レディ・プレーヤー・ワン 注・ネタバレ
本日は、入っていたレッスンの予定が無くなって突然のお休み。
なんかえらく暖かい夏日なんですが……何をすればいいやら。
と、なるとこれは当然やってくるこのコーナー!
太平天国系師父にしてフェンシング・マスターが陰陽思想とハロハロ文化の観点からネタバレ全開で映画の感想文を書くこのコーナー!
「シネマ・ハッスル!」
今回のお題は「レディ・プレーヤー1」!
はい、今回の作品はあのスピルバーグが80年代ポップ・カルチャーをフィーチャーした娯楽映画を作ったというので、観に行ってきましたよー。
なにせスピルバーグ、80年代カルチャーと言えば私がもっとも憧れた物ですよ。
ET生まれレイダース育ちとは私のことよ。
ただ正直、シンドラーのリスト以降ちょっと彼とは距離が離れてしまっていたのも事実。
キャッチミー・イフ・ユーキャンやターミナルみたいに、なんというか、宇宙人もでかいサメも出てこない映画も出てこないし。
スピル、君はもう、あの頃の僕らの友達ではなくなってしまったんだね。大人になってしまったんだね。と遠く感じていたものですわ。スピルバーグ監督、70ですけども。
あの頃を懐かしむ私たちの元に、スピルが帰ってきた!
しかも今回のは私たちが大好きなガンダムやデロリアンまでぶっこんだごった煮映画だってーじゃねぇか!
正直悪い予感しかしないけど付き合うしかないぜ!!
だって、私がガンダム観たのは小学生の頃だけど、当時スピルはもう40くらいだろ? 同じもん感じられてんの? とは思うさ正直。
けども、ちょうどいま読んでた本が「ラッキー・ワンダー・ボーイ」ってのでね、これ、アメリカのぼんくら野郎が子供の頃から大好きだったアタリ時代からのビデオゲームの歴史を記すことから始まる冒険を描いた(と書くとなんだか村上春樹みたいだ)サブカルチャー小説。
ちょうどその世界観がもろに今回のお題映画はかぶる訳です。
こういうのもまた何かタオの導きでしょう。ならば行かざるを得ん。何より休みの日に何していいか分からないし。
そんな訳でこの「レディ・プレーヤー1」ですが、2045年の世界、アメリカの街コロンバスの街並みから始まる。
この町が、立体に空に伸びたSF的メガロシティ、と思ったけどよく見ればその縦に積まれてるのがどれもこれもトレーラー・ハウスで、要は未来の貧民街。
SF的未来世界の正体は貧乏だった。
そんな貧困問題が深刻な中、ナルガリズムは深刻化しており、国民は子供から婆に至るまで、みんなヴァーチャル世界「オアシス」に耽溺していて現実世界での暮らしを半ば投げているという状態。
主人公はそんな中で暮らして居る少年でスピルバーグ映画の上にこの世界観だから当然オタク小僧。
ただ、これだけ一億そうヴァーチャル・世代になっている世の中だと、もはやオタクこそが世界の中心という今の世の中そのまんまの状態。時代は変わったねえ、スピル。
特に、オアシスの中ではトイレと食事とシャワー以外はみんな出来るというので、外の世界ではその三つをするだけ、みんなゲーム内で仮装通貨を稼いで暮らている。
さらに一攫千金を狙うものには、この電脳空間の創設者が忌際に遺したゲームでの謎を解くことで三つのキーを獲得することが出来て、すべてを使ってあるドアを開くと運営権を獲得できるというチャンスがある。
よってぼんくらどもは必死になってオアシス内での危険なヴァーチャル・ゲームをクリアしようと必死になるのだけれども、それが非常に危険な物。
というのも、ゲームをクリアするにはアバターを強化する方が有利。そしてその強化アイテムを手に入れるには課金をしないといけない。
そうやって金をつぎ込んだアバターがゲーム内で死ぬと、装備もお金も全部ぶっ飛ぶ。
つまり、外の世界でも底辺のぼんくらどもなのに逃避先のゲーム内でも依存しちゃうとどんどん現実のお金が減って行ってますます貧乏になってしまうという……。
さらにそのサイクルに拍車をかけるのがオアシスの運営権を狙う大企業、IOI存在。
彼らはプロゲーマーを大量に社員採用してオアシス内に送り込んで三つのキーを捜索させている。
その反面で、多くの一般プレーヤーの負債のコントロールをしていて、課金しまくって借金だらけになった人たちはIOIの地下にあるVRタコ部屋に放りこまれてヴァーチャル世界でヴァーチャル肉体労働をさせられる。
笑っちゃうんだよこれ。プログラム打たされるとかじゃなくてVRの中でアバターで土木労働させられるんだよ。
このおかしな構造がこの作品のキモで、ゲーム内のアバターたちがまず版権キャラクターわらわら状態で、アイアン・ジャイアントからモータル・コンバットのゴローにいたるまで常に乱立しているうる星やつら状態。
このごちゃごちゃ感こそがまさに80年代っぽさ。
オアシスの中のダンスホールに行くシーンでは、アバターにどんなファッションを着せるか悩んだ挙句、バンザイ・バカルーのスーツを選んだりする。
バンザイ・バカルーの四次元ギャラクシーなんて日本で言ったらテレ東作品ですよ。アメリカではアイコン作品なのかあれ。
ちなみに同じキャスティングのはずのロボコップも出るからね。
ただ、やっぱりあくまでスピルバーグ的、エリオット的嗜好の夢の世界であって、ミスターTやビリー軍曹、ショウブラキャラクターなんかは存在してない。
あくまでロボットやモンスター、宇宙人の世界。
マッチョ方面はスポイルされているのだ。
ミュージシャンもラッパーもスポーツヒーローも出ない。
そんなナード空間で主人公のオタク少年は鍵を手に入れたことでオアシス内のカリスマとなり、一躍大金持ちのセレブになる。
彼の武器は課金でもテクニックでもなくて、裏技なのね。
情報収集に時間をかけて他の連中が目をつけてなかったところからヒントを見つけてなぞを解いていく。
お金があるほど有利なので彼はさらに鍵を集めて行くんだけど、最後の鍵がまた笑っちゃうんだよ。
ゲーム内の世界で、古いゲーム機を使ってクラシック・ゲームをするの。
まさに「ラッキー・ワンダー・ボーイ」の世界。
となってここで違和感があるのだけれど、情報力と資金力だったらIOIが圧倒的に有利で、あんなオタク小僧の一人や二人じゃどうにもならないと思うんだけどなあ。
ここまで読んでいる人の中には、そんなヴァーチャの世界での勝敗がすべてだって価値観に疑問を感じた人も居ると思う。
実際にオタクこじらせてリアルな貧困と人生の敗北をしてる人も描かれているんだし。
そう。ここで課金したり逃避したりしてる人々は最終的には否定されはするんだよ。
消費社会に耽溺してゆく人々によって集まる資本と権力の象徴として、IOIが描かれていて、富める者はより富んでゆくのだけれども、実際は最後にはそのベクトルでの、逃避を中核とした力じゃなくて、主人公の持っているゲームへの愛なんだよ。
外の世界でうだつが上がらないから憂さ晴らしや退屈しのぎとしてVRをしてるんじゃなくて、主人公は本当にゲームが好きなんだよね。
だから亡くなってアバターとしてだけオアシス内に出てくる創始者への敬意を隠さないし、彼の弟子としての立場を尽くすからこそ裏技が見えてくる。
その流れから最後、主人公が継承者になるときに師匠は「ぼくのゲームで遊んでくれてありがとう」って言うんだよね。
そう。
あくまで、ゲームは逃避したり依存したりする物ではなくて、みんなで楽しく遊ぶもの、っていうスタンスが最後に正しいとなっている。
そして、ここが今回の陰陽ポイントなんだけど、VRであるほどに、なんでもをエゴを充たしたりするために動くのではなくて、敬意や学問、継承への欲求に従って動くおちうことが正しいと描かれることがポイントとなると感じた。
作中で、美少女のアバターを使っている人もリアルであってみたら140キロのニートかもしれないっていうセリフがあったけど、主人公側の人たちはみんな顔を隠していたりごつくしてたり、さえない風貌にしてたりと全然ナルシシズムに囚われてたりわがままなことをしてたりしないんだよね。
ちゃんとそこにある規律を愛している。
これはある種の欺瞞であると取られたり、本当に課金兵したりしてる人たちからは「ジジイ説教くせーよ!」と言われるかもしれない。
でも、私の世代はこの作品にたくさん出てくるガンダムやバットマンから、公正で堂々と生きることを教わってきたので、これは正しい着地点だと思ったよ。
なにせ日本人で侍キャラの設定の子がクライマックスで満を持して時間制限付きの強力なアバターを使うシーン「俺は……ガンダムで行く……!」ってシーン、なぜだか知らないけど私は鳥肌が立って泣きそうになったのだよ。
私も子供の頃、何百回ガンダムで出撃する夢を見続けていたことだろう。
ロートルの懐古主義に過ぎないかもしれない。
ありがとう、スピル。誰もそんなふうに呼んでない。
それでも、やはり最後にこう言わざるを得ない。
ガンダムは、ちっとも私たちが見ていたガンダムに見えない。後になってゲーム化されたガンダムにしか見えなかった。
そこから遡れば他の物もみんなそうだ。
みんなニセモノ。ゲームの中のアバターだ。
だからきっと、映画の最後で本当に大切な物は生身の仲間だというところに着地したんだろう。
なんかえらく暖かい夏日なんですが……何をすればいいやら。
と、なるとこれは当然やってくるこのコーナー!
太平天国系師父にしてフェンシング・マスターが陰陽思想とハロハロ文化の観点からネタバレ全開で映画の感想文を書くこのコーナー!
「シネマ・ハッスル!」
今回のお題は「レディ・プレーヤー1」!
はい、今回の作品はあのスピルバーグが80年代ポップ・カルチャーをフィーチャーした娯楽映画を作ったというので、観に行ってきましたよー。
なにせスピルバーグ、80年代カルチャーと言えば私がもっとも憧れた物ですよ。
ET生まれレイダース育ちとは私のことよ。
ただ正直、シンドラーのリスト以降ちょっと彼とは距離が離れてしまっていたのも事実。
キャッチミー・イフ・ユーキャンやターミナルみたいに、なんというか、宇宙人もでかいサメも出てこない映画も出てこないし。
スピル、君はもう、あの頃の僕らの友達ではなくなってしまったんだね。大人になってしまったんだね。と遠く感じていたものですわ。スピルバーグ監督、70ですけども。
あの頃を懐かしむ私たちの元に、スピルが帰ってきた!
しかも今回のは私たちが大好きなガンダムやデロリアンまでぶっこんだごった煮映画だってーじゃねぇか!
正直悪い予感しかしないけど付き合うしかないぜ!!
だって、私がガンダム観たのは小学生の頃だけど、当時スピルはもう40くらいだろ? 同じもん感じられてんの? とは思うさ正直。
けども、ちょうどいま読んでた本が「ラッキー・ワンダー・ボーイ」ってのでね、これ、アメリカのぼんくら野郎が子供の頃から大好きだったアタリ時代からのビデオゲームの歴史を記すことから始まる冒険を描いた(と書くとなんだか村上春樹みたいだ)サブカルチャー小説。
ちょうどその世界観がもろに今回のお題映画はかぶる訳です。
こういうのもまた何かタオの導きでしょう。ならば行かざるを得ん。何より休みの日に何していいか分からないし。
そんな訳でこの「レディ・プレーヤー1」ですが、2045年の世界、アメリカの街コロンバスの街並みから始まる。
この町が、立体に空に伸びたSF的メガロシティ、と思ったけどよく見ればその縦に積まれてるのがどれもこれもトレーラー・ハウスで、要は未来の貧民街。
SF的未来世界の正体は貧乏だった。
そんな貧困問題が深刻な中、ナルガリズムは深刻化しており、国民は子供から婆に至るまで、みんなヴァーチャル世界「オアシス」に耽溺していて現実世界での暮らしを半ば投げているという状態。
主人公はそんな中で暮らして居る少年でスピルバーグ映画の上にこの世界観だから当然オタク小僧。
ただ、これだけ一億そうヴァーチャル・世代になっている世の中だと、もはやオタクこそが世界の中心という今の世の中そのまんまの状態。時代は変わったねえ、スピル。
特に、オアシスの中ではトイレと食事とシャワー以外はみんな出来るというので、外の世界ではその三つをするだけ、みんなゲーム内で仮装通貨を稼いで暮らている。
さらに一攫千金を狙うものには、この電脳空間の創設者が忌際に遺したゲームでの謎を解くことで三つのキーを獲得することが出来て、すべてを使ってあるドアを開くと運営権を獲得できるというチャンスがある。
よってぼんくらどもは必死になってオアシス内での危険なヴァーチャル・ゲームをクリアしようと必死になるのだけれども、それが非常に危険な物。
というのも、ゲームをクリアするにはアバターを強化する方が有利。そしてその強化アイテムを手に入れるには課金をしないといけない。
そうやって金をつぎ込んだアバターがゲーム内で死ぬと、装備もお金も全部ぶっ飛ぶ。
つまり、外の世界でも底辺のぼんくらどもなのに逃避先のゲーム内でも依存しちゃうとどんどん現実のお金が減って行ってますます貧乏になってしまうという……。
さらにそのサイクルに拍車をかけるのがオアシスの運営権を狙う大企業、IOI存在。
彼らはプロゲーマーを大量に社員採用してオアシス内に送り込んで三つのキーを捜索させている。
その反面で、多くの一般プレーヤーの負債のコントロールをしていて、課金しまくって借金だらけになった人たちはIOIの地下にあるVRタコ部屋に放りこまれてヴァーチャル世界でヴァーチャル肉体労働をさせられる。
笑っちゃうんだよこれ。プログラム打たされるとかじゃなくてVRの中でアバターで土木労働させられるんだよ。
このおかしな構造がこの作品のキモで、ゲーム内のアバターたちがまず版権キャラクターわらわら状態で、アイアン・ジャイアントからモータル・コンバットのゴローにいたるまで常に乱立しているうる星やつら状態。
このごちゃごちゃ感こそがまさに80年代っぽさ。
オアシスの中のダンスホールに行くシーンでは、アバターにどんなファッションを着せるか悩んだ挙句、バンザイ・バカルーのスーツを選んだりする。
バンザイ・バカルーの四次元ギャラクシーなんて日本で言ったらテレ東作品ですよ。アメリカではアイコン作品なのかあれ。
ちなみに同じキャスティングのはずのロボコップも出るからね。
ただ、やっぱりあくまでスピルバーグ的、エリオット的嗜好の夢の世界であって、ミスターTやビリー軍曹、ショウブラキャラクターなんかは存在してない。
あくまでロボットやモンスター、宇宙人の世界。
マッチョ方面はスポイルされているのだ。
ミュージシャンもラッパーもスポーツヒーローも出ない。
そんなナード空間で主人公のオタク少年は鍵を手に入れたことでオアシス内のカリスマとなり、一躍大金持ちのセレブになる。
彼の武器は課金でもテクニックでもなくて、裏技なのね。
情報収集に時間をかけて他の連中が目をつけてなかったところからヒントを見つけてなぞを解いていく。
お金があるほど有利なので彼はさらに鍵を集めて行くんだけど、最後の鍵がまた笑っちゃうんだよ。
ゲーム内の世界で、古いゲーム機を使ってクラシック・ゲームをするの。
まさに「ラッキー・ワンダー・ボーイ」の世界。
となってここで違和感があるのだけれど、情報力と資金力だったらIOIが圧倒的に有利で、あんなオタク小僧の一人や二人じゃどうにもならないと思うんだけどなあ。
ここまで読んでいる人の中には、そんなヴァーチャの世界での勝敗がすべてだって価値観に疑問を感じた人も居ると思う。
実際にオタクこじらせてリアルな貧困と人生の敗北をしてる人も描かれているんだし。
そう。ここで課金したり逃避したりしてる人々は最終的には否定されはするんだよ。
消費社会に耽溺してゆく人々によって集まる資本と権力の象徴として、IOIが描かれていて、富める者はより富んでゆくのだけれども、実際は最後にはそのベクトルでの、逃避を中核とした力じゃなくて、主人公の持っているゲームへの愛なんだよ。
外の世界でうだつが上がらないから憂さ晴らしや退屈しのぎとしてVRをしてるんじゃなくて、主人公は本当にゲームが好きなんだよね。
だから亡くなってアバターとしてだけオアシス内に出てくる創始者への敬意を隠さないし、彼の弟子としての立場を尽くすからこそ裏技が見えてくる。
その流れから最後、主人公が継承者になるときに師匠は「ぼくのゲームで遊んでくれてありがとう」って言うんだよね。
そう。
あくまで、ゲームは逃避したり依存したりする物ではなくて、みんなで楽しく遊ぶもの、っていうスタンスが最後に正しいとなっている。
そして、ここが今回の陰陽ポイントなんだけど、VRであるほどに、なんでもをエゴを充たしたりするために動くのではなくて、敬意や学問、継承への欲求に従って動くおちうことが正しいと描かれることがポイントとなると感じた。
作中で、美少女のアバターを使っている人もリアルであってみたら140キロのニートかもしれないっていうセリフがあったけど、主人公側の人たちはみんな顔を隠していたりごつくしてたり、さえない風貌にしてたりと全然ナルシシズムに囚われてたりわがままなことをしてたりしないんだよね。
ちゃんとそこにある規律を愛している。
これはある種の欺瞞であると取られたり、本当に課金兵したりしてる人たちからは「ジジイ説教くせーよ!」と言われるかもしれない。
でも、私の世代はこの作品にたくさん出てくるガンダムやバットマンから、公正で堂々と生きることを教わってきたので、これは正しい着地点だと思ったよ。
なにせ日本人で侍キャラの設定の子がクライマックスで満を持して時間制限付きの強力なアバターを使うシーン「俺は……ガンダムで行く……!」ってシーン、なぜだか知らないけど私は鳥肌が立って泣きそうになったのだよ。
私も子供の頃、何百回ガンダムで出撃する夢を見続けていたことだろう。
ロートルの懐古主義に過ぎないかもしれない。
ありがとう、スピル。誰もそんなふうに呼んでない。
それでも、やはり最後にこう言わざるを得ない。
ガンダムは、ちっとも私たちが見ていたガンダムに見えない。後になってゲーム化されたガンダムにしか見えなかった。
そこから遡れば他の物もみんなそうだ。
みんなニセモノ。ゲームの中のアバターだ。
だからきっと、映画の最後で本当に大切な物は生身の仲間だというところに着地したんだろう。