【47】
「国王陛下…」
カンエは二の句を告げずに、押し黙る。
何十年も人を動かす地位について、様々な人間を観察してきたカンエだ。だからこそ、分かってしまった。察してしまった。
(今のリーシェル様には、私が何を言っても届かない)
ラミアの処刑は、既にリーシェルの中で決定されてしまったことなのだ。生半可なことでは、けして揺るぎはしない。
リーシェルがこんな風に変貌してしまうのは完全に想定外のことだった。
このままじゃ、駄目だ。
このままでは、グレーヒエルの地は荒廃し、やがて滅びることになる。
何としてでも、処刑を止めさせなければ。
どんな手段を使ったとしても。
「――処刑は、明日の午後に行う。分かったな、カンエ」
「…御意」
カンエに対して完全に興味を失ったかのように背を向けたリーシェルに、カンエは唇を強く噛みしめながら、臣下の礼を持って了承の言葉を口にした。
切れた唇から流れた血で、口の中に鉄の味が広がる。
カンエの伏せた眼の奥には、ある確固たる決意を宿っていた。
その日、カンエは一日中忙しく動き回った。やることは山積みで、残された時間は少ない。僅かな休憩すら出来なかった。
何とか全ての用事が終わった頃には、もうすっかり夜が更けてしまっていた。
カンエはがらんとした部屋で一人、長椅子にもたれ掛りながら豪奢な細工が施された杯を手に取る。
傍らには、先程書き終えたばかりで、まだインクすら渇ききっていない文。リーシェルに宛てた、ラミア妃の処刑の延期を願う嘆願書だ。
カンエは杯を掲げて、何もない虚空に呼びかける。
「ジーベルト…リューク陛下…いや、リューク」
口にするのは、何十年と共に王宮で月日を重ねて来た、今は亡き友人たちの名。
つい数年前まで王と仰いでいたリュークを、敬称なしで最後に呼んだのはいつだっただろう。
遠い昔のことのようにも思うし、つい先日のことのようにも思う。
二人と共に過ごした月日は、長くて、そして短かった。
かけがえのない友人たちと、力を合わせて国を治めて来た日々。その歳月はカンエの人生の中で綺羅星のように輝き、そしてあっという間に過ぎ去って行った。
「…今の私を見たら、お前たちは叱るかもしれないな」
カンエは、宰相として用いていた重々しい口調ではなく、砕けた素の口調で一人ごちる。家族の前ですら「宰相」という顔を保ち続けることが多いカンエがそのような口調で話すのは、極々親しい一握りの人間に対してだけだった。
「だけど私はこれ以外の方法は思いつかなかったんだ…それにもう、いい加減疲れたんだよ」
自嘲の笑みを浮かべながら杯を回すと、杯の中に注がれた濃紺の液体が波紋を描いた。
カンエは少し黙り込んでその様を眺めてから、ややあって、老獪さが滲み出ている普段の泰然な雰囲気からは想像がつかない、子供じみた表情で拗ねたように唇を尖らせてみせた。
「…いや、私はあいつらよりも10以上も年上なんだ。そんな私をさっさと置いて逝ったあいつらに、責められる筋合いはないな…」
言った瞬間、自分のことを棚に上げて、何をっと怒り出すジーベルトと、ばつの悪そうに視線を逸らすリュークの姿が脳裏に浮かび、思わず小さく笑みをこぼす。
なんだか死んだ二人が、本当に傍にいてくれるような気がした。
今この瞬間、霊魂でもいいから二人に傍にいて欲しいと、そう思った。
「だから、もういいだろう?お前たちの後を追っても。数年しか持たなかったが、私は老体に鞭打って、一人で頑張ったじゃないか」
カンエは返事が返ってこないと知りながら、死んだ二人の友に問いかける。
杯に注がれているのは、特別に手配した即効性の毒薬。一口口に含めば、数分で心の臓が機能を止める。
カンエは自らの死をもってして、ラミアの処刑の延期をリーシェルに嘆願するつもりだった。