恋に至る病 3/4話
※RPS/nmmn作品です。ご理解くださる方のみ閲覧してください。構造設定多。
🐰さん視点
「でも、グガが他のプレイヤーと違うところが一つだけあるよ?」
「……死なないところ?や、指示に従わないところ、とか」
ううん、「僕に〇〇されてること」
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新年初投稿です。今年もよろしくお願いいたします。
今回も暗い内容ですので、苦手な方は自衛よろしくお願いいたします。
グロ注意、死表現含みます。
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■第三章
1
その死体が見つかったのはうら寂しい高架下だった。度々ホームレスの仮の住まいになっては、警察が強制退去を命じるといういたちごっこを行っていた場所でもある。だから、発見者の女性は最初、それを単なるゴミと認識したらしい。青いビニールシートでぐるぐる巻きにされていたから尚更だった。大きくて不格好で、処分に困りそうなもの。見るからに不法投棄されそうな代物だ。実際に、発見者は一度この『ゴミ』を素通りしようとしていたのだ。
そうしなかったのは、ゴミが靴を履いていたからである。
青いビニールシートから覗くローファーを見て、発見者はすぐさま警察に通報した。賢明な判断だった。もし中身を見ていたら、向こう半年はそれを夢に見ただろう。
ビニールシートの中身は都内の高校に通う二年生、イム・ミョンスクだった。
死因は失血死とされているが、本当のところは分からない。というのも彼女の身体には無数の打撲痕と切り傷があったからだ。全身を覆う凄惨な暴力の跡を見て、警察関係者ですら息を呑んだ。どんな理由があれば、女子高生がこんな死に方をするだろう?イム・ミョンスクは数日前から姿が見えず、警察が行方を捜していた少女だった。その結果がこれだ。
イム・ミョンスクの両親は変わり果てた彼女を見て取り乱し、まともに話すら出来なかった。無理もない。現実の凄惨さは、想像を数段超えていたからだ。
彼女の太腿には、カッターで無理矢理彫り込んだかのような歪な傷が付いていた。放射状に伸びるその傷は、程なくして『蝶』と呼ばれるようになった。細い腿の内側で不自由そうに赤黒い羽根を開いている。その禍々しい傷は発見当初から話題になった。殆ど突き立てられるような強さで刻まれた傷は、この凄惨なリンチ殺人の異常性そのものに見えたからである。
この後警察は、幾度となく『蝶』を抱えた死体と遭遇することになる。
イム・ミョンスクが発見された頃、警察庁捜査一課所属・キム・ソクジン巡査はジャングルジムで首を吊った男子高生の調書を作成していた。名前はカン・サンフン、十六歳。死因は首を吊ったことによる窒息死。発見者は犬を散歩させていた近所に住む老人だった。
元より自殺は気が滅入る案件だが、それが高校生のものとなると一入だ。カン・サンフンの生前の写真を確認しながら、ソクジンは大きな溜息を吐いた。端正な顔には、疲労の色が濃く広がっている。そんなソクジンの様子を見たテヒョンが、軽い調子で話しかけてきた。
「ジン先輩、それ、どうですか」
「どうって?」
「昨日の朝に見つかったやつですよね?発見者が取り乱してまともに話が聞けなかったってやつ。結局、事件性はあったんですか?」
「いいや、自殺だよ。検死の結果もそう出てるし、僕個人としても疑う余地は無いと思う」
おまけに、カン・サンフンが首を吊ったジャングルジムには、ご丁寧に直筆の遺書まで添えられていたのだ。「今までありがとうございました。僕は死にます」とだけ書かれたシンプル過ぎる遺書だったが、間違いなく彼の筆跡だった。
「でもさ、おかしいんだよね」
「何がですか」
「最近、このパターンが多過ぎるんだよ」
ソクジンはそう言って、タブレットの表面をコツコツと二回叩いた。
「イ・ヒョンジョン、パク・ヒョヌ、チョ・ウンジュ、キム・ミンジ、ユ・チウォン、シン・イェジュン、カン・サンフン。そして、チョン・トンヒョン。今月だけで同じ年頃の中高生が八人も自殺してる。しかも彼らは各々ちゃんと遺書を残し、自分たちが紛う事なき自殺であることを表明して死んでいってるんだ」
「……嫌な話ですね」
「嫌な話な上に、おかしな話なんだよ。彼らは全員、死ぬ二週間以上前からおかしな行動を取り始め、チョン・トンヒョンを除いて全員が明け方に死ぬんだ」
今回のカン・サンフンの場合もそうだった、とソクジンは続ける。サンフンは四時頃に家を抜け出し、近所の公園に向かうと、ジャングルジムで首を吊って死んでいた。
「公園に人が居る時間帯だと、誰かに止められるからじゃないでしょうか」
「まあ、白昼堂々やれることじゃないからね。でも、この七人の内の一人……チョ・ウンジュは、朝四時頃に家の風呂場で首を剃刀の刃で切り裂いて死んでいる。これは一概に人目を避けての行為とは言えないんじゃないかな。あとは、このキム・ミンジのパターン。彼もまた同じ時間帯に自宅マンションの屋上から飛び降りて死んでいるけれど、住民だったら自由に出入りできた」
「……なるほど」
「そもそも単純な話、朝四時の自殺が七件も続いている事自体異常だよ」
「こう言ったらなんですけど、呪われているみたいで正直気味悪いですね」
「呪いじゃなかった場合の気味悪さにこそ耐えられそうにないけどね」
ソクジンは真面目な顔をして、そう言った。確かにその通りだった。超常的なことが何も介在しないで、ただ淡々と人が死ぬというのは、分かりやすい悪夢だ。
「僕はこれを集団殺人じゃないかと考えている」
「集団殺人?死んだ彼らには面識があったと?」
「いいや、先の七人に接点は何も無い。通っている学校も、住んでいる場所も死んだ日も違う。……考えられるのは、集団自殺サイトか何かを使って引き合わせられて、死ぬ約束をした、とか……」
所謂『ネット心中』と呼ばれるパターンだ。死にたいという願望を持った人間が、ネット越しに別の自殺志願者を探し、自分の持っている苦しみについて吐露し合いながら死んでいく。ネット心中は必ずしも同日同時刻に自殺が起こるわけじゃない。死んだ学生達に接点が無くてもいいわけだ。
だが、ソクジンの違和感は拭えなかった。良くも悪くも、ネット心中を行おうとする子供達には一種のパターンがある。それに比べて、今回の七人は随分個人主義的で、無軌道だった。自殺手段も日にちもバラバラなのに、その時刻だけが奇妙に揃っている。彼らは互いに示し合わせているというより、何か別のものに従っているような……。
「死んだ七人のSNSなどは確認出来ないんですか」
「確認出来たよ。けれど、大したものは出てこなかった。異様なまでにクリーンだったんだよ。死にたいの言葉も、軽口の延長線上にしか出てこなかった」
自殺志願者であれば、少なからず日常の苦しみや、それとない希死念慮などを仄めかしたりするものだったが、今回のカン・サンフンのアカウントに残っていたのは、授業や自身の所属するサッカー部に関する他愛の無い呟きや、進路へのありふれた不安だけだった。
「その上、七人はSNS上で繋がっていたというわけでもない。勿論、メッセンジャーアプリなどを使って個人的にやり取りをしていた可能性、自殺前にそれを消した可能性はなくも無いけれど……。どのSNSを使っていたのかも分からないのに、手当たり次第運営に復元を頼むわけにもいかないよ」
それこそ国内外のものを含めれば、SNSなんて星の数ほどある。どれを使っていてどれを使っていなかったのかを割り出すのは不可能に近い。主要なものから総当たりしていくにしても、開示の労力は果てしなかった。何個かは試してみるつもりだが、結果が出るのは先になるだろう。
「まあ、他にも決定的な共通点があるんだけどね」
「そんなものがあるんですか?ならそれを先に教えてくださいよ」
「……悩ましいんだよ。共通点を過剰に見出そうとする僕のバイアスかもしれない。単に何かしらの影響かも知れない。あるいは新興のカルトか、本物の呪物か。だからこそ、これは最後に――」
「随分暇そうじゃねえか、ソクジン。若ぇのはべらせてペチャクチャ講釈垂れてるだけで警察気取りかよ」
その時、分かりやすく悪意の滲んだ声がした。
「こっちは胸糞悪いリンチの担当なのによ」
「それはお疲れ様です」
動じる事なく返すソクジンに対し、イ・ソンスは忌々しそうに鼻を鳴らした。このところソンスは、まるで疲れ果てた老人のように見える。まだ四十にもなっていないだろうに、縒れたスーツと伸びっ放しの髭、それに落ち窪んだ目がそんな印象を与えるのだろう。
それなのに、身体だけは以前と変わらずがっしりと筋肉が付いていて、それがなおのことアンバランスだった。
「そうしてソンス刑事が真面目に捜査してくれているから、僕の方も自分の担当に集中できるです。感謝してますよ」
「女狐がよく言うな。そんなに感謝してるなら、茶の一杯でも用意して出迎えてみろってんだ」
「僕は男ですし、それは僕の業務外ですから」
淡々と返されることに苛立ったのか、ソンスは大きく舌打ちをして自分の席に向かおうとした。その背に「あ、少し良いですかね」とソクジンが声を掛ける。
「ソンス刑事の担当は、例の高架下のリンチ殺人ですよね。それ、僕にも詳細を教えて下さりません?被害者は高校生だったとか」
「何でお前に教えなきゃいけねえんだよ。お前は死んだメンヘラどもの担当だろ」
「あのですね、僕に噛みつくのは構わないですけど、死んだ子たちを貶めていい道理は無いでしょう?」
「ソンス刑事、少し度が過ぎるんじゃないですか」
そう割って入ったのは、ずっと傍らで聞いていたテヒョンだった。テヒョンは嫌悪感を隠しもせずにソンスを睨む。
「あんな事件を起こしておいて、今度はソクジン先輩に噛みつくんですか。あれでどれだけ迷惑をかけたか自覚がないみたいですね」
「ああ?てめえ誰に口利いてんだ。覚悟出来てんだろうな」
「そういう態度だから、ああいう事態を引き起こしたんじゃ――」
「待て、テヒョン」
静かな声で、ソクジンが制した。
「こんなことで僕に注意させてくれるなよ」
ソクジンがそう言ったのに合わせて、場の空気が少しだけクールダウンする。ソンスは一つ大きく舌打ちをすると、さっさと何処かに行ってしまった。恐らく喫煙所だろう、と類推しながら、テヒョンは小さく溜息を吐いた。
「ソンスさん、何だか最近おかしいですよ」
「……警察官だって人間だから、精神的に追い詰められることだってある」
「ソンスさん、やっぱりあの一件から立ち直れてないんじゃないでしょうか」
「さあ、僕には分からない」
イ・ソンスは半年ほど前に、被疑者を射殺している。
射殺された男は、コンビニ強盗で現行犯逮捕されたのだが、一瞬の隙を突いてソンスの持っている拳銃を奪おうと試みた。そして、ソンスと男は揉み合いになり、最終的に男は射殺された。
ソンスは酷い非難に晒された。元より、韓国の警察はよほどのことが無い限り発砲をしない。加えて、この惨劇を引き起こしたのは、偏にソンスのミスだ。
ソンスは長らく優秀な警官だった。その功績もあって、表立って彼が処分されることはなかった。悪評とバッシング以外は、何も起こらなかった。
けれどその一件以来、ソンスは明確に変わった。
余裕がなくなったのか、周りと頻繁にトラブルを起こした。さっきのように因縁のようなものを付けてきたり、それとは逆の被害妄想に囚われたり。
カウンセリングを受けるべきだという意見もあった。けれど、あの様子のソンスがそれを簡単に受け入れるとも思えなかった。
「彼自身がどうにかするしかないよ。実際、何度も周りがアドバイスをしているんだから」
果たして、そんな人間を救う方法はあるのだろうか。治療さえ拒否し、緩やかに崩壊を続けている人間を救う手立ては。そんなことを考えながら、ソクジンはソンスの残した資料を手に取った。何と無しに、ページをパラパラと捲っていく。
「今度は同じ年頃の学生が被害者のリンチ殺人か……」
そして、あるページに辿り着いた瞬間、息を呑んだ。
「……嘘だろ」
「どうしたんですか?」
「さっき、死んだ子たちの共通点は他にもあるって言っただろう?それがこれだよ」
そう言って、ソクジンはタブレットを開く。何枚かの写真がクリップされた画面を見せてきた。写真には拡大された身体のパーツが――二の腕や胸や足の裏が写っていた。
そのどれもに、赤黒い傷跡がある。大きさや形、治り具合はまちまちだったが、切れ味の悪い刃物で無理矢理彫り込んだようなその傷は、独特の禍々しさを共通して持っていた。
「多分、個人個人で痛みに対する耐性や上手さが違ったんだろうね。このバラつきがあったから、限りなく低い可能性だけど――偶然似たような傷が出来たんじゃないかとも思っていた。それが真っ先にこの傷の話をしなかった理由だよ。なあ、これ何の形に見える?」
言い淀むテヒョンの前で、ソクジンははっきりと言った。
「僕には蝶に見える」
畳み掛けるかのように、ソクジンはイム・ミョンスクの調書に添付された写真を見せてくる。太腿に刻まれた蝶の形の傷の写真だ。
「これで九人の共通点になったね。自殺したのと殺されたのとで違いはあるけれど、ここ最近死んだ中高生たちには、どれも同じように蝶型の傷がある」
2
目覚まし時計よりもずっと早くに目が醒めた。昨日は帰るなりベッドに入ったから、その分睡眠時間がズレ込んだんだろう。規則正しい七時間睡眠を、今日ばかりは疎ましく思う。まだ朝日が昇ったばかりだ。カーテンの隙間からは夕焼けに似た赤い光が差し込んでいる。
目の前で人が死ぬところを見た。ジミンからの衝撃的な告白を受けた。そのどれもが衝撃的過ぎて、殆ど受け止めきれなかった。夕飯すらまともに食べられず、そのまま部屋に引きこもってしまったくらいだ。
もう何も考えたくなかった。意識を沈めていると、昨日の殺人が戻ってくる。
それでも、夕食を抜いた分ちゃんとお腹は空いていて、喉もからからに渇いていた。無視をして眠り続けることも出来なくて、俺はのろのろと部屋を出る。
冷蔵庫の中にはラップの掛けられたエビフライがあった。付け合わせのレタスはすっかりしなしなになっている。恐らく、夕飯に出る予定だったものだろう。ラップを剥いで、何もつけないまま冷たいそれを食べた。久しぶりの刺激に、下が微かに痺れて、喉の奥に痛みを覚える。でも、美味しかった。
飢餓感が薄まって、人間に戻ったような心地がする。そのままエビフライを食べ終わる頃には、俺はいやに落ち着いていた。空になった皿を流しに置いて部屋に戻ると、そのまま『青い蝶』を検索した。
ずらっと出てくるのは質の低いまとめサイトや都市伝説染みた煽り方をしている掲示板ばかりだ。真面目に取り上げているサイトを見ても、内容は俺の知っているものとそう変わらない。あとは、ブルーモルフォに参加する方法を真面目に尋ねている人間がちらほらコメントを残しているだけだ。
未だ多くの人が単なる都市伝説だと思っている。現世脱出ゲーム・ブルーモルフォ。
『プレイすれば死ぬゲーム』という低俗なキャッチコピーと、ジミンが真剣に語っていた『淘汰』の言葉が上手く繋がらず、結局はチョン・トンヒョンの飛び降り自殺に考えが向いてしまう。
ブルーモルフォについて語る人々は、みんな一様に「こんなもので死ぬはずがない」「これで死ぬやつはこれが無くても死んでた」と斜に構えたコメントを残していた。ブルーモルフォを通して、本当に人は死ぬのだ。
けれど、そこでこうも思った。みんなはブルーモルフォに感化されて自殺した人間とそうでない人間を区別出来ていない。チョン・トンヒョンのことだって、単なる自殺としか思っていない。
なら、ブルーモルフォは、みんなが気づいていない間に、静かに世界を変えていくかもしれない。
そうなったら、ジミンの言う通り流されない人間だけが生き残るのかもしれない。……この国の全人口を考えたら馬鹿げた話だけれど、ジミンならそれを叶えられんじゃないかと思った。そうなったら、本当に俺のような人間もいなくなるのかもしれない。
そうしている内に、いつもの起床時間になった。のそのそと身支度をして部屋を出ると、ダイニングでは丁度、スーツ姿の母親が朝食の準備をしているところだった。
「おはよう、ジョングク。冷蔵庫観たんだけど、エビフライだけ食べたの?」
「……夜中に目が醒めて、その、美味しそうだったから」
「ご飯も炊飯器の中にあったのに」
何も知らない母親がそう言って笑うので、胃の奥が重くなる。数年前から、俺はこの人にずっと隠し事をし続けている。
テレビを点けてニュースを確認しても、チョン・トンヒョンの自殺はまだニュースになっていなかった。テレビの中では、とある政治家の不当献金疑惑が取り沙汰されていた。
いつもより早く出てジミンの家のインターホンを鳴らすと、「少し待ってて」というジミンの言葉と、背後からジミンのお母さんの声が聞こえた。がちゃりと音がして扉が開くと、いつもと同じジミンが出てくる。
「おはよう、昨日はありがとう」
「……ありがとうって……」
「ほら、僕の用事に付き合ってくれたでしょ?だからだよ」
そう言ってジミンが屈託なく笑う。何と返そうか迷っている間に、ジミンが俺の手を取った。
「一緒に学校に行こうって誘ってくれてるんでしょ?なら早く行こうよ」
まるで恋人同士のように、ジミンが俺の手を引く。振り払うことも出来ないまま、俺はバス停まで手を引かれたまま歩いて行く。
「お願い。僕が間違っているのなら、今ここでジョングクが止めて」
そう言われた瞬間、俺はあの時の滑り台まで引き戻され、血を流すジミンの姿が頭を過る。ヨンシクを殺したと言ってきたジミンの姿も過る。そしてチョン・トンヒョンが飛び降りる様も。呼吸が浅くなり、脳の奥が熱くなる。
「間違ってない」
考えが纏まらないまま、俺の口からはその言葉が口を衝いて出た。
「……ジミナは間違ってない。警察には言わない。大丈夫、俺はジミナの味方だよ」
我ながら中身のない言葉だった。物事が冷静に判断出来ていたとは思えない。あの時の俺が考えていたことは、ジミンが警察に捕まって欲しくないという一念だった。
それから先は何を言ったかも覚えていない。俺の目には情けないことに涙が浮かんできて、まるで俺の方がジミンに赦しを乞うているみたいだった。
永遠に続きそうだった俺の言葉は、ジミンの唇によって塞がれた。
ジミンにキスをされた瞬間、ふとシュニッツラーが書いた小説のことを思い出す。信頼の証として、主人公は兄に病院への招待状を渡す。「私が狂人であるかどうか君が判断してほしい」と言って、自分のすべてを託すのだ。
それと同じだ。俺はジミンの全てを託されている。モラルと愛情の間で俺の天秤が狂い始めていた。
俺はジミンを怪我から守り、世の中の理不尽から救う、そういうヒーローになりたかった。けれど、俺が出来るのは彼の殺人を肯定することだけだった。
繋がれた手から、少し高いジミンの体温が伝わってくる。彼の隣を歩くだけで多幸感が流れ込み、胸の奥が痺れた。ジミンがごく自然に会話を回してくれるから、話に迷うこともない。合間に挟まれる沈黙すら心地よかった。
それなのに朝の光に混じって、未だに昨日のフラッシュバックが差し挟まれてくる。柔らかな空気の中に紛れ込む鮮烈な像が、今の時間を単なる幸福にしてくれない。
そんな俺の様子に気づいたのか、学校に着いたタイミングでジミンが言った。
「青い蝶のことが気になるの?」
思わず息を呑んだ。そんな俺に対し、ジミンはゆっくりと続ける。
「だったら放課後、生徒会室に来て?」
耳元でジミンがそう囁く。雑談と変わらないトーンで、ブルーモルフォの単語が反響する。
言われた通り生徒会室に行くと、そこにはジミンの他にチュノも居た。チュノは俺の姿を認めるなり「あ!」と嬉しそうな声を上げ、そそくさとこちらに歩み寄ってきた。
「聞きましたよー、とうとうジミン先輩と付き合い始めたらしいじゃないですか」
「え、」
思わずジミンの方を見る。ジミンは悪戯っぽい顔でこちらを見ると、小さくピースをしてみせた。
「それじゃあ俺は帰るので。あとは二人でよろしくどうぞ」
チュノの顔には隠し切れない笑みが浮かんでいた。二人きりの生徒会室に、ややあってジミンの声が響いた。
「……ごめん、嬉しくて。嫌だった?」
「嫌、では……ないけど……」
「良かった」
らしくない声を出しながら、ジミンが笑う。本当に珍しく、パク・ジミンが浮かれている。それはまるで、長年の恋が実った普通の男の子のようだった。その余韻を引きずりながら、ジミンが言う。
「……ブルーモルフォの話だよね。何から話せばいいかな?」
「ジミナが話したいことからでいいよ」
「折角だから、もう少し近くに来てくれる?外から聞こえないように」
出て行ったチュノは、俺達がこんな話をしていることを想像もしていないだろう。俺はジミンの言う通り、ジミンの隣の椅子に座る。ジミンはわざわざ腿が触れ合うほど椅子を近づけてきた。
「………………俺は、まだ、全部を受け入れられたわけじゃなくて、……その、ジミナは……いつからこれを始めたの?」
動揺をしている俺と、冷静に動機をインタビューしている自分が乖離しているのが滑稽だった。通報することも止めることも出来ないのに、ジミンのことを知ろうとしているのが、自分でもおかしい。混濁する俺の内心を置き去りにするように、ジミンは話し始める。
「ブルーモルフォの構想自体はずっとあったの。これで僕の目標が達成出来るかもしれない、と確信が持ててから、最初の一人に手を出した」
そう言って、ジミンは始まりについて語り始めた。
最初の一人を見繕ったのは、とあるSNSだった。高校生の大半がそのアカウントを所有し、内外に向けて個人的な日記や写真を投稿している。ジミンはその膨大なアカウントの群れの中から、一人を選んでメッセージを送った。
「この時に僕が選んだのは、死にたいという言葉を繰り返して発信していて、その言葉に対して何も反応を貰えていない子。もし慰めてくれたり、少しでも反応してくれるユーザーがいたらその子は避ける。漠然と、ただ救いを求めている子にメッセージを送って、まずは『自分も死にたいんだ』って共感を示す。僕とその子はすぐに仲良くなった」
そこまでは簡単に想像がついた。ジミンは誰とでも仲良くなれる男の子だ。人の気持ちの機敏に詳しいし、どうすれば相手が喜ぶかをちゃんと理解している。
目を付けた彼女の好きなものは教科書に載るような文豪の少しマイナーな短編だった。確かに代表作とはされていないものだけれど、少し小説に凝っていれば読んでいておかしくないものだった。ジミンはそんな短編を知っているのは凄いと持て囃し、彼女の感想を聞きたがった。
「感想を聞くことで何が分かるの?」
「そうだね。その子がどう見られたいか、かな」
そうして仲良くなった後は、彼女の悲しんでいることの原因に切り込んでいく。実際に通話アプリで会話もしたらしい。彼女は毎晩毎晩自分がどれだけ不幸で恵まれていないかをジミンに語り続けた。それはどれも他愛の無いものだったけれど、繰り返し語らせることで、彼女は本当に自分が取り返しのつかない不幸の中に居るのだと思い込むようになった。
あとは転がり落ちるだけだった。ジミンは彼女の不幸がどれだけ独創的で救いようがないかを認めてあげるだけでよかった。ジミンとコンタクトを取って二ヶ月後、その子はジミンに会えて良かったとのメッセージを残して自殺を果たした。
「ジミナが死ねって言ったの?」
「僕はただ話しただけ」
その話を聞いた時、正直判断に困った。
最初の一人は、果たしてパク・ジミンが殺したと言っていいんだろうか。自殺教唆という罪があることは知っている。けれど、ジミンはただ彼女と話をしただけだ。
「その子の後に二、三人同じことをした。それが中学三年生の頃だった」
俺に勉強を教えている傍らで、誰かの希死念慮を肯定し続けていたのかと思うと、少しだけ背筋が寒くなる。勉強を教えてくれるジミンの優しい声が好きだった。あの声で、ジミンは夜ごと誰かを『流して』いたのだろうか。
「それで、高校生に上がってから、ブルーモルフォを創った。……でも、ブルーモルフォの仕組みを作ったのは、本質的にはジョングクなんだよ」
「俺が?」
思わず声が裏返った。
「あるいはヨンシクが」
ジミンが少しばかり眉間に皺を寄せて言う。
「僕はあのことをずっと考えていた。そしたら見えてくるものがあった。あのいじめを、どうして周りの人が止められなかったか」
ジミンは俺に勉強を教えてくれた時の怜悧な表情で続ける。
「ヨンシクのいじめは日を追うごとにエスカレートしていったんでしょ?日ごとにステップアップしていた」
「……確かに、そうだったけど」
「ヨンシクが最初から骨を折っていたら、周りの人は止めていたと思う」
ジミンがはっきりした口調で言う。
「いくら何でもやり過ぎだって、ちゃんと言えていたと思う。でも、実際にジョングクの骨が折られた時、周りの人は何も気にしなかったでしょ?それは、悪意に慣れたからだよ。最初は無視や悪口から始まって、筆記用具を隠す、教科書を隠す、靴を隠す、そして水をかけられたり閉じ込められたり……って段階的に過激になっていったでしょ?あれだと、心理的抵抗が凄く少ないんだよ。そうして最後には直接的で凄惨な暴行を加えても何も感じなくなる」
確かにジミンの言う通りだった。始まりは本当に些細なことで、みんながそれを無視しても、仕方がないと思うようなことだった。俺ですら、最初はそれを気にしないように努めようとしていたくらいだ。
でも、それでみんなは――当のヨンシクですら、俺を傷つけることに慣れていったのかもしれない。
「まず、単純な指示をこなさせること」
言いながら、ジミンは人差し指を立てた。
「この程度なら大丈夫、この程度なら平気、というものをこなさせる。ブルーモルフォで最初に与える指示は『手近にある紙に蝶のマークを描く』にする。これなら簡単だしすぐ出来るでしょ?これくらいならみんなすぐにやってくれる。次に『自分の手首の長さを測る』とか『ブルーモルフォ用の新しいペンを買う』とか、小さな指示を与えると、これもやってくれる。すると、『手首の上に蝶を描いてみる』なんて指示もこなしてくれるようになる」
ジミンの言っている指示は本当に他愛のないものだ。確かに少しずつステップアップしているようだけれど、簡単に出来る。
「でも、蝶を描くのと飛び降り自殺をするのは全然違う」
「……ねえ、ジョングガ。覚えてる?グガは僕に、死にたいって言ったことがあったよね」
そう言われた瞬間、俺の意識があの教職員用の下駄箱の前に引き戻される。大人に言った方がいい、と主張するジミンの前に泣きながら縋った日の話だ。
「……言った。ジミナに、蝶図鑑のことがバレた時……」
「ジョングクにそう言われた時、僕は凄くショックだった。何でこんなことをグクが言い出したのかって思ったんだ。それで気づいたんだよ。ジョングガ、あの頃殆ど眠れてなかったでしょ?」
「うん。……不眠症だった」
「そうだね。だからまともな判断が出来なくて、精神が死にかかってた。睡眠を奪うっていうのが人を死に向かわせる。これも僕はヨンシクとジョングガの事例から学んだ」
水を汲み上げるかのように、ジミンがあの出来事から知識を抽出しているのが分かる。
「指示をこなすのに慣れさせたら、今度はその指示を朝の四時にやらせるの。そのまま、睡眠時間を削るような指示を与え続ける。朝方に屋上に登らせて、暗い中で朝を待たせたり。朝に家を抜け出させて橋に向かわせたりね。そうすると、プレイヤーは目に見えて思考力が低下する」
「その後はどうするの?」
「この段階で、ある程度篩に掛けられる。探されるままに指示をクリアする人間には適性がある。そう判断したら、僕が話すの。最初の一人みたいに。そして、残りの課題もこなさせて、それで終わり」
ジミンはそのまま魔法のように手を閃かせると、最後にぎゅっと握ってみせた。
「それで人間が死ぬなんて信じられないと思ってる?分かるよ。でも、この方法で既に三十六人が死んだ」
三十六人、という数に実感が持てない。俺が意識できるのは、目の前で死んだチョン・トンヒョンだけだ。
「今もブルーモルフォを動かしてるの?」
「そうだよ」
ジミンがまっすぐな目を俺を見る。大きな目には、困惑した情けない顔の俺が映っていた。
「……それで?」
「それでって?」
「俺はジミナに何が出来る?」
この期に及んで、情けない言葉だった。ややあって、ジミンは言った。
「僕のことを見ていて欲しい」
凛々しいその声に反して、ジミンの顔は弱々しく歪んでいた。
「僕は弱いから、迷ったり、逃げ出したくなるかもしれない。そうならないように、お前が僕を監視して」
こんなジミンを見るのは久しぶりだった。それこそ、跳び箱に閉じ込められた時のような声だった。
「ジョングクはどんな時でも僕の傍に居てくれた。僕のことを見ていてくれた。そのことがどれだけ僕の支えになったか」
ジミンがそこで小さく喉を鳴らす。もしかしたら、ジミンは涙を堪えていたのかもしれない。そこまで言うと、ジミンはゆっくりと目蓋を閉じてから、こう続けた。
「トンヒョンくんのことだってそうだよ。グガが居てくれたから、僕はちゃんと自分のやったことを見届けられた。一人だったら、僕は逃げ出していたかもしれない」
柄になく緊張した面持ちのジミンの横顔を思い出す。もしかするとジミンはあの公園で初めて、自分が指示をした人間が死ぬところを見たのかもしれない。自殺させる、ということに本当の意味で向き合っていたのかもしれない。
飛び散る赤色を見ながら、ジミンは何を考えていたのだろう。
その時、ジミンが俺の胸にゆっくりと手を当てた。心臓のある部分、早鐘を打つ鼓動がジミンの手に伝わる場所だ。
「……でも、もしジョングクが僕のポラリスになってくれるなら、僕はもう怖くない。約束する。きっと僕は迷ったりしない。だからジョングガ、改めて言うよ。……僕の傍にいて。お前が僕の正しさを観測して」
そう言って、ジミンが深く息を吐いた。溜息と共に、ジミンの目に薄く涙の膜が張る。
どうすればいいのか分からなかった。
この期に及んでも、俺はまだブルーモルフォに強い抵抗を覚えていた。俺が好きだったのは、自殺防止スピーチをしていたパク・ジミンだったからだ。
出会ったばかりの頃、まともに話せない俺の手を引いてくれたジミンであり、俺の背中をぎゅっと摑んでいたジミンだ。でも、そのジミンは、俺の為にキム・ヨンシクに立ち向かおうとして閉じ込められたジミンであり、俺の靴を教職員ロッカーから避難させてくれたジミンでもある。
そして、死んでしまいそうだった俺を救う為にキム・ヨンシクを殺し、俺のような人間が出てこないようにブルーモルフォを生み出してしまったジミンでもある。
俺の大好きなパク・ジミンは、どうしたって今の彼に繋がっているのだ。何処かで境界線を引こうとすれば、それまでのジミンまで否定することになってしまう。
何より、ジミンが決定的に変わってしまったきっかけは、俺にある。
あそこで俺が虐められたりしなければ、キム・ヨンシクに目を付けられなければ。あるいはジミンが跳び箱の中に閉じ込められなければ。そうしたらジミンがおかしくなってしまうことはなかった。ジミンが人を殺すこともなかった。もしかしたらキム・ヨンシクを殺した罪悪感が、ジミンの心を押し潰してしまったのかもしれない。
そして今もジミンは、押し潰されてしまいそうな心のまま、よりによって俺を支えに人を殺し続けている。本来の彼は心の底から優しい人間だ。悪意で以て人を殺せるような人間じゃない。
ジミンはそんな気持ちと葛藤しながらも、ブルーモルフォを運営することを選んだのだ。
そんなジミンの手を、俺が振り払えるはずがなかった。通報か静観か、選択肢が二つしかないのなら、俺が選ぶべきものは一つしかなかった。
胸に当てられたジミンの手を、ゆっくりと取る。その瞬間、ジミンが弾かれたように俺を見た。
「大丈夫だよ……俺は絶対に、ジミナの傍から離れたりしない」
俺の所為で壊れてしまったジミンに対して、責任を取る方法は今のところ一つしかない。
「どんなことがあっても、俺はあなたを守るよ。そう約束したから」
一瞬だけ、自ら火に飛び込む兎のイメージが過った。あげるものが何も無いから、自分の身を焼いて仏様にあげる逸話。けれど、俺には本当にこれしかなかった。
自らの良心に苦しみ、自分が生み出したブルーモルフォに苦悩しているジミンは、俺が傍に居るだけで少し楽になるかもしれない。自分の正しさを信じてこれからも人を殺し続けるだろう。被害は拡大していく。
それでも、彼の『正しさ』を肯定してあげられるのは俺しかいないのだ。
「ジミナは間違ってない。……ジミナは、正しいよ」
この時点で、きっと俺もおかしくなっていたのだろう。蝶図鑑と一緒に、人間として大切なものも置き去りにしてしまった。
「俺はジミンのヒーローだから」
俺がそう言うなり、ジミンが俺のことを思いきり抱き締めてきた。そのまま俺の肩に顔を埋めて、ジミンが静かに泣き始める。宥めるように、俺も彼を抱きしめ返す。徐々に濡れていく肩に、温もりを感じた。脳が浮かされて、目先の多幸感に包まれる。
その多幸感の中で、冷静な自分も居た。これでいいのか?このままでいいのか?と心の片隅で警鐘を鳴らす俺が確かに居る。
けれど、ジミンは止められない。
何より、警察に通報出来るはずがない。警察に言えばジミンの人生は終わりだ。
多分、人間の想像力はある程度型に嵌まっているのだと思う。だから一番最初に思い浮かんだのは、これがバレたらジミンが生徒会長で居られなくなる、ということだった。ジミンが多くの人に批難されるとか、重い罰を受けるとか、そういうことより先に、そんな小さなことが浮かんでしまった。
恐らく俺は、この世で一番醜悪な思いを胸に抱いている人間だった。けれど、それだけが俺の本当だった。俺はジミンの味方で居る。絶対に。
その時はそんな気持ちだけがあった。
3
青い蝶に関して、俺はあくまで傍観者だった。
これは罪を逃れようとして言っているわけじゃない。誰かを操る能力を持っていたのはジミン一人だった、というだけの話だ。
ジミンは俺に何もかもを晒してみせたけれど、『見ていて欲しい』との言葉通り、俺に何かを求めたりはしなかった。チョン・トンヒョンの自殺を目の当たりにしてから十日が経ってもなお、俺に求められたのはジミンの活動を見守るだけだった。
ジミンは生徒会室の代わりに、俺を自宅の部屋に招くようになった。誰にかに聞かれても困る話だから、という理由を鵜呑みにしながら俺はジミンの部屋に行った。今思えば、ジミンは俺を部屋に招く口実にそう言ったのかもしれない。なんて、そんな話は甘すぎるだろうか。
それから何度も行くことになるジミンの部屋だけど、流石に最初の時は緊張した。玄関周りもリビングの様子も、小学生の頃と少しも変わっていなかった。写真立てが増えて、中学生のジミンや高校生のジミンが混ざるようになったくらいだろうか。
それでも、あの頃とは何もかもが違う。
両親は七時くらいに帰ってくるんじゃないかな、とのんびり言うジミンの言葉の裏を考えながら馬鹿みたいに赤くなったのを覚えている。あの時ジミンがからかいの言葉を掛けなかったのは、俺の汗が尋常じゃなかったからかもしれない。
ジミンの部屋は綺麗に整頓されていた。男子高生の部屋よりかは女子高生の部屋のモデルケースのような部屋で、小学校の頃から変わらない大きな学習机の横に、赤いチェック柄の掛け布団が掛かったベッドが備え付けられている。ジミンは部屋に入るなり伸びをすると、制服のジャケットと鞄をそこに放り出し、そのままベッドに転がった。
「……シャツが皺になるんじゃないの?」
「あはは、お母さんみたいなこと言うね」
どうしていいか分からずに、俺はそのまま部屋の入口のフローリングに正座をした。ジミンはちらりと俺のことを見たものの、何も言ってくれない。仕方なく、俺は部屋の観察を続けた。学習机の上には薄くて軽そうなノートパソコンが一つと、それに添えられるようにしてタブレットが置かれていた。
あれでブルーモルフォを動かしているのだろうか、と思うと別の意味で緊張が走った。優等生の男の子の部屋から蜘蛛の巣が張られ、伸びた糸が誰かの命を奪っている。
「パソコンが気になるの?」
すっかりベッドに身体を預けたジミンが、のんびりとそう言った。
「あそこに入っているのはメッセンジャーアプリと、ブルーモルフォの管理リスト。タブレットにも同じものが入ってるから、こうしてベッドでやり取りしたい時はタブレット使ってるんだ」
ぐるりと身体を反転させながら、ジミンが笑う。こうして気を抜いた状態で居るジミンを見るのも初めてだった。そうしてシャツに皺を寄せながら、誰かに指示を送っているのだろうか。
「そのタブレットとパソコンを使ったら、ジョングクも僕も同じことが出来るよ。パスコード入れなきゃだけど」
「……しないよ」
俺の言葉が冷たく聞こえたのか、ジミンは少しだけ唇を尖らせた。別に嫌悪感を示したわけじゃないけれど、ジミンに何かしらの拒絶に映ったのかもしれない。ややあって、ジミンが唐突に話し始めた。
「今ゲームに参加してるのは三十九人。基本的に僕が管理できるのは四十人くらいだから、適正人数なんだけど」
それが先日の話の続きであることを理解するのが遅れた。
「その三十九人はみんな指示に従ってるの?」
「そうだよ。今のところね」
今のところ、というところに少し引っかかりを覚えた。それはずっと気になっていた部分でもあった。指示に従っていた人が急に正気に戻って、ブルーモルフォに反旗を翻したらどうなるんだろうか。もしそういう人が警察に相談でもしたら、それが一気に崩壊につながるかもしれないのだ。
「ジョングクの不安は分かるよ。ある程度までゲームに嵌まらせたら、抜け出せないように工夫してるんだよ。僕はプレイヤーの個人情報や、外に出たら嫌な情報を握ったりね。あと、ブルーモルフォには”クラスタ“があるから」
「クラスタ?……集団、って意味だよね?」
「ブルーモルフォでのクラスタは、相互監視のシステムだよ。ブルーモルフォでは数人をクラスタごとに纏めて、課題の達成状況を共有させてるの。個人個人で細かい達成感を与えるのも効果的だけど、こうすることによって、みんなが挙って課題の達成を見せつけ合うんだよ」
ブルーモルフォはゲームだ。ゲームというのは競争相手がいれば盛り上がるものだし、ジミンはその部分も織り込んでいるということなのだろう。
「活性化していないクラスタは、誰か一人を選んで僕が直々に交流をすると、それを喧伝するようになるから、それで盛り上がる。こうして個々のクラスタの熱量を一定に保つのがコツなんだ。そういうことで、クラスタはあくまでモチベーション管理の方法だったんだけど、最近は少し違った効果を上げてるんだよね」
ジミン言葉の意味を俺が知るのは、もう少し後になってからだった。この時の俺は、何と返していいか分からず、ただ黙っていベッドのジミンを見るばかりだった。
間抜けな格好のまま固まっている俺に、ジミンが笑って言う。
「ねえ、タブレット取って」
ジミンの言葉に頷いて、俺はようやくフローリングから立ち上がった。ベッドの上のジミンにそれを渡す。その時初めて気がついたかのように、ジミンが「ベッド座ったら?」と笑った。
「この部屋、クッション無いからね」
拒否することも出来なくて、俺は端の方に腰掛けた。ジミンがうつぶせの姿勢でタブレットを弄る。
「ねえ、見て」
見せられた画像には、長い髪を一本に纏めて顔の横から垂らしている女の子が写っていた。ネットの画面か何かをキャプチャーしたものだからだろうか。画像が荒く、全体的に暗い。何処か不安そうな顔つきと、所在無げに細められた目が印象的だった。
「クラスタFに所属している、このキム・アルムさんが一番わかりやすいと思うよ。課題消化率は三十六、あと二週間でアルムさんは死ぬ」
実験結果を語るかのように、ジミンが言う。
「そしてこっちのイ・チョンフンくん。彼はクラスタNでリーダーシップを執っていた高校三年生。チョンフンくんはブルーモルフォに対する忠誠心が高く、もう既に蝶も出ている。予定ではあと三日で死ぬ」
「蝶?」
それはジミンが選んだブルーモルフォのモチーフだったか。俺の疑問に答えるように、ジミンが続ける。
「ブルーモルフォの指示に従って死んだ人間は、ここじゃない『聖域』に行ける。こんな世界から抜け出して、別の世界に羽化するの」
「何その……宗教みたいな話」
「人には物語が必要なんだよ」
ジミンは事も無げにそう言った。
「思考能力の麻痺と指示をクリアさせるだけじゃまだ足りないんだよ。欠けた人間に欲しいものをあげるって、最初の時に言ったでしょ?」
「それが物語なの?」
「自分がどうして苦しんでいて、何の為に生まれたかの理由。それらは全てブルーモルフォの為に死んで、死後の楽園に転生して幸せに暮らすためだったんだって、そういう筋道立った物語が欲しいんだ」
それを聞いて思い浮かんだのは、チョン・トンヒョンのことだった。あの満ち足りた表情のことを思い出す。どうしてあんなに幸せそうな顔をしているのだろう、とは思っていた。きっと彼は、これから行くべき聖域のことに思いを馳せていたに違いない。
「……ブルーモルフォに流される人は、愚かだけど、同時に不幸な人だと思う。そんな人達が、せめて幸せな気持ちになる為に必要なのがブルーモルフォの物語なんだ」
ジミンが悲しそうに微笑む。
「僕達はまだ蛹で、聖域でこそ羽ばたける。今に絶望している人だって、それが信じられたら幸せになれる。……僕はそれを信じさせることに全力を尽くす」
そう語るジミンは、良心の部分が色濃く出ているように見えた。けれど、その数秒後にはもうその面影はなかった。ジミンは純粋な研究者の顔になって、こう続けた。
「だから、ブルーモルフォでは何よりも蝶を尊ぶ。ほら」
そうして見せてきたのは、赤い蝶の画像だった。けれど、インターネット上で見たものよりもずっと蝶の形は歪だった。画質が悪いのか、よく見えない。そうして目を凝らした瞬間、俺は思わず目を逸らした。
その蝶は身体に描かれていた。線の赤はその人自身の血だ。
「様々な課題を組み合わせてはいるけれど、四十個目の課題は共通してるんだよ。自分の身体に蝶を彫り込むこと。だから、蝶が出る。これを彫ってから十日後に、その人は死ぬ」
「……何で、そんなことを?」
「理由はいくつかあるよ。目に見えるモチーフを手に入れた人は心が決まる。これを出来る人と出来ない人は明確に別れるから、通過儀礼にもなる。この子は綺麗に彫れたから、きっと綺麗に死ぬ」
ジミンの顔色は変わらない。タブレットを抱えながら、もう一度身体を反転させた。
死にゆく人に幸せになって欲しいと語る口で、ジミンは血塗れの蝶を見せてくる。身体と一緒に、ジミンの心もくるくると輪転を続ける。こうしてブルーモルフォの現実を見せつけられる度に、俺の中に残っていた未練がましい良心が疼いて吐きそうになった。
試されているみたいだと思った。測られているのは、どれだけブルーモルフォのことを見せつければ俺が音を上げるのかの閾値だ。これもある意味ではステップアップの過程で、この全てを許容する度に俺のジミンへの愛情は取り返しのつかない重みを持ち始める。ジミンを黙認する為に、俺が目を逸らさなくてはいけないものがどんどん増えていく。
そんな俺の逡巡を見抜いたかのように、ジミンが俺の方に手を伸ばしてきた。肩の辺りに腕を回し、体重を掛けて俺のことをベッドに押し倒す。そのままジミンが俺の腹の上に跨る。そのまま、ジミンが小さく言った。
「僕のこと、嫌いになった?」
見放されるのを恐れるような声だった。彼の中の葛藤と逡巡、恐れと使命感が一緒く多に流れ込んでくるようだった。
「……なってないよ」
まだなれないよ、と心の中で呟くと、ジミンがそのまま俺の胸に圧し掛かってきた。体重の移動を受けて、ぎしりとベッドが鳴った。
どうしてか分からないけれど、その日は俺からキスをした。重力に逆らうように、彼のよく回る口を塞ぐ。ジミンは少しだけ驚いていたけれど、嬉しそうにそれに応じた。何度かキスをした後、ジミンはそのまま俺に体重を預けて眠り始めた。無防備な寝顔だった。夜中はブルーモルフォの活動をしているから、この時間は眠いのかもしれない。
小さく寝息を立てるジミンは可愛かった。
そのことが一層事態を醜悪なものにしていた。
俺はその後、タブレットに指を滑らせてみた。真っ暗だったそこに、四桁のパスコードの入力画面が表示される。少しだけ悩んでみて、俺はジミンの誕生日を入力して弾かれた。その次に試したのは、俺の誕生日だ。
果たしてパスコードは突破され、ブルーモルフォの秘密が詰まったタブレットの鍵が開いた。
4
三日後、ジミンの言う通りイ・チョンフンという男子高校生が死んだ。
その報告を受けたのは、二人で学校から帰っている最中のことだった。生徒会の活動が立て込んでいて、こうして二人で帰るのも三日ぶりだった。思い出したようにジミンがとある路線の名前を挙げた。
「始発での人身事故、チョンフンくんだよ」
スマートフォンで確認すると、本当に始発で人身事故が起こったらしい。一時間近くの遅れがあったけれど、通勤ラッシュまでには回復した旨が記されていた。そこにはイ・チョンフンの名前も自殺についても書かれていなかったけれど、俺にはそれがイ・チョンフンなのだとすんなり信じることが出来た。
人知れず人が死ぬから、まだ警察はこれに気づかない。イ・チョンフンの身体に刻まれた蝶は、事故の際に見えなくなってしまっただろうか。
心に漣が立っているのに、前ほどの衝撃は受けなかった。彼の死があまりに事務的に処理されてしまっていたからかもしれない。それとも、目の前で死んだわけじゃないからかもしれない。それとも、ジミンと付き合い始めてから心がどんどん適応していっているのかもしれない。
「今日も僕の部屋に来てくれる?」
ジミンはそうして度々俺を部屋に誘った。
そしてこの日を境に、俺はごく自然にジミンの部屋に行くようになった。ジミンの両親と鉢合わせないように、午後六時の鐘が鳴るとすぐに家を出た。俺たちは色々な意味で疚しい二人だった。
ジミンの部屋には沢山の心理学に関する本があった。俺でも名前を知っているような有名なものや、見るからに難しそうな知らない誰かの本。『みるみる内に人を操れるマル秘の法則』なんて怪しいムック本まで混じっていたのだから、ジミンの知識への貪欲さには驚かされた。
あとは論文なんかも沢山あった。韓国語で書かれたものだけでなく英語で書かれたものもあり、その多くには付箋が貼られていた。この中の何が実際にブルーモルフォの運営に貢献していたのかは分からない。
その中でも一番縒れている論文は、ミン・ジクという社会学者の書いた論文だった。その論文では、主体性の無い人間はより攻撃的なものに影響されやすいというのが複数の事例によって説明されていた。一八二四年に起きたアメリカにおける酒場での暴動。あるいは一人の詐欺師に先導されて起きた農村での全滅事件。韓国での事例も引かれていた。二〇〇二年に起きた吹奏楽合宿でのリンチ殺人などがそうだ。
それを読んで思った。ジミンはこの論文を参考にしてブルーモルフォを創り上げたのだろう。そして、自分のやっていることに迷いを覚えた時は、折に触れてミン・ジクの論文を読み返しているのだ。あのジミンも迷うのだ、という事実に、驚きと妙な嬉しさがあった。彼は迷って迷って、その上でブルーモルフォを運営しているのだということは嬉しかった。
それに、ミン・ジクの論文は俺にとっても興味深いものだった。論文に載っている様々な事件を目の当たりにすると、やはりジミンのやっていることは正しいんじゃないか、と思わせてくれた。ブルーモルフォで死ぬような人間は、きっといつか誰かを傷つける。
「それ、面白い?」
ふと、背後にいたジミンがそう話しかけてきた。ジミンはどこかきまり悪そうな表情で笑っている。この論文自体が自分の弱さの証明とでも思っているのだろうか。
質問には答えずにキスをすると、ジミンは無言で俺の手を引きベッドに導いた。
ジミンの弱さや惑いこそが俺のいる意味だというのなら、それが一番の褒章だった。
ブルーモルフォを運営し続けるジミンには、明確な疲労の色が見えていた。自分でブルーモルフォのマスターとなることを選んだという意識が強いからか、ジミンが弱音を吐くことはなかった。ブルーモルフォを動かし続けることが作業量の上でも重いものであるのにもかかわらずだ。
ジミンが与える五十個の課題は、その個人の性格や傾向によって微妙に異なっている。軽いものからこなさせることと、睡眠時間を削ることだけは変わらなかったが、その他は性別や資質に拠って細かく調整を重ねていたのだ。
ある人に与えられた二十二番目の指示が『午前四時に砂嵐の映像を観続ける』ことだったのに対し、ある人に与えられた指示は『午前三時にメモ用紙を端から端まで黒く塗る』だった。俺には分からなかったけれど、人間にはある種の傾向があり、何が一番精神を揺さぶるかはその人によって違うらしかった。
ジミンはそれらの指示をシステマチックに管理し、ボタン一つで指示を出せるような仕組みにしていたけれど、それでも把握しなければいけないことの量は相当なものだった。
その他にも、ジミンは重要な役割を担っていた。
適性があると判断した人間と通話し、ブルーモルフォに更に嵌まらせるべく誘導したり、あるいはクラスタ内を円滑にコントロールするために一部のプレイヤーを教導したりするのだ。
小学校の頃の経験から生み出されたブルーモルフォの仕組みは、確かに効果的だったけれど、ブルーモルフォにおいてはパク・ジミンの不思議な魅力こそが一番の武器だった。ジミンと一度でも会話をすると、そのプレイヤーはまるで何かにとりつかれたようにブルーモルフォに対して忠誠を誓うようになる。
俺はマスターとしてのジミンがプレイヤーたちと何を話していたのかまでは知らないが、彼の天性のコミュニケーションスキルと、あの説得力のある語り口が画面の向こう側の誰かを篭絡する様はありありと想像出来た。パク・ジミンはそれが出来て然るべき人材だった。
けれど、この行為こそがジミンの一番の疲弊の原因でもあるようだった。無理もない。指示を出すのとはまた違う。自分の言葉で以て、直接誰かを死に向かわせるというのは、ジミンの心に負荷をかける行為だったのだろう、と俺は思った。
ジミンが思いつめたような顔でタブレットに向かっている度、ブルーモルフォ用に取得した通話アプリを見ながら呆然としているのを見る度に、俺はジミンの孤独な戦いを思った。人気者であるはずのジミンが、酷く孤独に見えた。
だからか、ジミンは俺を家に招くと、子供のように甘えてくるようになった。ベッドの上で身体を摺り寄せてきて、無言で俺のことを見つめてくる。俺が何も言わずに頭を撫でると、ジミンは嬉しそうに目を細めた。この時ばかりは、ジミンも普通の男子高生に見えた。
二人きりの部屋で、どちらからともなくキスをする。ジミンのことを抱き寄せると、この細い身体にどれだけの人間の運命が絡んでいるのだろうと妙な感慨を覚えた。
「グガ」
俺にしか聞かせないような甘やかな声でジミンが言う。そこから先は、殆ど為すがままだった。圧し掛かるジミンの重みを感じながら、俺はただただ彼を甘やかすことに専心した。この行為がジミンを癒すのなら、それだけで俺は十分だった。
ある程度の行為が終わると、ジミンはそのまま俺の膝で眠る。手持無沙汰になった俺は、ベッドの隅に立てかけてあるタブレットを手に取った。ジミンはこれを見ることを止めなかった。むしろ、自分がやっていることを俺に見られることを喜んでいるかのようにも見えた。
パスコードを突破し、中を見る。
タブレットでブルーモルフォ関連で主に使われているのは、主要な各SNSサービスと、メッセージアプリ。そして、エクセルファイルだった。緑色のアイコンを開いて、最新の表を表示する。
几帳面なジミンらしく、リストは綺麗に整頓されていた。イ・チョンフンの欄を開き、俺がジミンと話した時から、数えて後ろ三つ、死ぬ三日前からの課題を見る。
『四十八・クラスタのみんなに”聖域”の話をする』
『四十九・マスターと話す。蝶を鏡で確認し、蝶とも対話する』
『五十・最後の課題。始発列車に飛び込む』
この最後の課題にも、やはりチェックが付いていた。その後、補記のように『飛び込み自殺』と書かれている。
リストには他にも沢山の名前があった。チョン・グァンス。イム・ミョンスク。カン・ミンソ。この一人一人は今も死に向かっている。
俺は、この才能が正しい方向に使われた世界を度々妄想した。そういった時に出てくるのはやっぱりイ・ミヨンの顔で、彼女を必死に止める凛とした顔のパク・ジミンだった。
彼は俺が愛したジミンでありながらジミンじゃない。そのことが、酷く悲しかった。
俺たちにとって一つ目の転機が訪れたのは、こんな生活がしばらく続いた頃だった。
ブルーモルフォプレイヤーであるはずのイム・ミョンスクの死体が河川敷で発見されたのだ。
5
そのニュースは大々的に報道された。都内の高校に通う女子高生が複数人に暴行を加えられて殺された殺人事件だ。
友人と写っている写真が取り上げられ、彼女の名前と死の状況が伝えられる。死後三日ほど、動機は不明。警察はこの事件に関して捜査を続けているが、容疑者は捕まっていない。
ニュースを見ながら、思わず固まった。長い髪をポニーテールに纏めた快活そうな彼女のことを知っている。会ったこともない彼女の名前を、俺はジミンのベッドの上で見た。あのタブレットのエクセルシートの中にあった名前だ。
早鐘を打つ心臓を押さえつけて、記憶を辿る。彼女はまだ三十二個目の課題をこなした辺りだった。あれから五日くらいしか経っていない。いくら何でも死ぬには早すぎる。ただでさえ、ブルーモルフォは厳格なルールに支配されているのだ。
その日は日曜日だったので、俺はジミンを家の近くにあったカラオケに呼び出した。個室で区切られていて、周りの目を気にせずに話せる場所だ。
薄暗い室内で、パーティー染みたカラフルな照明が室内を照らす。
ジミンは白いトップスに黒のスキニーを合わせていたので、そのカラフルな照明の中でとても浮いているかのように見えた。彼の白い上肢が部屋内照名が照らす度に赤や青や黄色に染まる。
「ジョングクがこんなところに誘うなんて不思議な感じだね」
「……イム・ミョンスクさんって、ブルーモルフォのプレイヤーだよね。……こ、殺されたって、」
のんびりと言うジミンに対し、俺は単刀直入に言った。情けないほどに声が震えている。そのくらい衝撃的だった。ブルーモルフォは自殺させるだけじゃなかったのか。殺人事件が起こるなんて思わなかった。一体どういうことなんだ。その気持ちがぐるぐる巡っているのに、何一つまともな言葉にならない。ややあって、ジミンが言った。
「前にクラスタの効用について話したよね?」
「……モチベーション管理の話をしてた時?」
「うん。あのね、ジョングガ。これがクラスタを作った上でのもう一つの利点。”自浄作用“」
ジミンは淡々とそう言った。あの時、確かにジミンはクラスタに対して”副産物”の話をしていた。その時ちゃんと内容を聞いていなかったことを後悔する。けれど、聞いていたところで、俺はイム・ミョンスクが殺されるのを止められただろうか?どうせ死ぬだろう人間なのに?
「自浄作用って……」
「プレイヤーが一番恐れるのは、ブルーモルフォの秩序が乱れること。自分たちが必死に守ってきた規範と指示を無視する人間を、クラスタは赦さない。実を言うと、課題二十九を超えたあたりから、イム・ミョンスクさんは指示に従わなくなった。多分、途中で怖くなったんだろうね。あるいは外的要因でうっかり眠ってしまったか。それで、ブルーモルフォを抜け出したいと考えた。もうとっくに個人情報はクラスタに回っているのにね。それでミョンスクさんは粛清を受けた」
ジミンは原因を淡々と語り続ける。
「犯人は同じクラスタに居た誰かだろうね。でも、イム・ミョンスクさんを手に掛けただろうクラスタLは、殆ど羽化を済ませてる。残っている人たちも五日以内にいなくなるよ」
「これは一線を越えてる。ジミナだってそのことは分かってるはずだ。……こんなの、やめさせないと――」
「分かってる!」
その時、ジミンがらしくなく声を荒げた。初めて聞く声だった。部屋の照明が一瞬だけ暗くなり、ややあって底冷えしそうな青に染まる。
「……分かってるよ。これは違う。こんなの間違ってる」
ジミンの声は心底悲痛な声だった。部屋が暗くて、彼の表情の機敏が見えない。けれど、その目には珍しく困惑の色が浮かんでいた。
「でも、これを止めさせるわけにはいかない。こうして内部粛清が始まらないと、クラスタは維持出来ない。……こんな酷いことが起こるなんて想定してなかったけど、もしこれが無ければ、ブルーモルフォは崩壊する」
ジミンの言っていることも理解出来た。ブルーモルフォを維持する為には、プレイヤーが離脱しない為の抑止力が必要なのだろう。それでも、これは今までのジミンのやり方とは明らかに違っている。
「……ジミンはクラスタの自浄作用について知ってたんだよね?この事件の前にも、同じようなことがあったの?」
「……三ヶ月前くらい前、高校二年生のソン・ジュンヒョクくんが道端で刺される事件が起こった。警察は通り魔の犯行と断定、犯人はまだ捕まってない。彼の所属していたクラスタCはもう全員が“羽化”してる」
そのニュースには正直言って聞き覚えが無かった。他に目立つニュースがあったからか、それともイム・ミョンスクの報道のされ方が特別だったのか。
三ヶ月前、と言えば、丁度ジミンが俺に傍にいることを求め始めた頃だった。生徒会室での、あの所在無さげなジミンのことを思い出す。あれは、ソン・ジュンヒョクの事件を知ったからだったのだろうか。ジミンがブルーモルフォに対して、疑問を持ち出したきっかけがこれだった?
「僕はクラスタの粛清を止められない」
勝手な推理を進める俺に対し、ジミンは毅然とした態度で言った。
「これはブルーモルフォの維持に必要なことだよ。たとえジョングクに何と思われようと、僕はこれを肯定する」
「……嫌いにはならないよ」
ジミンに尋ねられるより先に、そう答えた。
ただ、酷い焦燥に襲われているのも事実だった。近くにあるテレビからは、新人アイドルの無邪気な自己PRが聞こえてくる。朝はあんなにおぞましいと思っていた事件なのに、ジミンからはっきりとそう言われただけで、俺はそれを肯定せざるを得ないのだ。
「……ミョンスクさんは、僕もよく知らない外国のバンドが好きだったんだよ」
独り言のようにそう呟いて、ジミンはとある曲を入れた。どうやらイギリスのバンドらしいが、俺も知らないバンドだった。物悲しいメロディと一緒に英語の歌詞が流れていく。ジミンはそれを歌うことなくじっと見つめていた。
「忘れなくちゃいけないんだけど、ミョンスクさんと話した時のことが頭から離れないんだ」
イム・ミョンスクが殺されたことを知った時、ジミンは一体どんな気持ちだっただろうか。ミョンスクさんは既にブルーモルフォから心が離れ始めていたというから、クラスタ内で制裁を受ける前にジミンが説得でもしようとしていたかもしれない。でも、ミョンスクさんは死んでしまった。
ジミンが軽く唇を噛んでいる。曲が終わりに近づくにつれ、ジミンは苦しそうに目を細めた。
「……ジミナは忘れていいよ。ジミンが忘れられないと、ブルーモルフォはきっと立ち行かなくなる……」
俺がそう言うと、ジミンは苦しそうな表情のまま曖昧に頷いた。
それから俺たちは一言も喋らずにカラオケを出た。まるで他人のようだった。こんな風になるのは、本当に久しぶりだった。
家に帰った俺は、イム・ミョンスク殺人事件を検索し、記事から掲示板の書き込みまで、出てきたものを片っ端から印刷した。色々な人間がこの殺人事件に対して思い思いの見解を寄せている。
思いの外ブルーモルフォに関して噂は浸透しているのか、正しく真相を言い当てている人間も居た。けれど、多くの人間はそれを妄想だと断じていた。よくある都市伝説と実際に起こった殺人事件をちゃんと結び付けている人は多くない。
次に、ソン・ジュンヒョクの方も検索した。今日報道されたばかりのイム・ミョンスクに関するものよりも、彼の通り魔殺人の方が詳細に出てくる。同じように印刷しながら、図書館で新聞のバックナンバーも調べよう、と思う。
瞬く間に、部屋の床には二つの殺人事件に関する情報でいっぱいになった。それを一枚一枚丁寧にファイリングしながら、心の中で思った。ジミンは忘れてくれていい。その代わりに、俺がこのことを覚えておこう。少なくとも、この事件の真相を正しく把握しているのは俺だけなのだ。
ファイリングしながら、ふと、シリアルキラーは自分の事件に関する報道を執拗にチェックする傾向にある、という話を思い出した。海外ドラマで見たのか,本で読んだのかは忘れてしまったけれど、確かにそんな話があったはずだ。
ブルーモルフォに関わって死んだ人間は、六十二人に増えていた。明日には六十三人になる。理念がどうであれ、ジミンはれっきとした殺人鬼だった。
けれど、やっている行いを見れば俺の方こそ殺人鬼めいている。
それで正しいのかもしれない。ジミンは間違っていない。俺はジミンの心を守らなくちゃいけない、と部屋で一人呟き続ける。
それからも俺は、ブルーモルフォに関する殺人事件の情報を集め続けた。最終的に、クラスタの自浄作用で殺された人間は六人に上るけれど、俺はその全ての事件をファイリングして、部屋の棚に置いていた。それをすることで、何かしらジミンの為になるとでもいうかのように。
この時の俺の動機が何であれ、このファイル自体は有用だった。
カラオケで話をした翌日には、ジミンも俺もいつも通りの二人に戻っていた。ブルーモルフォの話をすることもなく、間近に迫った期末試験の話をする。
「夏休みになったら何処か行こうよ。泊りとかは無理だけど」
ブルーモルフォのことがあるからだろうな、と心の中で思う俺に対し、ジミンが「お父さんが赦さないだろうし」と笑う。
「最近お父さん、ジョングクのこと疑ってるんだ。僕の家に来てるとこ、近所の人が見てたみたいなんだよね。何か変なことしてるんじゃないかって心配みたい」
「……お父さんたちが帰ってくる前には帰ってるけど」
「あ、変なことしてることは認めるんだ」
「……………………ジミナ」
「まあ、言えないことをしてるのは本当だもんね」
冗談にしても笑えないことを言いながら、ジミンが笑う。
「まあ、それにしても家を空けるのは心配だよね。通信環境があれば、どんな場所でも指示は出来るけど」
ジミンが不意に真面目な顔をして、そう言いながら大きく伸びをする。考えてみれば当たり前の話だけれど、ジミンには休みが無い。もし俺たちがこのまま大人になったところで、ブルーモルフォを運営し続ける限り、ジミンは旅行にも行けないんだろうか。そもそも、三年の夏には修学旅行がある。ジミンはどうするんだろう。
「ジミナはずっとブルーモルフォを続けるの?」
「続けるっていうのも変な言い方だけど。……でも、最後までやり遂げるよ」
「最後って?」
ジミンは何とも言えない表情で首を傾げると、そこから先を言わなかった。ゲームのプレイヤーがいなくなった時なのか、それともジミン自身が打ち止めだと思った時なのか。その終了条件に、ジミンの死や逮捕が入って来ないことを切に願った。
彼が参考にしていたミン・ジクの論文では、はっきりとした終わりは書かれていなかった。そこにあったのは、人間がいかにして流されていくのかのダイジェストだけだった。あの論文の先にジミンのブルーモルフォは届くのだろうか。
「そうしたら、この本とか書類とかも処分出来るね。結構場所取るし、もう捨てちゃってもいいかもしれないけど」
本でいっぱいの棚を小突きながら、ジミンが笑う。
「それだけじゃないか。スマートフォンもパソコンも、全部捨てちゃおうかな。いらないもの全部まとめて火を点けてさ」
「パソコンとかって燃えるの?」
「世の中の大半のものは燃えるよ」
馬鹿げた願いだけれど、俺はいつかブルーモルフォが自然と廃れることを願っていた。ジミンの持っている魔法がすっかり消えて、ブルーモルフォという夢が解けて、ジミンがすっかりそれを手放して旅行に行けるようになることが、俺の甘い夢の全容だった。
けれど、ジミンのブルーモルフォは廃れることなく、むしろどんどん研ぎ澄まされていく。
6
タブレットの中にはジミンの送ったメッセージが表示されている。
『分かるよ。僕とあなたは同じ。こんな世界はあなたに相応しくない。このまま生きていても、あなたが誰かに見つけてもらえることはない。あなたの両親は一生あなたを出来損ないだと思い続ける』
他愛無い会話だった。ブルーモルフォの導入としてありふれたパターン。相手の心の弱いところを突き、自分がどれだけ生きている価値が無いか、どれだけ愚かで、どれだけ死んだ方がマシな人間かを教え込むのだ。
そして時間を置き、今度は手を差し伸べる。
『けれど、あなたには特別になれる可能性がある』
『ブルーモルフォを最後までプレイした人間には、この苦しみから解放される権利を与えられる』
『あなたならそれが出来る』
課題と共に送られてくるメッセージは他愛の無いものだ。それなのに、こうしてジミンからの言葉を戴いたプレイヤー達は、熱に浮かされたようにゴールを目指す。シンプルで、そう特別なものでもないはずなのに。
それでも、ブルーモルフォの蝶達は火に向かう。
俺の中ではこの文面がパク・ジミンの声で再生される。ジミンの声は特徴的だ。高くも低くもなく、まるで楽器のようによく響く。一文を発する間に揺らめくその声を追っていると、何だか頭の芯が熱を持っていくのだ。それにしても、ジミンのそういった不思議な魔力は声に依るものだと思っていたのに。こうして文字だけでも、ジミンの言葉には力がある。
「個人チャット欄、見てたの?」
振り返ると、そこにはパク・ジミンが立っていた。この暑いのに、ジミンは汗一つかいていないようだった。ボタンを二つあけたブラウスから、張り出た鎖骨が見える。
「……ちょっと、気になって」
「何だか恥ずかしいな。ジョングクに生徒会の仕事を見られるのも、若干照れてるのに」
ブルーモルフォと塔ヶ峰高校生徒会を並列に並べながら、ジミンはスマートフォンを取り出した。
「電話を掛けるの?午後なのに?」
「うん。彼はクラスタを牽引してくれていたし、粛清もこなしてくれていたから。そこまで行った人間が正気に戻ろうとしたら壊れちゃうよ」
事も無げにジミンが言う。恐らく、これから電話を掛ける相手はブルーモルフォの為に、ジミンの為に人を殺したのだろう。確かに、そこまできたらもう戻れないに違いない。万が一にでもブルーモルフォに疑いを持てば最後、彼は自分の犯した罪の重さに耐えきれなくなってしまう。
ジミンは宣言通り、その誰かに電話を掛け始めた。そして、夕陽に照らされながら笑みを浮かべ、この世界の何処かに居るプレイヤーに「僕だよ」と優しく言った。ジミンはそのまま、密やかに誰かと会話をする。小さな笑い声。微かな溜息。ジミンの声はバラードのように部屋に響き、誰かを死に向かわせる。
「……大丈夫。またきっと聖域で会おう。そうしたら僕、きっと君を見つけるから。それじゃあ、チャン・ジュンウくん。またね」
ジミンの甘やかな声が響く。それからジミンは黙り、しばし目を瞑った。
電話の向こうの状況は分からないが、おそらくチャン・ジュンウは死んだのだろう。飛び降りたのか、首を吊ったのか。あるいは首を掻き切ったのか。ジミンが通話を切り、スマートフォンをポンとベッドに放った。バウンドするスマートフォンを見ながら、俺は静かに尋ねる。
「死んだ?」
「………………うん」
うって変わって、ジミンは沈鬱な面持ちになる。泣き出す寸前の表情を両手で覆って、背を丸める。誰かが死んだ時のジミンはいつもこうだった。自分で死の方向に流したのに。
ジミンは猫のように伸びをして、そのままベッドに寝転ぶ。制服が皺になるよ、と俺が言うと、ジミンは「またそれだ」とくすくす笑った。それに合わせて、ジミンの平べったいお腹が、上下する。ふと、臍のある辺りに手を置くと、「くすぐったいよぉ」と言って、また笑われた。
ジミンの腹は温かく、中に詰まった内臓の存在を感じさせる。
「ジョングクに押されてお腹ぐるぐる言うね」
俺と二人きりの時のジミンは、普段よりずっと屈託が無い。周りのみんなはこんなジミンを知らない。ジミンがこうして世界で一番穏やかな殺人を繰り返していることすら、俺しか知らない。
「チャン・ジュンウは満足そうだった?」
「……うん。幸せそうだったよ。出会ったばかりの時は人生に何の意味も見出せてなかったのに。僕に出会ってから世界が変わったんだって。僕に会えて幸せだったって、そう言ってくれた」
それだけ聞くと、ジミンのやっていることは何の引っ掛かりも無い善行に見える。虐められている幼馴染を救おうとしたり、いなくなってしまった猫を夕暮れまで探すのと同じ線の上にある行為のように見える。ただ、ジミンの行っている行為の終着点が死であることが、判断を鈍らせる。ジミンは人を救っているのかもしれない。ブルーモルフォに嵌まる人間は誰もが欠落を抱えており、その欠落を埋めるものを見つけ、ジミンに感謝しながら死んでいく。
自殺さえ悪いことでなければパク・ジミンは本物の救世主になれたかもしれないのに。
そもそも、自殺は悪いことなんだろうか?
みんなは自分でそれを選んでいるのに?
それとも、ジミンはかつて俺が憎んだキム・ヨンシクの鏡像でしかないんだろうか。結局俺は、それすら分からずに居る。チャット履歴に残る「見つけたよ」の文字。死に行く人間のよすがになってくれる「またね」の文字。
「ねえ」
またしても思考の袋小路に閉じ込められそうになった俺を、ジミンの言葉が引き戻した。
「何考えてるの?」
ジミンが拗ねたように唇を尖らせる。この分かりやすい仕草さえ、きっとジミンのポーズだろう。この場で俺の歓心を十全に得る為の代物だ。それでも俺は、ジミンに絡め取られている。
「みんなジミナのことが好きなんだね」
その言葉が口を衝いて出た。
指示を出し続けることで課題達成へのハードルを下げる。クラスタを作り相互監視のシステムを作る。否定と肯定を操って相手の自我を崩す。睡眠時間を削り、思考力を奪う。時折、ご褒美のように、欲しい言葉をあげる。
それらのテクニックを全て超えて、偏にパク・ジミンの存在がブルーモルフォを成立させているんじゃないかとすら思ったのだ。プレイヤーはみんなジミンに恋をしていて、きっとまた出会いたい。本当は、ただそれだけなんじゃないだろうか。
そして多分、俺もその一人に過ぎないのだと思う。
「不思議なことを言うんだね」
ジミンはきょとんとした顔でそう言ってから、子供のように笑った。さっき、誰かの自殺を後押ししていた人間とは思えない。顔色一つ変えないで、誰かを見送ったばかりなのに、ジミンは少しも変わらない。
「……笑わないでよ。俺だって、……他のみんなとそう変わらないかもしれないし」
「うーん、言われてみたらそうかもね。ジョングクも僕のこと大好きだし」
果たして、あっさりとそう言ってみせるジミンが愛おしかった。楽しそうに足をバタつかせるジミンを見て、何だか急に恥ずかしくなる。俺が前言撤回しようとした瞬間、見計らったようにジミンが続けた。
「でも、他のプレイヤーと違うところが一つだけあるよ?」
「……死なないところ?や、指示に従わないところ、とか」
「僕に愛されてること」
ジミンはぐるりと身体を反転させて、俺の方を向いた。横向きに寝転んだジミンが、躊躇いなく俺の方に腕が伸ばされる。それに合わせて、美しい黒髪が微かな音を立ててシーツに流れていった。
「ねえ、ジョングガ。ぎゅっとして?」
達成することが容易な短い指示が、他ならぬジミンの声で囁かれる。やっぱり、俺とブルーモルフォのプレイヤー達と変わらない。ジミンの言葉に応える。報われたいと思う。
「……キスしてくれる?」
腕の中に収まったジミンが次の指示をくれる。このままではいけないのだとかつての俺が言うけれど、そんな声はジミンの熱を帯びた声で上書きされている。
「ねえ、ジミナは聖域を信じてるの?というか、天国や地獄を」
ふと気になって、制服を着直しているジミンの背にそう尋ねてみた。
死後の聖域は、ブルーモルフォの中核を成している考えの一つだ。そこでジミンに再会できると信じているからこそ、プレイヤーはいとも簡単に死を選ぶ。傷に塗れた現世よりも、ジミンに出会えるその場所を目指す。さながら蜜を求める蝶みたいに。あるいは火に向かう蛾のように。
「グガは信じてる?」
「質問を質問で返したらいけないんじゃなかったの」
「いいから」
「死後の世界は信じてるよ」
正しくは、信じたかった。目の前で行われていることをただ傍観している俺が言うべき言葉じゃないかもしれないけれど、俺は死んだ後の暗闇が怖かった。人間が死んでしまった後に無になってしまうというのは、想像するだけで胃の奥が縮こまるかのような恐怖を覚える。その点、ブルーモルフォの唱える聖域の概念は優しかった。死んだ後に行く場所に光があるというのはいい。
果たして、考案者であるジミンはこのお伽話を信じてくれているのだろうか、とちらりと目を向ける。曇りなき眼で肯定されるのか、あるいは笑われてしまうのか。
「なら、きっとまたそこで会おう」
俺の予想はどちらも外れた。ジミンは真面目な顔でそう言うと、再びボタンと格闘し始めた。俺が投げかけた疑問はそこで終わりらしい。
事も無げに言われた言葉を反芻する。なら、きっとまたそこで会おう。
その後、ジミンはそのまま眠り込んでしまった。既にブラウスは修繕不可能なところまでくしゃくしゃになっている。𣈱気に眠り込む彼を眺めながら、何となしにもう一度タブレットを取り出した。そうしてブルーモルフォ越しのパク・ジミンを見ていると、ふと妙なメッセージ履歴を見つけた。
その他多くのメッセージとは違い、その相手とのやり取りには、星でマーキングが付けられていたのだ。特別な相手を示す記号だ。クラスタの有力者か何かなのだろうか、と思いながらやり取りを開く。
相手側が送ってきたメッセージは逐次削除されているのか、残っているのはジミンの送ったメッセージだけだった。順に読んでみる。
『あなたはとても正しい方なんですね』
『分かりますよ。あなたはとても優秀な人。それを知ったから、僕はあなたとこうしてお話したいと思ったんです』
『あなたの罪は押し付けられたもの。ここでのあなたは、生きている価値が無い。誰もがあなたに石を投げ、誰もあなたのことを正しく評価してくれることはない。もう、二度と』
冷たく相手を否定するような、それでいて暗闇の中から掬い上げるような言葉。
『でも、僕があなたを見つけた』
『僕はあなたのような人を待っていました』
俺には、そのやり取りがどうして特別なのか分からなかった。ジミンが敬語を使うのは珍しいけれど、元より彼はやり取りをする相手に応じて文面を変える。それにしても、相手の罪とは何だろう?
突然、今の状況の全てが耐えられなくなりそうになり、こめかみ辺りを抑えて無理矢理振り払った。その時、隣で眠るジミンが小さく身じろぎをする。健やかに眠るジミンのお腹にもう一度手を当てると、自然と「どうすればいい?」と声が出た。眠っているジミンは、何の指示も寄越さない。
俺に出来ることは、ブルーモルフォのことを間近で観測し続けることだけだった。
けれど、俺が記憶するまでもなく、この時期のブルーモルフォは色々な人間を巻き込んで、大きな進化を遂げ始めていた。
to be continued...