為替フォーラム

コラム:先進国のマネー急増、「インフレの芽」にならない理由=唐鎌大輔氏

[東京 29日] - 主要国のマネーサプライ(日本ではマネーストックと呼ぶ)急増をどう解釈すべきか、具体的には「インフレの芽」になるのかどうかに注目する議論が、散見されるようになっている。マネーサプライは端的には実体経済に流通する貨幣量であるため、その増加から将来的な物価上昇を予見することは、合理的な見方とも言える。物価に影響がある動きならば、結果的に為替にも無視できない影響を与える。

9月29日、主要国のマネーサプライ(日本ではマネーストックと呼ぶ)急増をどう解釈すべきか、具体的には「インフレの芽」になるのかどうかに注目する議論が、散見されるようになっている。都内で撮影(2020年 ロイター/Issei Kato)

マネー関連統計の定義を整理しておこう。日本の統計を例とするが、欧米でも大きな差はない。

日銀の公表するマネーストックは「金融部門から経済全体に供給されている通貨の総量」を示す統計だ。中央銀行から金融部門に供給された通貨の供給量であるベースマネーの増加が、マネーストックの増加へつながり、いずれ物価を押し上げるという考え方がこの先にあるわけだが、今回は割愛する(なお、そうならなかったのは周知の通りだ)。

マネーストック(以下、単にマネーとする)の保有主体は一般法人、個人、地方公共団体などだ。これは「金融機関・中央政府以外の経済主体」とも表現できる。

マネーの範囲をどう定義するかは国によって微妙に異なるが、一般的にM1、M2、M3、広義流動性という呼称の順で対象範囲が広がっていく。最も用いられるのは、現金やゆうちょ銀などを除いた銀行預金などが対象となるM2であり、日銀の展望レポートもM2の動きを評価の対象とする。経済が成長すれば資金需要も大きくなるはずなので、マネーと国内総生産(GDP)の間には安定した関係が想定される。

この時点ではGDPが「原因」で、マネーが「結果」という関係になる。だが、マネーの増加自体が株・為替・債券などあらゆる資産価格の変化(上昇)を引き起こし、成長に影響を与える経路もあろう。ここではマネーが「原因」で、GDPが「結果」という関係にもなる。いずれにせよ、こうした相互連関を踏まえると、マネーとGDPの伸び率に顕著な差が出ることは直感的に考えにくい。

<マネーとGDPの関係>

だが、現状では顕著な差が生じている。M2と名目GDPの前期比伸び率の差(M2マイナス名目GDP)を日米欧について見ると、現状では前者が後者を圧倒的に上回っており、そのかい離はいずれも統計開始以来で最大となっている。既報の通り、日米欧3極の4─6月期GDPの仕上がりは史上最悪であるため、足元で確認されているマネーの伸びは成長に起因するものでは当然ない。

理論的(厳密にはケインズ経済学的)に貨幣を保有する動機は1)「取引動機」、2)「予備的動機」、3)「投機的動機」の3つが想定される。1)は文字通り経済取引に使うために、2)は将来の不確実性に備えるために(つまりは貯蓄のために)、3)は資産運用の観点から有利になるために、それぞれ貨幣を保有するという動機である。

GDPの成長とマネーの増加を想定した貨幣需要増加は、1)を前提としている。コロナ禍における貨幣需要増大に2)の動機も大きく寄与していそうなことは想像がつく。もちろん、金利が消滅していることから「利子率が低いほど、流動性(≒貨幣)を選好する傾向が強くなる」という流動選好説に基づく3)の動機も無視できないが、やはり直感的に2)が大きく寄与していそうなことは腑(ふ)に落ちる。

<急増した財政措置の影響>

貸出が増加すると借り手の預金が増加するので、預金通貨は増える。この点、危機時に銀行貸出が増加して預金通貨がある程度膨らむことは珍しい話ではなく、このような動きもM2を押し上げているだろう。

だが、今回確認されているM2の伸びは、異例の財政措置の影響が相当に大きいと思われる。例えば、日本では定額給付金や事業者への持続化給付金が預金通貨を増やしたはずだ。

米国でも失業保険の上乗せ給付や現金給付など政府による手厚い家計部門への支援が、特殊要因として考えられる。ユーロ圏も国ごとに差異はあれども、定額給付に類する政策は取られている。資金需要に対応した銀行貸出に加え、特殊な財政措置がM2を直接的に押し上げたのは明白だ。

実際に日本のM2を構成項目別に見てみると、現在のM2の大きな伸びが、貸出や給付金の振り込みなどを通じて増加した預金通貨(いわゆる当座・普通・貯蓄・通知・別段などの要求払預金)にけん引されていることが良く分かる。

これに次いで、現金の保有(タンス預金など)が増えたことも寄与していそうだ。家計部門や企業部門に向けた財政措置が予備的動機を通じて備蓄され、その結果がM2急増の主因になったと見受けられる。

<「インフレの芽」か>

こうして急増したマネーは今後、どのような影響を持つのだろうか。その影響は多岐にわたるはずだが、仮に物価変動を貨幣現象と捉える貨幣数量説に倣って理解すれば、「いずれ急激なインフレが来るのではないか」という懸念につながる。

貨幣数量説は実体経済とマネーの関係について「名目GDP=貨幣数量(マネーストック:M)X流通速度(Ⅴ)」と規定する。流通速度とは、貨幣が実体経済で使われる頻度、速度、回転率などと理解される。

2019年を例に取れば、日本の名目GDPは約554兆円、マネーストック(M2)は約1040兆円なので、マネーは0.5回転(554兆円÷1040兆円)していることになる。短期的にこのⅤは、一定と考え議論が進められる。また、名目GDPは実質GDPと物価によって「名目GDP=物価(P)X数量(実質GDP:Y)」と表現されるので、貨幣数量説からは「MⅤ=PY」という関係を想定することになる。

貨幣数量説の世界は「貨幣は経済取引を効率的に行うための交換手段でしかない」と考える世界、いわゆる「貨幣の中立性」が成立する世界なので「Mを増やしてもYは不変」という考え方が前提となる。

この時点でⅤに加え、Yも一定という世界が想定されることになる。すると「M=P」だけが残り、「急増したマネー(M)の結果、物価(P)が押し上げられかねない」という「インフレの芽」を警戒する姿勢につながってくる。

確かに裁量的なマクロ経済政策が異次元の規模に達していることから、アフターコロナにおける資産価格の騰勢は警戒したい。

しかし、それが一般物価の急騰まで至るだろうか。例えば、今の局面のように異常なショックを受けた状況で「Ⅴを一定」としてしまうことは、必ずしも正しくない。既に述べたように、現在のマネー急増の小さくない部分は予備的動機に基づくマネーの抱え込みと考えられる。必然、マネーの回転率であるⅤは低下が予想される(実際に計算してみても低下は確認できる)。

過去を振り返れば、ITバブル崩壊、同時多発テロ、リーマンショックなど、強いショックが起きた局面では、やはりⅤが低下しており、しかもその後にインフレが到来したことはない。先に示した「MⅤ=PY」に当てはめると、「Mが急増してもⅤが大幅低下していれば、Pが上昇する必要はない」、要するに「インフレの芽」を警戒する必要はないという話になる。危機だからこそ、マネーと物価の関係は、貨幣数量説が想定するほど単純なものにはならない。

また、Ⅴを一定としても、Mの増加自体がYを引き上げる、すなわち「貨幣の中立性」が成立しない世界を想定すれば、やはりPが上昇する必要はなくなる。このあたりは神学論争めいた域に入ってくるので、今回は割愛する。

いずにせよ、現在目の当たりにしているマネー増加は、将来のインフレを約束するものではい。漠然と「マネーが増えたからインフレが怖い」という発想は、決して思慮深いものではないと言える。

(本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています)

*唐鎌大輔氏は、みずほ銀行のチーフマーケット・エコノミスト。2004年慶應義塾大学経済学部卒業後、日本貿易振興機構(ジェトロ)入構。06年から日本経済研究センター、07年からは欧州委員会経済金融総局(ベルギー)に出向。2008年10月より、みずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)。欧州委員会出向時には、日本人唯一のエコノミストとしてEU経済見通しの作成などに携わった。著書に「欧州リスク:日本化・円化・日銀化」(東洋経済新報社、2014年7月) 、「ECB 欧州中央銀行:組織、戦略から銀行監督まで」(東洋経済新報社、2017年11月)。新聞・TVなどメディア出演多数。

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編集:田巻一彦

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