- 作者: 山田芳裕
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/07/23
- メディア: コミック
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「その花入も高麗井戸と同様……/作為なく絶妙にひずんでおる……
いわば神が創り賜うた偶然の産物……/野に佇む樹や石の美しさと同じと見てよい」
「なるほど……/だとすると……
いかな腕の良い陶工でもこれには追いつけぬわけですな……/神が創りし天然の形や風情には敵いませぬゆえ…………」
「それでも追いつかんとする人間の必死さがより面白いと思わぬかね?
今日の徳川様に何を見た……?/あれこそまさしく…………
神の偉業に追いつかんと 必死に己を鼓舞せし故のゆがんだ姿!/まるで古の土器が如き……興福寺の仁王像が如き姿ぞ!
今焼にも同じ姿を…………/同じ劣情を求めたい
それを表したものこそ……/最上の腹よじれるわび器となるのだ……
ひずむを待つでなく/自らゆがませるのだ!!」
(へうげもの 9巻 第九十七席)
この会話の後に、古田織部は焼成する前の今焼を自らの手でひずませ、その美意識の今後を象徴するように、掲げられた今焼の背後から朝日が差し込んでいます。
この会話、そして意図的にゆがめられた今焼は、今までの古田織部の美意識が凝縮された集大成だといってもいいでしょう。
神(無作為)の手による偶然の偉業に対抗する、それに追いつこうとする人間の必死な振る舞い。自然に抗するという無駄ともいえる振る舞いであれ、それでもなお成し遂げたいとする人間の劣情。それこそが「最上の」「腹よじれる」「わび」を生むのだと。
利休居士の死んだ九巻でついに明言された古田織部の美意識ですが、この美意識のあり方は実は、ある意味でこの「へうげもの」という作品の開始時点から随所に表れていたのではないかと思います。
それはどういうことかといえば、「へうげもの」の魅力の一つである、キャラクター達の極めてオーバーな表情です。
喜
(8巻 82席)
怒
(5巻 52席)
哀
(6巻 58席)
楽
(9巻 92席)
喜怒哀楽の他にも
落胆
(2巻 18席)
呆然
(3巻 22席)
驚愕
(4巻 41席)
痛酷
(8巻 78席)
このように、人の内面を抉り出しすぎ、もはや一周して滑稽ですらある表情を山田先生は描き続けているのですが、もしこの漫画を古田織部が見れば、興福寺の仁王像を見たときのように腹を抱えて笑うでしょう。
首の青筋といい腰付きといい……/この「必死さ」がわからぬのか……!?
人の身体はかような形にはなり得ぬ……/それを心得ていても 仏師は凄まじさを醸し出すために……/写実に加えこれでもかと曲げたり捻ったりしておるのよ(6巻 59席)
山田先生の描く表情は、仁王像と同じです。人の顔は「かような形にはななり得ぬ」にもかかわらず、「凄まじさを出すために」顔の筋肉を「曲げたり捻ったり」しているのです。それは読み手にへうげた感情を喚起させ、この作品の魅力として存在感を否が応でも放っています。
「へうげもの」で当初から描き続けてきて山田先生の美意識は、いたるところで顔を見せながら、九巻の最後でついに時代の夜明けと共に形を成したのです。その意味で、古田織部は山田先生のアバターと言えるでしょう。
必死な人間の劣情。
いい言葉だと思います。天然の、天性の美には敵わぬことはあれど、そこになんとしても追いすがりたい、到達したいという「動性」は、何よりも大事な人間の資質の一つなんじゃないでしょうかね。
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