の弾道ミサイルをすべて破壊し、かつその確認のための国際査察を受け入れることを誓約した。 その時点で少なくとも科学兵器の保有は確実だった。
だが国連の認定でもイラクはこの決議を完全には守らず、国連の側は以後、当初の決議の趣旨を履行させるための追加の決議を次々に採択していく。 しかしイラク側の対応はかえって硬化し、九八年には国際査察団をすべて国外に追い出してしまった。 その状態は二〇〇二年秋ごろに米国が武力攻撃の意図を明白にし始めるまでそのまま続いたのだった。 その長い年月、国連自体はイラクに相次ぐ決議を遵守させるための強固な手段はとらなかった。
米国側では国連のこうした側面をとらえてその機能自体が現実にとって「無意味」「無関係」と断じたわけである。
だが視点を変えて、イラクの側、さらには米国のイラク攻撃に条件つきながら反対したフランスやドイツの側からみても、国連の無力はいやでも実証されたことになってしまう。
米国はイギリスなど「有志連合」を結成し、国連の動向に最終的には背を向けて、イラク攻撃に踏み切った。 国連は米国のこの行動を止められなかった。 国連安保理の全体の意向を理由に米国に反対をぶつけたフランスやドイツにとっても、国連の機能はなきに等しかったことになる。
だから国連の無力は二重に印象付けられたのだった。
米国側ではとくに国連安保理のメカニズムに対し改めて非難の矢を放つこととなった。 「国際平和と安全の維持」のために国連の中でも唯一、加盟国を拘束する権限を持つはずの安保理は常任理事国五ヶ国、非常任理事国十ヶ国から成る。
イラク攻撃の是非が論じられたとき、非常任理事国にはアンゴラ、カメルーン、ギニアという諸国も含まれていた。 国際社会から援助を得なければ機能できない貧困や内戦に悩まされ、国際動向との連環を説くことが難しい微小や孤立が特徴の諸国だった。 米国側では「ギニアという国の意志で超大国の米国の国家主権の行使がなぜ左右されねばならないのか」というたぐいの議論が燃えあがった。
国連では安保理常任理事国の拒否権保有を除いては、どの国もすべて平等に扱われる。 だから米国の主張が人口六百万人のギニアの意向で抑えられるという現象もいくらでも起きうるのだった。
事実、フランスは一九五八年まで自国の植民地だったギニアに外相を送り、ロビー工作を展開させるという構えをみせた。 そんな動きは米国をまたいっそう国連拒否へと駆り立てた。
国連の構造の古くて新しい欠陥や矛盾はこうしてイラク戦争を機に、いやというほどまた露呈されたのだった。
古森義久氏 産経新聞2003年8月4日付朝刊記事
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