恋に至る病 2/4話
※RPS/nmmn作品です。ご理解くださる方のみ閲覧してください。構造設定多。
🐰さん視点
「気持ちは証明出来ないし、目に見えない。だから、代わりに僕の一番大切なものをジョングガにあげる」
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グロ注意です。苦手な方は自衛よろしくお願いします。
前話へ多くの閲覧、ブクマ、評価等本当にありがとうございます。とても励みになります。残り二話は、より亀更新になると思いますがよろしくお願いします。
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■第二章
1
文化祭開会式のステージなんて誰もまともに見ない。適当に流して、早く模擬店巡りの方に向かいたいと思っている。去年までの俺もそうだった。体育館は蒸し暑いし、流行りの曲をやらないバンド演奏なんか聴いても退屈だからだ。
けれど、ジミンが指揮台に立った瞬間に空気が変わった。
ジミンが優雅に一礼をすると、艶やかな黒髪が微かな音を立てる。
顔立ちにはまだ幼さが残っていたが、そこには何とも言えない存在感と気品があった。ジミンが指揮棒を振り下ろすと、優しいホルンの音が流れ出した。
あれからしばらくが経ち、俺は人より大分内向的な、それでも普通の中学生になっていた。
中学校に上がり、別の小学校の生徒たちと知り合うようになると、俺が虐められていた過去はすっかり忘れ去られていた。あの頃の俺らにとって一年というのは途方もなく長くて、不都合な記憶を押しやってしまう。
少ないながらも友人も出来た。ジミンと同じクラスではなかったけれど、穏やかなクラスに編成されたのも良かったかもしれない。
地獄のような小学校生活を考えると、信じられない変化だった。ヨンシクが死んでから、俺の人生は決定的に変わった。あれからずっと夢を見ているような心地がする。不眠症は改善されたものの、悪夢を見て跳ね起きることは多々あった。その夢の中では俺はまだヨンシクに虐められていて、蝶図鑑が更新されている。
あるいは、こういうパターンの悪夢もあった。
実際に見たことは無い何処かのマンションの屋上で、ジミンがいつもの笑顔でヨンシクを追い詰めている夢だ。怯え切ったヨンシクの目にはボールペンが突き刺さっていて、小さく震える様は弱々しい小学生にしか見えない。そんなヨンシクのことを、ジミンの小さな手が無慈悲に突き落とす。そんな夢だ。
どちらの夢を見ても、俺は汗だくで飛び起きた。後者の夢を見た時は特に息が上がった。中学生の俺は、現実の世界でジミンと会うよりも、夢の中で彼と会う方が格段に多かったのだ。震えを抑えて、掌を天井に掲げる。それは今でも片羽を捥がれた蝶を連想させた。
俺の心は未だに小学生の頃に囚われている。
割れるような拍手の音で我に返った。ジミンの指揮した『微笑みの国セレクション』が終わり、ジミンが再び一礼をする。指揮を終えたジミンは屈託なく笑っていて、大きな両目が細められると、途端に年相応に見えた。
中学に上がったジミンは、ますます美しい生き物になっていた。すらりとした肢体にはっきりとした目鼻立ち、切り揃えられた麗しい黒髪。パク・ジミンは、何処に行ってもよく目立った。中学に入学すると、ジミンは吹奏楽部に入部し、一年生の終わり頃から先輩を余所に指揮者として活躍し始めた。言うまでもなく、成績も上位をキープしている。
妬みを受けてもおかしくなさそうなのに、不思議なことにジミンに対してそういった悪感情を向ける人間は全くいない。どういうわけだか、彼はそういう醜い感情から一線を引かれていた。
「おい、ジョングク」
その時、隣に座っていたヨンスがそう話しかけてきた。ヨンスは何故か嬉しそうに笑っている。
「何?」
「お前今、ジミンのこと見てただろ」
「……見てたけど」
「だよなー、あれは見るわ」
ヨンスがさもありなんといった口調で頷く。まるでこの世の真理を看破しているかのような口調がおかしい。でも、今のパク・ジミンは小学校の頃とはまた違ったスターとして中学校に君臨している。評価の定まった名作映画のようなものだ。愛の閾値を超えてしまって、みんなジミンが好きなのだと衒いなく言える。
だからこそ、中学に入ってから、俺とジミンが話すことは少なくなっていた。
小学生と中学生には明確な境がある。ランドセルを置いてますます美しくなったジミンと、平凡で目立たない人間になった俺とでは、有り体に言えば釣り合わなかった。
当然ながら、ジミンを嫌いになったわけじゃない。今だって偶然会えば軽い言葉を交わすし、俺は相変わらずジミンことが好きだった。
けれど、それだけだ。
俺はこちら側の人間だし、こうして喝采を受けるジミンはその向こう側に居る。それでいい。そんな俺の態度を察しているのか、あるいは単に人に囲まれ過ぎて俺に割く時間が無くなってしまったのか、ジミンの方も俺に積極的に関わらなくなった。
俺に出来ることは、こうして学年行事でジミンのことを見るだけだ。部員たちが各々の楽器を持って立ち上がり、舞台袖に捌けていく。ジミンは指揮台から降りてその後を追う。
その時、不意に舞台の上のジミンがこちらを振り向いた。
ジミンは大きな目をフッと細めると、にんまりと悪戯っ子のような笑みを浮かべる。その瞬間だけ喧騒が遠くなり、俺の息が早くなった。
「なあ、今さ、ジミンがこっち見て笑わなかった?」
興奮した様子でヨンスがそう言った。
「まさか」
「マジでジョングクって塩過ぎねえー?夢を持とうぜ、夢をさぁ」
そう見えるのがパク・ジミンの凄いところなのだと思う。
誰にでも優しいパク・ジミンが、自分にだけ目を合わせて微笑んでくれるのだと錯覚させるような、そういうところが。誰もが欲しがっている夢を与えるのが特別上手い。俺だって、その手管に絆されている。
もしかしたら、ジミンは俺のために人を殺したかもしれない。俺はそんな夢にとり憑かれている。それすら、今日の笑顔のような錯覚かもしれないのだ。
――キム・ヨンシクを殺したのはジミンなの?
結局、俺がその問いをジミンに投げかけることはなかった。
小学生の俺にとって、人が人を殺すというのはあまりに遠い出来事だった。それも、誰にだって優しいあのパク・ジミンが行うだなんて思えなかった。しかも、俺なんかのために。
ジミンが神様に祈って、それでヨンシクに天罰が下ったと考える方が、よっぽどしっくり来た。それでも、繰り返し立ち現れる屋上のジミンは俺の中に色濃く残り続けた。
俺たちが再び会話をするようになったのは、それから更に一年以上後、中学の修学旅行がきっかけだった。
ジミンは定められてでもいるかのように生徒会に入り、吹奏楽部との兼ね合いがあったからか、書記を務めていた。それなのに、他校との交流会でスピーチをするのも、修学旅行で宿泊先に花束を渡すのも、何故かジミンの役割だった。ジミンは忙しくて、俺とはまるでリズムが違う。
だから、修学旅行の二日目、自由行動の際に俺がジミンに出会ったのは、神様の悪戯のようなものだったのだと思う。
2
修学旅行で行ったソウルで、俺は完膚なきまでに迷子になった。
きっかけは確か、昼ご飯を食べた食堂に財布を忘れたか何かだったはずだ。バス停で気がついた俺は、班のみんなに先に行ってもらい、店に戻って財布を回収した。そこまでは良かった。まさかそこからバスのダイアが変わり、乗り込んだバスが反対方向に向かってしまうなんて思いもしなかったのだ。
気が付けば俺は待ち合わせ場所から遠く離れた、民家の多い通りに着いてしまった。もう一度地図とバスを確認して途方に暮れる。この調子だと、待ち合わせ場所よりもむしろ宿に戻った方がマシな状況だった。
果たしてどこで合流するのがベストなのか、宿に戻ってしまった方が良いのか。せっかくの修学旅行がじわじわと台無しになっていく感覚に歯噛みしていた、その時だった。
「ジョングガ?」
聞こえるはずの無い声がして振り向くと、そこにはパク・ジミンが立っていた。思わず息を呑む。中学生にとって、クラスの区分は意外にも大きい。こうして別のクラスのジミンと話すのは、本当に久しぶりだった。
「……ジミナ」
「丁度良かった。今暇でしょ?」
「え?」
ジミンはそう言うと、有無を言わさず誰も居ないバス停のベンチに俺を引っ張って行った。そして、手元のビニール袋からカップアイスを二つ取り出してみせる。
「……じゃーん。さっき、そこでおばあさんを助けたんだよ。買い物袋がバーンって弾けて中身が出ちゃって、拾い集めたの。そしたらくれた」
ジミンは楽しそうにそう言うと、おもむろにそれを俺の方へ差し出してきた。
「はい」
「……え?」
「二個あるから。んふふ、友達が居るだろうって」
「そうだよ。一緒の班の子は?」
「僕は今夜のキャンプファイアーのリハーサルがあって宿近くから離れられなかったんだよ。観光地を巡る時間が無かったの。まあ、友達はいなかったけどジョングクが居たからオッケーだね」
「仮に俺もいなかったらどうしてたの?」
「そうしたら二つ食べてたよ」
「じゃあ二つ食べれば」
「でも、ジョングガはここにいるよ」
噛み合っているようで噛み合っていない会話だった。そもそも、俺らは団体行動から外れているのだ。早く戻らないと大事になってしまう。
「多分だけど、僕がいれば先生もそんなに気にしないよ」
俺の内心を読み取ったかのように、のんびりとした声でジミンが言う。身も蓋もない話だけれど、ジミンの言う通りでもあった。パク・ジミンは誰もが認める優等生で、先生からも十全に愛されている。ジミンが遅れたところで、誰も本気で怒ったりしないだろう。ジミンが一緒にはぐれようと言うのなら、それを邪魔出来る人間はいない。
でも、俺の頭に過ったのは先生からの叱責じゃなく、小学校の頃の校外学習だった。あれから随分時間が経ったけれど、二人で戻ったらまた何か勘違いされてしまうかもしれない。自分がジミンにとっての特別だと勘違いしたところから、俺の顛倒は始まったのだ。
「溶けちゃうよ」
それなのに、ジミンのその一言だけで、俺はあっさりとカップを受け取ってしまった。早く戻らなくちゃ、という意識を余所に、赤いキャップを開けてしまう。
「ね、カップアイスの美味しい食べ方教えてあげようか」
「……何?」
ジミンは答えずに、木のスプーンをアイスに突き立てて、表面にくるりと丸を書いた。上から見ると、丁度二重丸の形になっている。
「で?」
「外側から食べる」
その言葉通り、ジミンは引かれた線の外側からアイスを一口掬い上げた。そして、幸せそうに口に運ぶ。そのまま見つめていると、ジミンは不思議そうに俺を見てから、もう一度同じようにやってみせた。
「……で?」
「でって何……え!?これで終わりだよ!何すると思ってたの?」
「いや、だってそれ……何の意味が……」
「分からないかなー、どうしてこうもときめきが足りないんだろう。外濠からじわじわ埋めていって、」
「埋めてないよね」
「……外側からじわじわ切り崩していって、最終的に本命をっていうのがいいんだよ」
「アイスは何処から食べても同じだよ」
「分からないなー」
俺の反応が気に食わないのか、ジミンはゆるゆると首を振った。その様があまりにも不服そうだったので、仕方なく俺も同じようにアイスに丸を書いた。溶けかけのアイスを端っこから口に運ぶなり、ジミンがじわじわと猫のような微笑みを浮かべていく。この程度でこんなに喜ぶあたり、今日のジミンは驚くほど子供っぽく見えた。
「ジョングガ、久しぶりだね」
中央にアイスの孤島を作りながら、不意にジミンがそう言った。
本当ならもっと早くに出てくる言葉だっただろう。同じ中学校に進学しながら、まともに話すことがなかった二人なのだ。俺も小さく「久しぶり」と返し、ジミンの様子を窺う。
「ジョングクはパソ部だよね。知ってるよ。僕も結構パソコン詳しいんだ。最近はスカイプを入れたよ。グガもやってる?」
それは詳しいって言うんだろうか……と思いながら、首を振った。ジミンの中のネットとはそういうSNSのことなのだろう、と妙に納得した。
「ジミナも凄いよね。……吹奏楽とか。生徒会とか」
「両方もう引退だから、ちょっと寂しいな」
「そのくらいでいいよ。ジミナ、なんか元気過ぎっていうか、少し休んだら?」
「何かじっとしてられないんだよね」
最後の一口を掬い取りながら、ジミンがそう言って笑った。白い塊が呑み込まれていく。空っぽになったカップの中には、ジミンのこだわりの残滓すら見つからない。
手持無沙汰になったのか、ジミンはそのまま、まじまじと俺の方を見つめ始めた。
「グガは綺麗な顔をしているね」
不意にジミンがそんなことを言った。
「……そんなことないよ」
「ううん。そんなことあるよ。それに」
そこでジミンは言葉を切った。まるで何かを恐れているかのように言葉を切って、大きな目を微かに逸らす。
ジミンがその言葉の続きを言うことはなかった。遠くの方で蝉が鳴いているのが聞こえる。この所為で、ジミンがどれだけ淀みなく喋っていてくれたのかを意識させられてしまった。
痛いほどの沈黙の中で、俺はアイスを食べ終える。最後のほうは味なんて殆ど分からなかった。空っぽになった容器の中に折ったスプーンを入れて蓋を閉める。そこまで遠回りしてから、ようやく口を開いた。
「ジミナ。ヨンシクを殺したのは、ジミナなの?」
果たして、ジミンは穏やかな微笑を湛えたまま言った。
「そうだよ」
意外なことに、俺はそれに驚かなかった。何度も何度も悪夢の中でシミュレーションしてきたお陰だ。小学生でありながら人を殺す、なんてことは、他ならぬパク・ジミンにしか果たせないことだと思っていたのかもしれない。
「……何で」
「グガがそれを聞く?」
小さく首を傾げながら、ジミンが困ったように笑う。
「……俺へのいじめの所為?」
「僕がどれだけ言おうと、ヨンシクは止まらなかった。一度ジョングクが憎いと思ったら、もうそれ以外考えられなくなっちゃうんだよ。もしかしたら、僕が言うから余計に止められなくなったのかもね」
ジミンが冷静にかつての状況を整理する。あれだけ人の輪の中心に居るのだから当然なのかもしれないが、ジミンは人の感情を腑分けするのに長けていた。ランドセルを背負った小さなジミンは、その実そうしてキム・ヨンシクのことを分析していたわけだ。
「覚えてる?あのブログ。蝶図鑑」
「……覚えてる」
「忘れられるはずがないよね。あれを見た時はびっくりしたよ。人間の悪意と想像力には果てが無い。ああなったらもう止められないんだ」
言いながら、ジミンはゆっくりと目を細めた。
「あの時、周りに聞き取り調査をしたけど、結局はみんなヨンシクが怖くて逆らえなくて、流されてただけだったよね?」
ジミンの言う通りだった。実際に、ヨンシク一人が居なくなっただけで、俺へのいじめはぱったりと無くなった。みんなが流されていただけだったから。
そういえば、ヨンシクを『涸れることの無い泉』と例えていたのは他ならぬジミンじゃなかっただろうか。黒い喪服を着たジミンのことを思い出す。ジミンはあの時、一言も「悲しい」とは言わなかった。
「一緒になってジョングガを虐めてた人間は赦せないけど、みんなもある意味、被害者だったんだよ。だから元を絶つしかないと思ったんだ」
「だから殺したの?」
ジミンは静かに頷いた。
「……ヨンシクの死因は屋上からの飛び降りだったよね。じゃあ、それが実は……ジミンによる殺人、だったってことなの?」
「そうなるね」
胸の奥がじわりと重くなる。夢の中で知っていたことの答え合わせをしている気分だった。嘘だ、という気持ちと納得。あの学校で力を持っていた悪魔のようなヨンシクを殺せるのは、パク・ジミン以外にいない。
「一体どうやって?」
「難しいことは何も無かったよ、ジョングガ」
噛んで含めるような口調で、ジミンが言う。
「ヨンシクは僕のことが好きみたいで、誘ったらすぐに来てくれたから。大事な話があるから屋上に上がろうって言った時も全然疑われなかったよ。ヨンシクはなんだか妙に緊張してるみたいで、そこだけはちょっと面白かったかな。……ジョングクにやったことは全然面白くないけど」
「それで、ヨンシクを突き落とした?」
「そうだよ」
薄氷を踏むような会話が続く。
言葉を交わす度に、どんどん身体が震えてきた。それでも、俺は逃げずに確かめなければいけなかった。
「ヨンシクの、目は……」
それこそが、一番気になっていたところだった。
自殺を演出するには禍々しく、他殺にしても容赦が無い。思わず不躾にジミンの右目を見てしまった。けれど、ジミンは緩く首を振っただけだった。
「ヨンシクが抵抗したの。……ポケットから取り出して、ペンで僕を刺そうとしたんだ。僕達は揉み合いになったけど、ヨンシクの方が落ちて行った。それで、ボールペンはその時刺さったんだと思う」
「そう、なんだ」
「……信じてくれるか分からないけど」
「…………信じるよ」
「全部?」
ジミンが静かに言う。信じるしかなかった。罪を犯したことを信じるなんて妙な字面だ。本当に、あのパク・ジミンが人を殺したのだ。それも自分と同い年の小学生を、残酷なやり方で殺した。俺の夢は俺自身よりずっと有能な探偵だったわけだ。
全てを話し終えたジミンは、取り乱すでもなくただ緩く首を振って笑っている。握り締めた手が、袖を摑んで震えていた。
「分かってるよ。ジョングクはもうとっくに気づいてたんだよね。だから僕から距離を置いたんだよね?」
ジミンはそう言いながら寂しそうに笑った。それを見て、俺はさっきの言葉の続きを知る。ジミンはずっと、この所為で俺に避けられていると思っていたのだろう。
だとすれば、酷いすれ違いだった。そうじゃない。俺は、そんなつもりでジミンから離れたんじゃないのに。
「違う!ジミナのこと、嫌いになんてなってない……」
俺は咄嗟に、袖口を摑むジミンの手を取っていた。アイスのカップが地面に落ちて、ころころと転がっていく。久しぶりに触れたジミンの手首は、細くていかにも頼りなかった。緊張で強張ったジミンに向かって、俺はこの三年余りずっと言いたかった言葉を口にした。
「…………ごめん。本当にごめん」
その言葉しか出てこなかった。
呆気に取られたジミンが俺の方を見る。本当は今すぐに逃げ出したかった。中学生活を送っている間、俺はずっとジミンとまともに話せなかった。ジミンに見つめられるだけで動けなくなったし、彼のことを避けていた。
でも、それはジミンのことが嫌いになったからじゃない。むしろ逆だ。俺の心はジミンに対する罪悪感でいっぱいだった。
「ずっと謝りたかったんだ。俺の所為で、ジミンにそんなことをさせたんだって。ジミナは俺なんかとは違う人間なのに、俺の所為でジミナが……」
怖くてジミンの顔がまともに見られなかった。殆ど告解のように気持ちで、俺は続ける。
「どうすればいいのか分からないんだ。その怪我の時も、ヨンシクの時も、俺はジミナに庇われ続けてるのに、何も返せなくて……ヨンシクが死んでから、俺の生活は穏やかで、……幸せで。何にも出来ない俺の為に、ジミナがそんなことまでしてくれたんだって。そんなことを喜んでる自分が、どうしても赦せなくて……」
ジミンはそんなことをする人間じゃなかった。俺さえいなければ、ジミンの顔に傷がつくこともなかった。きっとジミンは殺人なんかとは無縁で居られたはずだ。俺がジミンに弱音を吐いたから。ジミンは俺を見捨てられない程度に優しく、ヨンシクを殺せる程度に行動力があっただけなのだ。
「ジョングガ」
ややあって、ジミンが静かに言った。
「別にジョングクだけを助けたわけじゃないよ。……ヨンシクがいた頃は、多分みんな学校が楽しくなかったんじゃないかな。ヨンシクの影響力はそのくらい過剰だった」
淡々とした言葉なのに、その響きは酷く優しい。
「だから、ジョングクだけが罪悪感を覚える必要なんてないよ」
その言葉がどこまで本当かは分からなかった。現実問題として、ジミンはヨンシクを殺したのだし、その事実は消えない。
「嫌いになったんじゃなかったら、良かったよ」
「どんな時も味方でいるって言っただろ」
振り絞るような俺の言葉に、ジミンが一瞬だけ言葉を詰まらせる。そして小さく「覚えてたんだ」と言った。
「もしジミナがヨンシク殺しで疑われるようなことがあったら、俺が代わりに罰を受ける」
あれは元々俺の罪だ。ジミンが何か言おうとしたのを留めて、彼のことをしっかりと見つめる。
「……ジミナが誰にも脅かされないよう、俺が絶対に守るから……。……信じて、もらえないかもしれないけど」
強い日差しを受けて、白い肌が光を反射している。ジミンは珍しく無表情を貫いていて、その年齢にそぐわない端正な美貌が浮き彫りになっていた。そうしてたっぷりと沈黙した後、ジミンが不意に破顔した。
「信じるよ」
「え?」
「だって、ジョングガは僕のヒーローなんでしょ?」
中学生になった俺達には、相応しくない夢見がちな言葉だった。
なのに、その言葉は俺にとって未だに特別で、悪戯っぽくジミンが口にしただけで、耳まで顔が赤くなった。舌がもつれて、上手く喋れなくなる。そんな俺の唇にそっと人差し指を当てて、ジミンが穏やかに言う。
「……だから、ヨンシクのことは二人だけの秘密にしよう。僕はあの選択を後悔してない。時間が戻ったって、僕はきっと同じことをするよ」
陳腐な言い方をすれば、俺達は世界で二人きりだった。ヨンシクを殺すジミンの姿は悪夢ではなく甘やかな白昼夢に変わって、そこに俺が居ないことが不思議なくらいだった。
「そろそろ戻ろうか。修学旅行はまだ始まったばかりなんだし」
地面に落ちたカップを拾い上げながら、ジミンはいつものように明るく言った。俺は馬鹿みたいに「うん」とだけ返し、彼の背を追う。
「ジョングガと同じクラス、なりたかったな」
歌うようにジミンが言う。
思えば、この時点で気がついているべきだった。
キム・ヨンシクによるいじめで、俺の人生は大きく狂った。けれど、それは俺だけじゃなく、ジミンの人生もだったのだ。俺へのいじめを目の当たりにしたジミンが、一体どんな風に変質したのか、俺はそのことをはっきりと認識しておくべきだったのだ。
パク・ジミンが人を殺すというのが、どういうことなのかをちゃんと知っておくべきだった。
3
パク・ジミンは屋上のフェンスを乗り越えて、今にも足を踏み外してしまいそうな細い縁に立っている。彼が両手で摑んでいるフェンスがガシャガシャと耳障りな音を立てて、俺の心音と上手に重なった。ジミンが落ちるかもしれない、と思うだけで身が竦む。それなのに、ジミンは少しも臆することなく足を進め、片手を屋上の縁に立つ一人の女子高生に向かって差し出した。
「ミヨンさん」
呼びかけられた生徒――イ・ミヨンがびくりと身を震わせる。相当憔悴しているのか、綺麗に巻かれた栗色の髪の毛は乱れていて、目には鬼気迫った光を宿している。それでも、ミヨンさんは両手でフェンスをしっかりと握っていた。片手を離しているジミンの姿を、信じられないものを見るような目で見ている。
「……ミヨンさんの気持ちは分かるよ。でも、一緒に帰ろう?ここから飛び降りたら、もう後悔することも出来ない」
ジミンの言う通りだった。塔ヶ峰高校は四階建てだし、おまけにこの下はコンクリート敷きになっていて、クッションになるものは何も無い。ここから落ちたらまず助からないだろう。
「……もうほっといてって言ってるでしょ!あたしは……ジミンくんまで巻き込みたくないよ。一人で死なせて……」
ミヨンさんがヒステリックに泣き叫ぶ。彼女の細い手首には、幾筋もの切り傷があった。彼女のことはよく知らないけれど、前々から希死念慮に苦しめられているらしい。それが高じて、彼女は今飛び降り自殺寸前にまで追い詰められているわけだ。
「大体おかしいよ……ジミンくんは何も関係ないでしょ。何で止めるの?……同じクラスだから?生徒会だから?何で?何でこんなところまで来たの?普通なら……」
「来るよ」
ジミンはきっぱりと言った。そして、なおも縁を歩いて、ミヨンさんにゆっくり近づいていく。傍から見たら正気の沙汰じゃない。自殺を止める為に、自分までフェンスの向こう側に行くなんて馬鹿げている。けれど、ジミンの動きにあまりに躊躇いが無かったから、足を掛ける彼のことを誰も止められなかったのだ。
「僕はミヨンさんに死んでほしくないからさ、こんなところまで来る」
ジミンの髪が風に靡いて、フェンスに流れていく。
「だから、もう少し傍に行ってもいいかな?ミヨンさんと話がしたいんだ。もしそれで、少しでも生きてみようって思うなら、僕と一緒に帰ろう?」
「来ないで!……そこから一歩でも来たら飛び降りるから!」
そう言って、ミヨンさんがフェンスから片手を離した。身体のバランスが崩れ、うっかり落下しそうになる。薄い微笑みを浮かべていたジミンも、それを見て若干顔を強張らせた。整った顔に僅かな緊張を湛えて、ミヨンさんの方を睨む。ややあって、ジミンはゆっくりと言った。
「分かった。ミヨンさんが飛び降りるなら、僕も一緒に飛び降りるよ」
俺を含む屋上の野次馬が、一斉に息を呑むのが分かった。相対しているミヨンさんですら驚きを隠せないでいる。
それなのに、誰も悲鳴すら上げない。ジミンは次の言葉を邪魔しない為だ。ジミンはさっきとはうって変わって慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
「ミヨンさんも、一人で死ぬのは怖いでしょ?だから、僕が一緒に飛んであげる」
「ちょっと待って……な、何言ってるの?」
「僕は、ミヨンさんの意思を否定しない。死にたいと思っているなら、僕が無理矢理止めようとはしないよ。だから、ミヨンさんだって僕のことを止められないはずだよ」
ジミンはそう言って、まるで揚げ足でも取っているような勝気な笑みを浮かべる。その目は細められているのに、目蓋の下から覗く光が隠しようもなく漏れていた。
「何でそうなるの?わ、分かんないんだけど……」
「僕は凄く諦めが悪いんだ。それにエゴイストでもある。自分の思い通りにならないと気が済まない」
ジミンの言葉その通りだ。ジミンが意外と我が強いし、相当頑固だ。これと決めたら絶対に諦めないし、クラスメイトの自殺を止めたいと思うなら、自身の身すら顧みずにフェンスだって乗り越える。それが、パク・ジミンだ。
「……口ばっかり!そんなこと言ってジミンくんだって死にたくないでしょ!」
「死にたくないよ」
そう言って、ジミンはフェンスからすっかり両手を離した。弾みがついたのか、ジミンの身体がぐらりと揺れる。けれど、制服に包まれた細い身体はすぐにバランスを摑み、もう一歩ミヨンさんの方に歩み寄った。
「僕は死にたくない。毎日楽しいし、これからやりたいことも、やらなくちゃいけないことも沢山ある。こんなところでミヨンさんに巻き込まれて死にたくない。でも、ミヨンさんがここで飛び降りるなら、僕も飛び降りる」
「ちょっと、危な……」
両手を離したジミンとは反対に、ミヨンさんはもう一度両手でフェンスを摑んだ。ガシャガシャと激しくフェンスが揺れていることで、酷く震えているのが分かる。そんなミヨンさんに対し、ジミンはもう一度言った。
「僕は死にたくないよ」
はっきりと正しく、あの独特のメゾソプラノが響く。
「だから、僕の為に生きてくれないかな」
その時、ミヨンさんの纏う空気ががらりと変わったのが分かった。
まるで彼女を貫いていた希死念慮の背骨が抜き取られたかのようだった。憑き物が落ちたかのような彼女には、恐らくもうジミンしか見えていない。
ジミンが伸ばした手を、ミヨンさんが摑む。ジミンが穏やかに促すと、ミヨンさんはゆっくりと頷いてからフェンスを登り始めた。彼女が屋上に戻った瞬間、見守っていた全員が自然と歓声を上げた。
ジミンの方もゆっくりとフェンスを乗り越えてくる。危なげなく屋上に降り立つジミンの額に、微かに汗が滲んでいた。
屋上に戻った二人が、感極まって抱き合うのを見て、俺の方も泣きそうになった。
けれど、この風景に感じ入っているはずの俺の脳裏に、一瞬だけ落下するヨンシクの虚像が浮かぶ。フェンスの向こう側に、あの悪辣で小さな背中が立っているのが見える。
中学を卒業し、俺とジミンは同じ塔ヶ峰高校に進学した。市内有数の進学校である塔ヶ峰に俺が受かったのは、偏にジミンのお陰と言っていい。ジミンは俺が同じ高校を受験すると決めるなり、親身に勉強を見てくれたのだ。
高校生になってもなお、パク・ジミンのカリスマは衰えることがなかった。
彼は当然のように生徒会選挙に立候補し、千票以上の得票数で生徒会長になった。つまり、全校生徒の九割がジミンに投票した計算になる。けれど、ジミンはそれだけの器だった。
ジミンの異形染みた美貌は集団の中でよく目立った。中学生の頃より長く伸びた髪も、ブラウンに光る瞳も、糸で吊られているかのような背筋のラインも、抜きんでて美しい。その美しさに惹かれた人間がジミンの人間性に触れると、今度は熱に浮かされたように彼を信奉するようになった。
ジミンはどこか熱病染みた性質を持っていて、彼の『良い噂』はよく広がった。ジミンがこんなことをしていた。こんなことをしてくれた。そういった話が日常会話の中でごく自然に出てくるのだ。それら一つ一つが、パク・ジミンというキャラクターの特異性を強め、降り積もるエピソードに、善良さが足跡を付けていく。
俺だってジミンに助けられた一人だ。俺は俺の思い出を特別なものとしながら、ジミンを慕っていくだろう。今日助かったミヨンさんだって、ジミンを自分の人生を変えた特別な一人として見做すに違いない。今日のは特に素晴らしかった。見ている人間だって、ジミンに夢中だった。
俺はといえば、何かジミンの助けになりたくて、でも何をしていいのかわからずとにかくジミンを守れるような男になろうと体を鍛えた。その所為もあってか、いつの間にか体格はジミンよりも逞しくなり、身長も彼を越していた。けれど実際のところ、中身は今までと同じ人見知りで内向的なただの弱い男だった。
こうして今日も、ジミンは自分の存在を感染させていく。一歩間違えたら落下してしまいそうな縁に立ちながら。
「それにしても、上手くいってよかったよ」
当のパク・ジミンは、生徒会室の年季の入った椅子に座りながら、暢気な声でそう言った。さっきまで大立ち回りを演じていたというのに、もう切り替えて書類の整理をしている。彼の中でさっきのこともこの業務の地続きで、どちらも手を抜くことじゃないというのがよく分かる。
そんなジミンを見ながら、俺は殆ど感嘆混じりに言った。
「ジミナは本当に凄いよ」
「グガだって副会長としてよくやってると思うけど」
「……それは、ジミナと一緒に居るからそう見えるだけだよ」
俺は何の衒いも無くそう言った。
驚いたことに、俺はジミンと一緒に生徒会に入っていた。勿論、俺は積極的に表に出るような人間じゃない。けれど、ジミンが俺を副会長に推薦すると、もう選択肢は残されていなかった。周りの人も、ジミンが推薦するのならと、信任投票をしてくれた。
それ以来、俺はジミンの隣でどうにか彼の助けになろうとしている。
「ジミナは凄いよ……。ミヨンさんことだって、普通の人が出来ることじゃない」
「そんなに褒められることじゃないよ」
「だって、あそこから落ちたらジミナだって死んでたかもしれないのに」
「大丈夫だよ。僕は死にたくなかったから」
そういう話をしているわけじゃないのに、ジミンがのんびりとそう言った。不慮の事故で死ぬ人すら、その運命を選んだとでも言わんばかりだ。ジミンは死にたくないから死なない。ミヨンさんも死にたくなくなったから死ななかった。そんな認識みたいだ。
「……その、ミヨンさんってどうして死のうとしてたの?」
結局のところ、白昼堂々屋上から飛び降りようとしていたのは何故なのだろう。ミヨンさんの両親が迎えにくるまで、ジミンはミヨンさんに付きっ切りだったはずだ。そういう話はしなかったのだろうか。
ややあって、ジミンはゆっくりと首を傾げた。そして、不思議そうに言う。
「うん?どうしてって?」
「ほら、死のうとしてたんだから、きっと何か理由があるんだよね?」
「理由は無いよ」
ジミンはきっぱりと言った。全く淀みない口調だった。
「ミヨンさんは成績も悪くなかったし、家庭環境に問題があるわけでもないみたい。強いて言うなら進路とか将来に不安があるとは言ってたけど、他の子たちとそう変わらないよ」
「それじゃあ、なんで……」
「何かそれらしい理由が無いと自殺には走らないと思う?ただ漠然と自分が嫌いで、漠然と何処にも行けない気がして、漠然と不安に思ってるだけで死ぬことなんかないと思ってる?」
ジミンは諭すような口調でそう言った。
「そんなことないんだよ。人はそう簡単に理由も無く死にたくなるんだ。死にたくなるから死ぬ。人間の中には流されやすい人も居るから、そういう人はただ自殺の方向に流されてるだけ。……だから、今日の僕は生きたいって方向に流してみただけ。選んだのはミヨンさんで、僕が助けたわけじゃないよ。そんな風に褒められると何か居心地が悪い」
ジミンはその言葉通り、困ったような微笑みを浮かべていた。あれだけのことをしたのに、ジミンは驕らない。ミヨンさんの命を救ったのはジミンだと誰もが思っているのに。
ジミンはすっかり話し終えたと思ったのか、うーんと大きく伸びをして、目の前のプリントを睨んでいる。一体何のプリントだろう、と思っていると、視線を汲んだジミンが答えを教えてくれた。
「今度、人権集会でスピーチを任されたんだ」
「何についてのスピーチ?」
「自殺防止について。警察の人も聞きにくるみたい。……何だか、ミヨンさんのことがあって、尚更やるべきって言われそうだな」
「それは……タイムリーな話だね」
今日のミヨンさんの話に限らず、最近、中高生の自殺が増えているらしい。始業式の日に、重々しい口調で校長が人の命の大切さと、最近の異常な自殺率の増加について語っていた。校長は自殺の理由を、昨今の若者の無力さや繫がりの浅さに求めていた。それでいて、具体的な対策については何も語らず、その日の話はなあなあに終わった。
「始業式の日にもそういう話になったしね。何か繫がりが大事だとか。そんなこと言われても具体的に自殺が減るとは思えないけど」
「繫がりが重要っていうのは何となく分かるな」
「そういえば、ジミナはあれ知ってる?」
「あれ?」
「青い蝶」
俺はちょっとした雑談でもするつもりで、その名前を出した。
『青い蝶』は最近流行っている都市伝説のようなもので、一言で言うと「プレイしたら死ぬゲーム」だ。
ある日、選ばれた人間の元にSNSを通して特別なサイトへのアクセス権が与えられる。美しい蝶のモチーフのあしらわれた不思議なサイトなんだそうだ。そこにアクセスしたプレイヤーはブルーモルフォの会員となり、ゲームマスターから指示を受ける。
ゲームのルールは簡単だ。ゲームマスターから送られてきた指示に従うだけ。それ以上でもそれ以外でもない。
内容については諸説ある。曰く、とにかく黒いものを探して写真を撮るとか、あるいはとある一文字が送られてきて、その文字が入っている小説を探すとか。他にも、目を抉って差し出せと言う指示が送られてきたという話や、三百万円をとある口座に送れという指示だった、という話もある。
指示の内容もさることながら、ゲームマスターの目的もよく話題に上がっていた。
これはとある大富豪が相続人を探すために行っているゲームだとか、あるいは本物の悪魔を呼び出すことの出来る唯一の方法だとか、有名企業の独創的な入社試験なのだという話もあった。けれど、本当のところはどうなのか分からない。
「このゲームの指示に従わなかったり、途中でやめたりすると死んだりするんだって。あとは、クリアの見込みが無い人間も、知らず知らずの内に自殺させられるとか」
この奇妙なゲームの噂は、自殺率の増加に伴って活性化し始めた。つまりは、ブルーモルフォに関わった人間が自然と死に向かっていて、それが原因で自殺が増えたという話だ。
当然ながら、こんな噂が真実であるはずがない。内容は一昔前のチェーンメールのようだし、指示に背いただけで人が死ぬはずがない。知らず知らずの内に自殺に誘導されるというのも馬鹿げている。ネットの向こうの見ず知らずの人間に言われたからといって、人は死なない。列車に飛び込んだり首を吊らされる前に、必ず本能が邪魔をするだろう。
けれど、真面目なジミンは真剣な顔で俺の話を聞いていた。まるでそのゲームの全容を把握しようとでも務めているように、神妙な表情を浮かべている。もしかすると、この都市伝説を真に受けているのかもしれない。あるいはこのオカルト染みた話を怖がっているのだろうか。
ややあって、ジミンは思い出したかのように言った。
「青い蝶はね、幸せの象徴なんだよ」
「……え?」
「ジョングクはどう思う?青い蝶のこと」
ジミンは大きな目に興味深そうな輝きを宿して、俺のことをまっすぐに見つめていた。
「……面白いけど、ありえないと思う。大富豪の相続人を決めるとかも嘘臭いし。祟りとか呪いとかそういうものじゃなきゃ、人は自殺したりしないよ。理由も無いのに」
そこで、俺はさっきのミヨンさんの話と同じ轍を踏んでいることに気づいた。特に強い動機が無くても、人間は何かしらの弾みで自殺を選択してしまう可能性がある。そういう話をしたばかりだったのに。
「まあ、大富豪の話とか就職面接の話とかは馬鹿げてるよね。そういう話が出てきそうではあるけど」
けれどジミンは俺の失言を咎めることもなく、再びプリントに視線を戻した。
「スピーチの件、受けるの?」
「……どうしようかな」
ジミンがこういう時に迷うのは珍しかった。ジミンは基本的に頼まれたことを断らない。人前に出ても物怖じしないし、小学生の頃から今まで、こういう機会に恵まれ続けている。
それに、こう言い方は良くないかもしれないけれど、ミヨンさんの件は、スピーチを一層効果的にするだろう。人の自殺を止める為に自分の身を擲てるジミンだからこそ、そういった場で誰かの心に訴えかけることが出来るんじゃないだろうか。
「ジミナが率先してやろうとしないのは珍しいね」
「うん。求められたことには応えたいけど、ただ壇上に立つ僕の言葉で本当に自殺が止められるのかな、と思うと。これに何か意味があるのかと思って」
謙遜ではなく、ジミンは本気でそう思っているようだった。
ジミンの中では、始業式で何と無しに自殺を止めようとした校長のことが過っているのだろう。確かに俺も、誰かが話したくらいじゃ世界は変えられないと思っているし、始業式にあの話を聞いたはずのミヨンさんは夏休みすら待たずに自殺を試みてしまった。
「でも、他の人がやるよりはジミンがやったらいいと思うよ。……俺は。ジミナの言葉が届かないなら、他の人でも同じだと思うし。それに、ジミナの声は綺麗だから。言葉に意味が無くても、それだけで価値が――」
励ますつもりが、途中から意味の分からないことを口走っていないだろうか。それに気づいた瞬間、はた、と言葉が止まった。案の定、ジミンは揶揄う気満々の目で、にんまりと笑った。
「ジョングクって真顔で変なこと言うよね」
「……事実だし」
「あはは、でも声だけは昔からよく褒められるんだ。確かに、ちょっと変な声してるよね」
「変じゃなくて、綺麗だよ」
それを言うと、ジミンはよく通る伸びやかな声で「……それはどうも」と小さく言った。二人きりの生徒会室で、ジミンは素直に赤くなる。
結局、パク・ジミンは人権集会でのスピーチを行った。ミヨンさんのことには触れないで、ただただ彼なりの言葉で命の大切さを訴えかけた。
しんと静まり返る体育館の中に、ジミンの声だけが響く。この光景を以前にも見たことがあるな、と思った。キム・ヨンシクの葬儀の時だ。あの時も静まり返った場所に、ジミンの声だけが在った。生死相反する集まりの間を、ジミンの存在が繋いでいる。
彼が犯してくれた罪のことも、彼が救った命のことも、俺は両方知っている。
壇上に立つジミンのことを舞台袖で見ていると、不意に泣きそうな気分になった。ジミンのことを見つめていると、いつだって苦しくて切ない。
気づけばジミンと出会って、七年近くが経っていた。初めて教室で俺を救ってくれた時から、ジミンの存在が眩しくてたまらない。
「――僕は、このスピーチで自殺者を減らせるとは思っていません。ただ、これを聞いている意志ある皆さんが、ほんの少しだけ周りをよりよくするために動いてくださるのなら、それは世界が変わることと同義なんじゃないかと、僕はそう思います」
ジミンが切実な目でそう語るのを見て、ただひたすらに思った。
俺はジミンが好きだ。ずっと前から、彼のことだけが好きだ。
壇上に居るジミンは沢山の聴衆の前でも臆さない。ここにはゲストとしてやってきた市会議員や警察までもが顔を揃えている。それでも、ジミンは堂々と自分の言葉で話している。それがあまりにも眩しくて、涙が出てきた。
全てを話し終えたジミンが、拍手の中でゆっくりと礼をする。そして、来賓の方へと下りて行った。
このままジミンは会場の来賓たちを交流をする。その間に俺たちはステージ上で片づけをしなければいけない、のに、涙が止まらなくて動けなかった。
「ジョングク先輩泣きすぎですよ」
揶揄うように言ったのは、生徒会書記のチュノだった。恥ずかしいところを見られてしまった。
「いや、でも分かりますよ。凄いスピーチでしたもん。なんていうか、ジミン先輩の言葉には力がありますよね」
「ああ。俺も、そう思う……」
俺がそう呟くと、チュノは何故かにんまりと楽しそうに笑った。そして言った。
「だって、彼氏さんの言葉なら尚更じゃないですか」
「え?」
「だって、ジョングク先輩ってジミン先輩と付き合ってるんですもんね?」
「は!?……や、そんなことはない、けど」
「えー、あんなにべったりしてるのに?」
どうやらカマを掛けられたらしかった。まんまと引っ掛かった俺は、赤い顔のまま否定する。
「俺とジミンが付き合ってるとか悪い冗談だよ。……だって、正直釣り合わないし」
「そうですかねー、傍から見るとお似合いだな―とは思いますよ」
「ないって……ないから……」
それからもチュノは片付けの間中、後押しの名目で俺のことを揶揄い続けた。まるで俺の中の恥ずかしい欲望が晒されてしまったかのようで落ち着かなかった。
おそらく、熱に浮かされていたのだという表現が正しい。あのスピーチの所為で、俺は一層ジミンへの気持ちを意識させられた直後だった。だから俺は、ジミンと二人になった帰り道で、不自然なくらい動揺していた。あのジミンに「流石にちょっとそれは気持ち悪いよ」と言わしめるほどだった。
「どうしたの?何かあった?」
頻りにそう尋ねてくるジミンに、俺が陥落するのは時間の問題だった。ややあって、俺は真っ赤な顔のまま言う。
「……チュノが、俺がジミナと付き合ってるとかなんとか言い出すから……」
俺の弱々しい言葉を聞いたジミンが目を丸くする。それを見て、心底後悔した。これじゃあ遠回しに告白しているのと変わらない。ジミンは目を丸くしたまま、なおも続けた。
「えっ、それでジョングクどう答えたの?」
「どうもこうも……付き合ってないとしか」
「ええーっ、否定したの?」
ジミンはわざとらしく驚いてみせると、何とも言えない表情で俺のことを見つめてきた。長い付き合いだから、ジミンが何かを求めてくれているのは分かる。けれど、それが何かが分からない。ややあって、ジミンの方が静かに口を開いた。
「ジョングクは僕のこと好きなの?」
いつもの悪戯っぽい声じゃなく、それよりもワントーン低い声だった。だからといって冷たく突き放されたようなものじゃない。答えの分かっている問題を出しているかのような、包み込むような声だった。
この段になっても、俺は躊躇っていた。小学校も中学校も、俺の人生はジミンと共にあった。ジミンに救われたことが多すぎて、まともにジミンへの気持ちを考えたことがなかった。
ただ、今日のスピーチを聞いた時、俺の中にあった全ての壁が取り払われて、そこに光が差し込んだ気がしたのだ。あの時の衝動のまま、俺はずっと言えなかった言葉を口にする。
「……好きだよ。ずっと昔から、ジミンのことだけが好きだ」
それを聞いた瞬間のジミンの顔を、俺は一生忘れないだろう。
ジミンは今までに見たことのないような、酷く優しい笑顔を浮かべていた。ずっと待ち望んでいたものを受け取った時のように、目に揺らぐ光が灯っている。けれど、今の俺にはそれが俺の希望的観測なのかどうかすら判断出来なかった。ややあって、ジミンが言う。
「ありがとう。僕もジョングクが好きだよ」
「…………あ、」
比喩表現じゃなく、心臓が止まりそうになった。じわじわと涙が出てきて、指先が痺れる。嬉しくてたまらないはずなのに、溺れているような苦しさがあった。そんな俺を心中を知らずに、ジミンがゆっくりと距離を詰めてきた。
「……そんな、嘘だ」
「嘘じゃないよ。僕はジョングクがずっと好きだった」
ジミンの指先が俺の前髪をゆっくりと撫でる。相変わらず長く伸ばすのが止められない前髪を、受け入れるかのようにジミンが触る。
「それで、ジョングクはどうする?僕と付き合ってくれる?
「……そんな、無理だよ」
その言葉が、自然と口を衝いて出た。死にそうなほど嬉しいのに、俺の奥底に残っていた理性が、勝手に拒絶の言葉を紡ぐ。
「無理だよ。……ジミナと俺じゃ全然釣り合わない。だって、俺は今でも上手く喋れなくて、……人の目とかも見れないし。ジミナとは全然違うんだ……。ジミンとは並んで歩けない」
さっきまで柔らかい微笑を浮かべていたジミンが、一気に表情を強張らせる。けれど、これだけは譲れなかった。俺はまだジミンに負い目がある。ジミンに人殺しまでさせてしまったのに、のうのうとジミンの恋人になれるはずがない!
「俺はジミナに好きになってもらえるような人間じゃないんだよ。ジミナが俺の何処を好きになってくれたのか分からないけど、こんなの間違ってる……」
「……ジョングクは知らないんだ。僕がどれだけジョングクを好きか」
その声は、何だか泣く寸前の子供のようだった。一瞬怯んだ俺に対し、ジミンはこう続けた。
「何処が好きか分からないって言ったね。分かった。証拠を見せるよ。そうしたら、きっとジョングクも分かってくれるだろうから」
ジミンらしからぬ弱気な様子で、それでもまっすぐに言う。
「明日、午前十時半に自然公園の最寄り駅に来て。小学校の時に校外学習で行ったところ。覚えてる?」
「覚えてるけど……」
「それじゃあ、遅れないでね」
ジミンはそれだけ言うと、くるりと身を翻して家とは反対方向に歩いて行ってしまった。
ジミンに告白してしまった。ジミンも俺が好きだと言ってくれた。信じられなかった。こうしてちゃんと聞いていたのにもかかわらず、未だに夢の中に居るみたいだった。
明日、自然公園でジミンは何をするつもりなのだろう。賢くて少しズレたジミンだからこそ、何をするのか見当も付かなかった。果たして『証拠』とは何なのだろう。
でも、もし本当にジミンが『証拠』を見せてくれるなら。俺の劣等感やひねくれた想いや引け目を全て壊して、彼の気持ちを信じさせてくれるなら。その時は、俺も少しだけ自分を好きになれるかもしれない。
ジミンのいなくなった三叉路を見つめてから、家に帰る。
何を期待していたわけじゃない。ただ、ジミンと一緒に出掛けられるだけで嬉しかった。
だから、その日を境に世界の全てが変わってしまうだなんて思っていなかった。
4
翌日、俺は待ち合わせよりも二十分以上も早く駅に着いて、ジミンのことを待っていた。我ながら現金なものだと思う。
「よっぽど楽しみだったみたいだね」
待ち合わせ時間ジャストに現れたジミンが開口一番そう言っても、俺は素直に頷く。こういうところで格好つけても仕方がない。
当然ながらジミンは制服姿じゃなく、秋らしいチェックのシャツにジーンズ、そして黒いニット帽を合わせていた。この季節にぴったりのシャツの袖から、ジミンの指先だけが見えている。こうして私服をまともに見るのは小学校以来だった。
「遅れなかったね。感心感心」
満足そうにそう言うと、ジミンは俺の頭をぽんぽんと優しく叩いた。子供をあやすようなしぐさに微妙な顔をすると、ジミンは不意に真面目な顔で口を開く。
「気持ちは証明出来ないし、目に見えない。だから、代わりに僕の一番大切なものをジョングガにあげる」
「……それはこの公園にあるってこと?」
「うん。ある一部分は」
俺の頭に浮かんだのは、あの校外学習の日のことだった。あの思い出には痛みも伴っているけれど、背負ったジミンの温かさは俺の記憶にも鮮やかだ。
「それじゃあ行こうよ。もうすぐ時間だから」
ジミンはそういって、意気揚々と歩き始めた。いつも通り、俺も彼の背中を追う。ニット帽から覗く髪の毛が美しい。
休日だからか、辺りには家族連れが多かった。少し早めのお昼ご飯を摂ろうとビニールシートを広げている人たちも居れば、ベンチで話をしているカップルの姿も見えた。周りから見たら俺とジミンも恋人同士に見えるだろうか、と恥ずかしいことを考える。
やがて、俺達は一際人の多い中央エリアに辿り着いた。ここにはコンクリートで舗装された広場と、見晴らしのいい高台がある。高台の高さは数メートルもあるだろうか。階段を上がって辿り着く一番上には双眼鏡が設置されていて、更に遠くが見渡せるようになっていた。
ここに来たからには、ジミンは高台に登りに来たのだろう。という俺の予想はあっさりと裏切られた。ジミンは広場に差し掛かる一歩手前で立ち止まると、腕時計を確認する。
「ここでいいかな」
ジミンが満足そうにそう言ったものの、場所としては中途半端なところだった。広場と芝生の境目、まるで高台を監視するような位置だ。俺が知らないだけで広場で何かイベントでもやるのだろうか?けれど、広場では子供たちがローラースケートやらで遊んでいて、とても何かが始まるようには見えない。
「どうしたの?ジミナ。ここで何があるの?」
「待ってて」
そういって、ジミンは俺の手をそっと握った。その柔らかさと温かさに、親族が跳ねる。ジミンは黙って目の前の高台を見つめていた。
一体何を待っているのだろう。息を詰めるジミンは、柄に無く緊張しているようだった。鏡のような彼の目が、柔らかい陽光を反射している。
程なくして、それは起こった。
ふらふらと一人の男子高生が高台へと歩いて行く。彼の足取りはまるで夢遊病者のようだった。制服をきっちりと着込んだ彼は、真昼の公園に似つかわしくないように見える。ジミンの手に、微かに力が込められた。
男子高生はそのまま階段を上がり、高台の一番高いところに上り詰めた。腰のところまである柵に手を掛けて、眩しそうに太陽を見上げている。ほんの一瞬、彼は微笑んだように見えた。まるで、太陽の存在を、たった今思い出したかのような笑顔だった。
握られた手に更に力が籠るのと、男子高生が落下するのは殆ど同時だった。
柵を乗り越えた彼の身体は、重力に従って呆気なく落下していく。そして、瞬きをする間も無く、ぐちゃっという嫌な音が響いた。水風船を割った時のように、中身が飛び散る。
そして、顔の潰れた死体だけが後に残された。
「……え?」
思わず間抜けな声が出る。何だ?一体何が起きたんだ?人が死んだ。高台に他に人はいない。飛び降り自殺だ。
目の前の光景が信じられず、思わず隣のジミンを見る。
ジミンは凪いだ目をして、一連の自殺を眺めていた。
そこには少しの驚きも無かった。傍から見れば、ショックを受けて固まっているように見えるかもしれない。けれど、俺にはわかる。ジミンには何の動揺もない。まるで、目の前で起こることを予め知っていたかのようだった。事実、彼はここで何かを待っていた。まさか、これを?という言葉が過った瞬間、背筋が冷える。それを見計らったかのように、ジミンがこちらを見た。茶色がかった大きな目が、琥珀を模して光っている。ややあって、彼は言った。
「行こう、ジョングガ」
有無を言わさず、ジミンが俺の手を引く。黒髪がニット帽の隙間から流れ出て、俺の心を撫でた。俺たちが走り出すと、背後から甲高い悲鳴が聞こえた。悲鳴が次の悲鳴を呼び、連鎖的にパニックが訪れる。
狂乱の渦の中にありながら、ジミンだけが落ち着いていた。彼にだけこの先を照らす光が見えているかのように、まっすぐ歩いて行く。
自然公園の反対側まで来てから、ようやくジミンは立ち止った。繋いでいた両手をあっさりと解き、近くにあった自動販売機に寄っていく。そして、何事も無かったかのように言った。
「喉が乾いちゃった。ココアでいい?」
「……ココアだと喉に絡まない?」
「じゃあアイスココアにしよう」
何の解決にもなっていないことを言いながら、ジミンがボタンを押す。瞬きをしている間に、小さな両手には二本のアイスココアがあった。
蝉の声は聞こえない。季節は変わった。あの時とは、渡してくるものも違う。
当たり前のように、ジミンがその内の一本を差し出してきた。
「はい、これはジョングガに」
「……ジミナ」
「ほらー、手冷たいから早く早く」
やっぱりアイスココアは失敗だったんじゃないの、という言葉を呑み込んでココアの缶を受け取る。よく冷えた缶は、やっぱりこの季節には似合わなかった。ジミンは一口ココアを飲んで「寒いなあ」と呟くと、近くのベンチに座って大きく伸びをした。一仕事を終えた猫のような仕草だった。
ジミンは普段と少しも変わらなかった。さっきまで一生忘れないだろうと思っていた惨劇が、まるで白昼夢だったかのように思える。目の前で人が落ちるところを見るなんて普通じゃない。しかも、ジミンの隣で。
現実逃避に走りそうになった俺を引き戻したのは、ここからでも分かるけたたましいサイレンの音だった。それを聞いた瞬間、全身からどっと汗が噴き出る。そんな俺を見て、ジミンは静かに首を振った。
「分かるよ。でも大丈夫。警察は話したがり達の相手をするのに忙しくて、僕たちのところには来ないから」
一体何が大丈夫だというのだろう。サイレンの音が止むと、再び辺りは沈黙で満たされた。ややあって、俺は尋ねる。
「……見せたいものって、あれのことだったの?」
「そうだよ」
ココアを一口飲んでから、ジミンは淡々と続けた。
「自殺したのはチョン・トンヒョンくん。都内の高校に通う一年生。不本意な進学先に悩んでいたけれど、いたって普通の男の子だよ」
「……知り合いだったの?」
「知り合いじゃない。僕が知っていただけ」
赦されるなら今すぐにでも逃げ出したかった。けれど、ココアはまだ半分以上残っていたし、射抜くような瞳が俺の退場を赦さなかった。嫌な予感が喉の奥で引き攣っている。この感覚は、前にも覚えがあった。ジミンは俺の耳元に口を寄せると、そっと囁いた。
「『青い蝶』って覚えてるよね?」
その単語が鼓膜を震わせると、いよいよ全身の血が沸き立ち、ぐるりと目が回りそうになる。どうして今ここでその単語が出てくるのか、分からないのではなく分かりたくないのだ。
「ゲーム……?遊ぶと自殺するゲーム、そんな、都市伝説じゃ」
「みんなは単なるゲームで人間が死ぬわけないって思ってるみたいだけど。自殺した人間には固有の理由があって、確固たる苦しみがみんなを死に追いやったと思ってる」
そうじゃない、というジミンの声が生徒会室で聞いたものと被る。
そう言いながら、ジミンは懐からスマートフォンを取り出した。ピンク色のケースの表面には、ジミンの大好きな兎のイラストが描かれている。何回か画面をタッチした後、ジミンはお目当てのものを見つけたようだった。くるりと向きを反転させて、眩しい画面を俺に見せつける。
「トンヒョンくんはブルーモルフォのプレイヤーだった。だから死んだんだよ」
ジミンのスマートフォンの画面には、さっき自殺した高校生の学生証の写真が表示されていた。それだけじゃない。ぱっと見ただけでは意味の分からない『クラスタF』や『五十日目』の文字も見える。一体これは何なんだろう?
引き攣った顔をしている俺を余所に、ジミンは続ける。
「あの日、ジョングクが話してくれた青い蝶は、大部分が創作だよ。悪魔との契約とか、大富豪の相続人を探しているというのも違う。尤も指示に従えなかったら自殺させられるっていうのも違うんだけどね。ブルーモルフォのルールはシンプルだよ。五十日に亘って、プレイヤーにはマスターからの指示に従って貰う。そして、五十日目には、最後の指示に従って自殺してもらう。例外は無い。最後の指示をこなせば、プレイヤーは必ず死ぬ。ただそれだけのゲームだよ」
ジミンはあくまで淡々とそう言った。
「何でジミナがそんなことを知ってるの?」
殆ど答えの分かり切っている問いを敢えて尋ねた。ややあって、ジミンが言った。
「僕がブルーモルフォのマスターだからだよ」
「嘘だよね?」
ジミンは緩く首を振って、俺の言葉を否定した。
「こんなことで嘘は吐かない」
まるでヨンシク殺しを告白された時と同じだった。けれど、今回は何の心構えも出来ていない。そもそも何で俺はジミンにこんな話を聞かされているのだろう?
視界に映るジミンは相変わらず、秋の装いがよく似合っていて美しかった。背後では蝉の鳴き声の代わりに未だにサイレンが響いていた。ジミンがそっと顔を寄せる。元より俺がジミンの言葉を疑えるはずもない。そしてジミンが決定的な一言を囁いた。
「ブルーモルフォのモチーフが何だったか覚えてる?」
「………………蝶」
青い蝶という単語を打ち込んだら、画面検索に出てくる蝶の形をしたセンスの良い青いシルエット。都市伝説にかこつけた誰かが戯れに描いたんだろうと思われていたそれ。校外学習で見た美しい風景画を思い出す。あの絵は最終的に地域の絵画コンクールにも出展されたのだった。パク・ジミンは絵が上手い。
「上手く描けたんだよ」
耳元でジミンが囁く。
「覚えてるよね。あれが僕たちの始まりだから」
忘れるはずがなかった。
パク・ジミンに一線を越えさせたキム・ヨンシクの『蝶図鑑』。
既視感はここに根を張っていたのだ。
その一言で、俺はいよいよジミンがブルーモルフォを作ったのだと信じてしまった。ジミンがブルーモルフォを作り、誰かを自殺させている。だから、ジミンは今日ここでチョン・トンヒョンが飛び降り自殺をすることを知っていたし、それを時間通りに俺に見せつけることが出来た。
「……ジミナがブルーモルフォのマスターだって、信じるとして。でも、それが何で……何の、証拠に、」
ジミンは透き通った目で俺のことを見ていた。その目にはおよそ温度が感じられず、俺は初めてジミンのことを恐ろしいと思った。
「ジミナは昨日言ったよね。ジミナが……俺のことを好きだって、その証拠を見せるって」
口にすると何だか一層可笑しかった。恥ずかしい恋の話をしていたはずなのに、いつの間には殺人の話に挿げ替えられてしまった。悪夢のような入れ替えマジックの最中にあっても、ジミンは少しも動揺していない。それどころか、当然のような顔をして口を開く。
「あれが証明だよ」
「…………え?」
何を言っているのか分からなかった。不意に、ジミンの手が汗ばむ俺の手の甲に重ねられる。逃げられない、と反射的に思った。
「ジョングクがヨンシクに虐められてるって知った時、僕は性善説が嘘であることをも知ったんだ。あれはね、僕の中で凄く大きな出来事だったんだよ。ジョングクが来るまで、僕達のクラスは凄く仲が良かったでしょ?何の揉め事も無かったし、みんなが一致団結してた。それは、みんなが一人一人、とてもいい子だからだと――僕はそう思ってたの」
俺は麗しき五年二組のことを思い出す。どんな物事もすぐさま決まり、一人一人が相応しい役割を与えられていたあのクラス。今更になって、そのことにゾッとした。一体どうしてそんなことが出来ていたんだろう?
「でも、違ったよね。みんなはただ流されていただけなんだよ。だから、ヨンシクっていう悪い人が一人本性を現しただけで、それに流されたでしょ?本当に良い人だけが集まっていたなら、ジョングクが虐められているのに気づいた瞬間、ヨンシクをみんなで止めていたはずなのに」
ジミンの言う通り、ヨンシク一人が死んだだけでいじめが止んだということは、みんな流されていただけなのだろう。けれど、正直なところあれは仕方がなかったんじゃないか、とも思う。もしヨンシクに歯向かえば、次はそっちがターゲットになっていたかもしれない。ジミンですらヨンシクに閉じ込められたくらいだ。何をされていてもおかしくなかった。
けれど、ジミンは俺の為に立ち向かってくれた側の人間だった。だからこそ彼は、普段とはうって変わって冷徹な顔で彼らを断罪している。その権利が自分にはあるのだと信じ切っている。
「……勿論、僕もいけなかったよ。あの時の僕は何の力も無くて……周りの人を正しい方向に流せなかった。だから、何も考えないみんなは何も考えないまま、ジョングクを見捨てた。あんなの間違ってる」
「あんなの間違ってる……って、そうかもしれないけど。……でも、仕方がないよ。あの時はみんなヨンシクに影響を受けていたし、抵抗できなかったんだと思う。……みんなを責めても仕方ないよ」
「でも、もしクラスのみんなが流されない人間だったらどうだったかな?あそこでヨンシクの言いなりにならないで、みんなで抵抗の意思を示せていたら事態は変わっていたと思わない?全員じゃなくていい。四人も居れば、風向きは変わったかもしれない」
「それはそうかもしれないけど。……そんな人ばかりじゃないよ」
ジミンみたいに強い人間ばかりじゃない。この時点で、俺はパク・ジミンという明らかに強い人間との齟齬を感じ始めていた。それでも、過去のいじめに関するジミンの分析は終わらない。それどころか、話は核心に近づき始めていた。
「うん。そういう人ばかりじゃない。だから、世界は変わらない。だから、僕はブルーモルフォを創ったんだよ」
「……どういうこと?」
「要するに、流される人間が居るからいけないんだ。そういう人間は意志を失って、自分のことを見誤って、誰かのことを平気で傷つけるようになる。……分からないかな?僕がブルーモルフォを創ったのは何故か。あのシステムがどうなっているのか」
「そんなの……」
分かるはずがない、と言おうとしたところで、言葉に詰まった。
ジミンの言葉が正しければ、ブルーモルフォはただ単に指示に従うだけのゲームらしい。五十日に亘って指示に従い続け、最後に送られてくる指示に従って自殺することでゲームが終わる。例外は無い。
そのルールと、さっきまでジミンが語っていた言葉が繋がる。理解したくないはずなのに、六年生のときに起こったこととブルーモルフォのシステムがリンクする。
「分からないかな。僕が誰を殺そうとしているのか」
ヒントでも与えるかのように、ジミンがそう続けた。俺は殆ど喘ぐように言った。
「…………”指示に流されて、自殺してしまうような人間“?」
ジミンが小さく頷く。
「ジョングクも言っていたよね。インターネット上の見ず知らずに人間の指示に従って自殺するなんてあり得ないって。でも、この世界にはそういう人が居るんだよ。誰かの言葉に従い続けて、たった一つの命さえ捨ててしまうような人が。ブルーモルフォなら、そういう人間を淘汰出来る。自分の頭で考えられない人間を選んで殺せる」
だから、ブルーモルフォを創ったのか。確かに、理解できない話ではない。けれど、それはあくまで机上の話だ。実際にそれを実行するというのは話が違う。
「じゃあ、ジミナは……ブルーモルフォを通して、人を間引いてるの?」
「そうだよ」
ジミンは欠片も躊躇わずにそう言った。ジミンには怯えも迷いも無い。自分がやっていることに対して、ジミンははっきりと自信を持っているようだった。
もしここがいつもの生徒会室だったら、無理矢理否定することも出来たかもしれない。けれど、俺はさっきブルーモルフォによって死んだチョン・トンヒョンを見たばかりなのだ。腕時計を見ながらあそこで待っていたのに、偶然で片付けられるはずがない。
「……今までブルーモルフォで何人が死んだの?」
「今日のトンヒョンくんで三十六人」
途方も無い数字だった。始業式で告げられた自殺率の増加についての話を思い出す。ブルーモルフォの所為じゃないかという馬鹿げた噂が、本当は一番真実に近かったんだとしたら?
情けないくらい身体が震え出していた。さっきまで火照っていた身体が、ジミンに触れられたところから冷えていくようだった。
「…………人を、殺して、それで、何で、平気なの?」
「……それはね、彼らが死ぬべくして死ぬ人間だからなんだよ」
「死ぬべくして死ぬ人間って……」
「ブルーモルフォのプレイヤーは予めみんな欠けている。ブルーモルフォで死ぬ人間に足りないものが何か分かる?誰かにとってはぬくもりだった。誰かにとっては理解だった。誰かにとっては人との繋がりだった。ねえ、ジョングガ。ゲームの参加者は命の代わりにそれらを与えられる。僕ならそれが出来る。少なくとも、彼らは満足して死ねる。トンヒョン君を見たよね?」
確かに、高台から飛び降りる寸前の彼は、誰かに無理矢理脅されているようには見えなかった。随分憔悴しているように見えたけれど、死ぬ寸前の彼はどこか幸せそうだった。長く続いた映画のエンドロールのように、晴れた空を仰いでいた。
「彼は不幸そうに見えた?」
「……見えなかった、けど」
「本当に死にたくないって意思があるなら、僕なんかの言葉で死ぬはずがないよね?それなのに死んだってことを、トンヒョン君は心の底から死にたかったってことなんだよ」
それは、イ・ミヨンを助けた時と同じ言葉だった。あの時のジミンも、ミヨンさんの命が助かったのはミヨンさん自身のお陰だというスタンスを崩さなかった。やっていることは正反対なのに、ジミンだけは全く揺らいでいない。立っている場所が変わらない。向いている方向が変わっただけだ。
「……そんな、」
「青い蝶の良いところは、善良で賢い人間や、本当は死にたくない人間は絶対に死んだりしないことだよ。普通に生きていたら、こんなゲームに引っ掛かったりしない。流されたりしない。自分で死のうだなんて思わない。ブルーモルフォのプレイヤーはみんな、本当に死にたがってるんだよ」
ジミンは惑うことの無い瞳を俺に向けていた。イ・ミヨンを説得していた時と同じだ。呆気に取られた俺を置いて、ジミンは淀みなく言葉を紡いでいく。
「死ぬべき人間が幸せに死ねること以上に大切なことってあるのかな?ブルーモルフォで死ぬような人間は、いつかきっと同じように流されて過ちを犯す。そうなったらジョングクのような犠牲者が現れる」
その瞬間、ジミンが重ねていた手を離した。その代わりに、俺の身体が引き寄せられる。殆ど一瞬の内に、俺の身体はジミンに抱きしめられていた。
「僕はもう、そんなの見たくないんだよ」
耳元で囁かれる声が震えている。抱きしめられている所為で表情は見えないけれど、彼の声がやけに熱っぽく聞こえた。
「もう分かったよね。僕はジョングクが好きだから、ブルーモルフォを創り出せた。ジョングクのことが無かったら、僕はブルーモルフォを運営出来なかった。だから、これが愛の証明。……僕があげられる全部」
「お、れが、」
喉が張り付いて痛かった。出てきた声は子供のように震えていて、上手く言葉が出てこない。
「警察に、言ったら、どうするつもりなの」
「警察?」
その可能性は十分に考えられたはずだ。もしジミンの言葉が本当なら、ジミンはただの殺人犯じゃない。連続殺人鬼だ。ジミンは罰を受けなければならない。
けれど、ジミンはただ微笑んでいた。何も疑っていない顔で、何の衒いもない顔で。
太陽に光を浴びて、ジミンの茶色の目が一層鮮やかに映えていた。
「言ってもいいよ」
ジミンは少しも揺らぐことなく、静かにそう言った。
「何で、そんな」
「だってジョングガは僕のヒーローなんだもん。ヒーローなら悪と戦わないと」
高校生のパク・ジミンと小学生の頃のジミンが重なる。靡く髪の中に、彼の面影が幻視した。意志の強そうな目がまっすぐ俺を射抜く。その顔に傷はもう無かった。
それでも、俺は彼の傷に未だに囚われている。ジミンの口が再度開いた。
「お願い。僕が間違っているのなら、今ここでジョングクが止めて」
to be continued...