2019年1月12日初出(https://frroots.hatenablog.com/entry/2019/01/12/100233)
はじめに
この長い記事の目的は、現在ツイッター上で生じているトランスフォビアの問題について、若干の問題の整理を試みることで、トランスフォビックな語りの停止に多少なりとも貢献を試みることです。
ここで「問題の整理」ということで私が意味しているのは、「トランスフォビックな語り方」がどのような思考から出てきているのか考え、またその思考を反省することは、フェミニズムの関心とも重なるとこがあるはずだという見方を呈示することです。
この記事には二つの内容があります。
ひとつはタリア・メイ・ベッチャーによる「トランス初級講座」という論文の紹介です。この論文の最後の「ジェンダー分離」という節は、ちょうどトイレの話から始まっていたので、資料としての意味もこめて雑な訳も載せておきました。
もうひとつは、ベッチャーの論文の内容に絡めて、もう少し私自身の専門である社会学のほうに引き寄せつつ、トランスの問題とフェミニズムの問題の重なりについて考えるパートです。
両方あわせるとだいぶ長くなりますが、もちろん一気に読まなくても構いません。どうかゆっくりとおつきあいいただければ幸いです。
「トランス初級講座」紹介
第1節~第6節
まず「トランス初級講座」という文章の紹介をします。著者のタリア・メイ・ベッチャーはカリフォルニア州立大学哲学科教授で、昨年はBuzfeedの記事「私たちの生活にヒントをくれる女性哲学者たち」37人の中にも名前が挙がっていました。この文章が寄稿されているのは『セックスの哲学(第7版)』という本です。版を重ねていることから、それなりの定評があることがわかります。
哲学の教科書なので、ベッチャーの文章も「何が哲学的に興味深いか」といった問いのもとに書かれていますが、ベッチャー自身のトランス女性としての経験から、哲学的問いと、当事者にとっての(そして私たちの社会にとっての)重要な問題とが重ねられていると考えられるでしょう。
「トランス初級講座」ではまず1節でセクシュアリティに関する基礎用語が解説されます。「性的指向」「ジェンダー表現」「ジェンダーアイデンティティ」が取り上げられています。この中でいま重要なのは「ジェンダーアイデンティティ」ですが、それが何かという問題は後で触れられています。
2節はトランスにかかわる述語の解説で、「トランスセクシュアル」「トランスヴェスタイト」「クロスドレッサー」「トランスジェンダー」といった言葉の意味と簡単な歴史が紹介されています。
こうした言葉の意味とその背景を理解しておくことはむろん大事なことですが、ここで解説することはこの文章の目的から外れてしまうので、「わからない」という方はぜひ調べてみてほしいと思います。
3節はこの文章にとって重要な部分です。「誤った性別割り当て(misgendering)」と呼ばれるトランスフォビアが取り上げられています。「誤った性別割り当て」とは、トランスの人々に対して、その人自身のジェンダーアイデンティティにあわない取扱いをすることです。例えばトランス女性を「彼」と呼んだり、「女性として生きる男性」と呼んだりすること(もちろんその逆も)などがそれにあたります。
ベッチャーが紹介しているところによればこの「誤った性別割り当て」にはさまざまな害がともないます。こうしたふるまいは、トランスの人の自尊心を掘り崩し、疲労やストレスや怒りや恥といった心理的負担を与え、また自分が何者であるかという認識を確立することを妨げ、また制度的にもジェンダーアイデンティティと異なった扱いをされるという政治的抑圧の対象ともなってしまうと言われています。
こうした害がともなう差別的なふるまいであるという点で、「誤った性別割り当て」には大きな問題があるということをまず強く確認しておきましょう。トランスの人々は、自身のジェンダーアイデンティティにあうよう(つまりトランス女性は女性として、トランス男性は男性として)扱われるべきです。
その上で、ここで次のような疑問を持つ人もいるかもしれません。「トランス女性/男性は女性/男性として扱われるべだ」というときの「女性/男性」とはいったいどういう意味なのか、と。それは結局「生物学的な」ものではないのか、と。
ベッチャーが考えようとしているのは、まさにこの「哲学的」問いです。ベッチャーは4節で、この問いに対して性別にかかわる概念の分析(性別にかかわる用語を人々がどう用いているかという言語的実践の分析)によってその問いについて考えることを勧めます。
私たちは「女性」「男性」といった言葉を、必ずしも「生物学的な」特徴のみを基準に用いているわけではありません。「女性」「男性」という言葉は、生物学的な性別の概念と強く結びついていることは確かではあるものの、さまざまな文化的意味を含んで、文脈によって異なった意味で使われる言葉でもあります。
またこの文章の後半でも考えるように、実のところ私たちの日常生活で常に人の性器(まして染色体)が問題になるわけではないことを考えれば、人を「女性/男性」に分類することがどんな実践なのかということは、「生物学的」なものに還元されるわけではなく、個別の文脈に照らして考えることができる問題だということになるでしょう。
それどころか、「生物学的な」身体(たとえば外性器)がどのようなものであるかということもまた、特定の文脈における文化的な(つまり私たちの言語的実践における)意味づけの対象であることが後の7節では論じられています。このことも、この文章の後半で取り上げましょう。
ベッチャー自身はここでは、トランス女性/男性を「何かを欠いた」女性/男性としてではなく、端的な女性/男性として扱う言語的実践が少なくとも特定のサブカルチャーの中にはあり、しかもそれは現在メインストリームにも広がりはじめているのだと主張しています。
5節では「ジェンダーアイデンティティとは何か」という問題が取り上げられています。一般的にはトランスは、「性別の自己認識」という意味でのジェンダーアイデンティティと身体との不一致と説明されることが多いですが、ジェンダーアイデンティティをこうした意味だけで考えると、多くのトランスの人がもつ自身の身体への不満をうまく捉えられないとベッチャーは言います。
というのも、トランスの人は自分が何者であるのかを必ずしも最初からはっきり知っているわけではなくて、むしろそれを発見していく過程があるというからです。その過程には多くの場合「性別の自己認識」の変更も含まれています。しかし、たとえば自己認識を男性から女性に変更する過程があるとき、身体に対する不満はその自己認識の変更以前から持たれているものです。したがって「自己認識と身体の不一致」という表現ではその状況は捉えられなくなってしまいます。
ベッチャーはここでジェンダーアイデンティティに関するいくつかの立場を紹介した後、「身体に対する感情投入」に注目する視点を魅力的なものとして紹介しています。私たちの身体経験には、快や不快といった感情の経験も含まれます。私たちが自分の身体に肯定的または否定的感情を持つようになるのはどのようにしてか、またその感情が、女性/男性として育てられたという環境に反する場合がある(つまりトランスの人の場合)のはどのようにしてかを考えようということです。
ベッチャーがこうした立場を魅力的だと考えるのは、身体に対する感情的な経験には、身体に対する文化的・社会的な解釈が大きくかかわっていると考えているからです。このことも7節の最後で少し述べられています。
こうして、「女性/男性とは何か」という問いについて、性別を分類する私たちの言語的実践に目を向けるという仕方で考えることは、「身体を解釈する言語的実践」とその実践のもとでの「身体の感情的経験」について考えることにもなることで、「ジェンダーアイデンティティとは何か」という問いにも繋がっているというわけです。
その上で、以上のような文章の最後におかれているのが、「ジェンダー分離」と題された7節です。以下に雑な訳を掲載しておきます(6節ではジェンダーアイデンティティと性的指向の区別と複雑な関係が論じられているのですが、この文章の目的とは関連が薄いので紹介は割愛します)。
— —7節「ジェンダー分離」(翻訳)— —
近年、トランス女性が女性トイレを、トランス男性が男性トイレを使用することを防ぐために、性別で分かれているトイレを出生証明書の性別で使用するよう定める法律がいくつかの州で可決されたことで、トランスの人々が自分たちのジェンダーアイデンティティにあった公衆トイレを使用することをめぐる論争が活発になってきている。トランスの政治的観点から言えば、こうした動きは「誤った性別割り当て」の制度化された形態だと見ることができる。つまり、トランス女性に男性トイレを使用するよう求めることで、トランス女性は制度的に男性だとみなされることになる。このことを合理的に説明する根拠はきわめて薄弱だ。たとえば、トイレの中でトランス女性が非トランス女性に対して性的暴行をおこなうという疑いについて考えてみよう。こうした主張は容易に反証可能だ。トランス女性は通常他の女性に嫌がらせをするためにではなく、用を足すためにトイレを利用するのだから。実際こうした主張は、トランス女性は本当は(女性に危害を加えたいと思う)男性なのだという考えにもとづいている。もしトランス女性が女性として認められているなら、非トランス女性を保護するための論拠は同じようにトランス女性にも適用されなくてはならないだろう。 また、トランス女性は男性トイレを、トランス男性は女性トイレを使うよう主張する立場は、そうした法への賛同者が明らかに意図していない帰結を引き起こす。(非トランス)女性としてパスしているトランス女性を考えてみよう。もし彼女が男性トイレに入ってきたら、男性たちはどう思うだろうか。自分たちのプライバシーを心配してくれれば良い方で、最悪そのトランス女性はハラスメントや暴力にあう危険にさらされるだろう。また、(非トランス)男性としてパスしているトランス男性にについても考えてみよう。もし彼が女性トイレに入ってきたら、女性たちはどう思うだろうか。まさにトランス女性を女性トイレから排除することを動機づけてきたはずのその関心を持ったりしないだろうか。ここで見えなくされているのは、一部のトランスとジェンダー不一致の人々*2がトイレを利用するときに直面するリスクである。一方のジェンダーで一貫したパスをしていない(文脈によってパスするかどうかが変わる)トランスないしジェンダー不一致の人々は、じろじろ見られたりハラスメントを受けたりする可能性なしにトイレを利用することができない。このことが示すのは、少なくともトイレを性別で分け続けている社会においては、ジェンダーニュートラルなトイレが一刻も早く利用可能になるべきだということである。 こうしてみると、トランスの人々が性別で分かれたトイレを使うことに関する論争はほとんど哲学的関心を惹くものではないように見える。トランスの人々が自分たちのジェンダーアイデンティティにあったトイレを使うことに反対する議論はとても貧弱に見えるからだ。しかし、性別で分かれたトイレの話は始まりに過ぎない。他の制度的なジェンダー分離(たとえば更衣室、DVシェルターやホームレスシェルター、刑務所、検身*3など)、特にその中で人が見たり見られたり触ったり触られたりすることがある制度を考えてみると、興味深い哲学的問いと洞察が浮かび上がってくる。 具体的な例を考えよう。私は以前、ロサンゼルス警察署がトランスジェンダー個人にかかわる際の手続きと指針を策定して施行しようとするワーキンググループに参加していた。私たちは、検身の際に自分を検査する警察官の性別をトランスの人々自身が決められるよう求めていた。トランスの人々の身体はしばしば複雑で、自身の身体をさまざまな仕方で「再コード化*4」して理解することもあるので、検査する警察官の性別をどうするかはトランス個人にまかせるのが一番よいというのが私たちの提案の根拠だった。 ロサンゼルス警察署が示した懸念には、ペニスがある身体の検身をすることになる女性警察官から訴訟が起こるかもしれないというものがあった。訴訟に関する潜在的不安は道徳的関心であった。当初そうした懸念は、女性警察官がトランス女性にレイプされるというありそうもない恐れから表明されていた。この考えはもちろん、(ペニスをもった)トランス女性は「本当は男」であって女性に性的暴力を働く傾向があるかもしれないというものだ。しかしながらこれはおかしな話で、ある人がペニスをもつか否かという分割線は、個人に帰属される心理的傾向とはほとんど関係がないだろう。手術をしてもはやペニスを持っていない個人にもレイプをする傾向性は帰属できる。そうした個人は、たとえペニスがなくても、なお性的暴力をおこなう能力をもっている。身体的能力(たとえば体力)という点でいえば何も変わっていないのである。 次に問題となったのは、プライバシーと品位にかかわる懸念であった。こうした懸念は、性別で分れた刑務所について私達が議論する際にもあらわれた。それは主として、トランス女性が(非トランス)女性のプライバシーを侵害し、さらにはわいせつな行為をするかもしれないというものだった。その結果として、検身に関する議論においても、女性警察官がペニスに触れることの害(すなわちわいせつに対する懸念)が考えられるようになった。 このことは、身体部位が――とりわけプライバシーと品位にかかわる道徳的境界に関して――性(sex)によって異なる仕方で社会的に解釈される仕方〔たとえば「男性のペニス」が、暴力をおこなうものとして、あるいは見たり触ったりすることがわいせつであるものとして解釈されているということ〕を示している。それは、「裸であること」は社会的に構成されるという問題を想起させる。裸であることが道徳的負荷のある〔恥ずかしいとかわいせつだとか感じたりする〕現象なのは、ほとんどの社会的文脈において着衣が標準化されているという前提があるからであり、その限りにおいてそれはまごうことなき文化的現象である。こうした関心はまた、トランスの人々が自身の身体をさまざまに解釈することでそうした道徳的境界に異議を唱える仕方を際立たせてくれる。 もしこのことが正しければ、ジェンダー分離において問題となっていることは、実のところきわめて哲学的考察に値することがら――すなわち、性(sex)によって異なる身体部位の、道徳的境界という点から見た社会的解釈――である。これはまったく些末な問題ではない。道徳的解釈は、(少なくとも人間における)男性・女性カテゴリーの区別についての私たちの理解にとても深く入り込んでいるからである。そうした道徳的境界は、トランス男性を本当は女性であると、トランス女性を本当は男性であるとカテゴリー化することを含む言語的実践を支えている。実際それらの道徳的境界は、私たちの公的なジェンダー呈示のみならず、私たちの身体に対する重大な感情投入の感覚――ジェンダー化された公的な尊厳の感覚、傷つきやすさや強さの経験、あるいは暴行や犯罪の経験をも含む感情投入――に対してもその基礎を与えているだろう。言い換えれば、おそらくこの地点〔身体部位の社会的解釈を道徳的境界という点から考えること〕は、ジェンダーアイデンティティを基礎づける何らかの感情投入に対する説明を探し始めるためのよい出発点なのである。 |
— — 翻訳ここまで — —
トランスの問題とフェミニズムの問題
性別の分類:外見とふるまいの規範性
上に紹介したベッチャーの文章は、どこまでその内容に同意するかは別にして、今回ツイッター上で生じているトランスフォビアについて考えるためのいろいろなヒントが詰まったものであるように思えます。特に、性別を分類する言語的実践や、身体部位に対する社会的解釈に注目することは、「誤った性別割り当て」が今回どのように生じてしまっているのかを理解しやすくさせてくれるのではないかと私は思います。
ここではベッチャーの文章に絡めながら、そのことについて考えるとともに、そうしたトランスフォビアを回避することは、フェミニズムの課題とも重なるのではないかということを考えたいと思います。
7節の前半で述べられているのは、「トランス女性を女性トイレに入れないようにする」法の奇妙さでした。それはトランスの人々に対するいわれのない排除であるだけでなく、法への賛同者が意図したのと逆の帰結すらもたらしうる、制度的な「誤った性別割り当て」なのだ、と。
ツイッター上でも今回、トイレの話は話題になっていました。ベッチャーの文章を読んだ人は、「いや、そこで問題になっていたのはトランスの人のトイレ使用ではなく犯罪目的でトイレに入ろうとする男性のことではなかったか」と思うかもしれません。しかし、そのように言うとき、そこでは「男性」ということで何が意味されているのでしょうか。
私たちはトイレですら他人の性器を見ることなどあまりありません(女性トイレならなおさらそうでしょう)。そのときある人が「男性である」というのはいったいどのようなことなのでしょう。
ツイッター上では、この問題は「女装して入ってくる男性がいるのではないか」あるいは「女性だとウソの自己申告をして入ってくる男性がいるのではないか」そして「そうした人とトランス女性の区別がつかないのではないか」という問いのもとで議論されていたように思います。私はこの議論の仕方に、体系的に「誤った性別割り当て」が含まれているのではないかと思います。
ここではまず「女装して入ってくる男性がいるのではないか」という疑問について考えましょう。この疑問には、「女装した男性は、シス女性とは区別がつくがトランス女性とは区別がつかない」という前提があるように思います。しかし、たとえば「(シスであれトランスであれ)男っぽい女性」と「女装した男性」を区別して判断する明確な基準は存在するのでしょうか。
性別判断についてはベッチャーはあまり語っていないので、ひとつ社会学の文献を紹介します。鶴田幸恵さんの『性同一性障害のエスノグラフィ』という本です。
この本の前半は「他人の性別を見る」という社会現象がどう達成されているかが分析されています。私たちはたとえば街で見かける他人を女性か男性か判断していますが、別に性器を見てそうしているわけではありません。「見た目で判断しているのだ」と言いたくなるかもしれませんが、しかし私たちは「女性の見た目をした人」「男性の見た目をした人」を見ているのではなく、「女性を」「男性を」見ているのではないでしょうか。つまり、「他人の性別を見る」というのは実は、ジェンダー化された(つまり女/男っぽい)無数の外見やふるまいの集積から、「外見以上のものを見る実践」なのです。
興味深いのは、そうした実践は、「外見か外見以上のものを推測すること」ではなく、まず端的に特定の性別を帰属した後で、それを地としてその上でその人の振る舞いを解釈する仕方でおこなわれているという指摘です。
たとえばトランス男性が故郷に帰ったときに親戚からは「女性」とみなされて一生懸命「女らしい」ところを指摘されたという話が出てきます。日常的には男性としてパスして生活している人でも、性別移行前を知っている人たちは「女性」だと見て、その判断を地として、ふるまいの「女らしさ」を指摘されるという話です。また、「喫煙所で座ってタバコを吸っていたら男性だと思われた」という著者自身の話も紹介されています。
そう考えると、ふるまいを解釈する枠組みとなる判断がどのようにおこなわれているかは、その人に対する知識や出会いの文脈に依存するものであり、いつでもどこでも誰と誰のあいだでも通用するような脱文脈的な基準を定めることは難しいということになりそうです。いったん判断した枠組みを一時停止して人の外見やふるまいを深く疑いだしたら、シスかトランスかにかかわらず、違った枠組みを採用する要素をそこに見いだすことは出来てしまうでしょう(実際この本でも、問題なくパスできていながら、自分自身は自分の顔を元の性別判断を地として見てしまうがゆえに、自分が「不完全」に思えてしまうという当事者の話が紹介されています)。
さて、他人の性別を見るということがこのような実践であるとしたら、「女装した男性は、シス女性とは区別がつくがトランス女性とは区別がつかない」と考えてしまうことは、想像の中で人の性別をあらかじめ定めて、それを地としてその想像の中の人の外見やふるまいを見ているということなのではないでしょうか。そうだとしたら、その想像は「トランス女性」をあらかじめ「男性」として定めているのであり、その点で「誤った性別割り当て」だということになるでしょう。
もちろん、基準が明確ではないといっても、外見やふるまいが二元化されている私たちの社会では「あいまいな外見やふるまい」がないわけではないでしょう。しかしそのこと自体はトランスかシスかにかかわらず言えることであり、にもかかわらず、「トランス女性と女装した男性の区別」のみをことさらに懸念することは、「誤った性別割り当て」とともにいわれのない懸念をトランスの人々に向けていることにならないでしょうか。
実際には、外見やふるまいを詮索されることを恐れているのはまずもってトランスの人々であるはずです。ベッチャーが書いていたように、そのこと自体ハラスメントのリスクにもなってしまうからです。だからこそ、ジェンダーニュートラルなトイレの整備が急務だと言われているのでしょう。
もちろん、外見やふるまいによる性別判断の文脈相対性を弱めるために、「(シスであれトランスであれ)女性/男性はいつでもどこでも女性/男性にしか見えないように特定の外見やふるまいをしなければならない」と言っていけば、なにがしかの「基準」を定める方向性を考えることもひょっとしたらできるのかもしれません。しかしそれは、フェミニズムがこれまで考えてきたこととは矛盾するでしょう。
一方でフェミニズムは、「女性らしい」外見やふるまいの規範化(女性とはそういうものであるべきだとされること)にずっと抵抗してきました。ツイッター上で何度も繰り広げられている女性表象をめぐる議論にも、このことと深く関わるものがあるはずです。
他方、外見やふるまいの規範によって性別判断のありようが狭く限定された社会は、トランスの人々にとっては他人からどう見られるかを強く気にかけなければならず、またその規範から外れればただちにアブノーマルな存在とされてしまう社会でもあるでしょう。
もしそうなら、この点では、フェミニズムとトランスには共通の事情があり、それゆえ外見やふるまいの規範性の問題について考えることは、両者の問題が重なるところだと考えることができるのではないでしょうか。
身体の意味づけ
続いて「女性だとウソの自己申告をして入ってくる男性がいるのではないか」という疑問についてですが、こちらは「身体の意味づけ」という観点から考えたいと思います。
ベッチャーの文章の後半には、「身体の社会的解釈」の話が出てきます(「解釈」という言葉は個人的にはちょっと強すぎる気がするので、ここでは「身体の意味づけ」という表現を使っておきます)。ベッチャーの警察署の話は、トランス女性のペニスが当初女性警察官に性的暴行を加えるかもしれないものと意味づけられ、次いで女性警察官がわいせつなことをさせられる対象とされる可能性が出てきたというものでした。
ここには、性器あるいは身体の意味づけという興味深い問題があります。ツイッター上ではしばしば「女体持ち」「男体への恐怖」といった表現で、フェミニズムの主体や性暴力への恐怖が語られることがありますが、ベッチャーの話は「身体性」を語るこうした言葉についても考えるヒントをくれるように思います。
「男体」という表現について考えてみましょう。2-1で述べたように、日常生活で私たちが他人の身体、ましてや性器を直接見ることは多くありません。にもかかわらず「女体」「男体」という表現で性別が指示されるとき、そこでは身体に対する一定の意味づけがおこなわれているように思います。たとえば恐怖の対象として語られる「男体」は、身体それ自体を指しているよりは、一定の象徴的な――「侵襲の主体」のような――意味づけをされた身体なのではないでしょうか。
たとえばベッチャーが挙げていた「検身」をめぐるロス警察の当初の懸念(「女性警察官がレイプされるかもしれない」)は、この「侵襲の主体としての男体(ペニス)」という意味づけが「トランス女性のペニス」へと投影されることで生じていたものだと考えることできるでしょう。
「女性だとウソの自己申告をして入ってくる男性がいるのではないか」という疑問もまた、同様の投影を含んでいるように思います。実際には、男性に見える人が女性専用スペースに入ることで生じうる混乱を、多くのトランスの人々は(むしろトランスの人々こそ)望んでいないでしょう。にもかかわらず、「自己申告だけで女性専用スペースに入るトランス女性」と「ウソの自己申告をして入ってくる男性」との区別をことさらに心配することは、やはり想像の中でトランス女性の身体に「侵襲の主体としての男性身体」という意味づけを投影することから出てきているのではないかと思えるからです。だとしたらここにはやはり、「誤った性別割り当て」の問題があるように思います。
念のため述べておけば、私は「男体への恐怖」の語りが常に悪いとまで思っているわけではありません。女性のほうが性暴力のリスクに晒され実際に被害にあっている差別的状況のもとでは、性暴力への恐れが「男性の」身体へと向かうことはむしろよくわかる気がしています。
ただ、男性身体(とりわけペニス)へのそうした意味づけは、それをいつでもどこでもあてはまるものとして一般化してしまうなら、容易にトランス女性の身体にまで拡張され、現実的ではないトランスフォビックな懸念として表明されてしまうことになるでしょう。
このように考えるなら、「女性専用スペースにおける性暴力」の問題を、トランス女性による利用と関連づけて考えることが、なぜトランスフォビアを含んでしまうのかわかるのではないでしょうか。そこにはトランス女性やその身体を、「男性」と想定したり意味づけたりすることが含まれてしまっているのです。性暴力の問題は、トランスの問題とは独立に考えられなくてはならなりません。
さて、私は「身体の意味づけ」の問題も、やはりフェミニズムにとって重要な関心事であったはずだと思います。「男体」への意味づけは、性暴力への恐れを表明するフェミニストのみがもっぱらおこなっていることではありません。それどころかむしろ、それは挿入中心主義的なセックス観や、性暴力すら相手に快楽を与えて支配する手段として描かれる男性向けポルノなど、さまざまなところで少しずつ違った仕方で広範におこなわれていて、それらはまさにフェミニズムが批判してきたものです。
同じ事は「女体」についても言えるように思います。「女体」への規範的な意味づけは、フェミニズムにとって重要な批判対象でした。
まず、「妊娠・出産をする身体」は公的領域においてマイナスの意味づけをされてきました。「生理があって感情的」「出産で休むから労働力として劣る」等々。実際には公的領域は私的領域における女性の家事労働がなければ成立しないものであるにもかかわらず。
またポルノグラフィやセックスをめぐる議論も典型的です。ちょうど「ペニス」が「侵襲の主体」として意味づけられることの裏返しのように、「胸」や「尻」に還元された「女体」が「欲望の客体」として意味づけられることをフェミニズムは批判してきました。「女性は挿入によってこそ快楽を得る」というような考え方についても同様です*5。
他方で、そのようにして「女体」が意味づけられ貶められているからこそ、フェミニズムにとって女性の身体を意味づけなおすことこそ連帯と政治のよりどころだと考えられることもありました。妊娠・出産・育児こそ女性の価値であり保護すべきだと考えた母性主義フェミニズムや、妊娠・出産する女性の身体に「自然性」という価値を見いだすエコロジカルフェミニズムなどはその代表的な例です。
しかし、たとえば健康で妊娠・出産する身体を女性の本質と考え、そこに価値があると意味づけてしまえば、妊娠・出産しない/できない身体をもった女性や、障害をもった女性の身体は劣ったものとして意味づけられてしまうことになります。それゆえ、女性の身体になにがしかの本質を見いだしてそこに価値を意味づけるようなタイプのフェミニズムは、今日では批判の対象となることが多いと言ってよいでしょう。
こうして、「男体」についても「女体」についても、フェミニズムはその意味づけに部分的には関わる要素をもちつつ、それを全面化して規範化することには批判的であるような態度を(全体としてみれば)取ってきたように思います。そしてそうであるなら、ここにはベッチャーが言っていたような、身体部位のさまざまな再コード化をおこなうトランスの問題と重なるところがあるのではないでしょうか。つまり、身体への意味づけを多様化していくことは、フェミニズムの関心事でもありトランスの関心事でもあることができるのではないでしょうか。
おわりに
以上、ベッチャーの議論に絡めながら、外見やふるまいの規範性、そして身体への意味づけの規範性が、フェミニズムとトランス双方の問題とかかわるのではないかということを考えてみました。こうした規範性の問題は、ツイッター上でも「フェミニスト」がたくさん議論してきたことだと思います。それらの問題がトランスの問題とも重なっているところがあるとすれば、トランスフォビックな語り方をやめるということは、フェミニズムの問題に対する思考を一時停止することではなくて、むしろそれを先に進めることでもあるはずではないかと、私は思うのです。
注
*1:Bettcher, Talia Mae (2017) “Trans 101,” in Halwani, R. et al. eds., The Philosophy of Sex: Contemporary Readings (7th edition), Rowman & Limited.
*2:自身のジェンダー表現と社会的に期待されるそれとが一致しない人々。「ジェンダー表現」とは、ベッチャーの解説では「男性的もしくは女性的とされる感じ方、考え方、話し方、振る舞い方、自己表現の仕方」のこと。
*3:裸にした上で口や中や肛門、ヴァギナの中まで調べることもある所持品検査。
*4:身体部位の意味づけをしなおすこと。たとえばトランス女性のペニスを「トランス・クリトリス」と呼んだりするような例が紹介されている。
*5:ツイッター上でも、たとえば「痛いだけ(どころか傷害にさえなっている)女性器への愛撫」を「気持ちよいはず」と思っている男性への女性たちの怒りがたくさん目に入ります。この「気持ちよいはず」という考えには、女性身体への一定の意味づけがあるでしょう。