◆広島5―8巨人(1971年7月29日・広島)
巨人が球団通算2500勝を達成したのは、1971年7月29日の広島戦(広島)。リードしては追いつかれるという展開にケリをつけたのは、ミスタープロ野球の一振りだった。この年も巨人は独走で優勝。65年から始まった連覇はV7となった。ONを軸に円熟期を迎えながら「終わりの始まり」も感じさせたシーズンの戦いを振り返る。(構成・仙道 学)
25歳の吉田拓郎が3枚目のシングルとして「今日まで そして明日から」をリリースしたのは1971年7月21日のこと。その8日後、巨人もまた過去と未来の間に句読点を刻もうとしていた。
球団通算2500勝をかけた戦いの主役こそ長嶋茂雄である(ちなみに当時の吉田は漢字ではなく、ひらがなで「よしだたくろう」と名乗り、長嶋も新聞紙上では「長島」と表記されていた)。
エース堀内が3点のリードを守れず5回で降板。巨人は直後の6回に代打攻勢で再び勝ち越すも、7回にリリーフの倉田が衣笠に同点弾を浴びる。ただ振り返ってみれば、これらはすべて「お膳立て」にすぎなかった。
5対5で迎えた9回無死一塁。広島市民球場の時計の針が午後10時を回った瞬間、長嶋が外木場の内角球をとらえた。打球は左翼スタンドへ。球団2500個目の白星は、最もメモリアルにふさわしい男の2試合連続アーチによってもたらされた。
35歳のシーズン。前半戦では一時、打率3割を割り込み、6月30日から7月24日まで約1か月間も本塁打が出ない試合が続いた。しかし、ほどなく全開モードに復調。王との3冠王争いも視野に入る勢いだった。最終的にはリーグただ一人の3割打者として、6度目の首位打者に輝いている。
この年はプロ野球史上5人目となる通算2000安打を記録。シーズンMVPにも選出された。ただ、長嶋がタイトルを獲得したのも、打率3割&30本塁打をマークしたのも、71年が最後となる。同年5月には巨人、そして卵焼きと並び称された横綱・大鵬が引退。アントニオ猪木が古巣の日本プロレスを追われ、ジャイアント馬場との「BI砲」に終止符が打たれたのも、この年の出来事だった。
60年代を担ったヒーローたちが、大きな転換点に直面した71年。長嶋とジャイアンツにも「新たな時代」の足音が確実に近づいていた。
◆川上監督も容赦なし「オールスターボケ」
「締まりがない」―。報知新聞の見出しの矛先は堀内に向けられていた。球団通算2500勝を託されての先発。だが、3点のリードを守れず5回降板を余儀なくされた。
川上監督も背信の背番号18に容赦がない。「オールスターボケの代表選手ということだな」。71年の球宴と言えば、阪神・江夏の「9者連続奪三振」が語り継がれている。真剣勝負で空前絶後の快投を見せた虎の絶対エースとは対照的に、堀内は夢舞台をのんびりと楽しんでいた。「オールスターは七分の力で投げた。みんなホームランを狙って振り回してくるから楽だよ」。一度気を抜いた投球をすると、簡単に切り替えは出来ない。川上監督は、そう見ていた。
それでも、このシーズンも14勝を挙げている。プロ入り以来6年連続の2桁勝利。そして、翌72年にはキャリアハイの成績をマークした。48試合に登板し26勝、4完封を含む26完投。現在は沢村賞の選考委員を務めるが、受賞のハードルの高さにプライドを持つのも当然か。
2500勝目には貢献できなかったが、8年後の3000勝をかけた試合では大仕事を担うことになる。
◆1971年の巨人 広島との開幕戦は敗れたが、4月14日の中日戦から12連勝。前半戦は47勝24敗7分けも、疲れが見えた後半戦は23勝28敗1分け。優勝を決めたのは9月23日の阪神戦だった。王貞治は打率2割7分6厘、39本塁打。10年連続で本塁打のタイトルは奪取したが、40本以上は8年連続で途切れた。長嶋茂雄は打率3割2分で5年ぶり6度目の首位打者。自身最後のタイトルとなった。
◆1971年の主な出来事
▽2月 アポロ14号が月面着陸
▽3月 東京・多摩ニュータウンで第1次入居開始
▽4月 「仮面ライダー」放送開始
▽5月 横綱・大鵬が引退表明
▽6月 京王プラザホテル開業。沖縄返還協定調印
▽7月 阪神・江夏豊が球宴で9連続奪三振。マクドナルド1号店が銀座に開店
▽9月 日清食品が「カップヌードル」発売
▽10月 「スター誕生!」放送開始。横綱・玉の海が急死