恋に至る病 4/4話
※RPS/nmmn作品です。ご理解くださる方のみ閲覧してください。構造設定多。
🐰さん視点
ハピエン好きの方はご注意ください。
パクジミンは大量殺人犯だ。
世間的に見れば救いようのない悪人で、他人の気持ちなんか分からないのかもしれない。
それでも、ジミンは俺を助けてくれた。孤独な俺を救ってくれた。俺をヒーローと呼んでくれた。俺のことを好きになってくれた。
分かっていたはずだ。どれだけの人間を殺しても、もう誰にだって優しいジミンじゃなくなっても、俺はジミンのことが好きだった。
ジミンがそこに居るだけで幸せな気分になるし、どんなことがあってもジミンの味方をしてあげたい。恐れも愛しさも恐怖も、ありとあらゆる感情を彼に捧げてきた。ジミンと出会ってから、俺の人生はこの美しくて恐ろしく、優しくて残酷な少年に捧げられていた。殆ど息が出来なくなりながら俺は言う。
「ジミナが___だよ」
――これは誰一人として愛さなかった化物か、ただ一人だけは愛した化物かの物語――
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ここまで「恋に至る病」をお読みいただきありがとうございました。
お話の中で、最初から🐥さんは他人を支配する快楽にとりつかれていたのか、あるいは🐰さんを襲った悲劇が🐥さんを根本から変えてしまったのか。🐰さんのことは自分のスケープゴートとしか見做していなかったのか、それともそこには🐰さんの信じる『特別』があったのか。是非🐥さんが何だったのかを解釈していただけたら嬉しいです。
ただ、🐥さんが🐹さんに完膚なきまでに否定されたことが、この物語の希望であることだけははっきりしているといえると思います。
シリーズを通してブクマやフォロー、いいね本当にありがとうございました!
宜しければ是非感想頂けると嬉しいです。
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■第四章
1
夏休みという時期が影響していたのかは定かじゃないが、自殺ゲーム・青い蝶はインターネット上で盛り上がり始めていた。
きっかけは、イム・ミョンスクの事件だった。報道されなくなったからこそ、この事件は今なおインターネットでの語り草になっていたらしい。そうして、匿名での『推理』は着々と醸成され続けていた。
そうしてある日、それに関する詳細な記事を誰かが書いた。ブルーモルフォという自殺ゲームは実際に存在し、それに関わった人間が現実に死んだり、制裁を食らって殺されることや、イム・ミョンスクはブルーモルフォに関わったが故に殺されたことなどがそれっぽく記されていたのだ。
勿論その記事は不完全で、多くの部分が欠けていた。ブルーモルフォの送ってくる指示の内容が違っていたり、あるいはブルーモルフォとは何の関係もない殺人事件がブルーモルフォに巻き込まれたが故のものだとされていた。ヤクザがバックについているのだというまことしやかなデマもあった。
けれど『死んだイム・ミョンスクの身体に、蝶型の傷があった』という本物の情報も書き連ねられていた。ブルーモルフォの重要な中核を担う、課題の一つだ。イム・ミョンスクは二十九番目の課題の時にドロップアウトしたはずだから、それを彫ったのはイム・ミョンスクを殺したクラスタの人間たちなのだろう。
あからさまなデマの中に、ほんの少しだけ事実が含まれている。それだけで、記事は驚くほど信憑性を高めていたし、実際に話題になった。自分のアカウントに流れてきたそのページを見た時、思わず心臓が止まりそうになった。
単なる噂ではなく、より一層熱をもってブルーモルフォの話は信じられていた。みんながそれに魅了され、プレイすれば死ぬゲームの影を追おうと躍起になっていた。
学校でですらその名前を聞くようになり、周りのみんながそれに対して意見を言う。
教室という狭い場所に限るなら、パク・ジミンとブルーモルフォは確かに世界を変えていた。そのうねりは只中にいる俺ですら恐ろしく感じるものだった。このままブルーモルフォはどうなるのだろう。どうなってしまうのだろう。
「ねえ、ジミン。これ知ってる?今SNSで流行ってるやつなんだけどさ。青い蝶」
教室の中心で、クラスメイトがジミンにそう話しかけていた。ジミンは興味深そうにスマートフォンを覗き込みながら、困ったような笑顔を浮かべている。何を言っているかは分からなかったけれど、その演技が完璧であることだけは容易に察せられた。
ブルーモルフォは自分たちの手に余るほど成長し始めていた。まるで、このことを遥か昔から知っていたかのようだった。
「うん。凄いことになってるね。偽ブルーモルフォ」
実際にジミンはこのことまで予想済みだったらしい。放課後、慌ててジミンを問い質す俺に対し、ジミンは気怠そうにそう言った。
「……驚かないの?」
「ブルーモルフォの規模が大きくなれば、こうして一般に知れ渡ることも分かってたよ。そうでなくても、ブルーモルフォの噂自体はずっと前から流れてたんだし」
ジミンが雑談の場所として選んだのは、駅の近くにあるゲームセンターだった。「一度行ってみたかったんだよね」というジミンの真意が読めず、珍しく焦ったことを覚えている。周りには俺たち以外にも高校生のカップルが沢山居て落ち着かなかった。そのみんながブルーモルフォの話をしているような気すらした。
「大丈夫だよ。誰も見てない」
ジミンがそう言いながら、俺の腕に自分の腕を絡める。そして、しな垂れ掛かるように俺の肩に頭を載せて囁いた。
「ブルーモルフォのことを伝える記事だけじゃない。ブルーモルフォの指示を転載したって動画とかページも沢山検索に引っ掛かるようになった」
喧騒の中なのに、ジミンの声はよく俺の耳に届いた。
「それなら見た。全然本物の指示なんか無かったけど」
「エクソシストじゃないんだから、部屋に魔法陣なんか描かせたり、山羊の生き血を飲ませたりなんかしないよ」
それが最高のジョークであるかのように、ジミンがくすくすと笑った。それに対して俺は気が気じゃなかった。UFOキャッチャーの間を潜り抜けながら、目を忙しなく動かす。
「どうしよう、このままだよまずいよ」
「どうして?」
「このままだとブルーモルフォが変に有名になる。今はまだ動いていない警察に目をつけられるかもしれない」
「警察はもう目をつけてるよ。どちらかというと、警察は僕個人じゃなく、ブルーモルフォというムーブメントに乗った集団自殺だと見ているようだけど」
一体何処から知ったのか、ジミンは冷静にそう言った。
「……もしかしたら、一旦休止した方が良いかもしれない。だって、イム・ミョンスクの蝶の傷の話だって書いてあったし、ブルーモルフォはこれからもどんどん偽サイトが出てきて、どんどん有名になって――」
「うん」
「……クラスでジミナもブルーモルフォの話をされてたでしょ?そうしたら、みんながブルーモルフォのことを知るようになって……本物のブルーモルフォはジミナが全てを管理しているから上手く行っているのに、いたずらに偽物が広がっていって――」
「うん」
俺が必死に言葉を探しているというのに、ジミンはガラスの中に積まれたカラフルなクマの山に目を向けている。ジミンはこの状況を分かっていないんじゃないだろうか、という恐れで焦りを覚えた。
「ねえ、ジミナ。真面目な話なんだよ。……それで、偽物が広がっていったら、ブルーモルフォは……」
そこではた、と気がついた。
このままブルーモルフォが有名になり、粗悪な偽サイトが増え、みんながブルーモルフォの話をするようになったら、一体何が起こるのだろうか?俺はそれを漠然と悪いことだと考えていたけれど、実際に何が起こるのかはまるで想像がつかない。
「……それで?」
ジミンの視線がガラスの中のクマではなく、急に言葉に詰まった俺の方へ向けられる。その目は俺のことを責めているというよりは、慈しんでいるかのように潤んでいた。
「ううん、ジョングガ。これでいいんだよ。このまま粗悪なブルーモルフォが広まってくれたら、それはそれで好都合だよ。本物か偽物か分からない指示に従って死ぬ人間だって必ずいる」
ジミンは予言者の目をしてそう言うと、薄く笑った。
「嘘だ。そんなはずない。……ジミナだって言ってたじゃないか。ジミンのやり方だから、人間は指示に従うんだって」
「でも、もうみんな僕の物語を宣伝してくれたから」
「……どういうこと?」
「流れはもう出来たってことだよ。僕が向きを調節しなくても、回りがきっと誘導されてくれる」
その時、何も動かしていないのに、山の一番上に載っていたぬいぐるみが一つころころと転がって取り出し口まで落ちてきた。バランス悪く引っ掛かっていたものが、何かの弾みで落ちて来たらしい。
「僕が直接動かせる人間の数には限界があるんだよ。時間は有限で、このままだとどれだけ頑張っても届かない人間が居る。それでも、こうしてブルーモルフォが有名になれば、結果的に網に掛かってくれる人間だって増えるはず」
「リスクは当然あるよね」
「それに見合うものもあるよ」
ブルーモルフォが有名になればなるほどジミンが捕まる危険性も高まる。それなのに、ジミンはブルーモルフォが新たなプレイヤーを獲得することにだけ目を向けて、それ以外は見えてすらいないようだった。
まるで、ブルーモルフォ自体が自分であるとでも言わんばかりだった。一歩足を踏み外せば、取り返しのつかないことになってしまうかもしれないのに。
「それでジミナは何処に行くつもりなの?」
「グガはおかしなことを言うね」
俺が真の意味でジミンのことを恐ろしいと思ったのは、この時が最初だったかもしれない。ジミンは緩く目を細めて言う。
「僕はここに居るよ」
逃げ出したくなるかもしれない、と言っていたジミンと、目の前の彼が同一人物に見えなかった。
ジミンは自分がブルーモルフォそのものであるかのように俺を見上げ、どこか満足げに微笑んでいた。
周りにいる恋人たちは、俺達のように腕を絡めて歩いて行く。誰も彼も幸せそうに見えた。俺達だって、傍から見たら同じくらい幸せな恋人同士に見えていただろう。
けれど、俺は自分の腕に絡むジミンの体温を感じながら、どこか薄ら寒いものを覚えていた。
はっきり言おう。
この頃から、俺はパク・ジミンのことが恐ろしかった。
検索結果のトップに、ブルーモルフォの偽サイトが載るようになったのはそれから一週間後のことだった。そこのサイトは、五十日の間指示を与えてくれるところ以外は本家と似ても似つかないものだった。
けれど、そのサイトはすぐに有名になった。いくつものミラーサイトが作られ、多くの人間がそれを話題にした。このサイトの指示に従ってみる、という動画投稿者なんかも現れ始め、不謹慎だと削除を要請されるハプニングもあった。そこまで含めて、俺にはこの流れが悪趣味なジョークのようにしか思えなかった。
けれど、ジミンがエクソシストみたいだと笑ったはずの指示に従って、魔法陣の中で首を切った中学生が出てきた頃に、俺はジミンの話していたことが本当のことであったことを知った。
このやり方であれば、ブルーモルフォの影響はもっと遠くまで波及する。さながら、小さな蝶の羽ばたきが地球の反対側で嵐を起こすように、ブルーモルフォが広がっていく。
*
「これでブルーモルフォ事件も終わりですかね」
傍らに居たソクジンに、テヒョンはそう語り掛けた。
”管理人”を名乗り、『ブルーモルフォ』を運営していたユン・ミンソンが逮捕されたのは、『ブルーモルフォ』による死者が八人を超えた後だった。酷く後手に回った捜査だ。もう少し早くミンソンに辿り着けていれば、とテヒョンは密かに歯噛みした。ミンソンは都内で塾講師として勤めている三十五歳の真面目そうな男で、およそ問題のある人間には見えなかった。その点も、彼の逮捕が遅れた理由だった。
ミンソンが作った『ブルーモルフォ』は、アクセスした人間に五十個の課題を出すというシンプルなサイトだった。表示された課題をクリアしたら画面端のボックスにチェックを入れる。チェックを入れると次の課題が表示され、最後まで行うと精神を病んで自殺してしまう、という触れ込みだった。
多くの人間はこのサイトを真に受けたりはしなかった。だが、このサイトを取り上げて紹介する動画や、面白がって拡散する人間が多かった所為で、ごく一部のブルーモルフォが刺さる人間に届いてしまった。
ブルーモルフォの指示に従って死んだ八人は、軒並み何らかの問題を抱えた中高生で、彼ら彼女らは生き血を飲むだとか、実際に指定された魔方陣を飾るとか、そういうゴス的な指示に従った挙句、最終的に首を切って死んでしまった。
「ブルーモルフォで死んだ人間は、来世で好きな人間に生まれ変われるんだって触れ込んでいたらしいですよ」
「……そうだろうね。人間を死に向かわせるのは、究極的には希望なんだよ」
ソクジンは煙草をふかしながら、小さな声でそう答えた。
ユン・ミンソンはさほど抵抗しなかった。動機も愉快犯的なもので、自分の指示で人間が死ぬ様に快感を覚えていた、と供述している。
「ミンソンはどんな罪になるんでしょうか」
「落としどころとしては自殺教唆になるだろうけど。……八人を相手の自殺教唆で、どんな判決が下るかは分からない。究極的にはミンソンは誰も殺していないわけだ。ただサイトを作っていただけだ。ご丁寧に見えないところに『自己責任で閲覧ください』とまで書いていたようだからね」
ソクジンは苦々しくそう言った。あれだけのことをやって、八人もの人間の人生を狂わせたというのに、ミンソンはひたすら逃げの一手を打っている。その部分でも悪質だった。
「殺人にならなくちゃおかしいですよ、あんな人間」
「……僕もそう思うけど」
「ソンスさんはこんなものに引っ掛かる方が馬鹿だとか何とか、その、……こんな馬鹿なゲームで死ぬような奴はどうせ死んでたんじゃないかとか言ってましたけど。そもそもソンスさんはブルーモルフォで人が死ぬことに対しても懐疑的みたいですし」
「まあソンスさんはそう言うだろうね。で?テヒョンはどう思う?」
「え?」
「ブルーモルフォで死ぬような人間は死ぬべきだと思う?」
「まさか、そんなはずないじゃないですか!」
「このゲームのおぞましいところはそこだよ。死ぬ奴は勝手に死ぬ、なんて馬鹿げた言説に説得力を持たせるところ。なんだろうな。僕の勘だけど、このゲームを作った人間は、何処かでこれを淘汰だと思ってそうで怖いよね」
「……淘汰、ですか」
「でもね、淘汰かどうかはそもそも問題じゃないんだよ。人間は多様性で進化してきた生き物なんだ。そんな生物が理由をつけて淘汰される仕組みなんかそもそも作るべきじゃないんだから。誰が生きるべきで誰が死ぬべきかを選別すべきじゃない。誰かを選ぶくらいならいっそのこと人間なんか絶滅すればいいんだ」
予想よりも強い口調で告げられたことで、テヒョンが一瞬だけ怯む。
「ああ、早とちりしないでよ。あるいは全部生かすか、だ。だったら僕は丸っと生きていてくれたらいいと思うよ。だからブルーモルフォの管理人は赦さない。こんな殺人ゲームなんか止めさせないと」
手元の煙草を灰皿に押し付けながら、ソクジンは珍しく柔和な微笑みを見せた。
「ちょっと待ってください。……管理人なら捕まったじゃないですか」
「いや、確かにミンソンは『ブルーモルフォ』の管理人だけど、奴は単なる模倣犯だよ。そもそも、ミンソンがサイトを運営し始めたのはついこの間じゃないか。ジャングルジムでの首吊りともイム・ミョンスクの事件とも時期が合わない」
「だから、それはインターネット上の都市伝説に当てられたとか、それこそミンソンが個別に声を掛けていた可能性も検討されてるじゃないですか。俺の見立てでは余罪はまだありますよ」
「ミンソンにはカリスマが無い」
ソクジンははっきりとした声でそう言った。
「あれは劣化コピーだよ。それも、元の光が強すぎて影に埋もれるくらいのね。僕はまだ、最初のブルーモルフォを創った人間が居ると思っている」
「……どうするんですか。何となく捜査本部も解体って流れになってますけど」
「それなら僕が一人でやるさ。それに、他にブルーモルフォの関係者が居るにせよ、いないにせよ、ブルーモルフォは終わらない」
「終わらない?」
「そうだ。……ソンス刑事は?」
テヒョンの質問には答えずに、ソクジンはそう尋ねた。
ミンソンを確保する際、実働部隊の一人として先陣を切ったのがソンスだった。
ブルーモルフォ事件を自分が解決するのだと息巻いていたソンスは、あの後も精力的に捜査を続けた。ブルーモルフォ事件に出会ってからの彼は以前の調子を取り戻し、みるみる内に見違えた。追うべき事件が過去を振り切らせたのだろうと、周りもその変化を歓迎していた。
「ソンスさんなら、今日も半休を取ってますよ。念願のミンソン逮捕なのに、どうしたんでしょうね」
その一方で、ソンスは度々休みを取るようになった。何かにとりつかれたように一心不乱に仕事をこなす一方で、無断欠勤すら目立つようになった。
「案外燃え尽き症候群かもしれませんよ」
「だといいんだけどね」
空っぽの席を見ながら、ソクジンは小さく溜息を吐いた。
ソンスのデスクは以前なら考えられないくらい整頓されていた。デスクの隅には、彼に似つかわしくない綺麗な花が飾られている。水を与えられていないその花は、美しい姿のままからからに乾いていた。
2
ブルーモルフォのサイトを運営していた人間が逮捕された。
記者に囲まれながら連行されて行ったのは、色の白い痩せた男だった。ユン・ミンソン、三十五歳。職業、塾講師とテロップが流れていく。ご丁寧にミンソンの同僚や知り合いまでもがその番組に出演し、「そんなことをする人には見えなかった」とありがちなコメントを発している。
ジミンが捕まった頃には、一体何百人が同じことを言ってくれるだろう?
ユン・ミンソンの動機についてもよく取り上げられた。人が自分の指示に従って死んでいくのが面白くてたまらなかった、と忌憚の無いご意見を表明したミンソンは酷いバッシングに晒されたけれど、そのことすら気に病んだ素振りが無い。息巻くコメンテーターに言わせれば、彼は典型的なサイコパスなのだという。自己愛と支配欲が強く、何の躊躇いも無く人を殺せる人間。
それを見た時、率直に言って不快感を覚えた。そして、ジミンのことを思う。ジミンとミンソンが違う。ジミンは人の心が分かるからこそブルーモルフォを創ったのだ。今だって良心に苛まれながらも、自分の正義の為に戦っている。
けれど、そこで出てきたサイコパスという概念自体には、何故か背が冷えた。勿論、サイコパス的特徴を持った人間が全員犯罪を犯すわけじゃない。テレビでも専門家が自分をサイコパスだと判断し、自らを研究対象に精神病質について研究した神経科学者を例に安易な決めつけを批難していた。けれど、ジミンは。予言者染みた彼の言葉を思い出す。これから先のことを見透かしていたかのようなあの言葉。
ジミンが創り上げたブルーモルフォとは似ても似つかない偽サイトに誘われ、最終的には八人が死んだ。サイトの管理人を突き止めてミンソンを捕まえるまでに八人も死んだ。ミンソンのブルーモルフォは簡単に課題のスキップが出来るから、死ぬまでに五十日も要らないのだ。
ジミンが言っていたことを思い出す。もうブルーモルフォは規模の広がった共同幻想だ。ジミンが創った本物のブルーモルフォが説得力を生んで、模倣犯たちに力を与える。
ミンソンが逮捕されてもなお、ブルーモルフォへの周囲の関心は高まっていた。何しろ、あれによって八人もの人間が死んだことが証明されたのだ。ミンソンのサイトが閉鎖されてからも、同じようなサイトやまとめの名目でミンソンの出した課題を掲載するところが後を絶たなかった。
それに影響されて、ミンソンの逮捕後に一人の男子高校生が死んでいる。彼は魔方陣を描いたりはしなかった。ブルーモルフォの蝶のマークを身体に彫って、ただシンプルに飛び降りた。彼の部屋にあったのは課題のリストですらなく、ミンソン逮捕の記事だった。
最悪の形で、あるいは最良の形でブルーモルフォが感染していく。
一連の流れはジミンにとって有利なことばかりだった。第一に、ブルーモルフォは例の粗雑なサイトであるという見方が強くなっていた。即ち、みんなはあれに踊らされて自殺やリンチに走ったのだと思われたのだ。
まるで体のいいスケープゴートだった。実際のブルーモルフォは、ジミンが個人個人に向けて指示を送っているし、指示の内容だって八割方違う。けれど、その劣化ブルーモルフォですら人が死んだ。
ブルーモルフォは存在するだけで人を死に至らせる病に進化を遂げた。ジミンの手によって死んだ人数は八十人ほどだったが、この余波を含めれば百人以上の人間が死んだ計算になる。このままネズミ算式に被害者が増えていくとすれば、最終的にはどうなるのだろう?
「こうなってくると、ブルーモルフォに関わって死んだ人間が居るっていうことが、その物語を強めてくれるんだよ。最早指示すら必要のない人間が、『ブルーモルフォによって死ねば、来世を思い通りに生きられる』って一文で死んでいる」
俺の部屋のベッドに寝転びながら、ジミンは静かにそう言った。
ユン・ミンソンの逮捕を受けてもなお、ジミンは状況を冷静に分析していた。夏が終わり、秋に差し掛かり、ジミンの制服も冬服に移行し始めていた。俺たちは結局夏休みも何処にも行かず、お互いの部屋で睦み合っているだけだった。
俺の部屋にジミンが居ることにも随分慣れた。奔放な彼が真っ先に俺のベッドに陣取ったのに戸惑ったのも懐かしい。
「上手く行けばブルーモルフォは永遠になる。インターネットにはまだ本物のブルーモルフォを探している人が溢れているし、それに応えようと本物のブルーモルフォを創り出そうとする人々も沢山居る」
そこまで言って、ジミンは浅く息を吐いた。そんな彼を見ながら、ぼんやりと思う。
ジミンの目的はこれで達せられたんじゃないだろうか?
世の中にはブルーモルフォに踊らされて流されている人間ばかりだ。誰かに指示を与えたくて仕方がない人間と、何も考えずそれに従う人間たちの終わらないいたちごっこ。今もなお、ジミンの手元には四十人ほど本物のプレイヤーがいた。もし、そこに新たなプレイヤーが加わらなければ、そうしたら。
「これでジミナは、ブルーモルフォを止められる?」
その時、ジミンが一瞬だけ言葉に詰まった――ように見えた。ベッドに寝転んでいたジミンがゆっくりと起き上がる。
「……ジョングクの言う通りかもしれない」
ジミンの目が子供のように見開かれる。初めてそのことに気がついたかのように声が揺れていた。
「このままずっと偽のブルーモルフォが増え続けてくれれば、僕はもうマスターでいなくてもいいのかもしれない」
「うん。そうだよ。そうしたらジミナはもうブルーモルフォに関わらなくてもいいんだ」
「もう関わらなくてもいい……」
譫言のように呟かれた言葉が夢のように溶けていく。
「そんなに上手くいくかな?」
「上手くいくよ。もうジミンがいなくても、ブルーモルフォが動いていくようになって、淘汰が自然に行われるようになったら、もうジミナは苦しんだりしなくても済むんじゃないかな……」
ジミンはしばらく俺の言葉を吟味していたけれど、不意に満点の笑顔を覗かせた。
「うん。グガの言う通りかも。そしたら、旅行にも行けるね」
寝転んでいたジミンが俺の方に距離を詰めてくる。
「そうしたらグガは何処に行きたい?」
「ジミナが行きたいところでいいよ。でも考えてみたら俺らってずっとこの部屋に居たからさ。……本当に遠いところに行こうよ。凄く昔、南極は陽が沈まないから行きたいって言ってた」
「そんなこと言ったっけ」
「言ってたよ」
ごく自然な流れで指を絡ませるジミンのことを、俺から先に引き寄せた。ジミンがくすくす笑いながら、それに乗ってくる。
ジミンが当たり前のように遊びに来るようになったこの部屋には、パク・ジミンの生きた証が残っている。未だに俺はブルーモルフォの被害者たちの記事をスクラップし続けていたし、日々更新され続けていく本物のブルーモルフォの指示もこっそりノートに写して取っておいている。
ブルーモルフォの秘密の中で、俺とジミンが向き合う。いつの間にか、ジミンが俺の両腕を捕まえて、こちらを見下ろしていた。俺の格好は縫い留められた蝶のように見えるだろう。
ジミンがそのまま、俺の唇を軽く舐める。
「期末試験も終わったしさ。日曜日、何処かに行こうよ。南極じゃなくて」
「本当?僕あそこ行きたいな、水族館。この間リニューアルしたとこ」
ジミンは無邪気にそう言うと、楽しそうに手を叩いてみせた。
この日は結局、俺もジミンと一緒にそのまま眠ってしまった。お母さんが帰ってくるのと入れ違いでこっそり出て行くジミンがおかしかった。俺のお母さんに挨拶するときはちゃんとしてなくちゃいけないから、というのがジミンの言い分だった。
ところで、夢の中で俺とジミンは実際に南極まで出かけていた。落ちることの無い日差しの下で、ジミンが嬉しそうにペンギンを追いかけている。実際には、陽が落ちないのは夏だけで、南極のペンギンは人間が触れていいものではないらしいのだけど、その点は夢だからということで赦してもらうことにした。本当に幸せな夢だった。
日曜日、俺達は結局水族館には行かなかった。
その日が二人揃っての葬式で潰れたからだ。
3
ジミンの喪服姿を見るのは、キム・ヨンシクの葬儀の時以来だった。黒いフォーマルスーツに身を包んだジミンを見ると、何だか懐かしい気持ちになった。
死んだのは小学校の頃のクラスメイト、ミン・シフだった。五年二組に居た時、ジミンと仲良く三人組を作っていた内の一人で、今はソウルの男子校に通っていたらしい。吹奏楽部所属、担当楽器はファゴット。
彼の死因は自殺だった。部屋には自分が何かを辛く思って死んだわけじゃないとの旨が記された遺書を残し、自宅のマンションの六階から飛び降りたのだ。
彼の左腕には、歪な蝶の形の傷があった。
「偽ブルーモルフォだ」
訃報を聞いた瞬間、ジミンは消え入りそうな声でそう呟いた。
拡大を続けていく偽ブルーモルフォは、相手を選ばない。否、ある意味正しいターゲッティングだ。シフくんは都市伝説染みたそれに流されて死ぬような人間だったのだから。
でも、こんなのは間違っている。俺はそう思った。
巷で流行っている奇妙なゲームに巻き込まれて死んだらしい、と囁く声が聞こえる。聡明な子だったはずなのに恥ずかしい、と彼の親戚らしき人間が言う。
ジミンは珍しく泣き崩れていた。無理もないだろう。小学生の俺から見ても、ジミンとシフくんは仲のいい友達同士だった。中学校進学を境に疎遠になったらしいけど、それでも友達じゃなくなるわけじゃない。
シフくんの遺影を見ながら、妙な気持ちになる。シフくんと俺は六年生の時も同じクラスだった。俺がヨンシクに虐められていた時に、見て見ぬ振りをした一人だ。勿論、あの状況でシフくんが俺を庇えたはずがない、と思う。
ただ、久しぶりに見ると胸が漣立った。シフくんはあの時、流された一人だ。
線香を上げて、部屋の隅で囲まれているジミンを迎えに行く。葬式の場であるのにもかかわらず、ジミンはかつてのクラスメイト達に囲まれ続け、そこだけが場違いな同窓会のように見えた。
「ジミナ、大丈夫?」
俺がそう声を掛けると、ジミンは泣き濡れた顔のまま周りに謝り、ゆっくりと俺の近くに寄ってきた。ジミンがゆっくりと俺の手を引いて、会場から出る。外はお誂え向きの雨まで降っていた。軒下の影に入った瞬間、ジミンははっきりと言った。
「ブルーモルフォを止めるわけにはいかない」
噛み締めるような声だった。
「僕は、続けないと」
その言葉を聞いて、絶望的な気持ちになる。
その気持ちは痛いほど理解出来た。自分の始めたことでかつての友達が死んだのだから、責任を取って最後までブルーモルフォを完遂する。なるほど、それは真面目なパク・ジミンに相応しい。俺だって分かる。
でも、それならどうなるのだろう?
ジミンはこれからもずっとブルーモルフォを続けていくのだろうか。ブルーモルフォが立ち行かなくなったら、きっとそれに代わるものを生み出してでもそれを続ける。
だったら南極に行く日なんか来ないじゃないか。俺は身勝手にもそれでショックを受けていた。
「……うん。それをジミンが望むなら」
それでも、こう言うしかなかった。
「……最後まで続けよう。俺はジミナの傍にいるから」
「……ありがとう。ジョングガ」
何処か安心したように、ジミンが言う。仕方が無かった。ジミンがその道を行きたいと言うなら、俺はただジミンと並んで歩くより他が無い。
ジミンの頭を優しく撫でていると、随分落ち着いてきたのか、ジミンはいつものパク・ジミンに戻ってきた。なおも今のジミンのことを聞きたがるクラスメイト達に応対し、優しく相手をしてあげている。俺はそんなジミンの姿を、小学校の頃のように端から眺めていた。
その時、スマートフォンがピコンと何かを受信する。開いてみると、かつてのクラスメイトから送られた一斉メッセージだった。どうやら、場を仕切り直して五年二組で同窓会をしようということになったらしい。大方、ジミンにあてられて気分があの頃に戻ったのだろう。
いじめのことなんて無かったかのように、みんなが成長している。あの出来事に囚われているのは、俺とジミンだけなのかもしれない。ああして人に囲まれているのを見ると、ジミンだってもうとっくに忘れていて然るべきのように見えた。
「ジョングクのこと、色々聞かれたよ」
喪服姿のまま雨の中を二人で帰っていると、ジミンがどこか嬉しそうにそう言った。
「恋人だって言っちゃったけど、いいよね」
「別に俺はいいけど、ジミナは良いの?」
「何で?」
「だって俺は……いや、いいや」
ジミンの恋人だということがバレたからか、あの後は俺もぽつぽつと話しかけられた。俺もまともに話せるようになった。卑屈で弱々しかった頃よりずっとマシな人間になっている。
「あ、そうだ。同窓会もやろうって計画してて。イ・チミンちゃんが、みんなにメッセージを回すって言ってたんだけど……」
「ああ、それならさっき俺も受け取った」
「え?チミンちゃんとそんなに仲良かったの?ID交換するくらい?」
ジミンの言葉には、何処か場違いな怒りが籠っていた。なぜが不貞を咎めるかのように俺を睨む。
「……ほら、小学校の時に全員が交換したでしょ?そんなこと言ったら、俺のメッセージアプリには未だにヨンシクとのトークルームも残ってる」
「あ、そうか。そうだよね」
理由が分かったからか、
「何か、焦っちゃったよ。卒業後もチミンちゃんと交流あるのかなとか思っちゃった」
「……ジミナって意外と嫉妬深いよね」
「だってジョングクが他の子と接点持ってるのってなかなか無いでしょ?何は無くともとりあえず聞くよ!偶然会ったのか仲良くしてたのかとかじゃまた変わってくるし……」
「俺にそんなに興味を持ってくれるのはジミナだけだよ」
「だったらいいのに……」
ジミンが雨音の隙間でそう言った。
「……グガは自分の格好良さを知らないんだ……僕はいつも気が気じゃないのに…」
雨音にかき消され最後の音は俺に届かなかった。
けれど、俺にとって決定的な出来事はここからだった。
その夜、スマートフォンがもう一度震えて、件のチミンさんからのメッセージが送られてきたのだ。内容自体は他愛が無い。
『既読が全然付きません!誰かイム・ジヨンちゃんの連絡先を知っている人はいませんか?』
それに対して、周りの人間も最近連絡が付かなくなった、とかしばらく前から音信不通だ、などとメッセージを返す。それ自体は気にすることもないことなのかもしれない。
けれど、イム・ジヨンは、ミン・シフと同じく小学校時代のジミンと仲が良かった。例の三人組の一人だ。
その時、なぜだか分からないけれど嫌な予感がした。
だから、その次にジミンの部屋に行った時、俺はさりげなくタブレットを確認した。メッセージアプリを起動し、検索欄に『ミン・シフ』と入れる。
そうして出てきたトークルームには、会話が一言も無かった。
一度も会話していないわけじゃない。何しろ、トークルーム自体は残っている。シフくんとジミンは何かしらの会話を交わしている。なのに、ジミンは自分の送信メッセージはおろか、相手のメッセージまで全てを消去していた。
次に検索したのは『イム・ジヨン』だ。こちらもメッセージ欄には何一つ痕跡が残っていない。
これが偶然の一致で片付けられるだろうか?
シフくんの葬式で泣いていたジミンのことを思い出す。
俺はジミンのことを疑っていたわけじゃない。
けれど、気づけば俺はジヨンさんの住所を調べていた。小学校の頃のアルバムを確認し、訳の分からない予感に突き動かされながら、地図で場所を調べる。引っ越していなければ、イム・ジヨンはあの小学校の学区内に住んでいる。
4
そして、翌日には彼女の家に向かっていた。
どこからこんな行動力が湧いて来たのだろう。ジミンがシフくんとジヨンさんからのメッセージを消去していることが引っ掛かった。
シフくんとジヨンさんは二人とも私立中学校に通っていた『受験組』だから、卒業してから俺はまともに会ったことすら無い。
そういえば、ジミンはどうしてどこも受験しなかったのだろう、と思う。ジミンは誰よりも成績優秀だった。家に余裕が無いということもないだろうし、ジミンなら何処でだってやっていけただろう。わざわざ公立中学校に行く理由も無い。
そんなことを考えながら歩いていると、目的の家に着いた。何の変哲も無い一軒家だ。よく手入れされた庭と、綺麗に磨かれた玄関ランプが何処か品の良さを窺わせる。
インターホンを鳴らすと、ややあって、ジヨンさんの母親らしき一人の女性が出てきた。
「……どなた?ジヨンのお友達?」
「あ、はい……その、俺はチョン・ジョングクといいます。今度、小学校の同窓会があるんですけど、ジヨンさんに連絡が付かなくて。俺が代表してジヨンさんに連絡しに来たんです」
自分でも妙な話だと思った。追い返されてもおかしくないような話だ。最悪、ジヨンさんがただ無事でいてくれるだけで俺の目的は達せられる。
けれど、目の前の女性は溜息を吐いて「よければジヨンに会ってやってください」と言って俺を家に招き入れた。何の警戒心も持っていないというより、他のことですっかり気を取られているかのようだった。
「ジヨン、お友達の方が来てるけど……」
ジヨンさんのお母さんは、とある扉の前に立つとそう声を掛けた。そして、申し訳なさそうに呟く。
「もしかしたら、話そうとしないかもしれません」
「……はい。ありがとうございます」
そして俺は、ベッドの上に身体を縮めて座っているジヨンさんに再会した。
久しぶりに会った彼女は、すっかり様変わりしていた。単に成長したからじゃないだろう。小学生から高校生になるまで数年が経っているとはいえ、その変貌は凄まじいものだった。
闘病中だと説明されたら信じていたかもしれない。ジヨンさんの目は奇妙に落ち窪み、こけた頬には濃い影が落ちていた。微かに震える身体からは例えようのない怯えが見て取れる。
「久しぶり、ジョングク」
俺が何かを言うより先に、ジヨンさんがそう言った。
「座れば」
言いながら、ジヨンさんが学習机の前に置かれた椅子を進める。言われた通りに着席して、この部屋に入ってから薄々感じていた違和感の正体に気がついた。
彼女の部屋にはパソコンやタブレット、スマートフォンに関するもの――電子機器が一つも無かった。
「俺のこと覚えてるの?」
「忘れるわけないでしょ」
嘲笑うかのような声でジヨンさんが言う。そこからは、隠し切れない悪意のようなものが見て取れた。正直な話、俺とジヨンさんは殆ど接点が無かったのに。
「どうして今になって私に会いに来たの?何のつもり?」
「俺は別にジヨンさんをどうこうしようと思って来たわけじゃ……」
「アンタはね」
イム・ジヨンは短く言って、俺を睨む。けれど、その目は俺じゃないものを見ていた。ややあって、ジヨンさんが言う。
「ジミンはそうじゃない」
「……まさか、ジミンのことを怖がってるの?」
その瞬間、ジヨンさんが俺から目を逸らす。俺はそんな彼女に、なおも質問を重ねた。
「どうしてジミンが怖いの?」
「アンタ、質問に答えてないじゃん。こっちはなんでここに来たかを聞いてんの」
「シフくんが死んだからだよ」
それを聞いた瞬間、ジヨンさんが大きく目を見開いた。どうやら、彼女は本当に外との関りを断っているらしい。その時、ジヨンさんがひくっと大きくえずいた。そして、何度か荒い息を吐いた後、小さく「……やっぱり」と呟く。
「やっぱりって?」
「……シフ、死んだんだ。死ぬと思ってた」
「何で?どうしてそう思ったの?」
「…………ジミンと、仲良かったから」
今度はこっちの息が詰まる番だった。漠然とした嫌な予感が、どんどんその形を確かなものに変えていく。そんな俺を横目にしながら、ジヨンさんは薄ら笑みを湛えながら続ける。
「いつかこんな日が来るんじゃないかって思ってた。いつか、ジミンに殺されるんだろうなって」
「待って、ジヨンさんは…・・シフくんがジミンに殺されたと思ってるの?」
シフくんは、偽ブルーモルフォに引っ掛かって死んだはずだった。でも、それが嘘だったんだとしたら? と俺の中で声がする。シフくんは偽ブルーモルフォではなく、本物に――パク・ジミンに殺されたんだとしたら?
「そんな、ジミンがシフくんを殺すはずがない。だって、動機が――」
「あるよ。だって、私もシフも、ジミンの共犯者だもん」
「共犯者……」
その言葉を復唱する。口の中がからからに乾いていた。ジヨンさんの言葉から、少しずつ全体像が見えてくる。小学校。共犯。思い当たる節は一つしかなかった。
「それって、小学校の頃にあったこと?」
ピクリとジヨンさんが身を震わせる。そして、唇を噛んだ。
その沈黙は、殆ど肯定だった。嫌な予感が次々と的中していく様に、薄気味悪さすら覚える。だって、こんな展開は酷い。さっきから、俺の頭の中では最悪の可能性ばかりが浮かんでいた。ジミンがシフくんを殺したのだとしたら、その理由は何だろう?
「……頷くだけでもいい。もしかして、ジヨンさん達は――」
ここにきて俺が思い至ったのは、彼女たちが犯行を目撃していて、口封じの為に殺した可能性だった。
どうしてこのタイミングで口封じを行ったのかは分からない。もしかするとシフくんかジヨンさんのドちらかが、口を滑らそうとしたのかもしれない。それでジミンは殺した。何をしたのかは分からないが、シフくんを飛び降りさせた。
きっとジミンはジヨンさんにも何らかのコンタクトを取っている。それを恐れて、ジヨンさんはこうして外部からの関りを断っているのかもしれない。
「そうだよ。ジミンに言われてヨンシクを殺したのは、私とシフ」
「え?」
言葉を続けようとしたジヨンさんに対し、思わずそう口を挟んでしまった。
「言われて……って、どういうこと?」
「その通りの意味だけど」
「だって、ヨンシクを殺したのはジミンじゃ――」
ジヨンさんは押し黙ったままじっと俺のことを見つめていた。その目は限界まで見開かれていて、緑色の充血までもが良く見える。
「アンタ、何も分かってないんだね」
「え…………?」
「ジミンがヨンシクを殺した、とかさ。アンタ全然ジミンのこと分かってないよ。ジミンがそんなことするはずないじゃん」
「は…………?」
予想もしていない言葉だった。
そんなはずがない。ジミンは俺にはっきりと「ヨンシクを殺した」と言った。俺を苦しめて、クラスの和を乱したから。嘘を吐いているようには見えなかった。それに、あんな風にヨンシクを殺せるような人間はジミンだけだ。他の人間が出来たはずがない。
動揺する俺を、ジヨンさんは哀れむような目で見つめていた。口元には微笑さえ浮かんでいる。ややあって、彼女は言った。
「ジミンが殺したんじゃない。“私たちが殺したんだよ”。ジミンは何もしてない。私達に殺させただけ」
その言葉を聞いた瞬間、悪寒が走った。
「自分の手を汚したくなかったとか、そういうんじゃないんだよ。……ジミンは、あの子はそういう人間なんだよ。シフが目を抉って、ヨンシクがぎゃあぎゃあ喚いているのを前に、私達は二人横に並んで、じりじりと怯えるヨンシクに近づいていって。私らから逃げようとしたヨンシクが落下したのを、ジミンは落ち着いて確認してた」
その光景が目に浮かぶようだった。怯えるヨンシクに向かって、足並みを揃えながら二人が歩いて行く。それを黙って見守るパク・ジミンの姿。確かにそれは、とてもジミンらしいやり方だった。
「誰も止めなかったの?ヨンシクを助けようとしなかった?」
「……アンタがよく言えるよね。あの頃のヨンシクは酷いもんだったでしょ。死ぬような目に遭ってたのはアンタじゃん」
そして、それに見て見ぬ振りをしていたのはジヨンさんを含む周りのみんなだ。あの時俺を見捨てて助けてくれなかったのはみんなの方だ。それなのに、ジヨンさんはどうして、いきなり義憤に駆られたような顔をしているのだろう?答えはすぐに分かった。憎しみに燃え立つ瞳が俺を刺す。
「だって、ヨンシクは死んで当然の人間だって、ジミンが言ったんだよ。ヨンシクには生きてる価値が無いって。あのジミンがそんなことを言うんだから、ヨンシクは相当だったんだよ。生きてる価値が無いなんて、ジミンは軽々しく言ったりしない!」
その言葉で、小学生の頃のジミンがフラッシュバックする。誰にでも優しく、公明正大で色々なものを任されていた優等生のジミンだ。
「だから殺したんだよ!ジミンが言うから、ジミンが言うなら、ヨンシクは死んだ方が良いんだって」
いつの間にか、ジヨンさんの目には涙が浮かんでいた。見開かれた瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていく。
知っていたはずだった。ジミンがどんな人間で今何をしているかを考えれば、簡単に分かる話だった。
ジミンは殺していない。ジミンが殺した。
その両方が成り立ってしまう。だって彼はパク・ジミンなのだ。他人の動かし方くらいちゃんと知っている。
「分かってるでしょ。みんながジミンのことを好きで、ジミンの役に立ちたくて、ジミンはそれを当たり前のように使うし、ちゃんと受け取ったものに感謝をする。そこに邪念なんか一切ない。ジミンは、ジミンは……」
そこで、ジヨンさんの言葉が切れた。そこから先に相応しい言葉が見つからなかったらしい。
手が震え出し、ジヨンさんの目の前で蹲ってしまいそうになる。喉の奥に胃液の気配を感じて、必死に口を抑えた。指の隙間から荒い息が出てくる。今までの前提条件が崩れるような話だった。だって、なら、ジミンは。
ここまで話を聞くと、ジミンが何故ボールペンで目を刺させたのかも理解できた。キム・ヨンシクの指紋の付いたもので、同じ小学校に居る人間なら簡単に入手出来るもの。整然とした殺意があの結果を導いていく。
ジミンはそこまで冷静に、犯行を計画していたのだ。
「信じられない?」
その時、ジヨンさんがふっと表情を緩めた。さっきまでの鬼気迫る表情に対して、随分毒気の無い笑みだった。そのまま、他愛無い思い出話でもするかのように、ジミンが言う。
「分かってるよ。ジミンは凄く良い子だった。……でもさ、おかしくなったんだよね。それを選んだんだよね。どうしよ、私らがジミンを悪魔にしちゃった。あの才能がそういう方向に向かったらどうなるか、ちゃんと分ってたはずなのに。ジミンはある意味被害者なんだよ」
「………………被害者」
「ジミンは私利私欲で動いたりしない。ジミンは私達なんかよりずっと正しい。純粋な子なんだよ。それにジミンはさ、諦めないの。みんなの力が合わさったら出来ないことはないと思ってる。誰とだって友達になれると思ってるし、世界のことが凄く好き」
一拍置いて、ジヨンさんはこう続けた。
「だから、ジミンが怖いよ。ジミンは、ジミンはきっと今でも私を殺そうと思ってるし、実際にそうすると思う。ジミンの求める世界に、もう私の居場所は無いから。ねえ、ジョングク」
ジヨンさんが小さな声で俺を呼ぶ。けれど、その後に続いた言葉は、俺の予想していない言葉だった。
「ジミンは私のこと、もう嫌いになっちゃったかな……」
「……え?」
「ジミンは私に死んでほしいんだと思う。私のことももう嫌いなのかな。私のこと特別だって言ってくれたのに。私、今もジミンこと裏切ってるよね……」
まるで子供のような口調だった。見た目は全く変わっていないのに、まるで目の前のジヨンさんが小さな子供に戻ってしまったかのような錯覚を覚える。その顔は見捨てられる寸前の少女の顔で、思わず言葉が口を衝いて出た。
「そんなことない。ジヨンさんのことも、シフくんのことも、ジミナは嫌ってなんか――」
「シフだけだよ!だって、シフは死んだから。死んで赦してもらったはずだよ。……死んだ人間のことを悪く言うような子じゃないよ」
何処かおかしい理論を携えて、ジヨンさんがジミンを庇う。
「……ジミンさ、この間急に連絡してきたの。嬉しかったなあ。でも、話してると分かるの。なぜか分かんないけど、ジミンがすっごく怒ってるのが分かる。死ななきゃ赦してくれないって、分かる。あのまま話してたら、きっと私、死んでた」
だからジヨンさんは外界からの連絡を絶ったのだろう。電子機器も全部捨てて、ジミンからの言葉を遮断したのだ。
でも、俺から見て、もうジヨンさんは手遅れだった。彼女の目はもう既に、俺を見ていなかった。
程なくして、ジヨンさんは自ら死を選ぶだろう。そんな気がした。
俺はそんな彼女を置いて、薄暗い部屋を出る。ジヨンさんのお母さんが不安そうに話しかけてきたけれど、同窓会は断られた、という旨だけを伝えて外に出る。ジヨンさんの部屋のカーテンは閉め切られていたけれど、俺はそこからジヨンさんが見ているような気がして仕方がなかった。
ジヨンさんから受けた衝撃の告白を反芻する。ジミンは何処までも冷静に、周りの人間を使うことすら躊躇わずにヨンシクを殺した。
けれど、依然として、どうしてジミンがシフくんを殺し、ジヨンさんをも殺そうとしたのかが分からなかった。実行犯はあの二人だ。彼女彼達が秘密を明かすことはないだろう。わざわざ口封じをする理由も無い。
偽ブルーモルフォを隠れ蓑にして、ミン・シフを殺すことで、一体何が起こったかを考える。葬式が開かれた。小学校の同級生たちと再会した。……こんなものをジミンが望んでいたとは思えない。泣いているジミン。慰める俺。ジミンは酷く責任を感じていて、雨の中で――。
自分には責任があるから、ブルーモルフォを止めないと宣言したのだった。
俺はそんなジミンの決断を、真面目な彼らしいと思った。ブルーモルフォの運営をするにあたって、あんなに苦しんでいたジミンがそういう決断をするなんて、と痛ましく思い、いつかの旅行さえも諦めた。
でも、前提が違うのだとしたら?
ジミンはブルーモルフォを止めたくなかったんじゃないだろうか?
俺がもうブルーモルフォを動かさなくてもいいんじゃないかと言った時、ジミンは一見喜んでいるように見えた。でも、内心では嫌がっていたのかもしれない。ブルーモルフォを止めるつもりなんてなかったのかもしれない。
でも、それを俺の前で言うのは躊躇われた。まるでブルーモルフォの運営を楽しんでいるように思われそうだからだろう。だから、回りくどい『物語』を用意したのだ。ただ一人、俺の為に。
そう考えると背筋が冷えた。ユン・ミンソンが逮捕された時の報道を思い返す。愉快犯的に人を殺したミンソンはサイコパスだと評されていた。彼が人を殺したのはそれが何より楽しかったからだ。ただ殺す為だけに殺す。それだけを目的としているから歯止めが利かない。
そこまで考えて頭を振った。そうじゃない。ジミンはそんな人間じゃない。ジミンは自分の為に人を殺しているわけじゃない。ジミンの行動は暴走した正義だ。彼は周りが見えなくなっているだけだ。彼の行動にはちゃんとした理由がある。ブルーモルフォが世界を変えられると信じているからこそ、ジミンはこんなことに手を染めたのだ。実際に、ブルーモルフォに引っ掛かるのは馬鹿ばかりだ。死んで当然な、流されてばかりの人間だ。
……本当にそうだろうか?
急に足元が覚束なくなり、地面にへたり込みそうになってしまう。胸の辺りからごぼごぼと気味の悪い音が鳴り、さっきジヨンさんの家で覚えた吐き気が舞い戻ってきた。
その時、俺はふと彼女のことを思い出した。
ジミンづてに交換した連絡先を呼び出し、メッセージを送る。
ジミンは悪い人間なんかじゃない。そのことを証明する手立てが必要だった。蜘蛛の糸に縋る罪人のような気持ちで、俺は彼女を呼び出す。
5
イ・ミヨンは、それから三十分も経たずに駅前に来てくれた。近くのカフェに入り、彼女と向かい合う。
「何か顔色悪いけど。気分悪い?」
イ・ミヨンは綺麗に整えられた眉を寄せながら、そう尋ねてきてくれた。自殺騒ぎを起こした時とは見違えていた。あの時より幾分か痩せてはいたけれど、少なくとも今すぐ死にそうには見えない。
「それにしても久しぶりだね。ていうか私でいいのかな?ジミンへのプレゼントを選ぶのに、私の意見が参考になるか分かんないし」
「そんなことないよ。ジミンはよくミヨンさんの話をしてたし。……その、アドバイスを貰えたらなって」
「そうなの?嬉しいなー。……あの時はしばらくはジミンに頼りっきりだったから。本当に……」
ミヨンさんの言う『あの時』とは例の自殺騒ぎのことだろう。もう大丈夫なの?と尋ねると、ミヨンさんは何処か気まずそうに目を逸らした。
「……でも、もう無意味に死のうとなんて思わなくなったんだ。足が動かなくなったから、なんて理由で死のうとするなんて、私は馬鹿だったよ。あの時、ジミンが止めてくれて本当に良かった」
それを聞いた時、うっかり泣きそうになった。
そうだった。ジミンはミヨンさんの自殺を止めたのだ。
本当に人の心が無い人間が、誰かを助けたりするはずがない。ジミンが心の底からの悪人なんかじゃないことは、ミヨンさんが証明してくれている。俺は震えを隠しながら口を開いた。
「その後は大丈夫?」
「ううん。むしろ前より全然いいよ。前はずっと死にたい気分だったけど、ようやく立ち直れてきたんだ」
「そうなんだ。よかった……」
目の前のミヨンさんは幸せそうだった。あの時の不幸そうな影は見る影もない。
「ね、ジミンとはまだ付き合ってるの?ジミンってあの時からジョングクのことが大好きだったでしょ?」
「うん。いや、あの時はまだ付き合ってなかったんだけど……」
「えっ、あんなにジョングクの話ばっかりしてたのに?そっちの方が凄いわ」
他愛の無い話題で、ミヨンさんがからからと笑う。その時、ミヨンさんの髪が揺れて、微かに首筋が見えた。そして気づく。
露わになったその場所に傷のようなものが見えた。傷は全部で五本あり、まるで日付を数えるように連なっている。そういう形の傷には見覚えがあった。
『課題二十六・好きな場所に五本の線を刻む』だ。
まさか、と思う。そんなはずがない。もしそうだとしても、偽物であるはずだ。ユン・ミンソンのサイトが閉鎖されたから、きっとそれは何処かのサイトから調達してきたものだろう。
心臓が早鐘を打っている。そんな偶然はあるだろうか?俺が殆ど縋るような気持ちで相対している目の前の女の子が、今まさに自死に向かっているなんてことが?
「ミヨンさん、一ついいかな」
そういう俺の声が、まるで他人のもののように響く。
「どうしたの?」
「……ブルーモルフォ、って知ってる?」
俺の問いに答える代わりに、ミヨンさんはブラウスのボタンを静かに外し始めた。軽やかにボタンを外していく彼女の目には、とろけそうな幸せが滲んでいる。
イ・ミヨンの鎖骨の下には、蝶の形をした鮮やかな傷が付いていた。
*
ユン・ミンソンの逮捕から三日が経ち、イ・ソンスは二日の無断欠勤を経て、職場に復帰した。体調が悪くて連絡も出来なかった、と言うソンスの言い分を信じた人間は殆どいない。みんなが気味悪そうな目で、ソクジンだけは「みんな心配してましたよ」と暢気に声を掛けた。「ああ、そんな心配掛けてたのか。まあ、身から出た錆ではあるけどな、複雑だわ」
ソンスはそう言いながら苦笑する。毒気を抜かれたかのような態度の彼に、ソクジンはなおも続ける。
「ユン・ミンソンの逮捕の時に凄く情熱を傾けていたのを知っています。今の彼には興味が無いんですか?」
「……俺はイカれた殺人犯を捕まえるのが得意でも、そいつが何でどうイカれてるのかは専門外だ。そっちは認めてんだろ?」
ソンスの言う通り、ミンソンはあっさりと容疑を認めていた。むしろ、自分から語りたくてたまらないと言わんばかりにブルーモルフォについて滔々と語っている。だからこそ一層、ソクジンの目には彼が何かにとりつけれているかのように見えた。
「もういいか?俺、ゴンのオヤジに呼ばれてんだよ。流石に休み過ぎたな」
左腰に付けたホルスターを弄りながら、ソンスは気まずそうに目を逸らす。
「最後にもう一ついいですか」
「何だ?」
「デスクのあの花、どうしてんですか?」
「俺が花買ったら悪いかよ」
それだけ言って、ソンスはさっさと歩いて行ってしまった。それと入れ替わるように、ミンソンの取り調べについていたテヒョンの方が歩いてくる。
「お疲れ、テヒョン。そっちの方はどう?」
「どうもこうも。もう新しい話は無いですね。ブルーモルフォがどれだけ優れているかの話だけです。同じ話五十回は聞いてますよ」
「……それじゃあ、本物の管理人に関する情報はまるで無いのか」
「ジン先輩、黒幕別にいる説を捨てませんね。そもそも、本当にそんな人間が居たとして、ミンソンが逮捕されたことで手を引くかもしれないのに」
「いいや。やめないよ。ああいう人間の欲望には果てが無い。何人自殺させたって終わりなんてない。それこそ全人類が死んでも満足できないかもしれない。一度その快感を覚えたら、際限なくそれを続けようとするさ」
「マジですか。そうでなくてもブルーモルフォは全然落ち着いてないのに」
ブルーモルフォは終わらない、という言葉の意味を聞きそびれていたテヒョンは、結局身を以てその意味を知ることとなった。
管理人であるミンソンが捕まったことで、色々なメディアがブルーモルフォについてを報道するようになった。ブルーモルフォという言葉に対する認知度は飛躍的に上がった。
その結果、懲りずにブルーモルフォについて纏めるサイトや、模倣して指示を出すサイトが一瞬にして増え始めたのだ。
勿論、急ごしらえで出来たものはユン・ミンソンが作ったものよりもずっと質が劣るものだった。けれど、サイトが増え、閲覧者が増えれば、質がどうであれ被害が拡大していくのは明白だった。
「一個一個消していくしかないんですかね」
「全てのサイトをすぐさま消すことは無理だよ。もうブルーモルフォという名前じゃなく、自殺ゲームってだけでも周知されるようになってるしね。勿論、異様なカリスマを持つ『本物の管理人』を捕まえたら、この狂乱は一旦収まるかもしれない。でも、その間にもブルーモルフォをプレイし始める人間は救えない」
まるで疫病のようだ、とソクジンは思う。こっちがどれだけ削除し続けても、向こうはそのスピードを上回る勢いでブルーモルフォを増やしていく。こちらが遅れを取れば取るほど、感化されて人が死んでいく。やれるだけの手は尽くしている。サイバー部門だってひっきりなしに動いている。
「……最悪の娯楽ですよ。まるで集団ヒステリーだ」
「集団ヒステリーより性質が悪い。みんながブルーモルフォに夢中なんだ。人間の好奇心は止められない。みんながそっちに流れていく――」
その時ソクジンの言葉がはた、と止まった。
ブルーモルフォは疫病のようなものだ。興味を持った人間が巻き込まれて、その糸に縊られて死ぬ人間が現れる悪循環。消すことで後手に回り、その間に新しいものが羽化していく。
なら、その元を絶つ為に何をすればいいだろうか?
「どうしてこんなことに気付かなかったんだろう。そうだ、あるじゃないか。この流れを止める方法が
「止める方法?」
「僕たちが『ブルーモルフォ』を作るんだよ」
6
蝶の形の傷を見ながら、俺はただひたすら硬直していた。彼女を止めなければ、と思うのに何を言えばいいか分からない。まさか、よりによってイ・ミヨンが偽ブルーモルフォに掛かるなんて。思わず、そのブルーモルフォは偽物だ、と言いそうになったくらいだ。
どちらだって、迎える結末は変わらないのに。
「マスターは私には素質があるって言ってくれるの。私の魂が綺麗だから、きっと来世では凄く素敵な人生を送れるって」
夢を見ているかのような口調で、ミヨンさんが言う。そのマスターは、恐らくユン・ミンソンの模倣犯だ。模倣が模倣を呼び、ブルーモルフォを拡大させていく。各地に存在する蛹が、冬を前に一気に羽化していくかのようだった。
「ジョングクもブルーモルフォ知ってるんだ。まあそうだよね。でも、私のブルーモルフォは本物なの。本物のブルーモルフォだけが、来世を約束してくれる」
「……ミヨンさん、そんなのはおかしいよ。だって……それが本物だって何で分かるの?」
「本物のマスターは、話をすれば分かるよ。全然違うから」
話がまるで噛み合わない。ミヨンさんが命令を受けているマスターが偽物であることを知っているのは、俺だけだ。でも、それを証明しようとすれば、ジミンの正体に触れることになってしまう。それだけは避けなければいけなかった。
そうだ。……ジミンだ。ジミンがこのことを知ったらどう思うだろう?それを考えるだけでゾッとした。かつて自分が助けた女子高生が、今は自分が撒き散らしたブルーモルフォの所為で死のうとしている。それを知った時のジミンは、その衝撃に耐えられるだろうか?
……それでも、何とも思わないだろうか。
ジミンは既に、ヨンシク殺しの共犯者たちを自殺させているかもしれないのだ。葬式で見せたあの涙も嘘かもしれない。猜疑心と期待が同時に胸を焼く。ミヨンさんは、俺の期待を一身に背負っている存在だったのに。
そんな俺の逡巡を全く知らずに、ミヨンさんは無邪気に言った。
「私があそこで死ななかったのは、転生する為だったんだよ」
「違う!あそこで死ななかったのはジミンが止めたからだろ!」
ジミンの名前を出した瞬間、恍惚に浮かれていたミヨンさんの顔が歪んだ。さっきとはうって変わって、人間らしい表情だった。
「……ジミンのお陰だとは思ってる。あそこでジミンが私の為に身体を張ってくれなかったら、私は馬鹿な真似をしてたはずだよ」
「……なら、ジミンが助けてくれた命を捨てるような真似をするのは間違ってるとは思わないか?」
「ねえ、ジョングクとはそこの部分が全然噛み合ってないよね。私は命を捨てるわけじゃない。次のステージに進むために活用したいだけなんだよ。ジミンに救ってもらった命だからこそ、後悔しないようにしたいの。今のジョングクには分らないかもしれないけど、死のうとして死ぬのと、生きる為に死ぬのは全然違うことだよ」
ミヨンさんはもっともらしい言葉で俺を諭してくるものの、それは単なる詭弁でしかなかった。
「ジミンはそんなこと思わない」
俺ははっきりと言った。
この期に及んでも、俺はジミンを信じていた。なんて、こんな言い方すらおかしいのかもしれない。何が間違っていて何が正しいのか、どれが本当のパク・ジミンなのか。
「ミヨンさんがブルーモルフォに関わってるって言ったら絶対に止める」
けれど、ジミンはイ・ミヨンを救った時、スピーチを引き受けた時、自分の言葉が誰かの命を救う方向に作用すると信じていた。あの言葉は嘘じゃないはずだ。
「何それ……ジミンだって話せば分かってくれると思うし」
ジミンの名前が出た瞬間、さっきまで恍惚の表情を浮かべていたミヨンさんの顔が曇る。
「なら、このことジミンに言ってもいい?」
「何でジョングクがそういうこと言うわけ?何の脅し?」
「脅しじゃない。ただ、これはジミンに言わなくちゃいけないと思っただけだよ。それとも、ジミンに言われたら決意が揺らぐ?」
突然態度が変わったミヨンさんに追い打ちを掛けるかのようにそう言うと、ミヨンさんはあからさまに不快感を滲ませた。
「……ちょっと、何でそこまで気にしてるの?ジミンの為なの?……何で伝わらないかなぁ。私が死ねるのはジミンが助けてくれたからなのに」
「君が死んだらジミンは悲しむはずなんだよ!」
声を荒げてそう言うと、ミヨンさんが酷く悲しそうになる。
「……抜けられないんだよ。ブルーモルフォからは。抜け出そうとしたら、クラスタの人間に殺される。……知らないの?噂になってるでしょ、リンチ殺人。私が裏切ったと思われたら、ああいう目に遭う。転生も出来ないでただ死ぬのは嫌だ。ただでさえ、私は位が低いんだよ。クラスタの誰の住所も教えてもらってないの。私が信用されてないから」
「……警察に、警察に言えばいい。きっと助けて――」
「私は救われたい」
ミヨンさんがそう言い捨てて、足早に去って行く。それを見ながら、久方ぶりに足元が覚束なくなる。まるで、俺があのフェンスの向こうに立たされているみたいだった。
正直に言おう。俺にとって、イ・ミヨンはパク・ジミンが人間であることの証明そのものだった。
彼女を死なせたくないのに、俺ではミヨンさんを説得出来ない。イ・ミヨンを救える人間は、恐らく一人しかいないのだ。
7
「ミヨンさんがブルーモルフォに巻き込まれてる」
生徒会室に入るなり、俺はジミンにそう言った。
お互いの部屋で過ごすようになってから、ここでそんな話をすることは殆ど無くなっていた。ジミンは文化祭の予算の最終チェックに精を出しているようで、分厚い書類を手に持ちながら呆けた顔を晒している。ややあって、彼が小さく言った。
「ミヨンさんが……」
「何処のサイトか分からないんだけど、多分それを見て影響されたんだと思う。どうしようジミナ、止めないと」
「そんな……」
ジミンの顔がみるみる内に青褪めていく。葬式の時と同じように、ジミンの表情は本当に悲しんでいるようにしか見えない。俺ではジミンの本当の気持ちを汲み取ることなんが出来ないんじゃないか、とすら思う。それでも、ここが分水嶺だ。
「……ミヨンさんのこと、ジミナも死なせたくないよね?」
「当たり前だよ。……シフの時だって、僕は凄く後悔してた」
心の中で、そっと息を呑む。これから俺はジミンに一つ嘘を吐く。
「それで……ミヨンさんが、今日の午後九時に、駅前のカフェで話したいって言うんだ。ジミンに何も用事が無ければ、ミヨンさんに会ってあげて欲しいんだけど」
「……うん。ミヨンさんと話してみる。僕で止められるかは分からないけど」
ジミンが俺の求めていた言葉を言ってくれる。ジミンはこのまま本当にミヨンさんのことを止めてくれるかもしれない。
フェンスの向こう側に立つジミンに、もう一度会えるかもしれない。
その夜、俺は駅前のカフェに向かった。ミヨンさんが待っている、とジミンに嘘を吐いたカフェだ。ここにもしジミンが来てくれていたら、ジミンにはまだミヨンさんを助けようという意志がある。
そうしたら俺はジミンは騙したことと、ジミンを疑ったことの両方を謝って、これからもジミンの隣に居るだろう。息を詰めて、カフェの前に張り込む。
果たして、午後九時に来たのは、ジミンではなくイ・ミヨンだった。
ミヨンさんは辺りに目もくれずに指定されたカフェに入り、コーヒーを注文する。そして、その一杯だけを飲んですぐに出て行った。賞味十五分も掛からない一連の流れを見て、息が浅くなった。
ミヨンさんはジミンと待ち合わせなんかしていなかった。あれは俺の嘘だ。でも、ミヨンさんはその通りにここに来た。それはどういうことだろう?
俺はそのままスマートフォンを操作し、ジミンに電話を掛ける。電話はすぐに繋がった。
『僕のことを試したの?』
怒っているわけでも、責めているわけでもなかった。ただ疑問に思っているだけの口調だ。俺の嘘はあっさりと看破され、ジミンは意趣返しとしてミヨンさんをここに送り込んだのだろう。
ジミンはもう取り繕おうとはしていない。俺が彼を試したことで、おおよその心の機敏を察したのだろう。
分かり切っていたことだった。それでも、聞かずにはいられなかった。
「………………ミヨンさんに指示を出しているのは、ジミンなの?」
ミヨンさんを死に向かわせようとしているのはジミンなのだろうか。
前回確認したタブレットには、新しい名前が順当に増えていた。あのリストの人間が全員死ねば、いよいよジミンが自殺に向かわせた人間は百人を超える。偽ブルーモルフォやユン・ミンソンの手に掛かった人間も数えたらもっとだ。
それでもまだジミンは足りないんだろうか。
果たして、ジミンは困ったように言った。
『失望した?』
「しないよ」
俺は分かり切っている言葉を口にする。
その瞬間、俺の目の前にジミンが現れた。
イルミネーションに照らされたジミンは、デートに遅れてきた恋人のようだった。キャラメル色のダッフルコートも、それに合わせた赤いマフラーも可愛らしい。駅前を行き交う人達には、きっと俺達は何の変哲も無い友人同士又は恋人同士に見えるだろう。ジミンが耳に当てていたスマートフォンを降ろし、こちらに手を伸ばす。通話を切ってから、彼のことを抱きしめる。
「シフくんが殺されたのは俺の所為なんだね。ジミンはブルーモルフォを続けたかったんだ。もうブルーモルフォの運営は苦しいことじゃないのに、俺があんなことを言ったから、ジミナには理由が必要になった。ブルーモルフォを辞めない為の『物語』が」
いつかの日に、ジミンの部屋で聞いた言葉を引いて言う。こんな形で彼の正しさを知るなんて思わなかった。
友人がブルーモルフォの所為で死んだのだから、自分が手を引くわけにはいかない。ジミンのその結論に俺は共感し、理解を示してしまった。魔法が解けた今になれば、そこに理屈が無いことくらい簡単に分かるのに。葬式で覚えた身勝手な悲しみを思い出す。ジミンがブルーモルフォを続けたところで、ミン・シフが生き返ることなんかないのに。
ジミンはさして動揺している風でもなく、笑顔を浮かべたまま俺のことを見つめていた。
「この際だから全部言ってよ。ジョングクには何処まで分かってるの?」
「……クラスタに自浄作用があるっていうのも、嘘だよね」
俺はずっと考えていたことを口にする。どうせ、間違った推理をしたところで俺が失うものは何もない。なら、正確な全体像が知りたかった。
「元々考えてたんだ。クラスタで相互監視をさせるっていうのはリスクが高すぎるんじゃないかって。個人情報を共有させたり、プレイヤー同士で連絡を取り合わせたりしたら、ブルーモルフォの効果が薄れてしまうかもしれない。そんな不安定なシステムで、今まで破綻しなかったのが不思議だった」
ジミンは何も言わないまま、じっと俺のことを見つめていた。
「でも、クラスタが相互監視を行っていて、離反すればクラスタのメンバーが殺しにくる、というのは確かに抑止力になる。リスクは高いけれど効果的だ。イム・ミョンスクさんのことが大々的に報道されたことで、プレイヤーは粛清を信じるようになっただろうし。リスクヘッジを取るか、あるいは強い抑止力を取るか。でも、リスクを踏み倒してこの抑止力を行使する方法が一つある」
本当はもっと早くに気がついているべきだったのかもしれない。ただ、俺にはこの推測を立てられない立場にあった。
「“ジミナだけが粛清を指示すればいいんだ”。実際に自浄作用なんて無くていい。ジミナが離反しそうな人間を選んで、他のプレイヤーに殺害する命令をすればいいんだ。相互監視もさせなくていい。プレイヤー自身が、自分は監視されているんだと思い込むだけでいい」
ミヨンさんは、抜けようとすればクラスタに殺されると信じていた。けれど、彼女自身は位が低いという理由で、クラスタの個人情報を全く教えられていなかった。
でも本当は、個人情報を教えられていた人間なんかいなかったんじゃないか。プレイヤーはクラスタの中で自分だけが個人情報を与えられず、一方的に粛清される側だと思い込んでいたんじゃないだろうか。考えれば考えるほど、そうとしか思えなかった。
「この考えに辿り着けなかったのは、ジミンが――誰かを殺せって命令するなんて思えなかったからなんだ。でも、そうとしか考えられない。……自浄作用も嘘?ジミナがミョンスクさんたちを殺せって言ったの?」
「そうだよ。ブルーモルフォから逃げる人間を生かしておくわけにもいかない」
ジミンはもう繕わない。俺だってそうだ。今からはもうただの確認作業に過ぎない。
もう分かった。ニュースで見た言葉を思い出す。ユン・ミンソンに当てはめられていたサイコパスの特徴、そのガラスの靴はジミンにこそ相応しい。俺がこの間まで妄信していたジミンなんてどこにもいない。
そこに立っているのは、他者への共感が乏しく、他人を平気で踏み躙ることの出来るおぞましい人間でしかないのだ。俺は彼のことを見誤り、目の前で沢山の人が殺されていくのを止めることすら出来なかった。そうして辿りついた場所がここだ。
それにしても、パク・ジミンは美しかった。駅前のイルミネーションの非日常的な光が輪郭を縁取り、殆ど神々しい。世界がジミンを弁護し、彼の善性を主張しているかのようにすら見える。
彼がもう少し醜くあってくれたら良かったのに、と本気で思った。人殺しが綺麗に笑わないで欲しい。そのグロテスクな内面に比例するように外見もおぞましくあってくれたら。
「ジミナは、多分、良い人間ではないんだね」
「そうだね。僕はきっと化物なの」
ややあって、ジミンが歌うように言った。何だか妙に凪いだ声だった。
「僕はブルーモルフォが好きだった。とあるゲームデザイナーの言葉なんだけど、面白いゲームをデザインする為に必要なのは、快楽を仕組み化することなんだってね。ただ、僕とみんなの快楽は違うみたい」
あくまで穏やかにジミンが言う。月曜日が好きな人も居れば日曜日を好きな人もいる、と同じトーンで、ジミンは自らの欲望を正常の延長線上に置く。
「ヨンシクの一件で着想を得たのは本当。ブルーモルフォで死ぬ人間に生きる価値が無いと思っているのも本当。社会を掃除するだけで、僕の楽しみも満たせる。そうだね、ブルーモルフォを運営するのは楽しかった」
「……どうして」
思わず口に出していた。この期に及んでも、俺はジミンを理解しようとしていた。まだ何か理由があるんじゃないかと。ジミンがこんな風になってしまった理由があるんじゃないかと願っていた。けれど、そんな俺を突き放すかのようにジミンが言う。
「ごめんね。理由なんてないんだ。両親は二人とも良い人だし、僕をちゃんと育ててくれた。周りの人はみんな良い人だったし、悲惨な家庭状況もいじめられた経験もなかった。僕はずっと幸せだった」
その時、ジミンが小さな子供をあやすように俺を軽く撫でた。そのまま耳元で囁く。
「あの子がトイレに行っている間に、凧を隠したのは僕だよ」
その瞬間、俺はジミンが本当に自分の理解の及ばない存在であることを知った。
そんな人間が、ブルーモルフォを通して色んな人間と繋がれていたことが信じられなかった。ブルーモルフォの始まりは、死にたがっていた少女への共感から生まれたはずなのに。ジミンは、最初から世界と断絶されている。
俺は腕の中に化物を匿いながら、ただの恋人同士の振りをした。
「……俺は正義の味方じゃない。ジミナの、ヒーローだから」
確かめるようにそう口にする。ジミンが微かに頷いた。
俺がブルーモルフォを焼き殺す決意を固めたのはこの時だった。一番破滅的な終わりに向かって、俺は密かに歩みを進める。
*
「最初から僕達がカウンターサイトを作ってればよかったんだよ」
ソクジンの行動は早かった。手の空いている人間を全員集めて、そう説明する。
「ジン先輩、カウンターサイトって何ですか?」
「要するに、僕達がこれから行うことは一種の検索妨害だ。『ブルーモルフォ』で検索してきた人間を誘導するための別サイトを作る。ブルーモルフォで検索してきた人間が見るのは、精々検索上位十位までだ。僕達のサイトは削除されないから、いずれ検索欄は僕達のカウンターサイトで埋まる」
スクリーンに実際の検索画面を映しながら、ソクジンが言う。
「ブルーモルフォの恐ろしいところは、指示を重ねることで人間から思考力を奪うところにある。嗣明時間を意図的に削ったり、自信を喪失させたりね。僕たちが作るカウンター・ブルーモルフォでは、それらの危険な指示を送らない。それでいて限りなくそれらしい偽ブルーモルフォを作る」
ソクジンがカウンター・ブルモルフォに載せる指示として挙げてきたのは、どれもが牧歌的なものだった。
「こんなものに効果があるんでしょうか?」
「相手方だって世界を変えられると思ってるんだ。僕達がそう信じたっていいじゃないか」
ソクジンがそう言うと、ネットに明るいものはすぐさまカウンターサイトの作成に取り掛かった。インターネットに流されている『ブルーモルフォの蝶』の画像を収集し、一番それらしいと信じられているものを採用し、本物らしいブルーモルフォを作っていく。
画面に映し出されたブルーモルフォの蝶は、ソクジンの目から見ても洒落た代物だった。
ソクジンは思う。……蝶のモチーフ。確かに他の世界に転生するって教義には沿っている感じがするけど、そもそもこのモチーフの元は何処から来たんだろう?
その時だった。カウンターサイト作成に勤しんでいたはずのテヒョンが慌ただしくやって来た。
「ジン先輩、少しいいですか」
「どうした?」
「実は、自分の息子の自殺もブルーモルフォに拠るものだって訴えてる母親が来てるんですよ。……ほら、ユン・ミンソンが捕まったって聞いて、合わせて調べ直して欲しいって。でも、その自殺は明け方に起こったものではありませんし、正直ブルーモルフォと関係があるとは思えないんです。でも、不可解は不可解な上に、母親がどうにも譲りませんから」
「……テヒョン、その事件の概要見せてくれる?」
「はい」
受け取るなりソクジンは、広大東小学校に通っていた男子生徒・キム・ヨンシクの自殺の概要にざっと目を通した。何の問題も無さそうな快活な児童の飛び降り自殺。左目に刺さったボールペン。遺書は無し。要素をこれだけ抜き出すと、ブルーモルフォと関連づけるのは難しいように思えた。
そもそも、キム・ヨンシクの死はブルーモルフォが動き始めたと思われる時期よりずっと前だ。強いて言うなら左目に刺さったボールペンだけはブルーモルフォ要素と言っていいのかもしれない。小学生が行うには異質過ぎる自傷は、ブルーモルフォの指示に通じるものがある。だが、それとこれとを銭で結びつけるには、確かに時間が開き過ぎていた。
「どうですか、ジンさん。俺はブルーモルフォとは関係無いと思ってますけど……」
「……確かに、それとこれとは全然違う話のように思えるけれど……」
「それで、その……。キム・ヨンシクの母親は、犯人にも心当たりがあるって言うんですよ。実は、キム・ヨンシクは小学生の頃、いじめをしていたとかで……。表沙汰にしたくない出来事だから、今まで明らかにならなかったそうなんですけど。……その時虐められていた少年が、ブルーモルフォの首謀者だって」
「凄い論理の飛躍だね。そんなはずないだろう」
「俺もそう思ってはいたんですけど。……そのヨンシクが当時やっていたブログが、まだ残ってるんです」
そう言って、テヒョンは件のブログのURLを開く。表示されたブログのタイトルを、ソクジンはそのまま復唱した。
「『蝶図鑑』」
開かれたページには、一面に誰かの手の写真が並んでいた。
8
どの途、もう潮時だったのかもしれない。
俺がブルーモルフォを終わらせる決断をした直後、警察の方も目立った動きを見せるようになった。ブルーモルフォと検索したときに出る一番最初のサイトが変わったのだ。
尤も、前の一位だったミンソンのサイトが消されたから色々なサイトが立ち代わりで後釜に座っていたのだけれど、今回現れたサイトは、明らかに作為を感じるものだった。
そこのサイトは、デザインだけで言うならユン・ミンソンのサイトよりも洗練されたものだった。仮にジミンがサイトを作ったらこんな感じになるだろうというデザインのものだ。
けれど、そのサイトから送られてくる指示は馬鹿げたものばかりだった。『身近な人間に感謝を伝える』だとか『一年以上食べていないものを食べる』だとかのくだらないものだ。今までのブルーモルフォの模倣犯とは明らかに違う。
これの効果は明白だった。興味本位で検索した人間がこのサイトを見れば、あまりの馬鹿馬鹿しさに少しだけ冷静になる。ブルーモルフォが意図的に引き起こしているのは集団ヒステリーであって、集団幻想だった。実際に人間が死ぬ、という確かな実績があって、その実績があったからこそ、死後の聖域だとか理想の生まれ変わりだとかの物語に根拠が生まれたのだ。
反して、検索画面のトップにしつこく居残り続けるこれらのサイトはそのヒステリーに水を差してしまう。自分を死に向かわせてくれるきっかけを求めていた人間は、このサイトを見て落胆するかもしれない。馬鹿にするかもしれない。
それだけで、ブルーモルフォの価値は大きく下がってしまう。
「これ、多分警察が作ってるサイトだと思う」
そのことに一早く気がついたのもジミンだった。ブルーモルフォの偽サイトが作られる度に消えている状況下で、何故かそれらのサイトだけは消えずに残り続けた。ある意味でそれらのサイトだけは特別だったのだ。
「面倒なことを考えるね。確かに効果的だけど」
いつもは自分の部屋に入るなりベッドに寝転ぶジミンが、珍しく座ったままそう言った。
「これ、どうするの?」
「僕の物語は、ブルーモルフォは負けない」
ジミンは冷静な声でそう呟く。悲観しているというよりは、何だか随分つまらなそうな声だった。
あの夜からジミンの口数は少なかった。俺の方は変わらずジミンに接していたし、ジミンだって表立って態度を変えたりはしなかった。衝撃的な告白をされようとも、まだ俺はジミンのことが好きだった。
どれだけ赦されざることをしたって、俺のスタンスは変わらなかった。人殺しのことを嫌いになれない人間はどうすればいいのだろう?他人事のように思う。
ジミンの隣に座ると、ジミンは前と変わらず頭を預けてくる。その重みは今でも愛おしい。
「ジミナ」
「……どうしたの?」
ジミンの声が僅かに緊張しているのが分かる。俺が何を言うか、彼が静かに牽制しているのが分かる。そんなジミンをあやすように、俺は優しく頬を撫でた。
「俺さ、ジミナと一緒に行きたいところ思いついたんだ。南極とか水族館じゃないんだけど」
「行きたいところ?」
「そう。でも、夜中じゃないと駄目だから、出来ればジミンの両親が居ない時がいいかなって」
「……金曜日とか?次の日学校無い死、お父さんは出張だし、お母さんの方もおばあちゃんの様子を見に行きたいって言ってたから、見に行ってもらえばそれでいいかも」
「じゃあ、その日に」
ジミンが頷く。俺たちは普通の恋人同士に見たいにデートの約束を取りつける。ジミンは前と変わらずに、俺に身を摺り寄せてきた。俺はそんなジミンのことを撫でて、優しくキスをする。ジミンは俺の傍で難の警戒心も無く眠る。
ジミンが誰かを傷つけるのになんの痛みも覚えないのだとしたら、彼はどうして自分を傍に置いているのだろう。かつて信じていた嘘は、そのまま俺が必要な理由になっていたけれど、本当のジミンは暗い道だってきっと危なげなく歩けるのだ。
眠るジミンの髪を撫でながら、傍らのタブレットを拾い上げる。そこから、いくつかの検索ワードを入れて、目的のサイトを開く。
そこは、自分の息子を不可解な事件で失った女性が――キム・ヨンシクの母親が、情報提供を募っているサイトだった。
葬式であれだけ取り乱していたキム・ヨンシクの母親は、未だに息子の死に納得がいっていないらしい。このサイトの存在自体はずっと前から知っていた。殆どブログ並みの簡素さで、メッセージフォームと自分の息子の死の不可解さのみが記されている。
書き出しに少しだけ悩んでから、メッセージフォームを開いた。そのまま、自分がかつてキム・ヨンシクのクラスメイトであったこと、自分はキム・ヨンシクを殺した人間を知っていること、そして、動機までも書き連ねる。
URLを添付する時に、久しぶりに『蝶図鑑』を開いた。そこには、今よりもずっと小さくて頼りない自分の手があった。痛みの記憶が鮮明に蘇り、息が出来なくなる。しばらくそれを眺めてから、送信ボタンを押した。
これでキム・ヨンシクの母親が警察に飛び込んでくれればいい。恐らく、最初は相手にもされないだろう。けれど、それでいい。
あの頃よりはずっと大きくなった手を見る。あの時死んでいたら見られなかった形を見る。
*
チョン・ジョングク、というのがキム・ジョンヒの指定した犯人だった。塔ヶ峰高校というのはこの辺りでも有数の進学校に通っている高校生だ。生徒会に所属しているからか、塔ヶ峰高校のホームページには彼の顔写真が載っている。
やや不健康そうな出で立ちであったものの、チョン・ジョングクは綺麗な顔をしていた。ただ、だからこそソクジンには彼が虐められていたという話に説得力を覚えてしまった。こういうタイプの人間は悪目立ちをする。嫉妬もされる。それ上手く受け流せる性質じゃなければ、それがそのまま孤立に繋がってしまうのだ。
キム・ジョンヒの主張は分からなくもなかったが、殆どこじつけのようなものだった。
キム・ヨンシクはチョン・ジョングクを執拗に虐めており、彼を辱める為だけに『蝶図鑑』なるブログを作って彼の写真を貼っていた。それに耐えかねたチョン・ジョングクがキム・ヨンシクを殺害したものの、自殺扱いに。そして今、ジョングクは蝶図鑑の復讐の為に、蝶をモチーフに掲げて自殺ゲームを主宰している。
普通に考えれば、その事件とブルーモルフォに関わりがあるとは思えない。そもそも、チョン・ジョングクがキム・ヨンシクを殺したかどうかすら定かじゃないのだ。
けれど、引っ掛かった。
塔ヶ峰高校のホームページに載っているチョン・ジョングクの写真は、何かのイベントの最中なのか、壇上でマイクをセットしている姿だった。彼の隣には一人の少年がいる。目鼻立ちが際立って美しいからか、一目見ただけで過去の記憶が想起された。
学校の代表として、人権集会でスピーチを執り行った優等生だ。
パク・ジミンがそこに居た。
半年ほど前、ソクジンとテヒョンは警察の代表として人権集会なるイベントに参加した。高校生がその時々の問題についてスピーチを行うイベントで、今年のテーマは高校生の自殺防止だった。そこで、感動的なスピーチをしていた少年。
「パク・ジミン……」
不思議にも頭に残る名前だったから、よく覚えている。彼の声は広い会場内でよく響いて、年若いながらそのカリスマ性には圧倒された。美しい肢体に整った顔、そして歌うようなメゾソプラノ。
何の根拠もない話だ。けれど、不思議と思う。もし彼がブルーモルフォの管理人だとしたら、それは確かにイメージに合う。あの眩い輝きを火に変えて、寄ってくる人間を焼き尽くす様が想像出来る。
馬鹿げた話だろうか?けれど、少なくとも話くらいは聞く価値のある話だという気がした。それに、興味がある。実際にこのパク・ジミンと話をしてみたい。ソクジンの中には紛れもない好奇心が湧いていた。
「テヒョン、ソンスさんのことも呼んでくれる?」
「ソンスさんですか?」
「ああ。さっきまで居ただろ?ユン・ミンソンを確保したのもソンスさんだ。今回だってソンスさんに伝えた方がいい」
だが、ソンスの姿は見当たらなかった。所在を示すホワイトボードにも記載が無く、宙に消えてしまったようだった。
「……直帰ですかね?誰か聞いてませんか?」
「そんな話は聞いていない。ただでさえ金曜日は宿直もあって人が足りないんだ。まだ無断欠勤か?」
ソクジンが珍しく腹立たしそうにそう口にする。
その時、ソンスのデスクに目が向いた。彼の趣味では無さそうな花が飾られていたデスクだ。特におかしな痕跡は無く、綺麗に片付いている。以前の彼からすれば考えられない変化だった。
ソクジンはおもむろにソンスのデスクに近づいていくと、躊躇なく引き出しを開けた。そして、息を呑む。
イ・ソンスのデスクの中には何も無かった。引き出しの中も、サイドチェストの中も空っぽだった。彼が働いていた痕跡そのものが無くなってしまったかのようだった。
「テヒョン、ソンスさんを探すぞ」
嫌な予感を抑えきれないまま、ソクジンは静かに言った。
「このままだとまずいことになる」
9
そうして迎えた金曜日、俺は誰も居ないジミンの家の前に立っている。
天体観測をしたいんだ、という俺の言葉に、ジミンは素直に頷いた。冬空を観測するには随分いい天気で、俺らは午後九時に例の自然公園で待ち合わせをするとになった。
ジミンとの待ち合わせまで、あと五分しかない。どう急いだとしても、もう自然公園には間に合わないだろう。夜空を見上げると、少ないながらも星がちゃんと見えた。ジミンはもう公園に着いて、俺のことを待っていてくれるだろうか。
一応、確認の意味を込めてインターホンを押した。数秒待っても、そこからは誰も出てこなかった。
今までに一度も使ったことの無い合鍵を取り出して扉を開けると、いつも通り片付いた家に迎えられた。靴のまま上がり込み、ぐるりと辺りを見回す。写真立ては更に増えていた。子供の頃から今に至るまでのパク・ジミンに見つめられながら、俺はリュックからペットボトルに入れた灯油を取り出した。
台所の脇に、お誂え向きの古新聞の山が三つあった。見るからに燃えやすそうなそれに灯油をかけて、残りはリビングに撒いた。二本目のペットボトルはジミンの部屋に同線を引くように使う。すっかり慣れ親しんだ扉を開ける。
ジミンの部屋に入ると、何だか懐かしい気分になった。初めてここを訪れた時はこんなことになるなんて想像もしていなかった。今のジミンを形作った本棚も、彼が使っているピンク色のノートパソコンも、椅子代わりにしたベッドも昔と変わっていないのに。
俺は浅く息を吐きながら、三本目のペットボトルを開ける。その時だった。
「おい」
振り向くと、そこには大柄な男が立っていた。年の頃は四十代半ばだろうか。男はぎらついた目で俺のことを睨んでいる。
「チョン・ジョングクだな」
なんで名前を、という気持ちよりも先に恐怖が先だった。目の前に相対した男にはおよそ理性というものが感じられなかったからだ。今にも飛びかかってきそうなその男の手には、黒光りする拳銃が握られていた。この国で拳銃を持てる人間はそう多くない。
その時、ふと『粛清』のことを思い出した。
人知れず粛清を命じていたのだとしたら、ジミンはどんな人間にそれをやらせるだろう?一番そうした仕事に相応しく、失敗のなさそうな人間を選ぶに違いない。ある程度の暴力に精通していて、足がつかなそうな人間。そういう意味では目の前の男は、いかにもジミンが選びそうな人材だった。ああ、と溜息を漏らす。
その瞬間、自分の身体が宙に浮く感覚がする。内臓が押し上げられる痛みとフローリングの冷たさが合わせて襲ってきて、ようやく自分が思い切り殴られたことが分かる。床に転がったままげほげほ喘いでいると、そのまま荷物のように抱え上げられた。自分よりもずっと体格の良い人間に殴られた衝撃が抜けなくて、抵抗する気力すら湧かない。そのまま俺は、ジミンの家の前に停めてあった車のトランクに、荷物と一緒に放り込まれた。中は雑然としていて、動こうとする度に何かが当たる。
タイミングが良すぎると思っていたんだ、と俺は負け惜しみのようなことを思う。
この国で唯一、大っぴらに銃を持てる人間。――警察。俺を殴った男は、間違いなく警察だった。ただ、その目には覚えがある。チョン・トンヒョンにあり、イム・ジヨンにあり、チョン・ジョングクにある淀んだ光。……ジミンは、こんな人材まで確保していたのか。本当に敵わない。
右に左に揺られながら、彼のことを想う。どこに連れて行かれるかは分からないが、少なくとも今夜の俺の目的はこれで潰えた。本当に迂闊だった。本当に馬鹿だ。
あと少しで、ジミンのことを救えたかもしれないのに。
10
俺が連れて来られたのは、塔ヶ峰高校だった。男は俺を抱えたまま、裏門から入って、そのまま非常階段を上がる。抱えられながら階段を上がる心許なさにぞっとしながら、俺はされるがままになっていた。
塔ヶ峰高校の屋上には倉庫代わりの塔屋がある。男は俺を降ろすと、その塔屋に転がしてそのまま放置した。すぐさま出ようかと思ったものの、塔屋の扉には紐のようなものが結わえてあって、開けられない。
そのまま数時間ほどじっと息を詰めていると、不意にガチャガチャという耳障りな音と共に扉が開いた。
果たして、そこにはパク・ジミンが立っていた。
「……ジミナ」
「僕はちゃんと自然公園に行ったんだよ」
「あの人は誰?」
「ブルーモルフォのプレイヤーだよ。僕が頼んだわけじゃないんだけど、連れてきたって嬉しそうに言われたら、無下にするわけにもいかなくて」
それ以上を教えるつもりはないのか、ジミンが素っ気なく言う。そして、こう続けた。
「ねえ、ヨンシクのお母さんに『蝶図鑑』のことを教えたのは本当?警察ではもうあれとブルーモルフォを結び付けてる。このままだと僕達に辿り着いてしまうかもしれないよ」
その情報は恐らくあの警察官が密告したのだろう。
警察内部でその情報を知ったあの男は、ジミンに報告した後から俺をずっとマークしていたのだろう。そして、ジミンの家に入るところをまんまと見られていた俺は、火を点ける前に確保され、間抜けにも彼の元に連れて来られたのだ。
「本当だよ。俺が流した」
「信じられないな」
ジミンの言葉は本当に不思議そうだった。表情は戸惑っていて硬い。この期に及んでも、ジミンはある意味で俺のことを信用している。それに応えるように、俺は言う。
「……俺はジミンを裏切ったりしないよ」
「僕のこと、嫌いになった?」
いつもの質問だった。それに答える代わりに、俺は言う。
「俺はジミンの味方だよ」
「そう」
俺が何かを言うより先に、ジミンが扉を開ける。漏れ出る光で分かっていたことだけれど、外はすっかり朝になっていた。
世界が一番美しく、人間が一番息をしやすい時間の空だ。ブルモルフォが解放を謳う時間。
「……ジョングクはああ言ってくれたけど、まだ僕を諦めてないんだよ」
「……どういう意味?」
「いつか傷は治ると思ってる」
言いながら、ジミンが俺の手を引いて、外に出ることを促してくる。そうして朝焼けの屋上に立った瞬間、フェンスの手前側に人影を見つけた。
イ・ミヨンがそこに居た。
前に見た時よりもずっと生気を失くした彼女は、暗い目で朝焼けを眺めている。色の悪い腕は鎖骨の下辺りを頻りに撫でていた。蝶のあるだろう位置だ。
「ミヨンさんはね、元々ユン・ミンソンの方のサイトに引っ掛かってたんだよ。だから、僕が引き戻したの。僕の言葉で生き残った人間なら、僕が殺してあげないと」
作り立ての一日の、爽やかな空気が流れ込む。風に髪を靡かせながら、不意にジミンが言った。
「ねえ、賭けをしない?」
「え?」
「僕は今からミヨンさんの自殺を止めてみようと思う。ねえ、どうなるかな?もしミヨンさんが飛び降りなかったら、ジョングクの勝ち。もう僕はブルーモルフォから手を引くよ。然るべき場所で裁きを受けてもいい。それは、ジョングクが好きになってくれたパク・ジミンがブルーモルフォに勝ったってことだから。でも、もし彼女が僕の言葉に耳を貸さなかったら、僕の勝ち」
「ジミンが勝ったら、俺は何をすればいい?」
「どんなことになっても、僕と一緒にいて」
祈るようにジミンが呟く。
「どうしてそんなに、」
俺に執着するのか、と続けようとするつもりだった。およそ共感とは縁遠いはずのジミンが、どうして俺だけをこうして特別扱いするのか。けれど、ジミンは答えの代わりに俺の右目蓋をそっと撫でた。そのまま縦に、柔らかい皮膚をなぞる。それはかつて、彼が傷を負った位置だった。
「それじゃあ行くね」
ジミンはひらりと塔屋の倉庫から躍り出ると、ゆっくりフェンスの方へ向かっていった。ジミンの張りつめた横顔は、ミヨンさんのことを一心に見つめている。ミヨンさんはフェンスを摑んだまま、ただ朝焼けの空を眺めていた。
「ミヨンさん」
その背にジミンが声を掛けた瞬間、ミヨンさんが弾かれたように振り向いた。
「ジミン……だよね?ジミンが、来てくれたんだよね?」
さっきまで虚ろを湛えていたイ・ミヨンの目に、徐々に光が戻っていく。それは丁度、夜を切り裂く朝焼けのようだった。突然しっかりとした足取りになった彼女が、二、三歩こちらへ歩み寄ってくる。
「ジミン……!」
ミヨンさんが、切実な声でジミンの名前を呼ぶ。
「……どうしよう、私ね、死ぬつもりだったんだよ。このままここから飛び降りるはずだったの。でも、ジミンのこと見たら、死にたくなくなっちゃった。どうしよう、私、死ぬのが怖い。生きるのも怖いのに、生きたくなっちゃったよ」
「ミヨンさん、僕はね」
俺はジミンが何を言うのかを待っていた。けれど、どれだけ待っても、ジミンの口からは意味のある言葉は出てこなかった。
代わりに出てきたのは、彼に似つかわしくない苦しそうな呻き声だった。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。朝焼けの光が更に強くなり、二人の姿を一層強く照らし出す。それに合わせて、ジミンの腹からぼたぼたと涙に似たものが零れ落ちた。
「ごめんね、ジミン、ごめん」
ミヨンさんが涙声で言うのに合わせて、ジミンがゆっくりと自分の腹部に目を遣った。
そこには細身のデザインナイフが深々と刺さっていた。黒い柄を伝って、ぼとぼとと血が流れ出す。
ジミンが信じられないとでもいった風に口元を押さえると、ミヨンさんは容赦なくデザインナイフを抜き取り、もう一度ジミンの腹を刺した。ジミンが呻く。血が溢れる。ミヨンさんはもう一度同じことをする。
「……ごめんね。ごめんね。私、ジミンが居ると、生きたくなっちゃうんだよ。この世界でまだ生きていたくなる。だから、本当にごめん。何度も助けようとしてくれたのに。それでも私は行かなくちゃ」
三度もジミンを刺した後、デザインナイフを投げ捨てながらミヨンさんはそう言った。細身のそれはジミンの血で真っ赤に染まっていて、殆ど影のように見える。膝を着くジミンを振り返ることなく、ミヨンさんは歩き出した。そして、あの日の逆再生のようにフェンスを乗り越えると、何の躊躇いも無く飛んだ。
遅れて鈍い音が響くと同時に、俺は駆け出した。ジミンは必死に刺された部分を押さえて血を止めようとしていたけれど、ジミンの周りが自分の作り出した血だまりでじわじわと濡れていく。
俺がジミンの背に触れようとした瞬間、ひく、とジミンが喉を鳴らした。そして、ジミンはそのまま弾かれたように笑い始めた。最初は引き攣れるような笑い声だったのが、次第に大きなものになり、けたたましく鳴り響く。ジミンの独特のメゾソプラノがコンクリートに跳ねて反響する。その度にジミンの傷からは血がごぼごぼと漏れ出した。
「ジミナ!ジミナ……」
咄嗟にその身体を押さえつけたけれど、ジミンの笑い声はなおも止まない。やがてその呼吸がヒューヒューと覚束ないものになり、身体の震えが無視出来なくなった頃、彼は笑うのを止めて小さく言った。
「やっぱりそうか」
その言葉をジミンはどんな意味で言ったのだろう。彼の声は勝ち誇っているようにも、すべてを諦めたかのようにも聞こえた。パク・ジミンの言葉では自殺を止めることなんか出来ないのだと自嘲したのか、あるいはブルーモルフォの魔力が本物であることを誇っていたのか、俺には分からなかった。
俺に分かることなんかたかが知れていた。このままだと間違いなくパク・ジミンが死ぬという単純な事実だけだ。
「ジミナ、しっかりして!ジミナ……!何か、止血出来るものを探しに行こう。俺に摑まって」
さっきの一言以来押し黙ってしまったジミンは、大人しく俺の指示に従った。構図の被り方と状況の違いに戦慄する。背負ったジミンの腹はじっとりと濡れていて、背負った瞬間から俺の背に染みてきた。
ジミンの身体は相変わらず軽かった。それなのに、彼の身体は全身がじっとりと湿っているようで、まるで絡みつかれているかのような気分になる。
落ちたミヨンさんのことは一度も見ないまま、俺はジミンを背負って屋上を出た。
生徒会室に向かったのは、そこにジミンが膝掛けを置いていたからだ。冷え性のジミンは春でも夏でも関係なくお気に入りの膝掛けを使っていた。ジミンを壁に凭れ掛けさせると、膝掛けで傷を覆った。傷が見えなくなったことで、余計にジミンの顔の青白さが目を引いた。膝掛け自体も、着実に赤く染まり始めている。
「ジミナ、大丈夫? 痛い? 苦しい?」
ジミンは俺の質問には答えずに、譫言のように言った。
「……ブルーモルフォは……完璧だった、僕は間違えなかった、僕は、」
ジミンの言葉は絶え絶えで、掠れていた。耳元で囁かれるその声に力は無く、それは丁度、遥か昔の記憶の中、俺に背負われた男の子の声に似ていた。
「……大丈夫だよ。分かってる。ジミナ、大丈夫だから」
ジミンの手を握る。手に着いた血液は既に固まり始めていた。
「ジミナ、ごめん、スマートフォンを……きゅ、救急車を呼ばないと」
そう言いながら、ジミンのポケットを漁る。雑多な物に合わせて、ピンク色のケースに入った馴染み深いスマートフォンが出てきた。
そこで俺の手が止まる。このままだとジミンが死んでしまうのに、俺はここから先を想像する。これをすることで、これから何が起きるのかを考える。
止まった俺を少しも意に介さずに、ジミンはなおも呟き続ける。
「僕は、ジョングクを傷つけられた時から、……僕の中に、ずっと消えない炎があるの……僕が、もし、普通の男の子だったら、」
それを聞いた瞬間、堪えていたものが溢れ出した。情けないことに視界が歪み、嗚咽が漏れる。
今朝のニュースでは、偽ブルーモルフォに引っ掛かって死んだ人間が三十人を超えたといっていた。日々更新されゆくリストであれから何人死んだだろう?単純に計算しただけでも百五十人近く、粛清によって人知れず死んでいった人間を数えれば、まだ記録は伸びるはずだ。
パクジミンは大量殺人犯だ。
世間的に見れば救いようのない悪人で、他人の気持ちなんか分からないのかもしれない。
それでも、ジミンは俺を助けてくれた。孤独な俺を救ってくれた。俺をヒーローと呼んでくれた。俺のことを好きになってくれた。
分かっていたはずだ。どれだけの人間を殺しても、もう誰にだって優しいジミンじゃなくなっても、俺はジミンのことが好きだった。
ジミンがそこに居るだけで幸せな気分になるし、どんなことがあってもジミンの味方をしてあげたい。恐れも愛しさも恐怖も、ありとあらゆる感情を彼に捧げてきた。ジミンと出会ってから、俺の人生はこの美しくて恐ろしく、優しくて残酷な少年に捧げられていた。殆ど息が出来なくなりながら俺は言う。
「ジミナが好きだよ」
その時、俺の膝がとある物が触れた。さっきスマートフォンを抜き出した時に転げ落ちたものだろう。『それ』を拾い上げた瞬間、息を呑んだ。
今まで自分が見ていた世界が塗り替わる感覚がする。走馬灯のように今までの想い出が蘇り、あの時の教室に引き戻される。
そして俺は、スマートフォンの電源を切った。拾い上げたものと一緒にポケットに仕舞い、静かに声を掛ける。
「ジミナ……救急車は呼ばない」
ジミンがその言葉を正しく理解していたかは分からない。段々と焦点の合わなくなってきたジミンの目が、辛うじて俺を見る。
「大丈夫。……誰にもジミンを傷つけさせないよ。ジミンは……ジミナは、悪い人間かもしれないけれど、化物かもしれないけれど、地獄に堕ちるだろうけど、それでも、俺はあなたを守るから」
「暗い、明かり点けて、ジョングガ」
生徒会室は暗くなかった。朝焼けの光に照らされて眩しいくらいだ。さっきまで現実を隠してくれていた膝掛けが血に染まり、ジミンの手が宙を掻く。その手を優しく取ると、ジミンはもう一度呟いた。
「……暗いのは怖いよ、助けて」
「大丈夫だから。俺はずっとジミンの味方だよ」
「ジョングガ、怖い」
「ジミナが怖かったり辛かったりする時は、絶対に俺が傍にいるから。何も怖がらなくていいんだ」
「……ジョングガ、」
「だって俺はジミナのヒーローだから」
その時、摑んでいたジミンの手から力が抜ける。何か言いたげに開いた口が止まり、ゆっくりと頭が落ちた。
ジミンは勘違いをしている。
俺はジミンのことを嫌いになったから警察に通報したわけじゃない。
美しく光るイルミネーションの前で、俺はもうジミンのことを本物の化物なのだと理解していた。人間を傷つけてもどうとも思わない人間だ。ジミンの殺意は留まることを知らないし、満足することもない。ジミンは絶対に誰かを害することを止めない。それを理解した。だから、そんなジミンが破滅しないように、せめて俺だけは彼を助けてあげようと思っただけなのだ。
血塗れであることを除けば、ジミンは殆ど眠っているようだった。意志の強そうな茶色の瞳が閉じられ、あどけない表情に見える。
俺は荷物を紐解き、ペットボトルに入った最後の灯油を取り出す。そして、ジミンの持っていたスマートフォンやタブレットに掛けた。そのまま、辺り一面にも撒いておく。そして近くの紙束に火を点けると、ジミンの遺体を背負って廊下に出た。
階段を上がって、もう一度屋上に上がる。火事を検知したのか、けたたましいサイレンが鳴り始めた。もう少しで、学校には消防車や警察がやって来るだろう。
俺は、屋上に放置されていたデザインナイフを懐に仕舞うと、ジミンの死体と共に朝焼けを眺めていた。その時、屋上に誰かが駆け込んできた。
ソンスとかいう刑事だった。恐らく、生徒会室での出火を受けて様子を見に来たのだろう。その目が驚愕に見開かれている。そんな彼に対し、俺は静かに言った。
「ジミンは死にました」
その瞬間、刑事が駆け寄ってきて、俺のことを思い切り殴りつけた。その一撃で死んでもおかしくないくらいの打撃だった。そのまま刑事が、衝動のままに俺を殴り続ける。暴力の雨に晒されるのは小学生の時以来だった。
視界の半分が赤黒く染まった頃、刑事はようやく手を止めて言葉を発した。
「お前が殺したのか」
「そうです。俺がジミンを殺しました」
俺がそう告白すると、目の前の啓示は大きく顔を歪めた。きっと本音では俺を殺したいと思っていることだろう。けれど、まだ俺に聞きたいことがあるのか、刑事は動かない。とはいえ、俺の意識は半分落ちかけていて、上手く答えられるか分からない。そんな状況下で、刑事が「どうして」と尋ねる。
「世界中の人間がジミンを赦さなくても、……俺はジミナのヒーローだから」
その答えが気に入らなかったのか、いよいよ以て、刑事が俺のことを殴りつけた。俺の意識がまた半分暗闇へと落ちていく。
「……俺は、ジミンのことが好きだったんです。だから、ジミンの為なら、何でもしようと思ってた」
「は、」
「でも、ジミンはきっとそれを赦さなかっただろうから。だから、ジミンの家に火を点けて、先に事件を作るしかなかった。……俺はね、ジミンの為に物語をくれてやろうと思っていたんですよ」
目の前の人間は、まともな刑事には見えなかった。ミヨンさんと同じ目をしている。だから、この人にだけは真実を教えてあげた。この人も同じように、パク・ジミンをずっと追っていた人間なのだから。この人以外に、俺が真実を語ることは無い。地獄まで持って行く秘密なのだから同じ地獄に行く人には教えてあげたっていいはずだ。
目の前の男が、俺の首に手を掛けた。容赦ない力で気道が圧迫されて、俺は必死に藻掻く。殴るくらいならいくらでもしてくれて構わないけれど、ここで死ぬわけにはいかないのだ。無我夢中で相手の腰を蹴り、がむしゃらに抵抗する。
その時、屋上になおも誰かが入ってきた。
「ソンス!やめろ!そいつを殺すな!」
俺を殴っていた男がハッとした表情を見せる。その瞬間、俺は初めてソンスという人間に出会ったような心地がした。分かっていたことだけれど、この人もジミンに変えられてしまった一人なのだ。きっと沢山のものを捨ててここに来たのだろう。
空気が足りずに喘いでいたお陰で、入って来たのが誰かが良く見えない。男の人だろうか。銃を構えている。
「俺は、彼に会いたかっただけなんだ。……俺は、俺はずっと彼のことが、」
愛していたんだ、とソンスが呟く。そうだ、俺達はみんなジミンのことが愛おしい。
そして、乾いた音がして全てが終わった。
ソンスがゆっくりと俺の目の前に崩れ落ちる。それと入れ替わりに、銃を構えた誰かが寄ってきた。綺麗な顔をした、刑事さんだった。
「君が……ブルーモルフォのマスターなのか?」
「はい、そうです。俺の名前はチョン・ジョングクといいます。……塔ヶ峰高校の二年生です」
息が苦しい。涙が出てくる。それでも俺は辛うじて言った。
「……俺は沢山の人間を殺しました。パク・ジミンもその一人です。俺を捕まえてくれますか、刑事さん」
いよいよ気が遠くなり、俺の意識は闇に飲まれていく。